読書ログ 「野生のエンジニアリング」 ― 2014/01/04 07:02
ずっと前、どこかの書評で見かけたのだが。
題名に惚れた。
「何だよそれ。」(笑)
著者は、文化人類学の学者さんであり、本書も、基本的には人類学の本である。
人類学とは、空間的(地域)、時間的(時代)に、総体(群れ)としての人間の「ありよう」を明らかにしようという学問・・・だと思う。
だから、本書は、題名は「エンジニアリング」だが、基本、エンジニアリングを論じた本ではない。
しかし、結論を先に書いてしまうが、人類学としては突込みが浅いものの、技術を論じた本としては、面白かったと思う。
本書は、タイの機械(特に農業用の耕作機械)の扱われ方を詳細に調べ、そのありようが、先進国に一般のありようとかなり違う(ことを見つけた)として、その差について論じている。
機械の分野において、先進国に普遍的に見られる様式、例えば、メーカーの系列や、知財(特許)の枠組み、図面による情報伝達といったことなどだが、それらを全く持たず、ひたすら独学による手先の技術(職人芸、または見よう見まね)によって担われていることが「独特だ」とし、それが各個・野放しに行われ、自己整合的に形成・発展しているのを「野生だ」と表現している。
例えば、農耕トラクターの整備や修理、改造などは、専ら、その課題(不具合など)を、関係者一同で「見て」、原因から対処を「考えて」、現物合わせの一品物をその場で作ることで「対応」されている。
著者は、先進国では、機械の特徴から価値までを規定するのは、作り手の主体であるメーカーだ、としている。(「トヨタのクルマ」と言われれば、大体の特徴や品質などが想起されるように。)さらに、商品の供給から、維持管理の手段(部品の流通、整備情報の伝達など)までの粗方が、メーカーの手中にあるのが普通だ。
著者は、そういった「機械の所以」のことを、オーサーシップと表現しているが、そのあり方が、タイでは全く異なっていると言っている。メーカーは、ほとんど何の役割も果たしていないし、期待されてもおらず、流通チェーンにも入れていない。
もともとは、日本などから、壊れる寸前(または壊れている)安いポンコツを買いつけて(経済的に、それしか買えない由)、何とか自前で直して、自国の状況に合わない所は改造することで、使いこなす・・・というか、使い回して来た。そのための環境、中古の部品を供給しあうネットワークや、現物合わせで部品を作ってしまう技術体系が、自己発生的に構成され、既に長い歴史を経て、成熟していると。
そのあり様が「独特」だし、それがかえって、人間と機械の係わりのありようという意味で、西洋の「独特さ」をあぶりだす、というのが著者の主張であり、発見だと。
私はそうは思わない。
タイ型のエンジニアリングは、そこいら中にあり、別に珍しくもない。
著者が言う「先進国の機械エンジニアリング」のモデルは、「大規模・大量生産の機械製品」に限られる。それ以外のもの、「大量生産でない機械」や、「機械以外の製品」などでは、「タイ型のエンジニアリング」は先進国でも普通に見られる。
例えば、一般には、機械より先進と思われているかもしれない、電子機器の開発現場は、思い切り「タイ型」だったりする。
電源チップ、というのがある。製品に組み込まれている電子基盤の入り口で、電圧電流を整えて、居並ぶ電子部品たちにパワーを安定供給する重要な役割を担っている。これ自体が、やはり高度な半導体ICだったりするのだが、この開発などは、かなりの割合で「タイ型」だ。
例えば、何ボルト何アンペア、という「仕様」がちゃんとあったとしても、それが安定動作するかは、ユーザー(基板の作り手)の設計に依る。使いこなしの技が必要であり、その知識や方法も情報としてセットで売られてもいる。しかし、電子機器の開発現場で、その通りにちゃんと使われるかは別の話だ。原因は、単なる「無知」かもしれないし、諸般の事情で「無理を承知で」もありうる。(基板中に張り巡らされた電源配線が全てつながっているから、どこからどんな影響がどう及んでいるのか、とにかく、わかりにくい。)で、「動かないぞ!」となって、サポート部隊の出動、となる。(出動ならまだしも、フツーに常駐していたりする。)製品のデキ(性能や値段)よりも、サポート力(その場の状況を見極めて各個対処する能力:タイ型能力?)でもって、製品の評価が決まる場合も多い。
ややこしいのは、これが、えらい規模の大量生産品の話だったりすることだ。製品あたり月に数百万個という規模はザラだったりするので、クルマ辺りとは生産数の桁が違う。大量生産だから西洋型だ、と一概に言えるわけではないのだ。
もっと簡単な例は、インターネットだろう。
一応、どうつなげるかの基本だけは何となく決まっているが、どんな情報を流すか(出し手)、どんな情報を見るか(受け手)、どんな枠組みで使わせるか(単に見るだけか、カネを絡めて通販にしちゃうとか)など、各個でカスタムしまくりである。(お国が勝手にカスタマイズして、人のものを勝手に覗いていた例が、つい最近、明らかになっていた。)皆、自分の都合の良い方法で、便利に使いまくり。つまり、タイ型だ。
要するに、大量生産かどうか、機械かどうかを問わず、オーサーシップのあり方は、業界の事情や背景で決まっていて、特にタイが珍しいわけではない。その区別は、世界中、業界別に、まだらに分布しながら、関係し合っている。だから、その対比の一部をもって、何かを見つけたという著者の主張は、間違いだ。
そんなわけで、人類学としては突込みが浅かったと思うが。
技術論としては面白いなと思った。
まず正しておきたいのは、著者の「エンジニアリング」という用語が、少々違っているように思う。メカニックの仕事と、混同しているように思うのだ。
エンジニアリングとは、機械を作り上げること。先進国的には、主に設計製造のことだ。
メカニックとは、既に出来上がった機械の維持管理を、現場で担う行為だ。
この二つは、ある程度は重なるものの、今の時代では、区別して考える必要があると思う。
とはいえ、そもそもは、これらは区別されていなかった。
技術(エンジニアリング)の粗方は、各個対処の「タイ型」だった。
大工さんは今でもそうだが(家は一軒一軒違う由)、昔、鍛冶屋さんは、注文に合わせて物を作っていたろうし(もっと大きい鋤とか、硬い鍬とか)、刀鍛冶は、各個の技術を極めすぎて、最新の科学知識でも作れないレベルに及んでいた。同じような例は、西洋でも見られたようだ。(名器と言われるバイオリンの製作法がわからない、といった類。)技術者(職人)は、その場その場で、自分の庭(専門分野)を、ニーズにある程度従いながら、掘り下げていた。
今では事情がだいぶ違っていて、先進国の(製造)技術は、もっぱら、大量生産に焦点を当てて最適化されている。同じ製品を多量に作って世界にばら撒くのが、商売としては、一番効率がいい。各地各様の仕様違いは、それを包含できる単一の造りにするか、さもなくば、チョイ変で済ませる。つまり、製品が狙うターゲットが、昔に比べて、かなり大きい。
ところが、上記の電源チップのように、量が桁違いに多いのに、いちいち手間がかかる場合というのも依然としてある。大量生産前提のビジネスモデルとしては矛盾しているのだが、だからこそ、先進国は苦しんでいるし、生産とサポートの両方を人海戦術でこなせてしまうアジアの大国のようなところに、全て持って行かれようとしている。構造的な問題なのだ。
その辺りの価値の構造が、タイではまるで違っている。
製品は、日本から持ち込まれた、大量生産品、既製品である。当然、それらが実現する機能というのはあるのだが、ユーザーが欲するニーズとは、直接は関係がなかったりする。
その間を埋める仕事が必要になるのだが、タイでは、それが、価値を生んでいる。
製品の基本機能を維持しながら(メカニック)、ユーザーのニーズを実現する、少しの創造(エンジニアリング)を加えている。その創造を、使い手と、作り手が、一緒になって実現することで、互いにメリットを得る仕組みになっている。
機械は、人々の役に立つし、寿命も遥かに長く使える。
使い手は満足するし、技術の向上が、収入の向上や職の安定になるから、作り手のやりがいにもなる。
能力を、互いに役に立てられる。
関係者一同の、満足度が高いのだ。
著者は、こうしてできた機械を、「民具」と表している。
私はこの表現に、ドキリとした。
ものづくりで鳴らした我々日本人は、民具と呼べるような機械を、作れるだろうか。(作れたことがあったろうか。)
( カブ くらいかな。笑)
アジアならではの曖昧さ。
さほどの精度を持ち得なかった、という意味での「必然」と、
だからこそ、バリエーションをもてたから生き残れた、という意味での「偶然」が作る、
「野生」の、まだら模様。
これは、何かを示唆してはいまいか。
新しい(古い?)技術、または仕事のモデル。
機械のありよう。
暮らしのありよう。(←人類学には、ここを突っ込んで欲しいのだが)
ところで。
私が危惧している、というか「知りたいな」と思っていることが、一つある。
機械の作り方の話だ。
今、機械は、まず、粗方の状態でも動くよう、大味な設計にしておいて、個別の対応や味付けは、電子制御に任せる傾向を強めているように思う。
簡単に言うと、何馬力出るかはもとより、勇ましく出すか、マイルドに出すかまで、制御チップ(のコード)が決めている。
もし、このまま行くとなると、メカニックの仕事は、本当に基本的な維持管理(オイル交換やアッシー交換程度)だけになり、それ以外の最適化、セッティングやチューニングは、チップ仕事に置き換わることになるだろう。
それは、機械技術の衰退にならないだろうか。
エンジニアリングと、メカニックの、両方の意味で。
そこまで、電子制御は信用できるのだろうか。
それは、「幸せな結婚」なのだろうか。
もし、違うのなら、幸せな結婚の仕方というのは、どんなだろうか。
(そも、ありうるのか?。)
それは、機械の、道具の、人類の、将来に、どう影響するだろうか。
(そのために、私は今、何ができるだろうか。)
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野生のエンジニアリング―タイ中小工業における人とモノの人類学―
バイクの上半分 22 ― 2014/01/05 09:50
(前回までのあらすじ)
動作の主体は潜在意識にある動作プログラムであり、それを出来うる限り自由にさせておくのが、その能力を最大限に生かすコツだ。しかし、意識の方は、何がどうなっているかを知りたがるし、動作プロが動く過程に首を突っ込みたがる。ところが、それは動作プログラムの手足を縛ることになるので、かえって能力を損ねる結果となる。要は、その境目を正しく保つのが、意識にとっては大事な仕事、というわけだが、意識的にできることというのは、そんなことだけなのか。
その一つが、仮説とか、予知だとある。
たとえ、直接に認識はできなくとも、それが「ありうる」ことの可能性を、常に認識しておくこと。
ただでさえ、意識というのは、見たいもの、興味があるものに集中しがちだ。都合の悪いもの、特に「危険」などは、意識していないと見えない場合もよくある。
予期しているといないでは、実際に起こった際の反応速度も違ってくる。突然に思わぬ事態に遭えば、何だか判らないうちにドカーンもありうる。少なくとも、来るか?と思っていれば、大分違うと。
「驚かなくなる」効果もあると。驚くというのも、一種の感情的な高ぶりなので、正常な反応を妨げる。経験に裏打ちされた「予測」を多数備えている百戦錬磨は、反応のし方も肝が据わっている、というわけだ。
この、「予想」という能力を妨げる因子には何があるか。
まず、「疲れ」。
次に、激しい感情。上述のupsetの類もそうだが、逆の「あふれる幸せ」も該当すると。そして、厄介なのは「怒り」だとある。
これは、私も覚えがある。
私の経験では、最も簡単に運転を粗くする因子は、怒りと・・・尿意だ。
(後者は、特に冬に顕著である。笑)
しかし、「危険に意識を集中なさい」などと言われても、そうそう集中力が続くわけでもない。(一点集中は良くない、遠くを見なさいなどとも言っていた。)実は、予知も、動作プロに落とし込まれていて、本人も意識しないまま、何となく反応している場合があると。
コーナーの前でアウト側にすーっと寄っているとか、路面が荒れを感じて多めに減速するとか、危険因子(挙動不審や、黒いベンツなども含む)とは距離を大きめに取っているとか、そういうことを、無意識にやっている。
そうやって、潜在意識に落とし込むことで効果を発揮する場合もある、という意味では逆説なのだが。自分の「引き出しに無い」因子には、反応のしようがない。だから、常に新しい危険性は認識しておけ、ということだろう。
この辺りは、認識論の話でもある。
「予知できる」危険と言うのは、既に頭の中にある危険でもある。
つまり、その「危険」は、既に身体の中に内在するのだ。
これが、現実と違えば役に立たないし、あるべきものが無ければ、対処もできない。頭の中の認識が、自己本位だったり、突飛なものでは役に立たない。現実に即していないといけないわけだ。
つまり、現実を認めろ、事実の前に素直であれ、ということだろうか。
自信家はかまわないが、天狗はダメで、現実論者であるべきだと。
( ケニーロバーツ がその権化だったなあ・・・と以前書いた。)
素人さんがダメな理由。
皆様も、ビギナーの頃を思い出すと身に覚えがあるかと思うが、えらく深々とリーンしているつもりでも、実は、バイクはさほど寝ていなかったりする。いわば、彼が限界を現実よりかなり低く見積もっていることになるので、例えば有事の際に、すくんでしまって動きが取れない。
玄人さんの落とし穴もある。
もっと行けるはず、と無闇に思い込んでいるライダーは、現実には存在しないマージンを使おうとしてしまう。
要するに、我々は「自分の思い込みによる限界」の中で走っている。
それが、物理的な限界に近ければ、いざと言うときも機敏に動けるが、そうでないと危険が増す。
感覚と現実を実際に整合させるには、安全な場所で、おそるおそるでもプッシュして、次第に限界を増して行き、自分の限界を超えると共に、物理的な限界までを把握するような訓練を、システマチックに行うのが近道、とある。(そりゃそうだわな。)
本書には具体的な方法も載っているが、ネタバレに過ぎるので割愛する。(具体的なハングオンのし方、なんてのもあるが。ここで簡単におまとめすると、その辺のちょろい指南書と変わらなくなるので。)
余談だが、コーナーでのスリップダウンは、比較的安全なクラッシュのし方なのだと。ガシャンと行った瞬間の衝撃は小さめ、バイクが先に滑って行って、人間が後から、減速しながら(結構な割合で減速するらしい)追って行く形になる。(ローサイドの転倒)
逆に、身体が固まってコースアウト、は危ない。ガードレールにでも当たれば衝撃の度合いも大きいし、放り投げられれば頭から落ちる可能性が高い。さらに、後からクソ重いバイクがスッ飛んでくることもある。(ハイサイドの転倒)
「よく知っている」ライダーは、その辺の危険度も承知していて、「その刹那」にダメージが小さい方を、無意識に選んだりしているのだそうだ。
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読書ログ 「驚きの介護民俗学」 ― 2014/01/11 10:15
民俗学とは、 先週の本 の文化人類学とほぼ同意のようで、文化や習慣などの、人々の生活のありようを調査・研究し、空間的な分布(地方色)や、時間的な変化(歴史)を明らかにする・・・ことだと思う。
近代日本は、明治維新から敗戦を経て、世界的にも大きな変遷を経ているせいか、この分野では、優れた著作も多いようだ。その変遷を振り返るべく、丹念なフィールドワークを行えば、近代の断絶を跨ぎ直すことで、文化や習慣などのコントラストを描くことができる。やり方も様々で、日本国中を歩いて調査した類、古い著作を改めて当たり直した類、いろいろあるようだ。このブログでも、過去、何冊か取り上げたように思う。
しかし、この類の書籍が繰り返し作られているということは、我々が、「何かを忘れたことは覚えているが、何を忘れたのかは完全に忘れている」のをぼんやりと感じていて、そのことに不安や、(薄っすらと)恐怖を感じていることの現われかも知れない。
本書の著者は、その民俗学に携わりながら、介護の現場で働いている。日々、ご老人たちと関わる中で、自分の人生を語るその昔話の中に、民俗学的に貴重な記憶が含まれていることに気付き、そういった目でご老人たちの記憶を引き出し、収集して記録している。表題の「介護民俗学」は著者による造語で、ご老人の記憶に触れた時の「驚き」に対する、著者の「気付き」を表したとか。
民俗学の研究と、介護の仕事は、両方とも重労働だ。両立は、かなり厳しい。そのせいもあってか、民俗学ならではの深みのようなものは、あまりない。(ちゃんとまとまっていない、散らかったまま。) それに、どちらかというと、著者の仕事の比重は介護の方にあるようで(実際、介護を語るシリーズ本の一冊なのだが)、介護の方法論として、ご老人の記憶に丹念に触れることに効果があるという、そちらの方が強調されているようにも感じる。(厳しかった老人が穏やかになる、ボケが回復する、といったようなこと。)
多分、介護民俗学を本当に行うのなら、民俗学の研究者が、介護の現場をフィールドに使う、という方法論にならざるを得ないだろう。(ボク話を聞く人、キミ世話する人、と分けないと成り立たない。) それが、介護の方にも何らかの効果をもたらすのではないかと言うのが著者の主張だが、介護の現場は、それを許す余裕は無いだろう。著者自身、それを知っており、だからこそ何となく歯切れが悪いし、勢いにも欠ける印象だ。
個人的な感想だが、あの、不機嫌にイラつく老人達の態度は、自分が忘れ去られることに対する恐怖と、それに対する周囲(後続の我々)の無関心に対する怒りや諦めが、裏打ちとしてあるのだな、と強く感じた。同時に、その「忘却」を「変化」と言い換えることで肯定的に偽装してきたやりかたの行き詰まりと、結局それは、現に我々を、そして将来的に子供達をも、不幸にするのだろうと思う。
( 次に忘れられるのは、私だ )
そのワタクシはといえば、週末に、古い原付のキャブなんかをいじりつつ、上手く動くと、ほくそえんだりしているわけだが。これって、何となく、大切な感触を含んでいるようにも思われる一方、既に、モノは朽ちるわ部品は無いわで、文化(?)として伝えるどころか、失われるのを傍観するだけだ。
そうやって、大切だったものを無闇に捨て去り、次のものに入れ替え続けることで成り立ってきた「文化バブル」は、もう、ピークを過ぎたようにも見える。 と同時に、蓄積の重みも意味も否定し続けてきた我々には、手元に残るはずの「頼りになるもの」は何も無く、ただ、入れえ続ける以外に寄る辺が無い。コンシュマーとしてのアイデンティティしか、ポジションがないのだ。だからだろう、皆、「次に何を買うか」ばかり気にしている。
やはり、私は、大切な何かを忘れてしまい、忘れたことだけは憶えていて、ぼんやりと、困っている。
ふん。
ボケが始まっているのだろうか?。
ちなみに、相手の話を丹念に聞くのは、目上だけでなく、誰にでも有効な、活性化方法だと思う。
特に、子育てでは必須だ。
会社の部下や、夫婦間でも同じだろう。
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驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)
バイクの上半分 23 ― 2014/01/12 09:46
前回 、現実と自己イメージの一致が大切だ、という話をした。
ことライディングに関しては、インストラクターや先生が身近に居ない場合も多いが、トレーニングを工夫し繰り返しすことで、第三者の助けなしでも、現実認識能力の向上を望める、とある。
例えば、コーナーでバイクがどれだけ寝てるかを客観的に確かめるには、白いチョークなどでタイヤのトレッドを横切る線を引いておいて、どこまで消えるか見ればよい。確かに、「意外と寝ていないんだな」と、そんなことを確かめるなら、これで十分だ。そんな、ちょっとした工夫だけでも、明らかになることは結構あると。
と言いつつも、最も直接的な方法、つまり、映像として外から撮ってもらうことが、自分の乗り方を客観的に確かめるのに、最も確実な方法だ、ともある。(つまり、昔懐かしい「俺サ」は、ライディングスキルの向上に寄与していた・・・だから今でも、ライダースが、「ヒザスリ講座」で後を継いでいる、という論理的な帰結が。笑) 私も以前、たまたま?自分が走る姿を写真で見た際、脳内イメージとのあまりの差に、愕然とした記憶がある。
デジカメが普及した昨今では、動画を撮るのも簡単になったし、仲間同士での撮り合いはもちろん、三脚に立てて前を横切る(だけ)、のような手段もある。(投稿動画サイトでは結構見かける。) 以前に比べて、やりようは広がっているわけだ。
「ライディングの向上に対し、意識ができること」という話に戻ると、自己認識と現実の差というのは、大体は、自分が思っているほどは上手くないと認識すること、いわば、「負けを認める」方向の話になりがちだ。その辺が、精神的な「第一関門」になっているようにも思う。
本当に乗り始めの、10代の頃を思い出すと。バイクなんて、まず、仲間内の「ええかっこしい」が手を出して、それにつられて後が続く、というパターンが多かった。しかし、当のええかっこしいはとっとと降りてしまって、お前がバイクに乗るの?なんか言われていた真面目そうなヤツの方が、しぶとく残っていたりする。
この「第一関門」が、ふるいとして効いている証左かもしれない。
そんなものだ。
自分に対し、真面目に向き合えるヤツしか残らない。
そう。
だからこそ、日本のメーカーは「ええかっこしい」向けのバイクばかり作っていないで、公道で真面目に取り組んでいる「真の顧客」向けの道具を考えるべきだ、(Moto Guzzi という、いい先生が居たのにね!)というのが、私の主張な訳なんだが。
えーと。
戻して。
意識ができる大事な仕事の一つは、「予測」に代表されるリスク認識だ。
自分の外で起こるリスクの実態そのものは、自分の側からは、制御(コントロール)できないことも多い。だが、考える方向を逆に、自分の内面に向かって何ができるかを考えると、「自分が、何をどのくらい怖がるのか」、あるいは、「自分の中にある何を怖がるべきか」を認識しておくことが大事、とも言える。
我々の内面に存在するリスクの話だ。
以前、リスク認識は能力に影響する、という話を書いた。(高さ3cmの平均台の上は走れるが、3mのは怖くて走れないの法則。やることは同じなのにね。) 逆に、妙に上手くイッちゃっている感覚、「ハイ」に陥るのもよろしくない、ともあった。
整理すると、
・外部の危険には予測で
・内在する危険(すくみやハイ)には意識化で
立ち向かえる、ということだろう。
著者は、これらを包括し、拡張するような形で、「プランニング」という言い方をしている。直訳すると、「計画」だが。上のような、今、刻々と起り続けていることに加え、例えば、ツーリングのルートの策定から、トイレ休憩や給油のタイミングなど、ロングタームのものまで含むし、また、レースの一瞬の駆け引きのような、特殊な場合も含んでいるようだ。
要は、「起こるべくものを、予め並べておくこと」だろうか。
意識の整備、と言えるかも知れない。
さらに、そこへ向かって準備(鍛錬)をすること、「トレーニング」も、意識の役割とある。一種、冒頭の話に戻るのだが、特に独学の場合は、正確な自己認識が不可欠だと。
トレーニングは、習得や向上だけでなく、矯正の意味もある。無駄な、あるいは危ない癖を直すという、入り口の話もあるが、より深度の深い「行動プログラム」の変更を要する場合がある。これが実に厄介だと。
例えば、スポーツの場合、ルールや、トレンドが変わったりで、「やり直し」になることもよくある。既に、行動プログラムが高度に洗練されたアスリートの場合、その挿げ替えや変更は困難だ。えらい苦労(練習)の末に、「更新」に成功したように見えていても、新しいプログラムが、古いプログラムの上で代替をしているだけで、古いプログラムは、決してなくならない。そして、ふとした拍子で出てこようとしたりする。
そして、この「困難な更新」は、残念なことに、ライディングの世界では特に、必要になることが多いのだそうだ。(身につけてしまっている変な乗り方を、正す作業になるということ。)
たとえ、「長い間、安全に乗ってこれたベテラン」でも、客観的な技量としては、大したことがなかったりする。(熱心な素人に及ばない場合がある。) なぜかと言うと、「上達」というのは、意識的に着手して、実際にやり続けないと、成されない性質のものだからだ。
つまり、「これでいい」と思っているベテランは、上達しない。
本書流に言い換えると、「上達を目指すのは、意識の仕事だ」となる。
これが意外に難しい。
逃げ道も多いからだ。
実際、失敗の原因や理由を、自分以外のものに帰して、逃げることは簡単だ。(むしろ、そっちのスキルに長けている「だけ」の例も、少なくなかったりする。)
「コレがちゃんと動かなかったんだ」 (モノのせい)
「アイツが来るまで、上手くいっていたんだ」 (ヒトのせい)
ある意味、潤滑油でもあるし、実に便利なので。誘惑も大きい。
みんな普通にやっているし、そこから無縁であることなど、そうそうできない。
だが、本当は、実に残念な事態なのだ。
だって、学びや上達の機会を、みすみす逃しているのだ。
折角のチャンスだ。
ただやり過ごして済ませてしまうのではなく、上達に結びつける。
「負けを認めること」なんかに引っかかっていないで、現実を認め、自分の側に原因を求める。
そのためには、訓練が必要だと。
何だか、妙に説教じみた話になって来たが。
具体的な方法となると、簡単だ。
「失敗カウンター」
バイクに乗っている最中に、自分が「失敗だ」と思ったら、こいつを押す。
「失敗」の定義も簡単だ。
同じ状況なら、また同じことをするか?の問いに、
YESならスルー。
NOなら、ワンプッシュ。
これを被験者のバイクに据えて、「使ってみて」とやっても、初めは面倒だし、忘れている。だが、次第に使うようになるにつれ、面白い変化があるそうだ。
昨今のビジネス書あたりだと、失敗の数を可視化することで客観的な評価ができる、とかそんな話になりそうな所だが。全く違う。
大体、「失敗」と言ったって、いちいち覚えていはしない。
例えば、ツーリングから帰ってきて、カウンターが「52」とあったとして、全ての内容を言えるか?。
それに、そもそも乗っている最中は、失敗に詳細を、いちいち考え込んでいる暇なんてない。
単純に、カウントが次第に減って、上手くなって行くものだよ、という話でもない。
逆だ。かえって、増えて行く場合もあるのだと。
自分のミスに、厳しくなっているのだ。
何が失敗なのかを、冷静に見つめるようになる。
自分の失敗から、逃げなくなること。
「失敗カウンター」は、そのための道具になりうる、のだそうだ。
(いわば、「第一関門」突破マシーンだ。)
そして、その心積もりは、自分のライディングの質と向き合う、そのステージに立つための、初めのステップなのだと。
そうやって初めて、自分の失敗を感じ取る感覚を研ぎ澄ます(ファインチューンする)、本当の訓練が始まると。
そういうことだそうだ。
えーと。
一つ、老婆心で付け加えておきたい。
日本に、こういう西欧流のノウハウを、上のように簡単に紹介してしまうと、その本当を理解せずに、表層だけを導入して、結果として間違うケースが多い。
例えば、
単純に数字の変化を見つめましょう→評価しましょうとか、
いついつまでに減り始めないといけないとか劣っているとか、
そんなような、妙なことになるケースが多そうだ。
だから私は、あまりお気軽な紹介は、したくないのだが。
皆様におかれましては、くれぐれもそういうことにはならないよう、お気をつけ願いたい。
最後に、余談をもう一つ。
上で挙げた、「他人のせいにする」心の傾向だが。
人というのは、自分の能力の限界に近づいて、努力に対して成果が上がらない状況になってくると、その傾向が顕在化しがち、なのだそうだ。
つまり、グチや言い訳が増えるというのは、その人が、限界に近づきつつあることを示している可能性があると。
これは、マスツーリングなどだけでなく、職場なんかでも、生かせる教訓かも知れない。
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読書ログ 「意味という病」 ― 2014/01/18 09:37
以前取り上げた 「哲学の起源」 という本と同じ著者による。図書館で、試しに著者名で検索したら、気になる題名が目に付いたので、借りて読んでみた。
ずいぶん古い文庫本で、元は著者が文芸誌などに書いた原稿を集めたものらしい。初出は昭和40年代終盤。話としても古かった。
内容は大した事がなくて、大雑把に言ってしまうと、マクベスやら鴎外やらで著者が感じたことを「小難しく」、または「意味を込めて」書いている感じだ。じっくり読み込めば、著者の思索の深さに触れられるのかも知れないが、文章の密度は、その手間は惜しいと感じさせる薄さだった。
さて、この題名だが、著者は「テーマでも何でもない」と言い切っていて、巻末の解説には、「この著者は当時、こういうキャッチーな題名付けがうまかった」とある。この本の単行本の刊行が1975年。私は、ほぼ40年越しの古い罠に引っかかったというわけだ。やれやれ。
当時は、こういう文章を「批評」と称して、皆で(出版して)読む風習(?)だったようだ。文章が上手く、知識が豊富で、真新しいことを書けたりすると、当時は限られていた情報発信チャンネルの一つであった出版業界に取っ掛かりができる。(何かの文学賞を取ったり、えらい学校の出だったりすると更なり。) で、コンスタントに記事が書けて、業界のメシの種として使えるとなると、継続して書かせてもらえて、書くに従い、業界でのポジションもできていく(同期する読者が増えていく)、とそんな感じだったようだ。
しかし今や、誰でも情報の発信は容易い時代となり、出版のフィルター(本として出ているんだから優れた情報だろう、という「前提」)も影が薄くなった。ネットには、感想、意見、批評?はしこたまあって、大概はゴミだが、たまに光るものもある。そんなのを探して眺めるだけで、需要の粗方は満たされてしまう。
そういう時代に、この文章を引っ張り出して云々すること自体、間違っているわけだが。
特に、私の場合、ツイッターのフォロー先(仕える先、またはアイドル)を探しているわけではなく、自分が何を書けるかが目的なので。なおさらだ。
つまり、この「個の時代」にあって、感想や意見や批評なんてのは、ただの消費財に成り下がり、同時に意味も意義も薄くなった、ということだろう。
そんな読後感だった。
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意味という病 (講談社文芸文庫)
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