読書ログ 「2100年、人口3分の1の日本」 ― 2012/11/03 05:40
題名につられて、借りて読んだ。
表題に偽りはないのだが、その辺によく在る類の統計データが話の元なので、あまり真新しい展開はない。著者ならではの見識や主張はほとんどないので、「ここにしかない真実」のような目覚しい読後感はなかった。
日本の人口が、いずれ減り始めるだろうことは昭和の時から予想されていたし(時期的には少々外れたらしいが)、むしろ望まれてさえいた。なので、これからの趨勢も、データから予想される範囲だろう。
そういう仮定のもとに、近未来の予想図があれこれ書かれている。
いきおい、現有データを線形に延長したイメージ、平たく言うと、今のまま行けば当然こうなるよね、というだけの話がほとんどだ。線形補完が外れたとき(モデルが間違っていたとき、予想外の何かが起きたとき)は考えていないし、無論、考慮に入っていないことも多々ある。例えば、行き詰まりつつあるエネルギー事情や食料事情、さまざまな国際情勢、原発事故!などなど、シミュレーションに擾乱をもたらすイベントには事欠かない。それに、「予想モデル」ってのは大体、多かれ少なかれ、誤差を含む。
「計算すると、その頃のGDPはこれくらいになるから、暮らし向きはこんな感じ」
・・・って、未来ってそんなに簡単なのか?。
だいたい、この手の本を手に取ろうというのは、今まで通りには行かなくなっているからこそ、将来を見通したいという漠然とした願いを持つ人ではなかろうか。
経済危機でも地震でも、想定外のイベント(非線形性)がもたらしたもので、今、予定や予想が狂ってしまったのは、それらのインパクトの大きさが無視できなかったからだ。それを、実感として抱き続けているからこそ、不安に思い、情報を欲している。
それなのにだ。
そもそもの前提からして違うので、フルスイングで肩すかしだった。
我々の子供たちに、今、何をすべきか?のような、具体的な考証には、あまり役立たないと思う。
ただの知識として読むだけなら、問題ないだろう。
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2100年、人口3分の1の日本 (メディアファクトリー新書)
バイク読書中 「Vespa style in motion」 #12 ― 2012/11/04 05:34
Vespa: Style in Motion
1953年の、Vespaのユーザー調査結果。
職業:
ブルーカラー 30%、ホワイトカラー 30%、小売店主 16%、職人 10%、専門職 7%、学生 3%、医師と聖職者が2%ずつ
年齢:
18〜20歳 5%、21〜31歳 40%、31〜40歳 35%、40歳以上 20%
ま、楽しきゃ、みんなして乗っちゃうんだけど。
1950年代、本格的な戦後復興は、生活様式の根本的な変化をもたらし始める。
それまで、やっぱり田畑の土の上で働くのが生活の基本、といったような素朴な感覚を、全体的に共有していたように思う。文化や習慣、社会制度などの規範も、それを土台にしていた。
工場のラインに並ぶ連中が、街のほとんどを占めるなんて、それまで無かった。「会社」は、街の命脈を一手に握る規模にまで肥大化した。それを、どう扱ったらいいのか、みんな、まだわかってなかった。
ゆりかごから?。
共産主義なんかが、「新しくて、進んでいた」頃。その脇で、まだ、パルチザンが残した弾薬が、ブドウ畑に埋まったまま残っていたりしていた。
社会のあちこちに、いびつな成長痛のようなものが出始めていた。労働者階級は経営者に楯突いたし、警官達の取り締まりは容赦なかった。労働者も経営者も、赤とそうじゃない奴とか、右とか左とかに分かれて、上へ下への大騒ぎをしていた。
その一方で、賃金は上がっていたし、生活レベルも向上していた。
楽しめるなら、楽しめる所から、楽しみ始める。
ちっと迫力?
Vespaは、ドイツなどヨーロッパ各国だけでなく、アメリカにも輸出され始める。英国でも良く売れたそうで、顧客は主に女性層、気軽に乗れて、南欧的な開放感に満ちた楽しい乗りもの、といった売れ筋だったらしい。
当時の広告。
背景はノートルダム、つまりおフランス。
オシャレです。
各国へ輸出するのはいいのだが、インポーターとの駆け引きやいさかいもありうるし、ライバル社との競争は、インポーターも含めた陣営同士の争いとなるので、規模も増せば、混沌も深まる。
しかし、会社の本当の主戦場は、政治ポジション(何とか主義)や、賃金やベアなんかだけではなく、ビジネスなのだ。そこへは、ちゃんと手を打ち続けないと行けない。
安い賃金と、豊富な市場という条件を兼ね備えた、スペインに進出した。
スペイン語の広告。
軍にも売り込んだ。
そもそも、戦後の復興期に皆がスクーターに注目したのは、アメリカ軍が持ち込んだ Cushman あたりの影響が大きかった。製品イメージとして、無骨で頑丈、信頼性が強いイメージを持ってもらえる副次効果もあったろう(Jeepのように)。戦後の軍の予算はしょぼかったろうから、ボトムレンジの乗り物であるスクーターに参入余地があったのかも知れない。しかし、ここに食い込むには、お役所組織を相手に、長くて不条理な努力を延々と続ける必要があったことは、想像に難くない。
後に、多少の採用枠を得たようだが。
ドカンと買ってくれてウハウハ〜という感じではなかったらしい。
こらこら。重火器を扱ってるのに、タバコはいかん。
たとえキミが、イケメン(のマネキン?)でもだ。
さらに。
敵はまだ居る。
同業者だ。
Luigi Innocenti
1953年の、Vespaのユーザー調査結果。
職業:
ブルーカラー 30%、ホワイトカラー 30%、小売店主 16%、職人 10%、専門職 7%、学生 3%、医師と聖職者が2%ずつ
年齢:
18〜20歳 5%、21〜31歳 40%、31〜40歳 35%、40歳以上 20%
ま、楽しきゃ、みんなして乗っちゃうんだけど。
1950年代、本格的な戦後復興は、生活様式の根本的な変化をもたらし始める。
それまで、やっぱり田畑の土の上で働くのが生活の基本、といったような素朴な感覚を、全体的に共有していたように思う。文化や習慣、社会制度などの規範も、それを土台にしていた。
工場のラインに並ぶ連中が、街のほとんどを占めるなんて、それまで無かった。「会社」は、街の命脈を一手に握る規模にまで肥大化した。それを、どう扱ったらいいのか、みんな、まだわかってなかった。
ゆりかごから?。
共産主義なんかが、「新しくて、進んでいた」頃。その脇で、まだ、パルチザンが残した弾薬が、ブドウ畑に埋まったまま残っていたりしていた。
社会のあちこちに、いびつな成長痛のようなものが出始めていた。労働者階級は経営者に楯突いたし、警官達の取り締まりは容赦なかった。労働者も経営者も、赤とそうじゃない奴とか、右とか左とかに分かれて、上へ下への大騒ぎをしていた。
その一方で、賃金は上がっていたし、生活レベルも向上していた。
楽しめるなら、楽しめる所から、楽しみ始める。
ちっと迫力?
Vespaは、ドイツなどヨーロッパ各国だけでなく、アメリカにも輸出され始める。英国でも良く売れたそうで、顧客は主に女性層、気軽に乗れて、南欧的な開放感に満ちた楽しい乗りもの、といった売れ筋だったらしい。
当時の広告。
背景はノートルダム、つまりおフランス。
オシャレです。
各国へ輸出するのはいいのだが、インポーターとの駆け引きやいさかいもありうるし、ライバル社との競争は、インポーターも含めた陣営同士の争いとなるので、規模も増せば、混沌も深まる。
しかし、会社の本当の主戦場は、政治ポジション(何とか主義)や、賃金やベアなんかだけではなく、ビジネスなのだ。そこへは、ちゃんと手を打ち続けないと行けない。
安い賃金と、豊富な市場という条件を兼ね備えた、スペインに進出した。
スペイン語の広告。
軍にも売り込んだ。
そもそも、戦後の復興期に皆がスクーターに注目したのは、アメリカ軍が持ち込んだ Cushman あたりの影響が大きかった。製品イメージとして、無骨で頑丈、信頼性が強いイメージを持ってもらえる副次効果もあったろう(Jeepのように)。戦後の軍の予算はしょぼかったろうから、ボトムレンジの乗り物であるスクーターに参入余地があったのかも知れない。しかし、ここに食い込むには、お役所組織を相手に、長くて不条理な努力を延々と続ける必要があったことは、想像に難くない。
後に、多少の採用枠を得たようだが。
ドカンと買ってくれてウハウハ〜という感じではなかったらしい。
こらこら。重火器を扱ってるのに、タバコはいかん。
たとえキミが、イケメン(のマネキン?)でもだ。
さらに。
敵はまだ居る。
同業者だ。
Luigi Innocenti
読書ログ 「大人げない大人になれ」 ― 2012/11/10 06:28
題名の通り、「皆もっと破天荒になるべき」という著者の考えを述べた本だ。
いかに世間で成功するか、といった実務的な目的だけでなく、もっと本来的な意味、人間は一人一人違うのだから、既存の規範にただおもねるには無理がある、だから、自分でも「はみ出ること」を許容しないと、いろいろ楽しくありませんよ、といったようなことを述べている。
まあ私の場合、既にかなり大人げない、まっすぐな人物なので。(マジかョ。笑) 特に真新しいこともなく、フンフンと納得ずくで読み飛ばせてしまったのだが。
著者は、(まだソフトが面白かった頃の)日本マイクロソフトの社長も勤めた人物で、確かにデキる有能なお方ではあるのだが、世代として、まだ良かった頃だったかと思う。(世間様がまだユルくて好き勝手もやれたし、仕事もあって金銭的にも恵まれていた、という意味で。)
しかし、今も 書評サイト(HONZ) を運営したりしていて、確かに、既存の枠内で鬱屈してしまうタイプではなさそうだ。
その書評サイトだが、私もよく覗いて参考にしている。「稼げる書評」というのは、まず本の内容を羅列して、著者の背景など付属の情報を少々付け足し、あとはレポーターの個人的な興味を、読者の食指ををそそる断面で散りばめて、「あとは読んでのお楽しみ」というパターンらしい。
まあ、本ブログの目的は、稼ぐことではなく、意見することにあるので。(うそ、ただの備忘録。)そういった、勝ちパターン(?)を踏襲することはない。ただ、好き勝手を書くだけだ。
本書に戻るが、最近の人々が大人しく丸まりがちなのは、本人がそれを欲しているからではなく、むしろ、それを強要する世間の方に原因があるように思う。コンプライアンスなどと、妙に横文字なんかを当てはめて、もっともらしく偽装する一方、実効性より「相手の足を引っ張ること」を目的に、「常識」が悪用?される例が増えているようにも見受けられる。
多分、頭のいい著者のことなので、その辺は百も承知だろう。
その上で、こんなものを書いて出すということは・・・?。
どうも、「何か企んでいる感」が漂う読後感だった。
(という意味で、少々考え込まされた。)
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大人げない大人になれ!
(古本が安いね。それに、もうすぐ文庫も出るんだ・・。)
バイク読書中 「Vespa style in motion」 #13 ― 2012/11/11 05:35
Vespa: Style in Motion
一応の意味で、初めに説明しておくのだが、Lambretta(ランブレッタ)というのは、会社の名前ではなくて、Innocenti(イノチェンティ)という会社が作っていた、スクーターのブランドだ。Vespaという会社があるわけではなくて、Piaggio社が作るスクーターの名前ですよ、というのと類似だ。
「Vespa」は、イタリア語で「スズメバチ」の意味だ。(小さくて尻がデカくて、ブンブン飛び回る由。) 対して「Lambretta」は、工場の近くの川の名前(Lambro)をもじったものとある( it.wikipediaより )。
既にこの辺でも、虫なんかをネーミングに使うシャレ者 vs 出身地を名乗る無骨者といったイメージが持ててしまうが。その通りに、この、似た者同士(?)は、実にいろんな所で、いがみ合っていた。
まず、Innocenti がスクーターを作り始めるまでを、本書からざっくり記す。
始まりは、1920年代のRomaの工房。Vaticanあたりから、それなりの仕事を得ていたらしい。1930年代に、Milano郊外のLambrate(ランブラーテ)に工場を建て、本格的に金属加工業に進出。初めは、建築用の足場を英国からライセンスして作っていたが、その後、パイプや機械にも業態を広げる。二次大戦当時、武器弾薬を作る「ファシストの工場」として躍進を遂げたが、終戦にかけては戦渦を受ける。戦後は、そのダメージからの立て直しを余儀なくされる。
そんな中、経営者 Ferdinando Innocenti は、天才的航空技術者Pier Luigi Torre のアイデアである二輪車に、事業を託すことを決める・・・。
と、これまた、どこかで聞いたようなあらすじではある。
Lambrettaの基本構造は、ぐるっと回し曲げた鋼管を基本フレームとして、その内外に付属物をくくり付けるというシンプルなものだ。最初のモデルは鳴かず飛ばずだったらしいが、次モデル辺りから、次第に売れ行きを伸ばし始める。
終戦後の、まだ広告の媒体が限られていた当時、いち早くラジオに目をつけて、活用したとある。日本でも、サザエさんは東芝〜とか、この木なんの木 気になる木〜♪日立グループ、なんてのが今でも残っているが(テレビだけど)。あれの、もちょっとドギツイ版だったらしい。
Lambrettaの当初のラインナップは、Vespaよりは低めのレンジを狙ったもののように見えるが。Vespaと競合する、よりスクーター然としたスタイリングにも進出したあたりで、Piaggioに噛み付かれる。訴訟は、なかなかに揉めたようだ。
Piaggioは、自分が掘り当てた(?)スクーターの市場に、後続がズカズカ踏み込んでは荒らすのにムカついていたようで、1951年にイタリア二輪工業会(ANCMA、Associazione Nazionale Ciclo Moto Accessori)の会合で、「スクーターの定義」を決めたりしている。
「人間が漕ぐためのペダルが無い、エンジン付きの二輪の乗り物で、車体の前後をフットレストで継続して接続したオープンフレーム構造を持ち、タイヤが12inch以下の小径のもの」
ある程度、Piaggioが保有するパテントに添った内容だったようだが、Piaggio が、スクーターのアイデンティティに固執していたことを示すエピソードと見えなくもない。
まあ、ありていに言うと、ただのモーターサイクルを偽装しただけのくせに、スクーターを名乗るんじゃねえと、そんなことが言いたかったらしい。
ちなみに、この時の「合意」の相手は、Innocenti だけではなく、Moto Guzzi、Macchi、Gilera、Iso、Rumi と広範だ。特定の車種も槍玉に挙がっていて、Guzzi のGallettoあたりも含まれていたとある。(文句を言われる程は、売れていなかったと思うんだが。)
ちなみに、Lambrettaの「スクーター」がツートンカラーだったりするのは、フロントシールドからフットレストへ一体でつながる構造が「イミテーションですよ」というのをはっきり示すよう、Piaggioと合意した(訴訟で負けた)ことが発端とある。 (コスト面でLambrettaの足を引っ張る意図もあったかも知れない。多色塗りはカネがかかる。)
Lambrettaの広告。
オシャレよね。(広告でも戦っていたと。)
といった感じで、そこいら中でチャンチャンバラバラやっていたInnocenti とPiaggioだが、その戦いは、競技のトラックやスピードレコードといった、もっとよく目立つ、技術的なステージでも、存分に行われている。
(ISBN 88-87748-37-3)
この辺は、書き始めると長くなるので、次回に詳述したい。
一応の意味で、初めに説明しておくのだが、Lambretta(ランブレッタ)というのは、会社の名前ではなくて、Innocenti(イノチェンティ)という会社が作っていた、スクーターのブランドだ。Vespaという会社があるわけではなくて、Piaggio社が作るスクーターの名前ですよ、というのと類似だ。
「Vespa」は、イタリア語で「スズメバチ」の意味だ。(小さくて尻がデカくて、ブンブン飛び回る由。) 対して「Lambretta」は、工場の近くの川の名前(Lambro)をもじったものとある( it.wikipediaより )。
既にこの辺でも、虫なんかをネーミングに使うシャレ者 vs 出身地を名乗る無骨者といったイメージが持ててしまうが。その通りに、この、似た者同士(?)は、実にいろんな所で、いがみ合っていた。
まず、Innocenti がスクーターを作り始めるまでを、本書からざっくり記す。
始まりは、1920年代のRomaの工房。Vaticanあたりから、それなりの仕事を得ていたらしい。1930年代に、Milano郊外のLambrate(ランブラーテ)に工場を建て、本格的に金属加工業に進出。初めは、建築用の足場を英国からライセンスして作っていたが、その後、パイプや機械にも業態を広げる。二次大戦当時、武器弾薬を作る「ファシストの工場」として躍進を遂げたが、終戦にかけては戦渦を受ける。戦後は、そのダメージからの立て直しを余儀なくされる。
そんな中、経営者 Ferdinando Innocenti は、天才的航空技術者Pier Luigi Torre のアイデアである二輪車に、事業を託すことを決める・・・。
と、これまた、どこかで聞いたようなあらすじではある。
Lambrettaの基本構造は、ぐるっと回し曲げた鋼管を基本フレームとして、その内外に付属物をくくり付けるというシンプルなものだ。最初のモデルは鳴かず飛ばずだったらしいが、次モデル辺りから、次第に売れ行きを伸ばし始める。
終戦後の、まだ広告の媒体が限られていた当時、いち早くラジオに目をつけて、活用したとある。日本でも、サザエさんは東芝〜とか、この木なんの木 気になる木〜♪日立グループ、なんてのが今でも残っているが(テレビだけど)。あれの、もちょっとドギツイ版だったらしい。
Lambrettaの当初のラインナップは、Vespaよりは低めのレンジを狙ったもののように見えるが。Vespaと競合する、よりスクーター然としたスタイリングにも進出したあたりで、Piaggioに噛み付かれる。訴訟は、なかなかに揉めたようだ。
Piaggioは、自分が掘り当てた(?)スクーターの市場に、後続がズカズカ踏み込んでは荒らすのにムカついていたようで、1951年にイタリア二輪工業会(ANCMA、Associazione Nazionale Ciclo Moto Accessori)の会合で、「スクーターの定義」を決めたりしている。
「人間が漕ぐためのペダルが無い、エンジン付きの二輪の乗り物で、車体の前後をフットレストで継続して接続したオープンフレーム構造を持ち、タイヤが12inch以下の小径のもの」
ある程度、Piaggioが保有するパテントに添った内容だったようだが、Piaggio が、スクーターのアイデンティティに固執していたことを示すエピソードと見えなくもない。
まあ、ありていに言うと、ただのモーターサイクルを偽装しただけのくせに、スクーターを名乗るんじゃねえと、そんなことが言いたかったらしい。
ちなみに、この時の「合意」の相手は、Innocenti だけではなく、Moto Guzzi、Macchi、Gilera、Iso、Rumi と広範だ。特定の車種も槍玉に挙がっていて、Guzzi のGallettoあたりも含まれていたとある。(文句を言われる程は、売れていなかったと思うんだが。)
ちなみに、Lambrettaの「スクーター」がツートンカラーだったりするのは、フロントシールドからフットレストへ一体でつながる構造が「イミテーションですよ」というのをはっきり示すよう、Piaggioと合意した(訴訟で負けた)ことが発端とある。 (コスト面でLambrettaの足を引っ張る意図もあったかも知れない。多色塗りはカネがかかる。)
Lambrettaの広告。
オシャレよね。(広告でも戦っていたと。)
といった感じで、そこいら中でチャンチャンバラバラやっていたInnocenti とPiaggioだが、その戦いは、競技のトラックやスピードレコードといった、もっとよく目立つ、技術的なステージでも、存分に行われている。
(ISBN 88-87748-37-3)
この辺は、書き始めると長くなるので、次回に詳述したい。
読書ログ 「群れはなぜ同じ方向を目指すのか?」 ― 2012/11/17 10:00
「群が動く仕組み」に関する研究例を集めた本だ。
「従来はこう思われていたが、近頃はこういうこともわかっている」という筆致で、旧来の見識から、最新の知識まで、幅広く網羅している。多少古びた、感情じみた(社会)心理学から、最新の冷徹なコンピュータシミュレーションの類まで、扱う幅が広い。なので、あらかじめ題名から内容を想定しても、それはほんの少しだけ、それ以外がほとんどだった、という外れ方をする本だ。しかし、その「想定外」は、読み進むうちに、驚きと、感心に変わって行く。
例えば、ごく簡単な前提、隣と一定の距離を保つ(ぶつからない)とか、前方に誰か居たら、とりあえずそれを追うとか、そんな条件だけを与えて、群れの動きをコンピュータでシミュレートすると、小さな鳥や魚の群れが、全体として、時に独特な模様をかもすことがあるが、ああいった現象が、忠実に再現できたりするそうだ。
個体としては微弱や微小でも、群れ全体の動きとして、危険を避けたり、案外正しい方向に進んだりと、時に知能を備えているかのように振る舞うことがある。群知能と言うそうだが、上記のシミュレーションは、その仕組みについての解説と理解を与えてくれる。
原題にも在る「複雑性」は、出版界での流行りとしては、既にピークを過ぎたようにも感じるが。今まで、その一言で一括りに丸め込んでいたものを、解きほぐす試みとも言えるだろう。
なので、「渋滞学」の辺りも、当然含まれる。
それらの知識は、目に見えない「群れ」であるネットを扱う方法論としても、既に応用されていて、それをどう組織化するか、どういった時に混乱するかをふまえる・・・といった、ビジネス面での応用、古い言い方ではマスマーケティング、流行りの言葉ではビッグデータ、の辺りとも重なりを持つ。
注意を要するのは、たとえ「群れは案外正しい」としても、「群れに従っていればいい」ことにはならない。本書はその辺のバランスも優れていて、全体主義や、従うだけで考えないことの危険性についても触れられているし、集団思考の害悪や持続性については、NASAでの事故を例を挙げて、ページを割いて解説している。
冷徹な数学として、失敗が正解を導くこととか(間違うほど、次に正解する確率が高まる)、統計の話(ありていに言うと、多数決)を解説する一方、我々の感情的な性向でもある「前例にならうこと」や「知っている人に訊くこと」の功罪にも触れている。個人的には、「投票の逆説」の辺りが真新しくて、確かに、これではいくら選挙をしても、世の中、良くならないんだなあ・・と、妙な納得をしたりした。
話題の幅が広いので、どっちつかずの総論併記で、わかりづらいと感じる方も居そうに思う。しかし、「こうすればデキル!」の類の、平べったいノウハウ本と違って、厚みがあって面白いと、私は感じた。単純に、読み物としても、軽妙な筆致で飽きさせないし、変な訳語が気になることも、ほとんどなかった。
数値計算じみた話は、できれば数式を挙げて欲しいなあ、と思う場面もあったのだが。それは、自分で参考文献を当たるべきだろう。実際、これがまた、参考文献がえらく充実した本で、しかも今や、Webから簡単に参照できたりする世の中なので。ふと寄り道して、戻って来れなくなるような読み方も、簡単にできてしまう。逆に、自分の興味のある部分をピックアップして、深堀りを始めるための「とっかかり」、リファレンス本としても使える訳で、読み倒すだけでなく、使い倒せる本としても有用である。
要は、考え方の作法、人々はものをどう考えているか、を扱った本なので、今、何が自分を縛っているのかを突き止めたい向きには、有用そうに思う。しかし、次に自分がどうすべきかのヒントを得るのは、難しそうだ。だって、たとえヒント得られたとしても、それがうまく行くかどうかは、それとは全く別の話なのだ。
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