バイクの上半分 82013/09/08 06:00



少し復習すると、
・我々の行動を律する「プログラム」には、先天的と後天的がある。
・人間は、先天プロが少なく、後天プロがず抜けた動物である。
・とはいえ、先天プロと後天プロは、明確には分けられない。

人間には、少ないとは言え先天的プログラムも断片的に残ってはいて、重要な役割を果たしていたり、下手すると核だったりもする。ただ、膨大な後天的プログラムに囲まれていて、ただの小さなサブルーチンにしか見えなかったりもする。でも、プログラム全体が、先天プロの制約もキッチリ受けていたりするので、一筋縄では行きませんね、とそんな話だった。

人間が、バイクに乗る時に使う先天的プログラムの一つに、「バランス」がある。もともと人間は、バランス感覚に恵まれた動物だと。

「身体のバランスの取り易さ」を物理として考えた時、フットプリント(※)と重心の高さの比が、わかりやすい目安になる。人間は、このアスペクト比が「ほとんど危険」と言えるほど高いのだが、それでやっていけているのが、バランス感覚の証左だろうと。(それが、バイクや自転車が今の形になっているのを許している。)

※ フットプリントとは、もとは文字通り「足跡の面積」のことで、例えば、機械を設置したときの占有面積の意味などでも使われる単語だ。ここでは、「足を付く位置がどれだけ外側にあるか」程度の意味らしい。

二本足歩行の副作用でもあるわけだけどね。

そして、バンク角だ。
バイク乗りの皆さんが、だーい好きなヤツ。(笑)

著者いわく、自然界では、これは大体「20度まで」で決まっているのだそうだ。

(クリックで少しだけ拡大)

普通に野を走るような、自然界で一般にありうる状況下で、実現できる限界のバンク角なのだと。これを越えると、一気にスリップダウン→転倒となりかねない。

人間は、それを身体で知っていて、このバンク角を越えないよう、無意識に気をつけるものらしい。(端的に「怖い」。) バイクの教習を始めたばかりのライダーは、20度くらいまではすぐに倒せるのだが、それ以上は訓練しないと行かないのだそうだ。

私は、この「20度の話」が、何かを示唆してくれているように思えてならない。

man-machine systemというのは、人間と道具が相まって、「足し算」以上の結果を出しうるシステム、とのことだった。だが、それは、足し算以上のものを出すのがよい事だとか、出せないのがヘボだとかイケないとか、そういう単純な話ではない。

また、man-machine sysytemは、「人間が一方的に道具に合わせる」ことで成り立っている、と書いた。だからといって、作り手が「コレ作ったからアトは人間様でヨロシクね~」と、投げてしまっていいわけではない。

現実的に考えれば、こと公道でバイクを楽しもうと思った時、バンク角なんて、20度もあれば十分だと思う。

ヒザすりが価値だ!と刷り込まれてきたライダー諸氏には、エエそうですネ、とはご納得いただけない意見だとは思うが。

私は、公道でコーナーを攻める(限界を試す)のは、マヌケな行為だと思っている。

なるべくバイクをバンクさせて、スピードを出して曲がりたいという欲求は当然あると思うし、そういう競技もあっていい。ただ、やはりそれなりの環境は必要で、サーキットなりジムカーナなり、安心して攻められる場を確保してやらないと、まともに競えない。

公道は、そうは行かない。不特定多数が、雑多な環境下を走っている。オカマやヤクザどころか、バカもキチガイも、免許を取れば、公道を走れる権利がある。路面に穴や段差があっても、それを管理しているのは自分ではないから、直してもらえるとは限らない。(そも、路面のせいで転んだ後に文句を言っても始まらない。)

ライディングにとって本質的ではないものも含め、あらゆるリスクが野放しだ。だから結局、スポーツ(練習と上達のスパイラル)に、なっていかない。

私は、公道を走る楽しみは、バンク角なんかではないと思っているから、普通からそんな走りをしているが。それでも、キッチリ楽しく乗れている。
で、考えてみると、まあバンク角なんて、大体20度くらいに収まっているんじゃないかと思う。

だって、それで曲がれるんだから。
十分じゃん?。

むしろ、20度くらいの浅いバンク角でも、スパッと曲がってくれる特性の方が、公道には適していると思う。

でも、状況は逆に行っているように見えている。

レースシーンの趨勢は、ヒザすりなんかはとっくに過ぎて、ヒジすりどころか、最近はマルケスあたりが、シリをすらんばかりのバンク角で走っている。(笑) 尻を摺るまで深く寝かせる限界の高さは、次にどんなコーナーかがわかっている、サーキットでしか発揮できない。限界はずいぶん先にあるから、まず技量があるかどうかの以前に、そこまで行く(ギリギリまで寝かす)にも、戻ってくる(切り返す)にも、えらい労力(エネルギー)が必要で、マトモな人間がやれたもんではない。

そんなことができる環境は、公道には「ない」。
と言えるくらい、少ないと思う。

公道の状況はむしろ逆で、直立付近のバンク角で、いろんな事象に、ちょこまかと対応を迫られることの方が多い。例えば、飛び出してきた子供をよけろ!とか、そんな事態だ。そんな時、最新のスーパースポーツより、ルマンIIIの辺りの方が、遥かにやり易いと思うのだが。多分それは、私の気のせいではないと思う。

ここ数年、GPやSBKで死人が相次いでいるが、昔のような「コースアウト→衝撃破壊型」ではなく、「転倒→轢き殺され型」が目に付く。あれは、最近のレーシングマシンが、「目の前で転んだ他人を容易には避けられない特性」に傾いている証拠ではなかろうか?。

フルバンクの限界性能を優先して、直立付近での初動を犠牲にした特性。

その類例を、公道用に売っている。
レースのマネが価値だ、とあおりながら。
これは、商売優先にしも、よろしくない。

いや、普通のロードバイク(ネイキッドとか)もあるでしょ?と仰るかも知れない。

しかし、こちらも、値段と燃費なんかばかりを気にしていて、肝心の「公道用の特性とは?」なんて、まるで考えていないかのような代物が多い。(適当にボカしといて、のんべんだらりと乗ってもらおう的なアプローチ。)

電制なんかのテクノロジーは進歩しても、どう作るかのフィロソフィーは後退しているから、できた製品にはエレガンスがない。
だから、どれを見てもパッとしない。
大昔の名車に形が似てるのかな、とかそんな程度だったり。

理想なり目的を道具に具現化するのは、プロの作り手の義務のはずだ。それは、人間が道具に適応した、奥の奥にある姿という意味で、作り手が使い手に求むクオリティ(本質)でもある。

人間がバイクに適応し同化すると、「たし算」どころか「かけ算」でもって、別物に化けて行くとのことだが、そんなことは、作り手は、とっくの昔に知っていた。化けた後の姿をはっきり見せもていたし、馴染むのに時間がかかるのも致し方なし、と超然としたものだった。(外車は軒並みこれだった。)

確かに、「売り方」が「作り方」を決めてしまう昨今、いくら念を込めたとて、体現した特性が珍しければ「特異」とされ評価されない、というリスクはある。しかし、そこは引けないはずだ。モノのクオリティを高めて行かないと、後が続かない。結局は、商売の首を絞めることになるし、現になってもいる。

じっくり馴染まないと真価がわからない、奥の深い道具というのはあっていいし、それを見分ける眼力は、「お買い得なモノ選び」という寸詰まりなモノサシではなく、乗り手が、man-machine システムを主導して、ライディングのクオリティを高める(真にスポーツする)ために、必須のものだ。

深いクオリティのバイクはウエルカム。
そこをしれっと決められるのは、後天プロの適応力を高めるべく、時間をかけて公道を舞い続けてきた、ベテランライダーの特権だ。


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