バイクの話? 大人のための「ローマの休日」講義 ― 2013/12/01 07:59
図書館で、副題を見て、固まりまして。
「オードリーはなぜベスパに乗るのか」
さっそく借りて読んでみたんだが。
ま、予想通り。
最初から最後まで、♡オードリーラブぅ~な本だった。
この映画の何たるか、時系列の前後、空間的な周囲を含めた、成り行きや背景(裏方)まで、あーでもない、こーでもないとやっている。
それで一冊書くか?(笑)、とまあ、好きなんだなあ、とそれは伝わってきた。
で、ベスパの方だが。
彼女の透明感、奔放さと危うさを演出するための舞台装置、花とかアイスとか、何とか坂なんかと同じとか、まあそんなことらしかった。
(映画ラブな著者なのでね、ベスパなんかはどうでも。)
映像インパクトとしての残し方、そんな所は少し参考になった。
(あの映画の視覚インパクトが、ベスパに及ぼした影響、という意味。)
でも、インパクトとしちゃ、そりゃお姫さまの方に持ってかれるわけで。
よくワカランのですわ。
実はワタクシ、この映画、見てないので。(笑)
あの頃のベスパの動態をちょろっと見てみたい時に、便利な資料だったのかも知れないなあとは、少し思った。機体の特性なんて、当時の環境に置いてみないと、本当の意味がわからなかったりするので。
(逆もある。実態を知っているはずの、若かりし頃の機体でリターンして、今の環境を走って、ナンダカナ~となったりする。)
映画の方だが、メディアでも繰り返し、目にするコンテンツでも有る。
(明日、月曜の夜に、NHK BSでもやるみたいだし。)
ある年代の皆様にとっては外せないコンテンツだろうし、そうでもない皆様が見るにも恵まれた環境にある映画だ。
だから、黙って見てみりゃいいんだけどね!。
でも、ラブ♡、ってなっちゃったらどうしよう。
いや、オードリーじゃなくて。
ベスパに。
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読書ログ 「キヤノン特許部隊」 ― 2013/12/07 08:50
何となく、ずいぶん前、バブルの頃?に、似たような題名の本が話題になったような気がしていたんだが。2002年刊。そこまで古い本ではなかった。
あの、カメラのキヤノンで、長く知財担当であった著者による、知財戦略についての口述筆記である。
語った本人の名前が著者になっているが、語らせて、編集して、本に仕立てたのは別人である。なので、内容が、必ずしも著者が語りたかったこととは限らず、本として、売りやすい方向なんかでまとめられた可能性はある。
とはいえ、あのキヤノンの、知財面での武勇伝を支え続けた立役者の語りなので、臨場感というか、迫力はある。ただ、話がかなり古いので、昔話然とした感じは否めない。
著者の入社は1960年、大きな仕事をしたのは、その後の10年位がピークだったようだ。時代は、日本が、右肩上がりのヒルクライムを全開で駆け上る真っ最中。同じような武勇伝は少なくないし、だから、著者の「戦略」も、その分を差っ引いて見ないと、応用に耐えない。
確かに、著者の頭はクリアで、仕事もできる人物だ。当時は型破りだったその仕事ぶりは、後進である我々の指針にもなっている。
ただ、もう時代はとっくに峠を越えて、今や、ダウンヒルをスッ転がっている状態だ。著者の考え方や、ノウハウ、指針なんかは、今では、古びていたり、当たり前だったりしている。特に、日々、ビジネスの最前線で現場に当たられている皆様には、言い古された普通のことと感じる内容が多いだろう。
巷で聞く話では、キヤノンは今でも、NDAを結ぶのを拒みたがると。ビジネスの話を始めることすらできないので、相手方が辟易することがしばしばだそうだ。それが、特許だけではなく、NDA違反で訴えられるのを警戒してのこととは、本書で読んで初めて知った。
そんなのを、戦略、と言えるだろうか。
過去の栄光から抜け出せない、古びた体質に見えないだろうか?。
一応、著者も、そのことは承知していて、今、取り組んでいること、これから取り組むべきことについても言及している。しかし、先週取り上げた本のような、標準などを含めたルーリング対策などは、軽く触れるに留まっている。
知財といえば、少し前まで、知財立国のような言われ方もしていて、金銭的なプレセンスを盛り上げようとしていた意図があったが。最近では、お隣の大国が、さんざ自分を傷つけてきた知財の刀を取って返そうと、「マイ刀」を砥ぎながら身構えている最中だ。そんなアジア情勢にも触れていないが、10年前の本なので、仕方ないのかも知れない。
いまだに西欧コンプレックスがある上層部か、教育目的で新人に読ませるには、いい本かも知れない。
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バイクの上半分 18 ― 2013/12/08 08:50
話は、「道具としてのバイク」に移る。
人間は、道具を使う。
道具って何だ?。
一口に道具といっても、実態は様々だ。
簡単なもの、複雑なもの。
単機能のもの、汎用性が高いもの。
下はトンカチから、上は巨大な設備やスパコンまで、いろいろある。
いろいろだからこそ、人間とのかかわりあい方、その接点を掘り下げることで、「道具としての何たるか」を明らかにしよう。そういうアプローチらしい。(この視点だからこそ、見えることがある、と自信満々と。)
著者が注目するのは、「界面」だ。
境界、境目、端部、接点、エッジ、バウンダリ、インターフェース。
「司令室じゃない。事件は、現場で起こってんだよ!」
そう、その通り。
人間は、物事の絶対量を、直接感知することができない。
常に、何かと比較している。
(物差しを当てるということは、ゼロからの目盛りと比較する行為だ。)
人間が感じられるのは、何かとの「差」だけなのだ。
「差」は、どこにあるか。
界面である。
外と内の間。
道具は、この境界を、シフトする。
「あなたと外側の境は、どこにありますか」と問われれば、
普通は、身体の表面などと答えるだろう。
でも、例えば、トンカチを釘に振り下ろす瞬間を思い出そう。
その時、「界面」は、トンカチと釘の頭の間、ではなかろうか。
つまり、トンカチは、界面の内側、自分の側に入っていることになる。
手作りの職人さんが、刃物なんかの道具を、流れるように使っている。
まるで、道具と身体が一体になった動きに見える。
一体になって、とある特別な機能を果たしている。
全ての道具がそうではないのだ。
例えば、イスはここまで一体にはならないし、特別な機能を発揮したりしない。
そういう係わり方をする「道具」。
人間のバウンダリの内側にインテグレートされ、特別な機能をもたらす物。
バイクは、複雑な機械で、発揮するエネルギーも大きい。より高度な道具なはずなのだが、やたらと人間依存度が高い。いちいち人間が介入・補助してやらないと、何にもできない。
どうも、バイクは、こっちのタイプの道具らしい。
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読書ログ 繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ ― 2013/12/14 06:29
本屋の新刊コーナーで見かけた。
妙にキャッチーな表紙。
ダイヤモンド社。
怪しい。(笑)
図書館で借りられたので、一読してみた。
ごく真面目なルポだが、いろんな意味で、読後感は、あまり良くなかった。
内容としては、いつぞや私が書いたことと同じだ。
読書ログ これは誰の危機か、未来は誰のものか
これが、実際に起こっている。
そのことの証左。
自然は、平均に向かう。
水に落としたインクは、拡散して均一になる。
風は、圧力が高い方から低い方に吹く。
熱は、熱い方から冷たい方に伝わる。
そういう摂理になっている。
カネも同じで、例えば市場原理や、神の手などと言われるように、何かしら平均化していく摂理があるように言われがちだ。
だが違う。
カネは、何もしないと、自分で「集まる」。
無い所から、有る所に向かって、流れていく。
性質というより、そういう仕組みなのだ。
人間が作った仕組み。
だから、不自然だ。
自分のカネは、自分の自由だ。どんなに余っていようとも、他人に渡すいわれは無い。恵まれた人間だけが、何かをやる余裕がある。自分のために何かをやって、さらにもっと恵まれる。
自由の国では、特にそうだ。
何をやったって自由なんだから。
もともと、道徳や宗教くらいしか調整弁がなかったが。
それらもすっかり、弱体化してしまった。
もし、カネを平均化したいなら、それなりのやり方なり、仕組みが必要なのだ。それを怠ると、カネはどんどん一極化し、やがてシステムは、発散(破綻、崩壊)する。
だが、一挙には行かない。
カネの集まりは、たまに、アクシデントで部分的に崩落はするが、また同じプロセスを経て、結局は、元の形に戻っていく。
元の形とは、いわゆるピラミッド型だ。
貧乏な裾野は低く広く、裕福な頂点は小さく高い。
そういう形の群れを作る動物。
それが、人間にとってのネイチャーなのだ。
著者は、長期に渡って、その裾野の底辺の情景を、丹念に拾い続けている。
義務感とか正義感とか、そういったものではないようだ。確かに、著者自身、この分野のルポライターとして認識はされていて、繰り返し書く必要にも迫られている面はあるようだが、それ以前に、ただどうしても気になる、気がつくとそこに戻っている、とそんな感じだ。
底辺に落ちた人々が、どのように落ちたのか。
這い上がれないのは、どうしてなのか。
それが、一部の(合衆国の)右派が言いつのるように、彼らの努力や能力の不足によるものではなく、構造的なものであり、不可避であり、悪化していることを、著者は、繰り返し繰り返し、暴き出している。
それはそうだ。
ペダルを漕ぐ能力も意思もあるのに、ペダルが無いのは、彼らのせいではない。
まるで、ひどすぎる「看守と囚人ごっこ」のような現実。
ひどく不真面目で、無関心。
つまり、不誠実。
不誠実な、アメリカ。
ウォールストリートとか、ティーパーティーとか。
ただ、確かにペダルを漕ぐのを諦めてしまった人も居るし(皆が真面目ではない)、止むを得ないにせよ、法的によろしくない行為に及んでしまった場合は、非難を免れない。そういう事情が、まだらに混ざり合ってしまっているので、合衆国流の、シロクロの二つしかない「デジタル善悪二元論」がどうにもそぐわなくて、その酷すぎる現実の上を、無闇に空回りしている。それがまた辛い。
無論、恨み節ばかりではない。
著者は、未来への提言も行っている。
歴史を振り返り、かつて、大恐慌からの復活に役立った方策を掘り起こす。
役に立たなかったことの原因を考える。
底辺の人々と一緒に、静かに怒りながら。
諦めずに。
ただ、やはり少し弱い。
方策が無いことではなくて、やるべき側にやる気が無いことが、問題の本質だからだ。
もし、その原因が、人間の本質(上述のピラミッドの群れ)なのだとしたら、この、迷いまくっている不誠実な羊たちは、ちゃんとやっていけるものなのだろうか。
わが身の問題でもある。
地震だけでなく、竜巻や台風なんかが多いわが国だが、どうも最近は、そんな自然災害に苦しむ人々を、ろくすっぽ救いもせずに忘れることに慣れてしまったようにも見える。そんな我々は、同罪ではないか。
次の「ピラミッドの崩落」はすぐそこかもしれないし、巻き込まれるのは、自分かもしれないというのに。
私を含め、これを読んで、考えているだけ(つまり娯楽)の読者というのは、何なんだろうか。
ハラは減ったが、何となく、メシを食う気がしない。
そんな読後感だった。
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繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ―――果てしない貧困と闘う「ふつう」の人たちの30年の記録
バイクの上半分 19 ― 2013/12/15 08:19
今回は、バイクに限らず、道具一般の話になる。
先週、道具が身体に統合されて、特別な機能をもたらす例について触れた。
「身体に統合された道具」のような言い方をすると、人工臓器のようなイメージを持たれるかも知れない。実際、それと何が違うのか、境目はどこかと問われると、そう簡単ではないようだ。手足や胃や腸の方を、「自然に備わった道具」だと言えなくもないと。
実際、鳥のくちばしは、形に特徴があって虫や魚を取り易いとか、そういう特別な機能を持つ場合があるし、それでもちゃんと、毛づくろいをしたり鳴き声を出したりといった、普通の機能を妨げるものではない。良くできた道具なのだ。
そういった身体の一部を、または外付けの道具を身体の一部として、統合、インテグレーション、同一化して使う動作。その形や深度(レベル)は、様々な形、あらゆる場所で起こっている。
魚や鳥の群れが、一斉に、美しく方向転換することがあるが、よくよく観察しても、誰に従うわけでもなく、外側の刺激に反応している様子もなく(フィードバック反応ではない)、まるで初めから知っていたかのように、全体として一体の動きを見せることがある。まるで、自分の側が取り込まれたような統合の仕方だ。
そして、それは、人間のチームプレイが見せる一体感、例えば、レガッタで多数の選手が一斉に反応・対処する様子などと、同じようにも見える。
統合し、される。
動物は、そういう能力を持っているらしい。
ただ、人間は、それを「物」で行う。
床に置けば、すぐ人間との結合が外れる、デタッチャブルな形で統合を行える。
実際、くちばしは、取り外しが効かない。
改良するにしても、何世代もかかる。
道具なら、簡単だ。
特定の機能を具現化するための改良を、(世代に比べれば)一瞬で施せる。
そうして、それを「手足のように」使うことができる。
簡単な工具のレベルから、上で挙げたレガッタのボートやオールの例、さらに、深度も数も複雑な、オーケストラや楽器など、様々な例が見られる。
もっと直接的なインテグレーション、例えば義手・義足などでは、使っている本人も、本当の腕や足のように感じることもあるようだ。さらに、機能として、デフォルトの生の手足より、高機能を発揮する場合もある。
その機能が、複雑・多様化するにつれ、その製作に携わる人間も増加する。互いに分散・分離した技能が複雑に絡まりあい、一つの道具に結実していく仕組み(チェーン)ができていく。そうやって、技術という知能分野が形成されると共に、製品のマーケットとして一種の公共性を帯びるに至る。(我々は、自分のバイクを誰が造って、どう運ばれてきたのか知らないが、乗ることはできている。)
そうやって、人間は道具を作り、変え、発展させて、縦横に使いこなすことで、環境に打ち勝ち、他の動物との差別化、優位を打ち立ててきた。
良いことばかりではない。
悪いこともある。
大概の道具は、初めにいちいち使い方を学ばねばならない。
誤用すれば、危険にもなりうる。
盗まれて敵の手に渡れば、危険の矛先が、自分に向くこともある。
良いことがあれば、悪いこと(コスト)も、必ずあるものなのだ。
だから、使い終わった道具は、手から離して、片付ける。
子供がよく、お片づけしなさい、と怒られるのは、そういう背景があると。
人間と道具のかかわりは、長くて深い。
むしろ、特別な意味合いでもって語られてきたと言える。
地中でも朽ちずに残る材質(骨や石とか)で作られた道具が、人骨と共に発掘されることが多いことなどから、人間を他の動物と区別するための(キリスト教的な?)差別化要因の一つとして、道具が使われてきたのだ。
「道具を使うのが人間の証だ」というわけだが、しかし、ちょっと調べただけで、人間以外の動物が、器用に道具を使う例が多数見つかったと。猿や鳥だけでなく、虫(ハチとか)でさえ道具を使うことがある。かなり独創的な工夫を凝らした道具を作り出したり、使いこなしたりといった事例も明らかになった。
さて、それでは、人間が作る道具だけに見られる特徴とは何か?。
半ばムリヤリに考えたのが、芸術性であると。
より美しくデコレーションを施した道具。
これは、人間しか作らないのだと。
そうなるとだ。
確かに、バイクも、そのご多分に漏れないのかもしれない。(笑)
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