「とんでもなく役に立つ数学」 ― 2011/10/01 11:01
数学の実地応用についての、高校生向けの授業を書籍化したもの
(★★☆☆☆)
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数学の考え方を、実生活レベルにブレークダウンし、わかりやすく説明することを意図した本だ。高校生向けの授業を、そのまま書籍化したものだそうである。口語体で書いてあるので、気軽に読める。
数学という論理体系を、どう生活の実地に生かすか、という話なので、理論と実践、空想と現実、といった対比と類似である。それら間を、自由に行き来する能力の話なのだが、今のところ、それは才能と経験でしか得られない、ということになっている。数学も道具だとしたら、その切れ味は、使い手にも依る。職人の仕事を見学して、やり方が何となくわかっても、できるようにはならない。職人が感じている「手触り」は、言葉で伝えるのは難しい。
ハサミを上手に使えることと、ハサミで素晴らしいものを作れることは、似ているが全く違う。
同じ形を正確に多量に作る能力が前者。
独創的な、感動する、価値のある形を切り出す能力が後者。
日本で、世間一般に「教育」と言われているものは、ほとんどが前者だ。(だからリーダーが育たない。)
多分、著者が伝えたかったのは後者だと思うが、「授業」という形を取ったせいか、やはり前者に落ち込んでいるようだ。
どうにも辛そうだ。なにせ、筆者の論旨を、授業という形で伝えようという試みは、数学的ではない。
カリキュラムと言われるものの多くは、いわば「最大公約数」だ。だいたいの場合で、そこそこの効果を発揮するように考えられている。しかしそれは、レベルも間口もさまざまな、個々の生徒の側から見れば「最適」ではないかもしれない。その溝の深さ次第では、我田引水や、でっちあげのそしりも受けかねない。だからといって、むやみに敷居を下げてしまえば、ウソやズレも入りやすくなる。
本書の場合、矢面で活躍しているのは、著者の「数学を言葉で語る能力」だが、それはもっぱら、著者の経験値に依っており、やはりどうにも数学的でない。
この矛盾は、逃れ難い。
著者は、「渋滞学」で有名だそうで、私はざっとしか見ていないのだが、特に斬新とは思わなかった。日ごろ乗り物で道路を走っていて、感じる内容とあまり変わりがなかったからだ。それは多分、著者も経験値(ないしはデータ)の方に、数学を当てはめただけだからだ。解くのではなく、当てはめる。物差しを替えただけなのである。
モデル化が経験値に依るなら、その客観性を証明したり、妥当性を共有するのは難しい。こじつけや、ねつ造と区別化つかないし、実際、数値化や定量化なんて、どうにでもなる。
「自分の頭で考えよう」は、先生の言うことを聞かずに行け、と同じことだ。
そも、自分の頭で考えられれば、授業なんかいらない。
そして、授業を懸命に聞く生徒は、自分で考えられるようにはならない。
本書を読んでも、数学を道具として使いこなせるようにはならないだろう。いくつかの、珍しい実例を垣間見ることができるだけだ。著者レベルに達するには、著者と同じような努力(修業)が要る。
ずっと、この間を往復しているようで、妙に疲れた。
比較的軽めの、科学(数学)っぽい読み物を期待する向きにはお薦めだ。
しかし、読み解くには、ある程度の数学的な基礎は要るだろう。
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とんでもなく役に立つ数学
「 LA 1000 vespistica -due momenti di un mito 1951-1954 1965-1970 」 ― 2011/10/02 05:53
かつてイタリアで開催されていた「べスパ1000kmラリー」の様子を伝える。
(★★★★☆)
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あんまりユーロが安いので、久しぶりにイタリアから本を買っちまいました「パート2」。
これ、「安売り」の札に釣られて買ったんだが。
届いたのは・・・とてつもなく汚い本でした!。
一体いつの本だこれ・・・とブツクサ言いながら一生懸命拭いたら、なんぼかキレイになったが。
刊行は・・・2001年、かな?。10年前。
お話の方は半世紀も前の話で、昔、べスパで公道1000kmを走り抜けるイベントがイタリアで開催されていて、その様子をまとめている。開催期間は、途中、中断期間があって、表題の通り、1951 ~ 1954年と、1965 ~ 1970年に分かれる。
パラパラめくった限りだが、もうひっちゃきに1000kmを飛ばし続ける・・・という感じではなくて、そこはベスパなので、すそ野は広く。「ベスパクラブどこそこもエントリー!」といった感じで、皆さん、なかなか楽しんじゃっているように見える。
コース図です。イタリア半島の根元。
どんどん走ります。
まだフェンダーライトの時代。
雨でも走ります。
道が川でも突っ切ります!。
女性のエントリーも。いい笑顔だ。
「まだ戦後」を思わせる、まばらな風景の中を、多数のベスパが駆け抜けている。
サポートは草イベントのレベルではなく、かなりしっかりした印象。(当然、ポンテデラも噛んでいただろうし。)
エントラントも結構多くて、なかなか盛況だったようだ。
再開後のコース図。イタリア中部側に移ってますな。
ライトがハンドル部に上がって、今風の外観に。
街並みも少し現代風に。
ダートも走ります。
夜も走ります。
風光明媚ですが、走ります。
ゴール。
こんな風景を見せられると、考え込んでしまう。
「みんなで楽しむ」には、ベスパのような小排気量が手軽でいい。
これを、長距離の公道レースというイベントに仕立てて、実際にみんなで楽しんでいる。
素直に、うらやましい。
ここ日本では、こんな楽しみ方はできたこともないし、これからもできないだろう。
いつぞや 自分のサイトにも書いた が、「レース」のすそ野は、狭まる一方のように思える。
レースが、性能や耐久性の証しだった時代は、ほんの初めのうちだけだった。
今やレースは、限られた選手が、金網の向こうのクローズドサーキットでやるものだ、とみんな思っているだろう。そしてそれは、勝利のためではなく、販促や、訴求のためにある。
たとえ選手とお揃いのR1やCBRに乗ったとて、ロレンツォやストーナーのように走れるわけもない。そんな茶番は、今のさとい若者を、もう惹きつけない。レーサーをかっこいいと思ったり、それを真似ることを価値だ、とは思わないのだ。
現に、レースの興業は減る一方らしい。
もう少し視界を広く取って、バイクというハードの市場を世界的に見回してみても、大型スポーツバイクなどは実入りとしては少数で、業界のメインは、アジアやアフリカで使われる、小排気量の実用車だ。そして、そこでの顧客は、かつての我々のように、訴求としてのレースを必要としていない。
「バイクなんか、安く買えて、荷物を積んで動いてくれればそれでいい」
そんななので、身近で手軽なバイクでもって、レース仕立てで楽しんで乗る、なんて豊かな時代は、もう来ないのだろう。
公道レベルで楽しむなら、ベスパのような小排気量スクーターで十分だ、とこの白黒写真集は語っている。
それよりはるかに大型で、高性能なバイクに乗っているのに、これを「豊かな時代」と書く私は、頭がおかしいのだろうか。
そして、何となく、私は無意識に ベスパのツーリングもの を集めているように思える。
何でだろう。
どこかで精神汚染されたかな。(笑)
イタリア語なので、Amazonにはありません。
LA 1000 vespistica
due momenti di un mito 1951-1954 1965-1970
ISBNですが・・・どこにも書いてません・・・。
「PAPA & CAPA ヘミングウェイとキャパの17年」 ― 2011/10/08 12:15
ロバート・キャパによるヘミングウエイの写真から、二人の交流を描く
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なにせ、この題材なので、ぱっと見、50~60年代の、古い本かと見まごうのだが。今年の5月の刊行。ほぼ新刊である。
しかも、書いているのは日本人。
ヘミングウェイを調べるうちに、彼の写真、特にキャパが撮ったもの、という切り口を思いつき、未発掘の写真を掘り起こすなどして、エピソードと共に本としてまとめた、ということらしい。
初めに40pほど、ヘミングウエイを撮った写真、次に活字の本文を経て、最後にキャパの写真を雑多に10pほど。
写真の部分は、一応、気を使ってあって、昔っぽい、象牙色がかった紙質になっている。
本文の内容は、ヘミングウェイとキャパの、当時の交流の様子を紹介している。さまざまな資料から、該当部分を整理・紹介した、という感じだ。
1940~50年代の話がメインになる。戦中、戦後。そこで、超売れっ子の物書きや写真家が暮らすというのがどういうことだったか、世相感は良く出ている。小説の映画化のため、ハリウッドとも親交があった面々なので、華やかさとその裏の辺りも軽く触れられている。ゲーリー・クーパーのプライベートチックな写真も数点見られる。
気軽な娯楽として読めていいのだが、ただ、すごくブリリアントなお話ではないし、戦後や白黒写真とか、そんな辺りに、シンパシーが全くない人には、さほど面白くないかもしれない。
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PAPA & CAPA ヘミングウェイとキャパの17年
"Fabio Taglioni, la Ducati, il Desmo" ― 2011/10/09 08:29
「イタリアから本を買った」パート3。
これでおしまい。
実を言うとですね、まだちゃんと読んでません。(笑)
ドカティのエンジニアとして有名なタリオーニだが、私にはその姿を、どうも具体的に想起できない。
・ あの真紅の、刺激的な革新のバイクをなしえたエンジニア
・ 傑作を生み出す、優れた手腕
・ 先見の明とオリジナリティ
・ 鬼才
・ 天才
云々。
いろいろと、美辞麗句には事欠かないようなのだが。
実際、デスモなんか彼が使い始める前からあったし、L型二気筒のレイアウトも、モトグッチのレーサーにヒントを得たものだ、と彼自身が言っている。(と、どこかで読んだ。)
パンタにしても、TT-F2のフレームは公道に堪えない、などと言っていたくせに、その後に続くパンタ市販車の系譜はまるで不出来で、フツーに距離を重ねられるようになるまで、熟成に10年くらいは要したように思う。
だいたい、Ducatiのプロダクトに対し、彼がどの程度、影響力を持って仕事をしていたのか、わからない。
ただの、エンジン専門の技師だったのか?。
あの小難しくてやりがいのある動特性まで、全て彼が考えたのか?。
それが、彼の意図通りだったのかも、わからない。
やりたくてやったことが、その通りの結果になったのか。
意図しなかったが、それ以上の結果がたまさか出たのか。
もっとやりたかったんだが、何かの理由で妥協した結果だったのか。
実は、図面だけ書ければよかったのか。(そういう技術者はよくいる。)
勝てさえすれば、売れなくてもよかったのか。
その逆か。
人間性とか、人生に対する厳しさとか、そんなことも言われるようだが、人格と仕事のデキには、何の関係もない。
などと言うと怒る人がよくいるのだが、見た目がオカマやヤクザでも、いい仕事をするやつはするし、逆に、どんなに優れた人格者でも、役立たずは居る。皆さんだって、失敗したのはキミの人格が劣っているからだ、などと言われれば、違うんじゃん?と言いたくなるだろう。人格と、仕事に対する鋭どさ厳しさは、本質的に違うものだ。
だから、彼がいかにいい人だったとしても、Ducatiが褒められる、いわれにはならない。
私がモトグッチのエンジニアの話を書いた時 、当時のモトグッチは比較的大きな会社で、社内に複数の技術チームを擁していた。あれはあいつがやった、これはオレ、のような棲み分け、というか担当がはっきりしていた。なので、各々のプロダクトを比較することで、エンジニアの質や意図がよくわかったのだ。
(開発現場が、いくつかの案件を並行する程の規模なのに、ぱっと見回して様子がわかる程度に収まっていて、各々の仕事の細部が埋もれずに残っていた。だから、逸話やデータといったディティールがそれなりに残っていて、後から追ったり組み立てたりが容易だった。あれは、私のように後から調べる人間には、幸運な環境だった。)
Ducatiの場合、そういうことでもなかったようだし。
あとは、デザイナーとしてテルブランチ辺りの名前が、(代役として?)ちょろっと出てきたくらいだろうか。
タリオーニの名前は、何となく宣伝文句と言うか、便利なブランドとして使われているだけ、に見える場合が多い。
(タンブリーニあたりも同じだろう。)
その辺りを、少しは学べれば、と思って買ってみたのだが。
また、何かわかったら報告しよう。
"Fabio Taglioni, la Ducati, il Desmo"
con una straordinaria spiegazione inedita scritta da lui stesso
Nunzia Manicardi
Libreria Automotoclub Storico Italiano
Torino
ISBN 不明
「 十字軍物語 」 ― 2011/10/15 18:08
十字軍の実際を描いた、歴史読み物
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「売れているものに、良いものなし」
そんな私が、こんなメジャーどころを書くなんて。(笑)
いえ、実は塩野先生は好きで、満遍なく読んでます。
基本的に「男を描く」人だと思うので、ローマでも、やっぱりカエサルの辺りが筆ノリがよくて、面白かったように思う。
でもベネツィアあたりは組織論としても面白く、何回か読んだ。
マキャベリ辺りの短めのも含めて、イタリアにまつわる何がしかを、いくつか教えていただいたように思う。
そんなわけで、実はミーハーな読者の私なのだが、何となく、この人はそろそろ、宗教について書くのではないか、と思っていた。
初めに、この題名を見たとき、おっ、来たか?と思ったのだが。
内容を見ると、半分しか合っていなかった。
宗教の何が、ヨーロッパをああした(している)のか、書くのではないかと思っていたのだが。
ヨーロッパ史を、宗教観の縛りなく、リアルに描くとこうなる、というアプローチが取られただけだった。
ところで。
男と女の、「理解の仕方」というのは、全く違う。
男は、細部を集めて全体を組上げる方向で、ディティールの量を誇ったりする。一方で、女は、まず平気な顔で全体を丸のみして、ぼちぼちと細部に至る。しかも、この著者のようにデキる女だと、呑み込むものが相当な大きさでも消化不良は起こさないし、細部の方まで、きっちりと消化しコナしている。
かくして、大きさと、ち密さの両方で、「かなわない」印象となる。
デキる女が、いい男を「好きで」描く。
この人の本は、大体はそのスタンスだ。
今回も、やはり男の物語と言える。
そして、いつも通り、痛快に読める。
皆さんが読んでも、そうだと思う。
「デキる側の視点」に、いられるからだ。
デキるオンナである著者の視線は、デキるオトコと共にある。
読者も、そこに同化する。
だから気分よく、痛快に読める。
だがそれは、まあ有り体に言ってしまえば、「上から目線」だ。
一方、私はといえば、既に余裕も余地もあまりない、ただの平均以下の中年だ。
だから著者の視点には、少なからぬ違和感がある。
歴史の表舞台で、主人公たちが動き回る傍らで。
攻め込まれたイスラエル。
残され、八つ裂きにされ、肉片として捨てられる一般庶民の方は、さらっと流されて終わってしまう。
一般庶民も、幸せに暮らすにはどうするか。できれば、そこが知りたい。そう思うのだが。
善良で有能な人材が、ふさわしい地位に座るまで待て、では解決にならない。
読書というのは、実際はただ文字を追っているだけなのに、何かすごいことをしたような気になったりするものだ。
「使えない読書家」が意外と多いのは、そのせいだ。
注意しないと。
面白かったけど。(笑)
はやく3巻目が出ないかな。
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十字軍物語(1)
十字軍物語(2)
絵で見る十字軍物語
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