バイク読書中 「Vespa style in motion」 #122012/11/04 05:34

Vespa: Style in Motion


1953年の、Vespaのユーザー調査結果。
職業:
ブルーカラー 30%、ホワイトカラー 30%、小売店主 16%、職人 10%、専門職 7%、学生 3%、医師と聖職者が2%ずつ
年齢:
18〜20歳 5%、21〜31歳 40%、31〜40歳 35%、40歳以上 20%
ま、楽しきゃ、みんなして乗っちゃうんだけど。


1950年代、本格的な戦後復興は、生活様式の根本的な変化をもたらし始める。

それまで、やっぱり田畑の土の上で働くのが生活の基本、といったような素朴な感覚を、全体的に共有していたように思う。文化や習慣、社会制度などの規範も、それを土台にしていた。
工場のラインに並ぶ連中が、街のほとんどを占めるなんて、それまで無かった。「会社」は、街の命脈を一手に握る規模にまで肥大化した。それを、どう扱ったらいいのか、みんな、まだわかってなかった。

ゆりかごから?。

共産主義なんかが、「新しくて、進んでいた」頃。その脇で、まだ、パルチザンが残した弾薬が、ブドウ畑に埋まったまま残っていたりしていた。
社会のあちこちに、いびつな成長痛のようなものが出始めていた。労働者階級は経営者に楯突いたし、警官達の取り締まりは容赦なかった。労働者も経営者も、赤とそうじゃない奴とか、右とか左とかに分かれて、上へ下への大騒ぎをしていた。
その一方で、賃金は上がっていたし、生活レベルも向上していた。
楽しめるなら、楽しめる所から、楽しみ始める。

ちっと迫力?

Vespaは、ドイツなどヨーロッパ各国だけでなく、アメリカにも輸出され始める。英国でも良く売れたそうで、顧客は主に女性層、気軽に乗れて、南欧的な開放感に満ちた楽しい乗りもの、といった売れ筋だったらしい。

当時の広告。
背景はノートルダム、つまりおフランス。
オシャレです。

各国へ輸出するのはいいのだが、インポーターとの駆け引きやいさかいもありうるし、ライバル社との競争は、インポーターも含めた陣営同士の争いとなるので、規模も増せば、混沌も深まる。

しかし、会社の本当の主戦場は、政治ポジション(何とか主義)や、賃金やベアなんかだけではなく、ビジネスなのだ。そこへは、ちゃんと手を打ち続けないと行けない。

安い賃金と、豊富な市場という条件を兼ね備えた、スペインに進出した。

スペイン語の広告。

軍にも売り込んだ。
そもそも、戦後の復興期に皆がスクーターに注目したのは、アメリカ軍が持ち込んだ Cushman あたりの影響が大きかった。製品イメージとして、無骨で頑丈、信頼性が強いイメージを持ってもらえる副次効果もあったろう(Jeepのように)。戦後の軍の予算はしょぼかったろうから、ボトムレンジの乗り物であるスクーターに参入余地があったのかも知れない。しかし、ここに食い込むには、お役所組織を相手に、長くて不条理な努力を延々と続ける必要があったことは、想像に難くない。


後に、多少の採用枠を得たようだが。
ドカンと買ってくれてウハウハ〜という感じではなかったらしい。

こらこら。重火器を扱ってるのに、タバコはいかん。
たとえキミが、イケメン(のマネキン?)でもだ。

さらに。
敵はまだ居る。
同業者だ。

Luigi Innocenti



バイク読書中 「Vespa style in motion」 #132012/11/11 05:35

Vespa: Style in Motion


一応の意味で、初めに説明しておくのだが、Lambretta(ランブレッタ)というのは、会社の名前ではなくて、Innocenti(イノチェンティ)という会社が作っていた、スクーターのブランドだ。Vespaという会社があるわけではなくて、Piaggio社が作るスクーターの名前ですよ、というのと類似だ。

「Vespa」は、イタリア語で「スズメバチ」の意味だ。(小さくて尻がデカくて、ブンブン飛び回る由。) 対して「Lambretta」は、工場の近くの川の名前(Lambro)をもじったものとある( it.wikipediaより )。

既にこの辺でも、虫なんかをネーミングに使うシャレ者 vs 出身地を名乗る無骨者といったイメージが持ててしまうが。その通りに、この、似た者同士(?)は、実にいろんな所で、いがみ合っていた。

まず、Innocenti がスクーターを作り始めるまでを、本書からざっくり記す。

始まりは、1920年代のRomaの工房。Vaticanあたりから、それなりの仕事を得ていたらしい。1930年代に、Milano郊外のLambrate(ランブラーテ)に工場を建て、本格的に金属加工業に進出。初めは、建築用の足場を英国からライセンスして作っていたが、その後、パイプや機械にも業態を広げる。二次大戦当時、武器弾薬を作る「ファシストの工場」として躍進を遂げたが、終戦にかけては戦渦を受ける。戦後は、そのダメージからの立て直しを余儀なくされる。
そんな中、経営者 Ferdinando Innocenti は、天才的航空技術者Pier Luigi Torre のアイデアである二輪車に、事業を託すことを決める・・・。

と、これまた、どこかで聞いたようなあらすじではある。

Lambrettaの基本構造は、ぐるっと回し曲げた鋼管を基本フレームとして、その内外に付属物をくくり付けるというシンプルなものだ。最初のモデルは鳴かず飛ばずだったらしいが、次モデル辺りから、次第に売れ行きを伸ばし始める。

終戦後の、まだ広告の媒体が限られていた当時、いち早くラジオに目をつけて、活用したとある。日本でも、サザエさんは東芝〜とか、この木なんの木 気になる木〜♪日立グループ、なんてのが今でも残っているが(テレビだけど)。あれの、もちょっとドギツイ版だったらしい。

Lambrettaの当初のラインナップは、Vespaよりは低めのレンジを狙ったもののように見えるが。Vespaと競合する、よりスクーター然としたスタイリングにも進出したあたりで、Piaggioに噛み付かれる。訴訟は、なかなかに揉めたようだ。


Piaggioは、自分が掘り当てた(?)スクーターの市場に、後続がズカズカ踏み込んでは荒らすのにムカついていたようで、1951年にイタリア二輪工業会(ANCMA、Associazione Nazionale Ciclo Moto Accessori)の会合で、「スクーターの定義」を決めたりしている。

「人間が漕ぐためのペダルが無い、エンジン付きの二輪の乗り物で、車体の前後をフットレストで継続して接続したオープンフレーム構造を持ち、タイヤが12inch以下の小径のもの」

ある程度、Piaggioが保有するパテントに添った内容だったようだが、Piaggio が、スクーターのアイデンティティに固執していたことを示すエピソードと見えなくもない。
まあ、ありていに言うと、ただのモーターサイクルを偽装しただけのくせに、スクーターを名乗るんじゃねえと、そんなことが言いたかったらしい。

ちなみに、この時の「合意」の相手は、Innocenti だけではなく、Moto Guzzi、Macchi、Gilera、Iso、Rumi と広範だ。特定の車種も槍玉に挙がっていて、Guzzi のGallettoあたりも含まれていたとある。(文句を言われる程は、売れていなかったと思うんだが。)

ちなみに、Lambrettaの「スクーター」がツートンカラーだったりするのは、フロントシールドからフットレストへ一体でつながる構造が「イミテーションですよ」というのをはっきり示すよう、Piaggioと合意した(訴訟で負けた)ことが発端とある。 (コスト面でLambrettaの足を引っ張る意図もあったかも知れない。多色塗りはカネがかかる。)

Lambrettaの広告。
オシャレよね。(広告でも戦っていたと。)

といった感じで、そこいら中でチャンチャンバラバラやっていたInnocenti とPiaggioだが、その戦いは、競技のトラックやスピードレコードといった、もっとよく目立つ、技術的なステージでも、存分に行われている。




(ISBN 88-87748-37-3)

この辺は、書き始めると長くなるので、次回に詳述したい。