読書ログ ~ 「 これは誰の危機か、未来は誰のものか 」 ― 2012/04/28 05:10
2008年の金融危機から、社会の構造に警鐘を鳴らす
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著者は、フランスで学んだアメリカ人。革新(確信?)系の論客であり、貧困問題などについて、著書を多数持つ。本書でも、そのウルサ型のオバサン度を存分に発揮していて、北米ライクな保守的な考え方にのほほんと浸かり、その楽園が続いて欲しいと願う連中(我々日本人も含む)から見れば、最悪の論客と言える。
2008年の金融危機を機に書かれた本だが、話題はおカネの話に留まらない。温暖化とか、食料危機(水も)などとも組み合わせて、幅広い知識と見識でもって、「どうしたらいいか」までを論じている。
おカネの話を、カネ以外のしくみと絡めて考えることで、「カネの問題の本質や構造は、実は他と変わらない」ことを、端的に見せることに成功している。話の幅がやけに広く、知的な刺激が強いので、あちこちと、いろいろなことを考えさせられる。昔からある「お前が食べているのは牛肉ではない、アフリカの子供たちの肉だ」の類の論調の「復習」も含まれており、リマインドにもなる。また、この手の本の常として、言い回しがわかりやすくて参考になった。彼らがやった事は、隣の家に保険をかけて、火を放って保険金をせしめるようなものだ・・・表ならオレの勝ち、裏ならオマエの負け、そんなディールにつき合わされている・・・。なるほど。
しかし、終盤の「提言」は、まとめというよりは、まだ「散らかっている」印象が残る。(フランスに学んだ)著者は、民主主義にも希望を託しているが(票を行使しよう!の類)、残念ながら、日本人の私には、そうは思えない。選挙の候補者が金持ちAと金持ちBでどちらを選びますか、のような例は後を絶たないし、せめて、こずるそうに見えない方を選ぶくらいしか手がない。(そうやって、票の効力を減らすための仕組みづくりに、この国の政治家は全力を傾けてきた。)
カネの話に戻って、全体感を振り返ると、状況は既に「バブル」なんて生易しいものではなく、太りすぎてやせられない瀕死の「デブ」だし、それを国債なんてネズミ講で繕っているという末期症状だ。消費税の前にタックスヘイブンの方でも是正すればいいものを、そっちは法律で暖かく保護し、他方で、リストラで本人の能力や努力とは無関係に、生活の基盤を奪われる人が多量発生しているのに、会社と相場の両方は「妥当な経営だ」と逆に喜んでいる、という体たらくだ。「次はどこだ?」
以下は、本書とは全く関係がない、私の随筆である。
1. カネは、その性質として、勝手に集まる
金持ちの投資のリターンを5%としよう。100億投げれば、5億返ってくる。彼一人で5億は消費(浪費)できないので、ほとんどが次の投資に回る。リターンもその分増えるので、金持ちはどんどん金持ちになる。むしろ、貧乏になるの方が難しい。
一方、貧乏人の投資のリターンも、だいたい同じ5%だろう。10万円投資して、リターンは5千円だ。5千円では食えない。元手に手をつけざるを得ない。そうやって、貧乏人はどんどん貧乏になる。何か、不連続かつ突飛なことでもない限り、這い上がるのは、まずムリだ。
カネは平均化しない。ある所にもっと集まる。そういう性質を持つし、そういう仕組みになっている。
「神の手」は、ないのである。
2. 所有の概念の不思議
というわけで、貧乏人が生きながらえるには、金持ちに頼るしか手がない。
カネが権力に変わるのは、この時だ。
その裏打ちとして便利に使われているのが、「所有」の概念だ。
モノに対し対価を払えば、所有権を得る。
所有物は、どう扱おうと勝手だ。何をしてもいい。
少し考えると不思議なのだが、所有者は、所有物の価値を「生かせるのか」、「生かしているのか」は、一切問われない。乗れもしない高価なフェラーリを買って、やっぱり乗れずに下手こいてブッ潰しても、何も言われる筋合いはない。ただ、ちょっとみっともないだけだ。
同じ理屈で、金持ちは、自分のカネを、貧乏人に施す必要も義務もない。貧乏人が苦しんでいても、自助努力が足りないとか、無能だからとか、言い訳はいくらでもつく。金持ちが持つカネが、本当に必要な、または生きるだろう手には渡らず、ただ闇雲に積まれていても、何の咎も受けない。
3. 所有の概念の拡張と、権力化するカネ
一方、貧乏人が、金持ちからカネを借りることに成功し、当面の糧を得たとしても、貧乏人には別の厄災が待っている。名目はどうあれ、実質的に、金持ちの所有物のような扱いになってしまう。
金利は、金持ちの側の都合で決まる。会社の持ち主は株主だ、だから会社は株主の言いなりになるべき、と、どんどんそうなって行く。
「所有」は拡張する。モノだけではなく、組織や、人まで、持ち物扱いになる。
そんな厄介な「所有の概念」だが、しかし「所有」はいまや、「価値」のクラウドの最上位に君臨している。みんな、それに憧れてるし、目指してもいる。実際、貧乏人まで一緒になって、日々その概念をせっせと補完している。貧しくとも真面目な母親は、わがままなわが子を叱るだろう。「ダメよ、それはXX君のでしょ?」。
しかし、「所有」はまやかしだ。津波に流され、土台だけになった我が家は、ただの更地と区別がつかない。そこで、「所有」は何の効力もなかった。「所有」は、対価を保証しない。それなのに、いたいけな庶民は、家のローンのために、毎日、満員電車で揺られている。借金(ローン)を、金持ちに倍返しするために。
カネは、強制を伴う(強制的に取られる)。その凶暴な津波から、暮らしを守るべくささやかな防波堤が、国家だったり、福祉だったりしたのだが、自由貿易や、グローバル化が、ぶち壊し、全てを持ち去ろうと、次第に高さを増している。
もし、グローバル化の本質が、多様な価値観への「柔軟性」だとすると、それを「強いる」のは自己矛盾になってしまう。矛盾を力で強いるのは、それが「強者の理論」であることの証だ。だから、下層では「苦しみ」が、同じ方向に伝播する。
判断基準がカネに収斂し、全ての「価値」をそれで見るようになるに従い、苦しみが増して行く。高いのがいいクルマだし、結婚相手は収入で選ぶ。本当にそれでいいのか?。
いや、それでは幸せになれない、そう我々は気付き始めているという事実が、21世紀の我々をさいなんでいる、暗雲の一つなのだと思う。
銀行は「大きすぎてつぶせない」のに、年金は「大きすぎて救えない」。不思議なロジックである。
4. 群れる動物
人間は、社会的存在なのだそうだ。ありていに言うと、群れを作る動物である。
なぜだろうか?。多人数の方が、いろんなことができるから?。
アリは、群れのために命を費やす無個性な固体を多数、発生する。そうやって、群れて初めて、特有のパワーを帯びる。
人間も同じだろうか?。
ほんの一部分はそうかもしれないが、あらかたは違っている。
人間は、本質を認識できない。何かとの比較でしか物事を捉えられない、「相対認識」の動物なのだ。だから、大切なのは「差」だ。その比較対象の「基準」として、群れを作る。皆より、誰かより云々、そういった尺度で、ものごとを考える。
その証拠に、「基準」が無いと不安になる。自分がいいのか、正しいのか、わからなくなるのだ。(だったら、汎用的な絶対基準を想定すればいいじゃんよ、という「熟慮」のひとつが「宗教」だったかもしれないのだが。うまく行ったためしはないようだ。)
基準がないと不安だ、というのは、裏返すと、都合の良い基準があればいい、ということにもなる。単純に、自分が安心するために、何でもいいから、踏みつけるものを探そうとし始める。努力したり、向上しようと考える前に、他人をねたみ、引きずり下ろす。誰かいじめる相手を探したり、しまいには、所かまわず乱射したりする。(相手が恨んでいた個人かはどうかは関係ない。)
見回すと、だから「目的」の類はあらかた、「優越感」のためにある。地位や、能力、買い物なんかもだ。必要最低限でエコなクルマは、たいして売れない。一方で、人よりデカくて見栄えのするクルマは、ラインナップから決して消えない。
能力主義が、個人の能力を伸ばすことにならないのも、そのためだ。失敗を、個人の能力や努力不足に帰す口実になったり、他人の能力をねたむ理由になるだけなのだ。
あの相対性理論だって、よくよく見ると、つまりは「人間が宇宙を見ると、相対的に見える」ということのように思う。
一般に、動物というのは、共食いをする種と、そうでない種にはっきり分かれる、とどこかで聞いた。
人間は、する方だそうだ。
「群れのために死ね」
あの戦争は悲惨だった。
でも、状況は今でもさして変わらない。群れの上層部は、下に向かって同じことを言い続けている。
「オレのために死ね」
ご免こうむる。オマエが死ね。
かくして、人間は共食いを続ける。
私たちが、見かけだけでも団結するのは、地震や津波が来たときくらい・・・なんだろうか?。
5. 群れの幸せ
まず、個々人の幸せ。(人権)
そのネットワーク。そして、全体の幸せ。
群れの要素たる個々の幸せが、基本的な指標となるべきなのだ。(民主主義)
地球とも、うまくやって行かねばならない。たぶん、今日と同じ風は、二度とは吹かない。 万が一を考えると、多様性を許す余裕は必要だし、ネットワークを維持しつつ、組織を変えていくことに臨機応変、かつ柔軟でないといけない。
余裕と維持と、変革。その矛盾を、そつなくこなしてこそ、やっと人間は、群れとして、アリを超えられる。
自分にも、みんなにも、何かイイコトを思いついた。
やってみたいか?。やればいい。
邪魔なんかしない。
できることがあるというのは、幸せなことだ。
くじけることも当然あるし、疲れたら休めばいい。
助けてもらえばうれしいし、助ける余力は常に持ちたい。
そうやって、みんなで、うまく回って行く。
目を凝らせば、少しだが、いいことも見つかる。
ネットの普及で、個としての自分の意識を強化しつつ、つながりの中の位置や意味について、より明確に認識できるようになった。過去にない、進歩した視点(感覚)だと思うし、それが広まっているように見えるのは、悪くない。
相変わらず、いろいろそごがあるとはいえ。
もう少しの所まで、来ているのかもしれない。
そう思いたい。
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これは誰の危機か、未来は誰のものか――なぜ1%にも満たない富裕層が世界を支配するのか,
コメント
_ moped ― 2012/04/29 17:16
_ ombra ― 2012/04/29 22:28
毎度どうもです。 (^-^)ゞ
ちゃんと作りこんだ、いいクルマがさほど理解されなかったりする一方、スタイルと音だけなのに、宣伝上手だけで売れちゃったりするクルマがあったりしますよね。一体、価値って何なんだろう・・・と感じてしまうわけで。
こうして、私個人の趣味として、バイクの歴史を振り返ることが多いわけですが。要は、自分が、人々が、何を欲しがってきたのか、その価値観の移り変わりを見ることで、「価値の本質」をつかみたい。そんな欲求があるんだなあ、と他人事のように感じることがあります。
事実上、価値は価格とイコールだと、皆が思い込んでいるように思われますが。本当は違う訳で。その辺を、少しずつでも正していかないと、私たちの仕事も無意味になるようで。焦りますね。
焦っているなあ、と自分でも感じることが多くなりました。(笑)
ちゃんと作りこんだ、いいクルマがさほど理解されなかったりする一方、スタイルと音だけなのに、宣伝上手だけで売れちゃったりするクルマがあったりしますよね。一体、価値って何なんだろう・・・と感じてしまうわけで。
こうして、私個人の趣味として、バイクの歴史を振り返ることが多いわけですが。要は、自分が、人々が、何を欲しがってきたのか、その価値観の移り変わりを見ることで、「価値の本質」をつかみたい。そんな欲求があるんだなあ、と他人事のように感じることがあります。
事実上、価値は価格とイコールだと、皆が思い込んでいるように思われますが。本当は違う訳で。その辺を、少しずつでも正していかないと、私たちの仕事も無意味になるようで。焦りますね。
焦っているなあ、と自分でも感じることが多くなりました。(笑)
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所有という言葉も再定義が必要かも知れません。
「対象物が存在する前提において、独占使用権を担保する行為」
購入したものが無くならない、壊れない限り、
使用する(しないも含めて)ことを独占できるもの、と解釈しました。
ただし、本人の意思に関らず、資本主義は、所有を強いる面もありますので、
要注意です。
ということは、消費生活とは、所有と、その権利の放棄、
所有のための労力を繰り返すもの、なんでしょうかね。
・・・と考えると、むなしくなってきました。(笑)