読書ログ 「零戦のしくみ」 ― 2013/04/06 05:07
表紙の写真は省略。
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ここ何回か、零戦の本を取り上げてきたが。
今週で一区切りつけたい。
今回の本は、零戦のメカニカルを中心に、前後の歴史や周囲の状況、当時のライバルや、実際の運用などについて、幅広くまとめた一冊だ。ビジュアルを中心に、カラーの図版や写真が豊富で、見た目にわかりやすい。零戦の機械仕様をざっと知りたいだけ、というニーズには適した一冊だ。
反面、文章は少なめ、かつ通り一遍なので、読み物としては軽すぎる。記述も稚拙で信憑性も疑われるので、鵜呑みも納得もできない。「判断は、図と数字をから自分でやる」読み方が必要だろう。
個人的に参考になったのは、いつもは嫌っている「モデルヒストリー」と「ライバル比較」だ。
(以下、写真はクリックで拡大。)
1940年
零戦は、デカかったが、軽かった。
よく言われているように、戦闘速度域での取り回しは期待できたのだろう。
1945年
たった5年だが。
時代に即した「正常進化」は、零戦をクソ重くした。
しかし、ライバルはその上を行っている。
多分、零戦は懸命に走ったが、時代の要請には不足した。
時代が、ゼロが持っていた良さとは違う方向に進んだのだ。
それは、時代が不安で読めなかったせいか、それとも、当初の技術マーケティングの不足や、誤りによるものだろうか。
ただ、
車重250kg、速度100km/hそこそこ(?)のバイクを自在に動かそうとヒイコラ言っているような私なんぞが、重量3t、速度500km/h超で、重力と敵機と同時に戦いながら、腕力で舞え、という世界に、何か言えるわけではないな、とは、端的に、理解した。
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徹底図解 零戦のしくみ―日本航空史に燦然と輝く名機の栄光と悲しき末期
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今回の本は、零戦のメカニカルを中心に、前後の歴史や周囲の状況、当時のライバルや、実際の運用などについて、幅広くまとめた一冊だ。ビジュアルを中心に、カラーの図版や写真が豊富で、見た目にわかりやすい。零戦の機械仕様をざっと知りたいだけ、というニーズには適した一冊だ。
反面、文章は少なめ、かつ通り一遍なので、読み物としては軽すぎる。記述も稚拙で信憑性も疑われるので、鵜呑みも納得もできない。「判断は、図と数字をから自分でやる」読み方が必要だろう。
個人的に参考になったのは、いつもは嫌っている「モデルヒストリー」と「ライバル比較」だ。
(以下、写真はクリックで拡大。)
1940年
零戦は、デカかったが、軽かった。
よく言われているように、戦闘速度域での取り回しは期待できたのだろう。
1945年
たった5年だが。
時代に即した「正常進化」は、零戦をクソ重くした。
しかし、ライバルはその上を行っている。
多分、零戦は懸命に走ったが、時代の要請には不足した。
時代が、ゼロが持っていた良さとは違う方向に進んだのだ。
それは、時代が不安で読めなかったせいか、それとも、当初の技術マーケティングの不足や、誤りによるものだろうか。
ただ、
車重250kg、速度100km/hそこそこ(?)のバイクを自在に動かそうとヒイコラ言っているような私なんぞが、重量3t、速度500km/h超で、重力と敵機と同時に戦いながら、腕力で舞え、という世界に、何か言えるわけではないな、とは、端的に、理解した。
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バイクの本 「Moto Morini 3 1/2 & 500 Performance Portfolio 1974-1984」 おしまい ― 2013/04/07 03:49
軽いバイクが欲しい、と言った時、まあ単純に押し引きが軽いのというのもあるのだが、やはり本質的には、乗った時に軽々と操れる、自由度の方を期待しているのだろうと思う。
通常、排気量が大きくなれば、エンジンのパワーと共に、車重も増える。車重/パワー比は小さくなるので、パワーで操るのはラクになる。例えばコーナーで少々失敗しても、右手イッパツでリカバーできたりするわけだ。
しかし、たとえパワー/重量比が同じでも、重いバイクを大パワーで動かしているのと、軽いバイクが少ないパワーで動いているのでは、物理的に、ラクさ加減が全然違う。
例えば、「アッ!」というその刹那、何ができるかを考えると、心理的に、相当な差があると思う。(車重が重けりゃ、抵抗むなしくブッ飛んでオワリ、という確率は低くない。)
反対に、軽いバイクは、エンジンのパワーを期待できない。自然、コーナーに闇雲に突っ込んで、タイヤのグリップとトラクションで何とか収めるような無茶は避けて、両輪のポテンシャルをバランスさせる、ライディングのまとまりを意識するようになる。
そこでエンジンに期待するのは、ギクシャクした断絶感のないトルクの出方と、スムーズなトラクションが息長く続く、吹け上がりに余力を持った出力マナーだ。
★ 高圧縮比、ショートストロークの350cc Vツインは、これにマッチしそう
アスペクト(視点)を変えてみる。
タイヤである。
太いタイヤは、荷重の容量が大きい。
単純に、踏ん張りが効く。
「路面がよければ」
でも、公道の路面は、大体はそんなに良くないし、コンディションは常に変わる。タイヤがいくら良くっても、低μ路に足をすくわれる確率は、さして変わらない。
軽いバイクはタイヤの面圧も少ないので、太いタイヤのポテンシャルを引き出しにくい。高荷重域(コーナーにしゃにむに突っ込むこと)なら話は別だが、公道ではその機会はめったにないし、そんなリスクをあえて冒す理由もない。
大体、軽いバイクに太いタイヤを履かせても、ドタバタと重いだけだ。ちょっと考えてみただけでも、細めのタイヤの方が相性がよさそうに思えるだろう。
細いタイヤは、リーン時の接地点の移動距離も小さくて、ハンドリングも素直だ。タイヤのグリップを当てにせず、リア周りを基準にフロント周りを追従させる方向で、スローイン、ファーストアウト。そんな、クラシカルな走りの組み立てでもって、ライディングの楽しさと、マージンの高さを両立できる。
入り口では、ムリせずゆっくり、 コーナー中は、軽やかさでもって、ヒラヒラと余裕でいなし、 後は、立ち上がりに向かって、軽やかに伸びていく・・・。
★ リア重視のアライメントに、バランスが良さげなエンジン位置
理想の「軽い遊びバイク」を希求していた私が、トレメッツォに「おやっ?」となった、その心は。
上の2つの★でもって、カユイ所の交点を、突いているように見えたのだ。
#####
バイクの乗りこなしは、適応のプロセスでもある。
バイクは機械なので、持てる性能以上のものは、出してくれない。
だから、
・本来の性能を発揮できるよう、機械を維持管理すること。
・その性能を発揮すべく、操縦する術をわきまえること。
この二つの「掛け算」で、何ができるのか、カッコよく言うと、ライディングのクオリティが決まる。(掛け算なので、どちらかがゼロなら、答えもゼロだ。)
その「操縦」だが、アタマよりカラダで覚えるものなので(知っていても、できなきゃイミない)、自然、「会得した型」のような表象を醸す。
体で覚えるものなので、新しい機体に触れた時に、違和感があるのは当然だ。
玄人と素人は、ここで分かれる。
「違うからダメ、イヤ」の類で終わってしまうと、結局は、同じような機体を入れ替えるだけ、になってしまう。自然、だんだんと飽きて来て、仕舞には「降りる」パターンが大勢となる。
これは、実は日本車のお得意様のパターンで、時に従い顧客が入れ替わることを、新陳代謝と称して奨励して来た。古来、雑誌の情報も、それをサポートするのを旨としていた。業界上げて「永遠の素人さんループ構造」だったのだ。新人(若人)が減ったことで、近年はビジネスモデルが破綻しているが。
玄人は、そこでは終わらない。
自分が、それに適応した先を、予測する。
予測した上で、その価値を判断する。
全く未知のもの、予想外のものに触れた時にも、うろたえない。
その機体と、自分を「掛け算」した時の様相を、冷静に突き止めようとする。
まるで、カメラのピントを合わせるように。
立体パズルでも解くような、手つきでもって。
そのプロセスを裏で駆動しているのは、興味や期待といった類の、ポジティブな感情だ。見栄や打算なんかいう、矮小な根性では長続きしない。(判断が鈍る)
一番重いのはカネの問題だが・・・、
まあ、今はちょっと、置いとくとして。(笑)
製品(バイク)の送り手と、使い手の意図が織り合うことで、新しいフェーズが作り出される。この一連のプロセスが、バイク選びの嗜み(心得と楽しみ)でもあった。
優れたプロの送り手は、そのためのアピールを明確に行っていた。
と同時に、実際に乗った際の結果を保証する、安心感の意味での「ブランド」を両立させるべく、努力を惜しまなかった。
そして、優れた受け手は、拙い送り手の嘘や悪意、間違いなどを的確に見抜き、排除しつつ、本物を選び、愛でるために、感性を磨き、対価を払い、その能力を発揮し、維持することを、無上の喜びとしてきたのだ。
(バイクだけじゃなくて。高級品って、そういうことだった。)
そんな、幸せだった時代の、残り香。
###
単なる、私の勝手な妄想である。
何せ、過去の遺物である。
現物が無いんだから、存分に理想化できる。
でも、それじゃ無責任なので。
ちゃんと夢をブチこわしておくと (笑)、
よしんば、私の妄想が当たっていたとしても、「70年代では」という但し書きが付くだろう。
仮に今、現物にお目にかかれたとしても、ヨレヨレのお爺ちゃんである確率が高い。(そうでないピン物は、手放されない。)
事情に通じた整備士も日本には居ないだろうから、本来の乗り味に触れられる確率は、極小だろう。
ただ、彼の地では、今でもこれを愛好する(できている)連中がいるようなのは救いだ。
前回、比較対照されていたGL500の辺りといえば、当初の評価は高かったようだが、今でもそれを愛好するオーナー(愛される機体)は、壊滅状態に見えるのとは対照的だ。(ややこしい部品が多い上に、メーカーにサポートする気がないので。物理的に如何ともしがたいのだが。)
機体が愛されるのは、愛される価値がある故か。
たまたま、偏屈なオーナーに恵まれただけか。
まあ私の場合、根が偏屈なので。どっちでも同じなんだけど。(笑)
皆様も、ご自身で判断されたい。
ハハ。
おっさんばっかりで。
いい感じだ。
※ この手の旧車で一儲け、という悪徳業者も、依然として多いので。
引き続き、お気を付け頂きたく候。
(私もね、言うほど玄人ではないので。今でもよく騙されそうになる。笑)
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Moto Morini 3 1/2 & 500 Performance Portfolio 1974-1984 (Performance Portfolio Series)
読書ログ 「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語」 ― 2013/04/13 08:26
この本が出た当時だが、あちこちの書評で取り上げられていて。
スゴイ、面白い、とあおっていたので。
実は、人知れず楽器好きなワタクシと致しましては。
あおられました。(笑)
ま、一読はしておこうかなと。
図書館の予約の、長蛇の列の一番最後に並んだのが、だいぶ前。
で、やとこさ順番が来ましたよ、と連絡をもらったので(半ば忘れていたんだけど)、借りて読んだ。
本のサイズも内容も、ほぼ予想通り。
ただの新書だった。
ビオラを奏者の著者が、楽器店の片隅で、この楽器に出会う所から、物語は始まる・・・・・
以下略。(笑)
一般的な擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)は、バイオリンのように、首もとにはさんで使うタイプと、チェロのように床に立てて弾くものに分かれるが、ヴィオラ・アルタとは、首もとにはさんで使う方の、しかし、妙に大きい楽器である。(YouTubeに映像が出ているので、ご興味がある向きは検索されたい。)
そもそも、楽器なんてものは、その時代時代で、奏でたい音楽に応じて、いろんな種類のものが作られてきた。
今、我々が目にする楽器は、その雑多な系譜のうち、幸いに今も残っているもののいくつかに過ぎない。優れているので残っているのか、衰退途中だが死に絶えていないだけか、の違いはあれ、タイミングとしてラッキーだったから、今、実際に、音を聞いたり、手で触れたりできる。
このヴィオラ・アルタが世に出たのは、ほぼ一世紀前の頃。散逸したとはいえ、当時モノの楽器がまだ辛うじて残っていて、記録や譜面だのといった情報も、辿ろうと思えば辿れる微妙なタイミングにある。それ以前の、完全に途絶えてからの時間が長い代物だと、古びた資料をつなげただけの、カビ臭い古美術研究になってしまったろう。その意味でも、微妙にラッキーなタイミングにある楽器だった、とも言える。
どうも著者は、この楽器に「一目惚れ」したようで、ハナっから「これはいいものに違いない」な前提で、話が進む。
で、いろいろ情報を辿り、掘り起こしながら、「あ、やっぱりその通りだ!」という筋立てになっている。
一応、影の方の記述もある。
廃れた楽器だ。
廃れたなりの、事情がある。
著者が辿り、掘り起こす情報は、掘り起こされる方からすれば、忘れたい、忌まわしいものかも知れない。
そんな、紆余曲折を経つつも。
「影」の方は、「光」を浮き彫る添え物程度であり。
基本的に、ああこの楽器に出会えてよかったあああ調の、シャンシャンで終わる。
まあ、小説仕立ての、ちょっとドキュメンタリータッチの読み物としては、よくできた方だと思う。
一方で、著者の、音楽家としてのマーケティング、地味なヴィオラ奏者としてではなく、一風変わった、ヴィオラ・アルタの奏者(権威?)として、他者と差別化を計るといった意図もあったように感じられる。
楽器というのは、それ単独で、成立しうるわけではない。
何か、奏でたい音楽の方が先にあって、それに合わせて、最適化される方が一般なのだ。
今の日本では、想像するのも難しいかも知れないが。
歌(唄、唱)というのは、ずっと、生活と共にあった。
顔を合わせたとき。集まった時。ハレの場で。呑んだ時。
人々は、歌っていた。
その時に、誰かが後ろで奏でている楽器は、もっと身近だったし、体にも文化にも馴染んでいて、深く根付いていた。
オーケストラのクラッシックだって、本当は同んなじ様なものだ。
ただ、ヨーロッパ(ドイツ)の連中が、途方もなく凝り性だったので、大規模で複雑で、見かけ偉そうになっただけの話だ。(笑)
身に付いた、生活としての音楽。
それを、我々日本人は、失って久しい。
音楽といえば、テレビの歌番組で流れる、バンド構成で3分前後の、あんなのしか思い付かないご時勢になって、もう長い年月が経っている。
だから、私がこんなことを言っても、ピンと来ないだろうとは思うのだが。
著者が奏でたい音楽、著者の音楽性のカラーに、この楽器が合ったということなら、それは幸せなことなのだが。音楽家を稼業として、その差別化として使っただけかも知れない。もしそうなら、音楽のオーディエンスとしては、この本は価値がないことになるが。その辺りの真偽は、この著者が、これからどれだけ、ヴィオラ・アルタを弾き続けるのかで分かるのだろう。
逆に見ると、音楽家がマイナーな楽器を志す時、こういったやり方、まず、その正しい身上を顕した上で取り組むというのは、その楽器が持つ本来の筋を踏み外さずに活動に入るための、よい手段の一つになるかもしれない。
何を言っているかというと、三味線でロックを弾いて売り出す、のような不憫なプロモーションというのはよくあることだが、残念なことに、ある程度の結果(売り上げ)を出したりする。三味線の良さは、それが弾くべき音楽で初めて良くわかるものなのに、そこでの真実、深みのようなものは忘れ去られ、オーディエンスは、三味線でロックを弾くのが「上手い」と勘違いしたまま、通り過ぎ、終わってしまう。それは、音楽家と楽器の双方にとって、不幸なことだ。
個人的な趣味で、撥弦(弦をはじく楽器)ばかりを挙げてしまうが、マンドリン類や、変り種のギター(テナーとか)、民族楽器類(ポルトガルギターやブズーキ)などなど、いろいろな楽器が日本に入って来るご時勢なのに、楽器本来のポテンシャルを出しあぐねている例が多いような気がしている。
稼業としての音楽と、楽器が持つ才能の間に、溝が深いのだ。
まあ、撥弦(ギター系)と擦弦(バイオリン系)では、市場のケタが違うので。本を書いて小遣い稼ぎ、とは行かないのだろうけど。
実は私も、珍しい楽器はいくつか持っていて。これを弾けたら「死んでもいい」という、情熱だけはあるのだが。どうも、まるで才能が無いようで、「好きこそ物の」の方ではなく、いつまで経っても「下手の横好き」だ。
そのおかげで、音楽では死ねそうにない。
ラッキーと、喜んでいいものやら。(笑)
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幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語 (集英社新書)
バイクの本 Moto Morini (Enthusiasts) ― 2013/04/14 05:52
Moto Morini の歴史を追おうなんか思っても、これだけマイナーなメーカーとなると、本としてまとまっている資料は、あまりない。ざっと検索したくらいでは、このMick先生の本くらいしか出てこない。
Mick先生の通例で、イギリス視点の、通り一遍な記述なので(イギリスのインポーターがどうしたとか、そんな)、あまり参考にはならない。内容も深くないので、ふーんと唸ることもない。今や、その辺のネット情報と比べても、信憑性が優れているとも思えないし。まあ、いつでも本棚から取り出して、全体を一望できるのは便利かな、とその程度ではある。
Wikipedia 日本語版にも 詳しい記事があったり するので、わざわざ本など買わずとも、基本的な情報をザッピングするには苦労しないのだが。
ただ、各モデルの詳細や、実地評価の情報が得られるので(イギリスの、だが)、バイヤーズガイド的な読み方は可能だろうと思う。イザという時(←て何でしょね?)、すぐに本棚から出して復習できると。
以下、Moto Morini の変遷を、超・大ザッパーに辿ってみる。
まあ、そこはワタクシのこと、例のように、人とは違う「ナナメ目線」なので。(笑) あまり真に受けず、ナナメ読みしていただきたい。
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Morini は、イタリアの老舗のメーカーだ。レースでも栄光を手にしてきた実力派でもある。だが、市販車の方の実態は、その稼ぎのほとんどを、小排気量車を地元周辺に供給することで賄う、ドメスティックなメーカーだったようだ。
創業は1924年。MMというメーカー名だった。創業者の二人、Mario Mazzetti と、Alfonso Morini の頭文字を取ったとの事。
1926年
1935年に、Morini 氏だけ独立、Moto Morini を創業する。
レース活躍は続行。
1948年 Dutch TT 125cc
当初は2stだったが、後に4st化する。
1951年 Italia GP Monza
変わったアーキですな。まさにリア乗り?。
Alfonso Morini 氏 (左のメタボなスーツの人)
野心家な感じ?
1967年 イタリア国内レースにて。
今、日本で見かける中古車は、この世代が多いか。
1950~60年代なので。今や、ひょっとすると60年選手だ。
モトジロ世代で名車扱いだし、実際に乗ると凄い、とも聞くが。機体の程度として、その「凄さ」が残っている個体なのか、ぱっと見くらいじゃわからない。しかし、結構な値段がついていることが多く、実質「高いくじ」状態だ。凄いプライスのヨレヨレのバイクがズラッと並んでいる光景は、ずいぶん昔の、上野の裏道とダブって見える。極東ガラパゴス市場、とも言えるかも知れない。
こんな感じで、シングルシリンダーの小排気量をこつこつ作っていたMorini だが、1970年の前後に、ひと波乱あった。
日本車を含む大多数のメーカーが、750ccを越える大型バイクの市場に活路を見出そうと、もがいていた当時。
Alfonso Morini が亡くなって、娘(オバサンだが)が跡を継いだ。
Moto Morini は、新たにVツインを開発し、車種のバリエーションの脱皮を図る。
遅ればせながら、350ccのVツインで、中型車市場に参入。
1975年のStradaモデル
真面目そうなヤツだな~。 (笑)
なにせ小さなメーカーだったし、北米市場には販路も興味もなかったようだ。(カネもなかったろう由。) 以降も、欧州ドメスティックをマーケットに留まっている。
以降の新規開発は、基本的に、部品を共通化したモジュール開発で、しのいでいる。
件のVツインは、初めから、それを想定して作られていた。
まず、 前々回 に書いた通り、500ccモデルを開発した。
それを踏み台に、昔の自分の市場、小排気量シングルシリンダーにも、返り咲きを図っている。
まず、上述の500cc Vツインの片方のシリンダーを取り去って、250を作る。
1976年
次いで、より軽量な125ccを追加。
しかし、振動が大きいなど不評だったとかで、逆に、125ccを二個がけして、250ccを作る。
本書によると、車体は125に近い構造で強度的に難がある、乗り味も作りもイマイチなのに値段が高い、とあまり誉めていない。
車検不要の250ccは、ここ日本では魅力なのだが。かつての350ccのクオリティは、期待しない方がよさそうだ。
1980年代に入ると、技術的な、もがきを見せる。
なかなか斬新な、ターボモデルを試作したり。
(このころ、なぜか一瞬、ターボのバイクが流行った。CXとか。何ででしょね。誰か知ってたら教えて。)
Morini Turbo の詳細は、こちらのサイトをどうぞ。
オランダのモリーニクラブのHP。
(当時の関係者の写真なんかもあって、詳しいです。)
The Moto Morini 500 Turbo (prototype)
混合気を作ってから圧縮する方式だったらしい。70.5PSだって!。
さすがに、このターボは市販はされなかったようだが。
車種構成のバリエーションは増えていく。
オフ車。当時流行の、パリダカルックですな。
(60年代には、ISDTに出たりもしていたので。オフ車も違和感ない?。)
アメリカンもあり。
当時、経営的には、儲かってはいなかったが大赤じゃなかった・・・とのことだが。80年代終盤に、当時、勢いを増していたCagivaに売り飛ばされる。
フレッチアの車体に、あのVツインを押し込むという。
(力技にも程が・・。)
ボローニャの工場も1980年代末に売り飛ばされ、つぶされて住宅地として開発されたとある。
その後は、実体のないブランドの名前だけが売り買いされ、たまに出たり引っ込んだりしながら、現在に至る。
ご存知のように、ボローニャといえば、横置きVツインというアーキを同じくするメーカーが、ご近所にある。
多少ムリヤリだが、そちらの方のモデルヒストリーをざっくり俯瞰すると、以下のようになるかと思う。
・60年代 小排気量シングル
・70年代 ベベル(750~1000cc)
・80年代 パンタ(500~900cc)
・80年代終盤~ パソとか一般化と、水冷化
経営的には、70年代の二気筒化の際に、より大排気量でUS市場を狙ったあたりは、Morini よりは「お上手」だったと言えそうだが。結局はCagivaに乗っ取られるというオチは同じだ。その後、1986年のdb1で奪われた「お株」を、90年代に「安いパンタ」と「速い水冷」の挟み撃ちで取り返した辺りが効いて、ブランドの延命に繋がる(血筋はどうあれ)・・・といった所だろうか。
ユーザー視点からすると、不思議な気もする。
Morini と同期のDucati は、ある意味、性格もMorini とは対称的で、乗れない方が悪いとでも言いたげな、ユーザーを突き放した、悪魔のようなバイクだった。
機械的な造りもナンだった。
デスモは、生産するのも難しかったが、ユーザーが維持するのは、さらに難しかった。
シート下にグサッと刺さって冷却ままならないリアシリンダーは熱的に厳しかったし、前後シリンダーのセッティングを変えて凌ぐなど、不条理をかかえていたと聞く。
これに比べれば、機体の作りもキャラクターも、Morini は、真面目にユーザーに寄り添うようなところがあった・・・ようにも思えてくる。
同年代のグッチにも、雰囲気が似ているんだよね。
でも、消えたのは、Morini の方だったのだ。
たぶん、ことが興ったり衰えたりというのは、モノが良かったとか、考え方が優れていたとか、そんな後付けの理由とはまるで別の所で、こんな風に、影で、静かに、進んでいくものなのだろうと感じる。
真実なんて、そうやって、忘れ去られて、適当に丸められていくものなのだろう。
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読書ログ 「メイド イン ジャパン 驕りの代償」 ― 2013/04/20 06:38
会社の人に借りて読んだ。
昨今の家電業界の落ち込みと、浮いたり沈んだりの自動車業界を比較などしながら、日本の製造業の、来し方行く末を論じた本だ。総じて、日本経済が沈んでこっち、経営層の保身優先の姿勢ががなっとらん、という昨今よくある論調に終始している。
著者は、もと朝日新聞の記者さんだそうで、もっぱら、事象を外から見る視点でもって、取材や証言など、他者由来の情報を編み上げて、記事を為している。
著者のキャリアのせいだろうか、そういった、組織を中から見る視点、人間が、組織の一員になったときにどういう考えをするものなのか、わが身に挿げ替えて、深く考える思考というのは、あまり無いように感じられた。たぶんそれは、組織の一員として組み敷かれ続けた、長くて苦い経験が根底にないと、ムリなのだろうとは思うのだが。
論旨の方も、ちぐはぐに感じる所がある。例えば、国内工場をぶった切って海外調達に切り替えてコストダウンを図ること(カネ優先)と、従業員のやる気を開放して生産性を上げること(ヒト優先)は、実質は逆のことだと思うが、両方とも賞賛されている。
それに、どうも著者には、自分が知らないことがある、という前提が欠けているように感じられた。その場合、記事は、つなぎ合わせ、埋め合わせに終始して、のっぺりとしてしまう。本来、そこを埋めるのは著者の経験や、昇華した卓見であるべきで、読者は、それをこそ期待していると思うのだが。残念ながら、そこはぽっかり欠落している。
その辺の経済記事のおまとめ、長いブログ程度の読み応えだと思う。
何となく、憂さは晴れるのかもしれないが。実効性のある解決策は、つかめないだろう。
ただ、最新の時事情報としては価値がある。読むなら早い方がいいだろう。時事モノは足が早い。時期を外すと、途端に古臭くて読めなくなる。
最後に。
本書では、日産のゴーン改革が、見習うべき手本として、賞賛されているが。
クルマのユーザーとして、読者が本当に憂うべきは、日産が儲かるようになったことと、日産車が良くなったかどうかは、全く別のことだ、という事の方だと思うが。
どうだろうか。
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