バイクの上半分 182013/12/08 08:50



話は、「道具としてのバイク」に移る。

人間は、道具を使う。
道具って何だ?。

一口に道具といっても、実態は様々だ。
簡単なもの、複雑なもの。
単機能のもの、汎用性が高いもの。
下はトンカチから、上は巨大な設備やスパコンまで、いろいろある。

いろいろだからこそ、人間とのかかわりあい方、その接点を掘り下げることで、「道具としての何たるか」を明らかにしよう。そういうアプローチらしい。(この視点だからこそ、見えることがある、と自信満々と。)

著者が注目するのは、「界面」だ。
境界、境目、端部、接点、エッジ、バウンダリ、インターフェース。

「司令室じゃない。事件は、現場で起こってんだよ!」
そう、その通り。

人間は、物事の絶対量を、直接感知することができない。
常に、何かと比較している。
(物差しを当てるということは、ゼロからの目盛りと比較する行為だ。)
人間が感じられるのは、何かとの「差」だけなのだ。

「差」は、どこにあるか。
界面である。
外と内の間。

道具は、この境界を、シフトする。

「あなたと外側の境は、どこにありますか」と問われれば、
普通は、身体の表面などと答えるだろう。

でも、例えば、トンカチを釘に振り下ろす瞬間を思い出そう。
その時、「界面」は、トンカチと釘の頭の間、ではなかろうか。
つまり、トンカチは、界面の内側、自分の側に入っていることになる。

手作りの職人さんが、刃物なんかの道具を、流れるように使っている。
まるで、道具と身体が一体になった動きに見える。
一体になって、とある特別な機能を果たしている。

全ての道具がそうではないのだ。
例えば、イスはここまで一体にはならないし、特別な機能を発揮したりしない。

そういう係わり方をする「道具」。
人間のバウンダリの内側にインテグレートされ、特別な機能をもたらす物。

バイクは、複雑な機械で、発揮するエネルギーも大きい。より高度な道具なはずなのだが、やたらと人間依存度が高い。いちいち人間が介入・補助してやらないと、何にもできない。

どうも、バイクは、こっちのタイプの道具らしい。


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バイクの上半分 192013/12/15 08:19



今回は、バイクに限らず、道具一般の話になる。

先週、道具が身体に統合されて、特別な機能をもたらす例について触れた。

「身体に統合された道具」のような言い方をすると、人工臓器のようなイメージを持たれるかも知れない。実際、それと何が違うのか、境目はどこかと問われると、そう簡単ではないようだ。手足や胃や腸の方を、「自然に備わった道具」だと言えなくもないと。

実際、鳥のくちばしは、形に特徴があって虫や魚を取り易いとか、そういう特別な機能を持つ場合があるし、それでもちゃんと、毛づくろいをしたり鳴き声を出したりといった、普通の機能を妨げるものではない。良くできた道具なのだ。

そういった身体の一部を、または外付けの道具を身体の一部として、統合、インテグレーション、同一化して使う動作。その形や深度(レベル)は、様々な形、あらゆる場所で起こっている。

魚や鳥の群れが、一斉に、美しく方向転換することがあるが、よくよく観察しても、誰に従うわけでもなく、外側の刺激に反応している様子もなく(フィードバック反応ではない)、まるで初めから知っていたかのように、全体として一体の動きを見せることがある。まるで、自分の側が取り込まれたような統合の仕方だ。

そして、それは、人間のチームプレイが見せる一体感、例えば、レガッタで多数の選手が一斉に反応・対処する様子などと、同じようにも見える。

統合し、される。
動物は、そういう能力を持っているらしい。

ただ、人間は、それを「物」で行う。
床に置けば、すぐ人間との結合が外れる、デタッチャブルな形で統合を行える。

実際、くちばしは、取り外しが効かない。
改良するにしても、何世代もかかる。

道具なら、簡単だ。
特定の機能を具現化するための改良を、(世代に比べれば)一瞬で施せる。

そうして、それを「手足のように」使うことができる。
簡単な工具のレベルから、上で挙げたレガッタのボートやオールの例、さらに、深度も数も複雑な、オーケストラや楽器など、様々な例が見られる。

もっと直接的なインテグレーション、例えば義手・義足などでは、使っている本人も、本当の腕や足のように感じることもあるようだ。さらに、機能として、デフォルトの生の手足より、高機能を発揮する場合もある。

その機能が、複雑・多様化するにつれ、その製作に携わる人間も増加する。互いに分散・分離した技能が複雑に絡まりあい、一つの道具に結実していく仕組み(チェーン)ができていく。そうやって、技術という知能分野が形成されると共に、製品のマーケットとして一種の公共性を帯びるに至る。(我々は、自分のバイクを誰が造って、どう運ばれてきたのか知らないが、乗ることはできている。)

そうやって、人間は道具を作り、変え、発展させて、縦横に使いこなすことで、環境に打ち勝ち、他の動物との差別化、優位を打ち立ててきた。

良いことばかりではない。
悪いこともある。

大概の道具は、初めにいちいち使い方を学ばねばならない。
誤用すれば、危険にもなりうる。
盗まれて敵の手に渡れば、危険の矛先が、自分に向くこともある。
良いことがあれば、悪いこと(コスト)も、必ずあるものなのだ。

だから、使い終わった道具は、手から離して、片付ける。
子供がよく、お片づけしなさい、と怒られるのは、そういう背景があると。

人間と道具のかかわりは、長くて深い。
むしろ、特別な意味合いでもって語られてきたと言える。

地中でも朽ちずに残る材質(骨や石とか)で作られた道具が、人骨と共に発掘されることが多いことなどから、人間を他の動物と区別するための(キリスト教的な?)差別化要因の一つとして、道具が使われてきたのだ。

「道具を使うのが人間の証だ」というわけだが、しかし、ちょっと調べただけで、人間以外の動物が、器用に道具を使う例が多数見つかったと。猿や鳥だけでなく、虫(ハチとか)でさえ道具を使うことがある。かなり独創的な工夫を凝らした道具を作り出したり、使いこなしたりといった事例も明らかになった。

さて、それでは、人間が作る道具だけに見られる特徴とは何か?。
半ばムリヤリに考えたのが、芸術性であると。
より美しくデコレーションを施した道具。
これは、人間しか作らないのだと。

そうなるとだ。
確かに、バイクも、そのご多分に漏れないのかもしれない。(笑)


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