「百年のマン島 - TTレースと日本人」2011/07/30 09:02



マン島TTレースの歴史を多元的に描く

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いろいろ参考になった。以下、要点をまとめてみる。

第一に、幅広い歴史の記述。
TTレースが始まるに至る西欧のモータリゼーションの様子や、マン島の精神文化の背景としての、ケルトの歴史にまで話が及ぶ。日本に関しても、戦前のバイク創世記から、戦後の浅間火山など、TTにどうやって至ったか、から語られている。
ほとんど、バイク史そのものとして読むことが可能なほどで、以前取り上げた 「オートバイの歴史」 と同じ機体や人物も散見される。しかも、著者が個人的にご存じだったり(!)と、強力な補完情報として読むことができる。
記述は1960年代初頭に偏りが見られるが、日本勢がTTに参入を始めたこの頃が、バイクが産業として立ち上がる青春期で、話として盛り上がるので致し方ない。NHK的な美化が過ぎるのが、ちょっと鼻につくが。
TTのリザルトや、年表、脚注などのデータも豊富だ。別モあたりの、切れっぱしのような記事より、よほど役に立つ。


第二は、当時、実際にかかわった方々の証言の多さ。TTレースに参戦したレーサーや、メーカーの方々の肉声が多数、収録されている。
「ご本人のコメント」とは言え、昔の話なら事実と違っていることもありうるし、特定の意図や希望が混ざってしまうこともある(時には、わざと、の場合も)。しかし、何故だろうか、ライダーとしてかかわった方々のコメントは、かざらない、素のままが多いように感じた。(ビジネスとしてかかわっていた方々とは、だいぶニュアンスが違うようだ。)
一般に、「その時どう感じたか」は、人間の変化(加齢とか)と、環境(風景や文化とか)の変化の、両方の影響を受けて変容する。例えば、子供の頃に見た風景と同じものを、年を取った私が、便利になった今、見たとしたら、多分に違って見えるだろう。「その時どうだったのか」を純に取り出すというのは、いかにご当人といえど、意外と難しいものなのだ。
しかし、これは重要な点だ。「歴史」と「思い出」は厳然と違う。
残念ながら、著者にはこの点で、まだ混乱が見られる。

余談だが、私も以前、バイクの歴史がらみで一筆書いたことがあるのだが、( 「MOTO GUZZI Vツイン開発の風景」 )この点(当時の視点に立ち返ること)は常に念頭に置いた。私の場合、取材はほとんどなくて、文献の孫引きが主な手段だったが、情報を時系列に整理するなど、「当時の認識」を再現することには随分、気を使った。

なお、本書のコメントは、関係者を招いて座談会を開き、そこでの発言を拾った、ということだ。実際に一人ひとり取材して歩くと大変な手間になる所だが。かしこいやり方だ。(業界の常套手段かもしれないが。)


第三は、著者の解釈が豊富なことだ。
歴史とは、事実の羅列ではない。人が動き、前後がつながり、流れが見えてくることで、年表は紙面から立ち上がり、何かを語り始める。背景や、文化や、理念といったものが、彩りと共に「価値」を帯びる瞬間だ。
そのためには「解釈」が要る。どうしてそうなったか、それをどう思うのか、伝えねばならない。
著者は、日本で「レース」が立ち上がり始めた当時からかかわってこられたベテランだ。連載や著書も多数ある。 その著者の「解釈」は、本書の前半(実際にTTに日本人が参戦し始める辺り)までは、要所毎にちりばめられている。後半はいったんトーンダウンするが、最終章をまるごと「解釈」に充てて、その分を取り戻す・・・どころか、追い越している。(笑)
その「解釈」の内容は、個人的に賛同できない所もあるし、せっかくだからもっと鋭く、苛烈に突っ込んでいただきたい、とも思うのだが、それは今は置くとして。
一つ、深くうなずいたのは、日本で「レース」と言われるものの「ゆがみ具合」についてだ。


「レースは走る実験室」
私は、このフレーズが嫌いだ。
メーカーが、レースの主役は自分だ、そう言い捨てて、平気なように聞こえる。

日本では、レースは初めから悪者だった。一般国民に迷惑を及ぼす(ウソ、お上の気分を害する)、自分勝手な悪い奴。そういった状況の下で、その正当化のために「仕事ですよ」と言い訳をしたようにも聞こえるのだが。

そもそもレースとは、単純に「誰が一番速いか争う競技」だったはずだ。主役は、選手(レーサー)であり、観客だ。そこでは、乗り物はただの手段、道具に過ぎない。

ところがだ。道具の影響が大きい競技である。その良しあしは、決定的に結果に響く。だから「改造し放題」や「何でもOK」という枠組みなら、道具は主役のようにふるまいだす。そしてしばらく経ってみれば、フロントローに並ぶそいつらの大半は、実はもう「勝つため」ではなく、「売るため」にそこに居る。全身に広告をまとって。
その舞台で、メーカーは、貢献と撤退を硬貨の裏表のようにちらつかせながら、レースの歪み具合を操って来た。
選手や観客、主催者から見れば、それはイヤだし、みっともない。だから、レギュレーションの改編や、イコールコンディションの保持に気を使ってきた。その一方、「無制限クラス」はやはり、最高峰としての権威と、厳然たる宣伝効果を維持してきた。

だから、TTなのだ。
道具は、基本的に、みんなが買えて、いつも乗ってるアレ。
ステージは、いつもみんなが走っている道、公道。
ちょいと遠くの目的地(ゴール)まで、誰が一番先に着けるか?。
素のレース。
「ツーリスト トロフィー」


モノでもコトでも、好きで作ったのと、仕事で作ったのは、たとえスペックは同じでも、厳然と違う。
と思うのだが。いかがだろうか。


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百年のマン島―TTレースと日本人


追記

映像で見るとこんな感じ、という話を以前書いたので。ご参考。
現実はいつも、甘くない。

2010 マン島TTレース(DVD)

コメント

_ moped ― 2011/08/03 22:35

>「レースは走る実験室」
そんなフレーズもありましたよね。
伝説的な言葉ですが、エンジニアのエゴです。

日本ではシンプルに、「1番になりたいから」と正直に言えないのです。
大義名分が必要なんです。人材育成とか、技術開発とか(笑)

だから、メーカーがレースの参加を楽しむなんて、100年早いです。

_ ombra ― 2011/08/06 09:23

> 日本では大義名分が必要なんです。

確かに。
なんででしょうねえ。(笑)
最近は逆に、「言い訳」に聞こえることが多いようにも思います。
  「コストに合わない」
  「安全性重視」
  「コンプライアンス的に問題」
一言「ヤダ」って言えばいいのに・・・なんてね。(笑)

> そんなフレーズもありましたよね。

先日読んだクルマのF1の本に、60年代にホンダF1の監督だった中村良夫氏による造語が、コピーとして独り歩きしたものが由来、とありました。中村氏本人は、「この言葉(の使われ方?)は間違いだ」と言っていたようですが。
しかし、もし本当に実験が目的なら、レーシングライダーに頼ったり、観客から観戦料を取ったりしては、いけないと思いますね。

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