読書ログ 「機械より人間らしくなれるか?」 ― 2013/05/03 06:02
チャットする相手が、機械(プログラム)なのか、本物の人間なのか、審査員が評価するイベントがあるそうで(チューリングテストという)。そこから、人間性について、著者があれこれ考えたことを、並べている。
デジタルテクノロジを掘り下げたり、哲学的にややこしかったりで、一見、なかなか深い本に見えなくもないのだが。結論に向かう感じもなく、ただ、考えたありったけを並べた、分厚い「随筆」だ。
出所不明の言葉に囲まれるご時勢である。自販機が喋ったくらいでビビる人も、もう、そうは居ないとは思うが。欲求不満の女性からの「お誘いメール」が、ガセだとは思いつつも一瞬ひるんだり(笑)、過去の買い物の履歴から、妙にリアルなお勧め商品を提示されたりと、技巧としては、いろいろと巧妙になっている。
今、自分が触れている相手は、実存か?。
それとも、プログラム、アルゴリズム?。
あるいは、ただの統計か?。
デジタルを相手にせざるを得ない昨今。逆に、じゃあ人間ってナンなのよ?という疑問は、いつも、背後霊のように、我々の肩越しに、不気味な微笑みを浮かべ続けている。
面倒な問題だ。
裏がたくさんある。
しかも、二回裏返しても、元には戻らない。
どんどん、どつぼにはまっていく。
昨今流行の、「コミュニケーション」の問題だろうか。
何を伝えるのか?。
何が伝わると、伝わったと思うのか。
もっと根源的な、自我、魂、感情の「定義」、「形」の問題?。
理由を述べる理由。
根拠を求める根拠。
論理ではなくて。
妙に哲学的でもあるわけだが、著者が自分で言うように、哲学的には、何の意味もない。
随筆だから。
著者は、思うまま、成功を導く意外性と、単なる失敗としての踏み外しの間で、ステップを踏んで見せる。
長い本だ。
悪くはないのだが。
途中で、飽きて放り出した。
久しぶりだ。
安泰をくれる、約束の地はない。
あったとしても、ただの「アガリ」で、面白くも何ともない。
そういう結論が、見えてしまうので。
暇つぶしに読むための、適当な刺激物としてはいいと思う。
暑すぎてブッ弛んだ、夏にでも読むべきだったかな。
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機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる
読書ログ 「インフォメーション: 情報技術の人類史」 ― 2013/05/04 06:44
題名だけ見て、図書館に予約したのだが。
来てびっくり。500ページ超、さらに脚注という、分厚い本だった。
内容は、題名の通り。
情報といわれるもの(著者が情報だと思っているもの)の歴史(時系列の変化)を、まとめたものだ。
内容に合わせて、比較的細かく章分けにしてある。
しかし、各々の章、それだけでも本が書けそうな貫目がある。
( 前回の本 は、まさに一章分の膨らまし粉な印象。)
なので、こんなにブ厚い本なのに、何となく「駆け足」な感じがする。
その反作用で、好きに読み飛ばせる作りになっているのは好都合だ。通しで読まないと、前後の繋がりが掴めずに分からない感じがしないので、気になる章だけ飛ばし読みしても、あまり損をした気がしない。
以下、各章別に内容をさらってみる。
第1章 太鼓は語る
元は、音声による伝達だった。
記録の以前であり、韻は記憶を助けるためにあった。
しかし、鯨は本当にしゃべってるんだろうか。
第2章 言葉の永続性
文字、つまり、模様やパターンで意味を伝えるという手法。
絵画や数字との違い、または違わないということ。
大昔の文字が、今は暗号にしか見えない件について。
第3章 ふたつの単語集
文字のパターンとしての言葉が伝える内容が、普遍性を持たない件について。
第4章 歯車仕掛けに思考力を投じる
数字の並びに、意味を見出すことに夢中になった人たちの思索、または妄想。
それを、マシーンとして組み上げることで、何かを象徴したり、証明しようとした人たちの話。
第5章 地球の神経系統
電気や電波で、物事が伝えられることを、ひらめいた人たち。
その経路を、張り巡らせようとした人たち。
符号化の、とっかかり。
第6章 新しい伝染、新しい理論
電気信号のパターンが、特定の意味を織り成す、その仕組みを作ることの意味にかかわった、数学者、物理学者、技術者、事業家の話。
第7章 情報理論
暗号、コンピューター、パンチカード、そんな道具と、メッセージの話。
前回の本と同じ内容が出てくる。「オレ、コンピュータと結婚したんだ」:コンピュータは「計算係」(大学に勤務する女性とか)を指す単語だった、という話や、チューリングの話とか。
第8章 情報的転回
「脳とは何か」:電気パターンから意味を汲み取る仕組みとしての「脳」を、考えて、捉えなおすとは、どういうことか。
哲学的な未知の自覚と恐怖、興味や試み、努力、権利や、まやかしなどについて。
第9章 エントロピーと悪魔たち
後戻りはできない、ということを妙に小難しく言っているらしいのだが。真偽を理解するのは大変だ。
そういえば、エンタルピーってのもあったな。
フォトンとフォノンの違い、分かってる?本当に?みたいな??。
第10章 生命を表す暗号
我々の生命を司る、体内のタンパク質パターン、DNAの話。
第11章 ミーム・プールへ
遺伝子の作用、またはそのイメージの、若い暴走の話。
第12章 乱雑性(ランダムネス)とは何か
それは神の意思か、ただの偶然か、はたまた、細部まで見えていないことへの言い訳か。
アルゴリズムが未熟なのか、パラドックスが深遠なせいなのか、ただのプログラムのバグか。
第13章 情報は物理的である
量子/天文物理学と、DNA生物化学と、数学と、デジタル系算術の、くんずほぐれつ。 ひもとか波とか、そんな話。
第14章 洪水の後に
何かいろいろ言うやつはいるんだけど。とどのつまり、みんな、頭(脳)の中に作り上げた、電気パターンでしかないわけで。
それを、ただ寄せ集めただけでは、もっと混乱するだけで。(Wikipediaを見よ。)
それをカネにせんと試みるのは、事業家か、はたまた宣教師か。
第15章 日々の新しき報せ
たくさんありすぎて行き詰ることを後悔して、単純化を求めるのはただのノスタルジーで、与する必要はないのかどうか・・・とか、そんな話。
エピローグ (意味の復帰)
何かが何かを意味するというのは、何を意味するのか、という話。
( ずいぶん前に、一度書いた けど。)
話の筋として、近代史ばかりが厚い、不恰好な世界史のような感じだが。そこは仕方ないか。(時間的に近くなるほど、情報が厚い由。)
量は質を決めない。
プラクティカルに言うと、Googleに頼ってもムダだ。
質の根源を、本質という。
それが何なのかに取り組まないと、近づけずに(苦しいままで)終わってしまう。(意味が無い。)
そして、本質は、意外と「近すぎて見えない」類のものであるような気がしているのだが。
意味の意味を考えるなら、以前取り上げた この辺 の方が、間接的だが、役に立つような気がした。
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インフォメーション: 情報技術の人類史
バイクの本 「熱くなるバイクたち―国産車編 」 おしまい ― 2013/05/05 08:01
(前回の記事は こちら 。)
この本で取り上げられた車種が、「名車」扱いされる所以なんだが。
どうも、はっきりしない。
ピークパワーや、スタイリングの「一発芸タイプ」と、ボサっと乗れる意味での「乗りやすさ」に秀でているものの、両極端が混在している。
とにかく、どこかしら優れていれば名車なんだ、と言えなくもないのだろうけど。それでいいなら、どれでも名車だ。
やっぱり、物の出来とは関係なしに、「一時期、話題になったもの」のような、背景を指しているようにも思われる。
ネモケンも、そんな様なことを書いている。
名車の所以は、作り手の熱さのゆえだ、「こんなものが作りたい」、そういう熱意が、名車に魂を吹き込むのだと。
せせら笑いながら、何度でも言うが。
Guzzi あたりに比べても、この辺の「熱さ」など、大した事はない。
そもそも、本当の名車は、熱さではなく、冷徹な判断が造るのだ。
・・・という私の持論は、ここでは置いて。
もっと、実際的な視点で論じる。
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もし本当に、ここで言う「名車」を手に入れ、満足できる可能性が低くないなら、私とて、何も言わない。しかし実際、そうではない事例には、事欠かない。
まず、愛されて、長く乗り続けられている個体よりも、飽きられ、売られ、回され続けている個体の方が、遥かに多い。
カワサキの空冷を、後生大事に、歳をとっても長く乗ってるオッサンなんて、雑誌の上でしか見かけない。実際にパーキングに居るピカピカの空冷ヨンパツは、若め(?)の兄ちゃんが、入れ替わりで乗っているだけに見える。
ニンジャだって、一時期はあんなに居たのに。イイ感じに使い込まれた、所帯じみた個体を、今見ることは、全くない。
CB750をノーヘルで気楽に乗れたり、カタナが速かったりオトコだったりするのは、マンガの中だけだ。
しかし、だからこそ、本書のような「名車論」が、逆説的に意味を成す。
確かに、これら「名車」への思いの強さは、人それぞれだろう。
ひょっとしたら、トラウマと言えるほど、強いものかも知れない。
その思いに、火をつける。
これらの記事は、言わば、そのために定期的に繰り返されるリマインド(予定の時間を知らせるメール) だ。
これら「名車」は、この所、値段が高騰している例が多い。
モノの方はキッチリ古びているし、「進化した」新型は出続けているから、機能的には、衰える一方なのにもかかわらず、だ。
それは、無為なプレミアを演出するため、プライスタグの左の桁に「1」と付け加えてみただけの、いたいけすぎる所作に見える。
値段は、「名車の証」なんかじゃない。
小ガネを握った「熱い」中高年をカモるための高級なエサとして、光らせたいだけだ。
その証拠に、バイクの中古は、相場の様相を強めている。
プレミアの正体が、希少性(相場)なのだとしたら、初期投資が少なければ、リターンも少ない。
乗り物の個人売買で、リターンの有無を問えるのは、フェラーリやアルファのクラシックの辺りがせいぜいだ。バイクなんか、まるで望み薄だ。
それに所詮、投資は、プロにはかなわない。
ミセス・ワタナベを気取って、(言いえて妙な)FXなんかに手を出しても、財布にヤケドをするだけだ。
いくら美しいノスタルジーとて、維持費が高けりゃ続かない。
車検、保険、税金に高速代、ガス代だって高騰している。
もう、真っ白に燃え尽きちまう。(笑)
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大人なのだから。
煽られて、熱くなった結果ではなくて。
公道バイクとして、どう思うか。
冷静に吟味して、確かめた方がいい。
今や、YouTubeあたりで、こんなに希少な(笑)「名車」でも、実働状態をしこたま見られる。存分に吟味してみて、その動きが、自分の求める公道バイクにふさわしいと思われるなら、ふんぎることを考えても、いいのではないかと思う。
ただ、もう少し、相場が落ち着くまでは、お待ちになった方がいいだろう。
お祭りは、そうは長くは続かないものだ。
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次に、吟味すべきは。
サポートである。
車体より、店の「掘り出し物」を見つける方が、実際、よほど難しい。
なにせ古いバイクなので、パーツはとっくに枯渇している。リビルドやリユース、復刻品などに頼らざるを得ない。専門店(Z専門とかそんな)は、パーツの仕入れ経路や、流用のノウハウなどを期待できるわけだが。
問題が、いくつかある。
まず、ノウハウ代は、いつも高い。
次に、仕事がいい加減な場合が、少なくない。
腕が確かなら、高くても納得できる余地があるのだが。
残念なことに、そうでないことが、本当に多い業界なのだ。
例えば、私が乗るMoto Guzzi あたりで、「よくあるけど、よくない話」を紹介すると、
・妙に値段が高いのだが、「完璧に整備してお渡しします」とあったので、
思い切って踏ん切った。
・ところが、納期をはっきり言わない。「知り合いのスペシャルショップに
出しています」。どこに出しているのかは、曖昧にしか教えない。
・延々、来ない。まだ来ない。さらに来ない。もっと来ない。全然、来ない。
ホントーに来ない!。(クーリングオフをやり過ごす手段とか?。)
・やーっっっと出来てきたと思ったら。全然、直っていない。(涙)
・仕方なく、自分で店を探して、修理&整備に出す。
・トータル、キッチリ2台分かかる。(号泣)
大体、これだけ古い機体となると、それが完調なのかどうか、判断が難しい。
バイクの新車は高性能化を続けていて、今や「それが普通」になっている。路上のクルマも高速化して、走行のペースも上がっている。我々も、当時よりは性能に慣れているし、他方、体力的には落ちて来ていて、反射神経や腕力が想定以下という事態もありうる。
そういった変化の俎上に、古臭い「名車」を乗せるわけだ。
完調かどうかなんて、容易にはわからない。
だから、買ったバイクが何か変だと感じても、「そんなもんですよ」という診断(?)に、具体的に反論できない場合も多い。
私が見た限り、店の腕の良さと、口八丁の達者さは、反比例するようだ。
初めに説明をまくし立てられて、「これでもいいかナ」と、消極的に購入に至る場合も、少なくないように見受けられるが。(年かさの人に多いような気がする。) これは、必ず避けるよう、強く心がけることをお勧めする。
「これでいいか・・」ではなくて、「これがいい!ここにしよう!」という、明確な手ごたえが得られるまで、時間をかけて、存分にお買い物を楽しまれる方が、オトクである。
安くはない買い物、しかも、積年の思いを晴らす一戦となれば、尚更だ。
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逆に、相場が底を這っている、裏ドラ(隠れ名車)を探すという手もある。
私のような貧乏人は、中古市場を見回すと、自然にそういう目線になってしまう。
何か、忘れていた一品、掘り出し物はないかな・・・。(笑)
この「裏ドラ」だが、上記の、店のサポートが得られにくいことが、大きな問題になる。
大体、単価が安いので。
世間一般、ビンボー人は、客扱いしてもらえない。
自然、サポートは、自助努力によることになる。
好戦的でスタンドアロンな、本質的「バイク乗り」には、お勧めである。(笑)
ワタクシ的な、背中プッシュはこちら。
ベスパ
モリーニ
「どおしても日本車がいい」って人は、 この辺を 見て、自分が何を欲しているか、よくよく反芻されたい。
うむ。
我ながら、下手な「名車あおり記事」より、たちが悪いような気がする。(笑)
###
と、そろそろ我に返って。
ぶっちゃけ、
いくら安いからって、瀕死のRZRと、腐ったガンマなんかで悩むのが、幸せだとも思えないんだけどね。
楽しいけどね。(笑)
KR250なんてどうですかね。多分、史上最後のタンデムツインだぞ。
VZ750、とっつぁんバイクとしてまぶしいね。ゴミみたいに安いし。
・・・・
Amazonはこちら
1999年刊 定価\1200
10年以上前の本で。当然、古本だけです。
熱くなるバイクたち―国産車編 (エイムック (116))
ちなみに、「国産車編」とあるが。「輸入車編」はないようだ。
読書ログ 「現れる存在」 ― 2013/05/11 05:40
心は、アルゴリズムで書けるかな。
心。
いい加減で、相対的で、曖昧な決定プロセスのありよう。
ロバスト(頑健)だが柔軟性があり、時に複雑、時に単純。
あちこち矛盾しているが、相補的、補完的なシステム(仕組み)。
シミュレーション(数式化)できるか、って言ってる?
境界条件は、環境、倫理、感情、本能・・・どれ?全部?
みんな、いつも二言めには論理とか理由とか言ってるけど、そんな、普段よりどころにしてるものが、よけい本質を見えなくしてるんじゃないかな。
心なんて、よくある自律システムだけどね。
本質的には、アメーバとか、ゴキブリなんかとも同じだろ。
自然界にはよくある原理だよね。
ん?、そのパタン(原理)て何?
創造か、還元か?
待て、禅問答か哲学の話だっけか?
オマエ、人間が分かっとらんのじゃないか?
突破と順応の間って、どうやれば上手く線引きできるかな。
認識って、パタンマッチング(検索)かな、コーディング(遺伝子)かな。
その情報処理アプローチや、脳神経科学(化学)的アプローチ、ドーパミンが何とか言うような、それって有効なの?
表層的な表象を見ているだけで、中が解るのか?
表象に出ないから、そんなモノは無いのだ、とは言い切れない。
ただ、見えないものは無いも同じだ、とは言えるかもしれない。
当面はね。
複雑なものを、複雑なまま扱おうという複雑系の考え方って、逃げてるだけなんじゃん?
でも、エレメント化(単純化)、システム化などできない、その考え方が当てはまらないものもあるよね?
単純化した実験で集めたエレメントを寄せ集めたところで、使いにくいスマホの待ち受け画面みたいにゴチャつくだけで、心を記述できるようになんかならないよ。せいぜい、ネット販売用の経済理論なんかに、たまに役に立つ程度かな。
あのさ、柔軟に自分で自分を変えるプログラムって、プロセスのことかな?
不完全さを補おうとするのは、感情かな、打算かな。
埋め込みコード(本能)か、退避ルーチン(倫理とかの)で書けるかな。
みんな、言葉で言葉を考えてる。
脳が脳を考えている。
そんなんで、何かわかるの?
オレらの自己って、何なんだろうなあ。
時間(成長)、刺激(環境)、見方で変わるからな。
ま、今の自己は、「スナップショット」みたいなもんじゃん?
オマエ、うまいこというなあ・・・。
#####
我々は何をどう感じ、行動しているのか。
知能とは何ぞや。
そういったことの(主に科学的な)断片、どう考えた人が居たのか、その成果を羅列した本である。
原題は、
Being There: Putting Brain, Body, and World Together Again
邦題の「再統合」はちと大げさで、最近は分けて考えられがちな、脳、体、世界といった概念を、もう一度、一緒に置いてみました、という感じだ。
とはいえ、科学的にまとまった感じは無くて、どこへ行くべきか、どう行くべきか、まだ入り口にいる状態。しかも、あちこちとっ散らかっていて、なかなかに面白い。
まとまる気配すらないが、個々はいかにも、もっともらしい。
きっと、キラリと光る真実も、いっぱい転がっていそうだ。
整理された結論と、乗り越えるべき混沌の中間、または両方を行く本だ。
つまり、幅広い皆様に読ませるように書かれてある。
2012年11月の刊行だが、原書は15年前の本だそうだ。本国ではよく読まれているらしいが、翻訳版は遅れたと。なので、実は知識としては最新ではないのだが、原書が評価されていた点、何某かの真実(らしきもの)を伝えようという力は健在だ。しかも、誰にでも期待を抱かせて、裏切らない懐の広さも備えている。
知的好奇心を刺激される面白い本だった。
厚い本だが、細かく節に分けてあって、解り易い表題がついているので、気になるところを拾い読みも可能だし、実際、それを前提に書いてあるようだ。(前後のつながりを把握しないと理解できないようには書いていない。)
バイク乗りとして面白かったのは、終章に近い一文だ。
意識(心)は、外界を取り込み拡張する。心と外界の界面を正確に見極めるのは、一般的に、すごく難しいと。
例えば、見事な工芸品を手ずから作り上げる職人さんを見ていると、その手に伝わる感触は、既に道具と一体化していて分かちがたい。そんな境地に至っていることが見て取れる。 それと同じことは、あちこちにあると。
ああ、バイクも同じだなあ、と思った。
アタマで考えずに操れる、カラダとしての道具。
淡々と、猛烈の同居。
そういう傾向が強い乗り物だと思うし、私は、そういう「カラダのような道具」を求めているんだな、とふと思い至った。
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現れる存在―脳と身体と世界の再統合
バイクの本 「熱くなるバイクたち」 勝手に外車編 ― 2013/05/12 05:53
前回の記事 の最後で、ふと、
国産車の「隠れ名車編」
を書こうかとも思ったのだが。
何だか、昔、Mr. Bike あたりで見た企画のようだったし。
思い直して。
単純に、「外車編」を書いてみようと思う。
結論は、先週の国産車と同じである。
・外車とて、ホントに使える「名車」なのか、よくよく吟味すべし
・維持の方が大変なので、店を初めとした環境を、さらに吟味すべし
ただ、モノが外車となると、業界の規模はかえって小さくなる。
小さくて辛らつな世界が、より「笑える」と面白いのだが。
一般に、バイヤーズガイドって、クールに書くと、面白くならないので。
あまり自信がないのだが・・。
◆ BMW ◆
やっぱ、BMWと言ったらコレだ。
一番、BMWが濃かった世代。
ハンドル幅がえらく狭くて、初めはちょっと乗りにくいが、「下半身でバイクにつかまる」基本で行けば、本当に従順に走ってくれる。重心が低いので、大型車ならではの「重さの恐怖」は、今や小さい部類だろう。
BMWなので、乗ること自体を楽んだり、より高みを目指す意味での「スポーツ性」は、求めてはいけない。バイクの懐に合わせて、スムーズに乗ってやるだけだ。そうすれば、コイツはあなたを、どこまでも、淡々と、運んでくれる。
荷物や女房をくくりつけて、
いい天気、いい景色。
いい宿に、いい食事。
ああ、楽しいツーリングだった!。
と、そういうバイクだ。(☆)
基本的に、乗るのには労力をかけない人向けだ。
だから、日本車からの乗り換えにも違和感が少ない。(←ポイントである)
一時期、耐久性伝説では天下を誇ったR100RSも、そろ絶滅の淵が見えつつある。
今、生き残っているのは、「大事に使われていたから、辛うじて残っているもの」と、「放置期間が長かったから、残っているように見えるもの」の、どちらかだ。両方、手に入れた後、整備し直せるのかは微妙だ。
純正パーツは出なくなってしばらく経つし、この旧フラットの整備で鳴らしていた第一世代のBMWショップは、代替わりができていない。当時の経験を持つ整備士が、まだ残っていたとしても、現場で手を動かしているかは微妙で、年とともに管理職や内勤に移っていたりで、現場に居ないケースもある。
なので、今、これの整備をするのは、現世のデジタルBMWの整備士が、不慣れな手つきで、という場合が多い。その仕事に、この老いぼれのアナログバイクが耐えるのかは、わからない。
BMWとて、磐石とはとても言えない状況だが、それを望んだのは、BMW自身だ。
「やっと手に入れた一台を、大切に長く乗る」訴求の仕方を、BMWは、とっくの昔に放棄している。
BMWの良さは、上記☆の乗り味にある。
だから、一台にこだわる必要はないはずだ。
☆のようなツーリングが、ラクに楽しくできる提案を次々に行って、新しいのに乗り換えてもらった方が、メーカーもユーザーも幸せだろう、とそういう考えだ。
今さら、旧フラットへのこだわりなんかを持ち出されるのは迷惑だ、とBMWは思っている。
淘汰される一方の古い世代に付き合っていては食えない、店の方もそう思っている。
それに反抗する気概がないと、もうこの世代には乗れない。
BMWとてバイクなので、アツいアタマでは乗れない。
クールなアタマで、諸般の事情を了解の上ならば、私も、静かに背中を押させていただく。
値ごろの個体も増えているようだ。
高速型の2本サスと、中速型のモノサスの区別も、今のバイクの性能レベルからすると、もう大して違わないだろう。
◆ ハーレーダビッドソン ◆
ハーレーもBMWと同じで、新型になるほど、どんどん便利にラクになって、持ち味の方は薄まっている。
ワイルドがウリのハーレーだが、昨今のハーレーの荒々しさなんて「ただの演技」だし、それに乗っかってワイルドな気分に浸るオジサンは、コスプレと同じだ。
コスプレ(中身はどうあれ、姿と気分はアレゲ)が目的なら、新車でいい。
そうではなくて、「本物」が目的なら、旧車を探す。
ヘルズエンジェルの初代総長 は、FXRが一番だ、と言っていた。
FXSなんか、今見ると日本人サイズだったなあと思う。
実情は、良く知らないのだが。
もうどれも、レストアが必要な世代だが、それなりの整備で、それなりには走ってしまうようだ。(ちゃんとエンコもするけど。) 「デフォで改造あたりまえ」が災いして、いじったり戻したりが激しいと、手旗信号状態(赤上げないで白下げない・・)で、何が何だかわからなくなったりする。
「本物」が欲しくて、時代を遡ったはずなのに、かえってわからなくなってしまうという。皮肉な状況だ。
「ワイルド」がウリだったはずなのに、一歩入ると、ショベルだナックルだと、スペックとフィーチャーの世界にすり替わるのも、判りにくい。(引っ掛けの臭い。)
程度の割にはえらく高価だし、新しい特定の店が、多量に入れていたりしていて。怪しさもひとしおだ。
それは、顧客を引っ掛けてやろうという、無邪気な罠の無限ループなのか、(ハーレーの、または業界の)二重らせん(DNA)なのか、よくわからないのだが。
そんなものと戦わないと、「本物」には、手が届かない状況に変わりはない。
その戦場では、絵の具で書いたタトゥーなんかじゃ、武器としては弱すぎる。
まあね。ハーレーだからさ。
乗りたいなら、乗ればいい。
でも、自由の国、USAの乗り物なので。
どんな結果になっても、他人に文句は言えない。
自由とは、そういうものだ。
自らに由ると書く。
今頃、Easy Rider を気取りたい人も、そうはいないと思うけど。
どうしても「本物」、という方は、 この辺り でもご覧になって、元気を出していただくとして。
逆に、そこまでお困りではないのなら、絵の具で書いたタトゥーなんかはとっとと洗い流してしまって、着慣れたスーツにでも、お着替えになった方が宜しかろうと思う。
◆ Ducati ◆
パンタもベベルも、吊るしのままでは、まっとうに走る代物じゃなかった。
手を入れながら維持しないと、立ち行かない造りだった。
ドカ乗りとて、好みも違えば、レベルに差もある。それを反映するように、維持くられてきた個体の方も、バリエーションが広い。
極端な話、一つ一つ、みんな違うのだ。
ドカの維持が、「ここをやればOK」のような、一律な言い方でくくれないのは、そのせいだ。
各々がワンオフに近いイジり方なので、結果の良し悪しは、時間がたってみないとわからない。
逆に、時間がたってもちゃんと動いている個体はアンパイだ、という判断になる。
ただ、そういう個体は、同じ店の馴染みの間で狙われている場合が多い。
古いショップの客同士ともなると、一緒に走ることもあるし、顔見知りだったりもする。大体、どんなヤツがどんな個体に乗っていて、その出来栄えがどんなんだ、というのは、店のメンツには知れ渡っている。
だから、例えば、乗り手がリタイアしたり、乗り換えたりで手が離れると、即、「買いですね」となる。
昔は改造で鳴らした店の方も、最近は電子化が著しいバイクをいじりあぐねていて、新規顧客はさっぱりだ。だが、昔、自分が作ったアナログ時代の遺産たちが、そうやって回りまわって、いまだにビジネスになっている。アナログ世代のDucati ワールドは、今や、そういう微妙なバランスの上に、辛うじて成り立っていたりする。
「輪廻」とも言えそうな、その輪の中に、割って入るのは難しい。
本物の「出物」に出会うのは、だから、そう簡単ではない。
ピカピカだが超・高価なベベル900SSなんかを、いまだに目にする昨今だが。あの、減り易い壊れ物のようなベベル・デスモを、維持する術、カネ、効果を、ご承知の上か?。
ドカも、アツくては乗れない。
むしろ、「クールに行かないと、命に関わる度」は高い。
その緊張感が、ドカの良さだった。
そういう時代では、とっくになくなっている。
当のDucatiが、一番それをよく知っている。
知っているだけに、悩みも深かった。
そんなワケなので、もっとアツく、ハジけちゃいたいのなら、製造ラインから出たてホカホカの、新車の方がいいだろう。
BMやハーレーと同じく、ドカとて新型に価値観をシフトしている。スピードなら水冷、ツーリングならムルチ、ご近所の練り走り用にも、大小いくつか揃っている。
今やドイツ車でもある。安心して、お求めいただけるだろう。
◆ Triumph ◆
何でも、最近のトラは「とても作りがよい」のだそうだ。
じゃ、昔のは作りが悪かったのかな。(笑)
旧世代のトラは、伝説だ。
スティーブマックイーンである。
トムクルーズ辺りとは、格が違う。
実際に乗ってみると、思ったよりはよく出来ているし、乗り味もパルシブで、はまる人ははまる。(らしい。)
でも、思ったほどは走らない。スピードも出ないし、やにわに壊れる。(これはホント。)
ボーリングぐりぐりのシリンダーにオーバーピストンにて、何とか走れるようにはした。
って、そのせいなの?とてーも高い。
「名車」の中でも、ワンランク古い「重鎮」だからだろうか。
その、ひと回り年かさのご老体が、繰り返し繰り返し、再生されては登場する。その輪廻の様子を見ていると、何でだろうか、いつも「悪循環」のイメージが沸く。
何となく、その湿り気というか暗さ加減と、妙にお高い敷居の組合せが、イギリスっぽい気もするんだけど。
気のせい?、それとも偏見かな。
◆ Moto Guzzi ◆
最近、エルドの時代を入れる業者が増えているとか。
しかし、どうも、皆さん小ぶりで、お仕事の方は、趣味のレベルに留まっているようだ。
おカネを払えるレベルにはない、というご指摘も聞く。
こういう業者は、昔からいた。
頼んだパーツはいつ来るんですか?と訊いただけなのに、
「オレは趣味でやっているんだ! うるさいことを言うんじゃねえ」
そう怒鳴られたこともある。
そんなんで食えているんだから、Guzzi は、乗り手だけではなく、業者にも優しいバイクらしい。
その分、あやしい個体も増えることになる。
他方、Guzzi の本社の方だが、上に書いた他のメーカー達と同じ状態にある。時流と共に、利便性の波に乗るべく流された結果、個性どころか、アイデンティティすら失いかけている。
なので、これだ!と思えた昔の世代に目が行くというのは、そういう年代の人たちにとって、ある意味、仕方が無いことだ。
それぞれの時代に、いろんな個性を具現化してきたGuzzi だ。
好きなものを選べばいい。
ただ、もうルマンIII 以前の年代の個体は、整備も乗り方も気にせずに乗れる意味の「普通さ」は、期待しない方がいいと思う。ルマンI の辺りの「名車」は、コキ使うことなんかは考えずに、たまに乗っては磨いて仕舞う、「宝物」扱いが妥当ではなかろうか。
他方、1100 Sport ~ ラジアルルマンのスパイン世代も、今や年式が妙齢に差し掛かっていて、パーツがナンだったりするので要注意だ。(このあたりの「世代の事情」は、ドカも似ている。)
だからといって、一足飛びに新車にしようと思っても、車種が少なく選べないのだが。(ここはドカと違う。)
バイアスルマンの世代が、乗り換えずに延々来ているのは、そういった幸運?(笑、あちゃー)のせいもあるかと思う。
Guzzi は、もともと「生真面目なイタ車」という、珍しい姿のメーカーだった。
だから基本、生真面目な車種を選んでもらえれば、外れはない。
ただし、生真面目だけに、面白みに欠けるきらいはある。
そんな時には、やはりバイアスルマンが光ってくるが。その実情は「別格」とは誉めすぎで、「不連続に孤立した頂点」だったりするので。維持には、それなりの覚悟(カネ)と、バックアップ(店)が要る。
なんて事情は、このブログをご覧の皆様には、釈迦に説法、耳タコだろうとは存じますが。(笑)
◆ Vespa ◆
新世代は、ちゃんとブラッシュアップしていて、電子化も進んで乗りやすい。でも、新車の値段は安くないし、何かあった時の手間のかかり方は、また格別だったりする。
やはり、構造がシンプルで、乗り味がダイレクトで、テスターではなくスパナで維持できる旧世代は、そういう年代の皆様にとって、いったん目が合うと、そらしにくい相手のようだ。
スモールやラージ、フェンダーライトだのと、いろいろと枝分かれはあるのだが。その状況を、まるっと、ひとくくりに書いてしまうと・・・。
もともと、丈夫なバイクとはいえ、頑強と言えるほどの品質ではない。
いろいろ弱点もあるのだが、人智の力で超えられる程度(笑)に収まってはいたので、まだ走行可能な状態の個体が、幸運にも残っている、とそんな状況。だから、中古を整備しようという場合、人智の力の助けがないと、復活しない場合も多い。
もともと、「外せない整備の要点」を、そこここに持っているアーキである。
その辺の国産バイク屋が、ホイと扱える代物じゃないのだ。
ところが、ホイと扱っているだけなのに、専門店ヅラしている店が、これがまた、えらく多い車種でもある。
パッと見にキレイな、旧世代ベスパを仮定しよう。
そは、
造られた当時のバラツキ
その後の扱われ方
修理・整備の質
それらが全て、重なった実存である。
ぶっちゃけ、年食ってる分、修羅場をくぐってきているはずなのだ。
その個体が、皆様が旧世代ベスパに期待する「何か」を、まだ、体現できているのかを、外見だけから判断するのは、相当に難しい。
仮に手を入れたとして、そこに近づけるのかどうかも。
エンジンをカチ割って中身を全部やり替えて、ボディも補修して全塗装して、腐った電装やタイヤなんかを新品にして・・・。
確かに、金額としては、上述の大型車たちほどは行かないだろう。
その分、敷居は低いし、しくじった時の傷も浅いのかも知れないが。
そこまでして、復活なったVespaのパフォーマンスは、しかし、何十年か前の、あの当時の、そのままなのだ。
個人的には、ベスパの良さは、「旅心」だと思っている。
頼りなくてヘナチョコなのに、何となく、どこまでも行けそうな気がする。
で、 実際に、どこまでも行ってしまった例 を見て、何となく納得しちゃう。
「行くんだ、やっぱり・・・。」(笑)
私見だが、その、緩さと信頼が表裏に引っ付いた不思議な感覚は、イタ車というよりも、ふた昔前くらいのフランス車(BXとかあの辺)に近いような気がしている。
実用域での使いやすさも、また格別というのも似ている。
身近に置いて楽しめる懐の深さも期待できるとなれば、いよいよ、想いも募ろうというものだ。
ところがだ。
この「実用に楽しむニュアンス」が、別の意味で、難しさをかもし出す。
その走行のペース(巡航スピード)は、今のレベルからすると、ちょっとばかり遅い。公道の環境の方が、ベスパの側のいい感じのペースを、許してくれないかも知れない。(小型の旧車に共通の悩みだが。)
これは完全に私見だが。
公道を走る人々の走行パターンには、その考え方の根底(文化)が出る。
日本の場合、同調圧力がやたらに強くて、「皆より遅いのは悪いヤツ」という非難が許されるようだ。
他国を見ていると、これほどではない(各々のペースを許しあう度合いが高い)ように思うので、日本ならではの悩みかも知れないのだが。
お住まいの地域によっても差があると思うが、そういう、世知辛い世情を走って「幸せだ」と言える能力?余裕?が、乗り手の方に求められる。
言い換えると、皆様が、旧世代のバイクに期待するのが何なのか、より辛らつに突きつけられる、ということだ。
たかがVespaとはいえ、ゆめゆめ侮らぬが吉である。
まあ実際は、この小さな機体に精神汚染されちまえば、あっさりシンクロして、楽しく乗れちゃったりもするんだけどね。(笑)
そして、もしそうなっちゃった暁には、Vespaから見た風景がどんなだったか、是非、語ってみていただきたい。
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こうして見ると、やっぱり、外車も、バイクと乗り手、お財布以外の、それらを取り囲む「環境」の方のマッチングに、ポイントがあるように思う。
「熱さ」を説くような雑誌は、この辺も無責任なので。頭脳をクールにしていただいて、ご参考いただければ幸いだ。
(以上、写真は昔の広告などから流用。)
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