バイクの本 ~ The Ducati Story2012/03/18 07:09



  我々は、何を欲してきたのか
  今、欲しているのは、何なのか

それを具体的に知りたいな、とずっと思っていて。

その目線で、 先週のラビットの本 を眺めてみると。
妙な既視感があった。

目的感が、薄いのだ。

モノには、目的がある。
何かをするために、そこにある。
その「何か」が、どうも曖昧だ。

例えば、
  長距離をラクに
  荷物をたくさん
  大きく見栄えがする
どれも、別にスクーターじゃなくていい。

なのに、それをスクーターで成し遂げようとした、そのココロは?
その肝心な所が、ぼやけている。

「既視感」と書いたのは、それが、日本車の場合は珍しくないからだ。「目的」となると、端的に機能や仕様の話になってしまうことが多い。何馬力、何km走れる、値段が何円、燃費、最高速、あのサーキットでラップ何秒・・・。

でも、荷物なら軽トラの方が積めるし、出前ならカブでいい。移動なら電車の方が安くてラクだし、スピードなら飛行機にはかなわない。気軽な足が目的なら、もっと安くて適当なものがいくらでもある。
そうなってしまうと、「何でここにキミが?」となってしまう。

所詮、機能なんて、代替手段がいくらでもある。
今風に言うと、コモディティ化しやすい。

ラビットは、そんな風にして、消え去ったのだろうか?。
その地道で優れた仕事にもかかわらず・・・。

対して。
西欧のバイク史を見回すと、様相はかなり異なる。

イタリアの場合、二次大戦後、戦前から続くメーカーと、新規参入のメーカーをひっくるめて、同じようなモペットから再スタート・・・という状況は、日本とよく似ていた。

しかし、量を追うことに集中し、商売のやり方も、商品の特徴も、結局は似たり寄ったりに収斂した日本のメーカーとは違って、「似て非なるもの」に、細分化して行った。それは、日本以外の、外国の二輪メーカーには共通していたように見える。

端的に言うと、「こういうバイクをつくろう」と言った時、優先順位が
 「こういう」 > 「バイク」
なのだ。

ウチのバイクはこう、という特徴がえらく明確だ。
今風に言うと、「キャラが立っている」。
そのキャラがどんなかを具体的に言おうとすると、えらく長い記述になってしまうのだが、その「何たるか」がメーカーのアイデンティティだったし、テリトリーだった。

タンクのエンブレムの意味とはそういうものだったし、それが時を経るに従い、ブランドとして認知されて行ったのだ。

一見、美しいストーリーだ。
だが、現実はそうは甘くない。

バイクとて、所詮は大量生産スキームで生みだされるプロダクトである。
  個性的だと数が売れない
  数が出ないと高くなる
  高いので余計売れない
彼らを、その負のスパイラルに引きずり込んだのは、量で仕掛けた「我々日本車たち」なのだが、そこからどうやって身を守るかが、西欧バイクメーカーの裏のヒストリーでもある。

それを、最も端的に示してくれるのが、ドカティだ。

小さく低くうずくまる、美しいスポーツモデルを、ラインナップの頂点にキラッと光らせる一方で、その横や下にいつも、一般向けアップハンや、オフ車やクルーザーを並べたがる。(だってTAMが欲しいから。)

というのは、実は今も同じなのだが、商売的にはほとんど必ず失敗する、のもずっと同じだった。

尖ってない、一般向け(「目的」が明確でない)なのに、唯一売れた例外がモンストロで、だからこそ、あれは画期的だったわけだ。

先週見たのと、同じスクーターの写真 も出てた。
キャプションには「最初の悲惨な過ち」と。(笑)

売れ線が、スポーツモデル一点張りだったDucatiは、当然、経営は危うくて、ビジネスの実体は、いろいろ転々としている。

でも一番良くないのは、そういった諸相が、当初、メーカーとユーザーの双方にとって大切だった何か、「他とドカティを区別していたアイデンティティ」に、その都度、影響することだ。

ドカティとは何か、
何をもってドカティと為すか、

あの美しかったマリアンナから、ベベル、パンタ、水冷と並べて、「一本通った何かを示せ」と言われたら、誰でも困るだろう。(アポロとセディチを並べて、あ~また4発でヤッチャッタのね・・・何かが言える程度。)
スポーツ性とかスパルタンといった辺りがよくある回答例だが、やはり、後付けの理由に見えてしまい。どうにもパッとしない。
(ちなみに、「デスモ」も不正解だ。タリオーニのオリジナルではないし、唯一の使用例でもない由。)

しかし結局、そうやって「大切な何か」を失いながら、前とは違うもの(でも、ちょっと他に似たもの)に変容しつつ、「数」と折り合いをつけて、何とか生きながらえて来た。そういう歴史とも言える。

大切だった「個性」が変わってしまうということは、とりもなおさず、ユーザーがドカティに抱いている「価値」や「意味」が、この先、長続きしないことを、端的に示してしまう。

そしてそれは、「この一台にこだわり続ける」真の理解者と、「クルクルと買い換えてくれる」真の顧客を、明確に分け隔てる。

その上、売れ線にすり寄らざるを得ないという節操のなさは、見た目に行き詰まり感をかもし出す。まあ周りを見回せば、それはドカティ以外でも似たり寄ったりで、SBKイメージのBMWや、静かでスムーズなハーレー、ベスパのビグスクあたりも同様だ。タンクの形なんかをコネまわして、昔の自分に似ようとしているGUZZI なんかは、切ないくらいだ。

たくさん作らないと、コスト(売値と収益、いわば「小狡さ」)で負けてしまう。
しかし、たくさん作れるのは、没個性な汎用品で、物としてはつまらない。

そう見ると、日本車と外車は、同じ淵を、違う側から歩いていて、今はお互いに近づきつつあるのかもしれない。

バイクは嗜好品だ。それを、量産スキームで訴求しようという枠組み自体が、そもそもの間違いなのだろうか。

「完全ワンオフ」という解(これもんのチョッパーみたいなやつ)もなくはないのだが、それが可能なのは、一部のお金持ちに限られる。信頼性や耐久性に犠牲を伴うので、一般ユースに耐えられたものではないのだ。

そうなると、「量産品を素材にしたカスタム」が、価格と信頼性の両立を狙えるソリューションのようにも思えるのだが、実際は、その双方を失う結果になるのが、これまた本当に「あるある」なのだ。くれぐれも注意が必要である。(笑)

個人的には、電動化によって、設計のモジュール化が進めば、その辺りを一挙に解決してくれそうな気もするのだが。

電動バイクは、レゴブロックの夢を見るのだろうか?。

#####

今回の本書は、Ducatiの歴史をまとめた本だ。
以前取り上げた、 ラベルダの本 と同じ著者による。

ラベルダの方は、収録する車種を絞っていたが、こちらはごくマジメに、細かいモデルまで丁寧に取り上げている。上のような考察をするには適した資料で、本棚から出して、久しぶりに眺めた。

目次 (Clickで拡大)


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