読書ログ 「冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行」 ― 2014/05/10 06:29
この本のことは、ずっと前から知っていて、そのうち読んでみようとは思っていた。
でも、文庫版まで出ていて、こんなに気軽に読めるとは知らなかった。
著名な投資家さんが、1990年に世界各国を走り回った。
その様子が書いてある。
しかし、これを「ツーリング記」とするには、難がある。
だって、この著者は、バイクにはほとんど興味がないのだ。
自身、バイク暦は既にあって、あちこち走り回ってはいて。
でも、バイクが好きということは、特には無くて。
他の乗り物と同程度に馴染んではいる、とその程度。
この本の時も、いわば冒険旅行の手段としてバイクを選んだ、ということのようだ。旅の気分を、よりダイレクトに味わえるのはバイクだよね、と。
そんなわけなので、車種の選定からして力が抜けていて、まず、BMWを選んだのは、何となく頑丈そう、というだけ。R100RTにしたのは、大きくて荷物がたくさん積めそう(スペアパーツとか、しこたま積む由)、といった程度の選球眼だ。
(後に、未舗装路までこんなに走りまくるんなら、GSの方がいいのに、とディーラーに言われて、そうだったんだ・・・と呻いたりしている。)
また、メカはまるっきりの音痴、かつ自分でもそれを自覚していて、でも、そっちの方で努力する気は微塵も無くて。同行するガールフレンドに、事前にメーカーの講習に行かせて、道中のメカ仕事をやらせようとしたりしている。まあ、そんなんで世界一周が何とかなるわけもなく、結局は、現地で機械工を探して何とかしてもらったりと、そんな具合だったようだ。
数日走って、ボロボロのヌタヌタになった後は、泊まれる限りの上等なホテル(あれば)にキッチリ泊まって、ゆったりとリフレッシュしちゃう。
旅程が遅れて、決定的に間に合わないとなると、とっとと空輸して間に合わせたり。
「冒険」と呼ぶには、いろいろと豪勢すぎるご旅行である。
(お金持ちなのだ。)
では、著者は何に興味があったのかというと。
「お金」だ。
彼の「ものさし」は、この「お金」一本だ。
彼は、その独自のマネー哲学でもって、一世を風靡した投資家だ。
その、曇り無いまなこで、各国の世情を実地に見聞し、投資に足るネタを探して検分する。
「上がりそうなら買う。下がりそうなら空売る。」
それが、この冒険旅行の主眼なのだ。
本書では、歴史から世界情勢から、いろいろな事柄を、マネーをものさしに解説してくれている。斬新なのに、不思議と説得力がある話ぶりで、信じ易い人はコロッと騙されてしまいそうだ。そんな、危うさと、もっともらしさを表裏にした解説は、今や多少古びて見えるとはいえ、お話としては十分楽しめた。
また、マネーを離れて、単なる冒険譚として読んでも、面白いと思う。
だって、1990年の「世界」、それを巡る旅というのは、想像とは一味違った意味で、まるで「ぶっ壊れたロールプレイングゲーム」のようだ。
ユーラシアは今よりおおらかだった。(ソ連はまだあったし、新疆と北京は今ほどテンパってなかった。)全体として、あるはずの道は無かったりするが、無いはずの道が、細くけど一応はあって、ちゃんと機能していた。
アフリカは、今よりテンパってた。自分以外は意識に無いというくらいに徹底した利己主義者なのに、名札だけは「共産主義者」や「役人」というのが登場人物。全くもってひどいワンダーランド具合だった。
ラテンアメリカは、今と一緒でウダウダだったが、ウダウダ具合が今とは少し違っていたようだ。
北はシベリアやアラスカから、南は喜望峰まで。
期間にして1.5年、距離にして10万km余。
よくもまあ、これだけ走り回ったもんだと思う。
お金も体力も余裕がある上に、マネーという「欲と二人連れ」(ガールフレンドも入れれば3人か)なのでね。力強いですわ。
この旅で得た知見で、彼がいくら儲かったのかは知らない。
ただ、程なくして、改造ベンツによる2回目の世界一周に旅立っている所からすると、とりあえず世界を一周してみたところで、達成感や満足感なんてのは一瞬で、また「次」を欲してしまう。そのあたりは、巷にあふれる「日本一周記」あたりと、同じような帰結のように思えた。
本書は、過去、題名を変えつつ、何度も出版されているそうだ。
1995年 「大投資家ジム・ロジャーズ 世界を行く」
1999年 「徹底大予測 21世紀 <この国が買い、この国は売り>
天才投資家のバイク紀行」
2004年 本書
どちらかというと、古い題名の方が、本の内容を正しく伝えていると思う。
彼の投資哲学は、非常にシンプルで、明快だ。
それだけに説得力があるのだが、今の世の中に、そのまま通用するかは、微妙なように感じた。
1990年といえば、日本はバブル崩壊の前夜。まだ、浮かれた熱気と、人間ぽい温かみのようなものが、かすかに残っていたように思う。
世界的にも、何と言うか、アナログ臭のようなものが、まだ結構残っていた。
その後、いろんな浮き沈みがあって。最近では、良くも悪くも、みんな、デジタル化した。
便利で速く多量で安全(?)で、いろいろ自由になったはずなのだが、何となく、みんな量子化されて、のっぺりしたように思えるし、実際、一緒に切り捨てられてしまうディティールも多いので、いろいろと、世知辛くもある。
マネーも同じだ。
今や、それを動かしているのは金融テクノロジ(数式モデル)に則ったプログラムだ。
その「お動き」と言えば、
何となくうまく行ってないし、
どこが悪いのかもよくわからないのだが、
全体としてはまあ動いているし、
実際、止められもしないので、
動かしながら、やれるとこだけ直しとくか、
といった具合。
つまり、「ハードとソフト」に分かれた後の、ものづくりの現場とそっくりだ。
最初から最後まで、仮想(ソフト)だけのくせに。
そこへ、彼の、20年前のアナログ的な慧眼を持ってきて、役に立つのかというと。
なにせ日経ナントカの出版だし、当時は、投資家を煽る意味があったのだろうとは思うが。今、この本を読んで、著者の投資哲学に膝を打つ人というのは、著者と同じ、古式ゆかしきバブルの時代に儲けた皆様に、限られるような気がする。
つまり、もう既に懐古的な読み物であり、そういう目で読んであげるのが正しいかな、とも。(「あのキラメキをもう一度」的な、オジサマをカモるエサとして用いられる危険性は、要注意かな。)
そんなわけなので、「ふた昔前の冒険譚的よみもの」、または「昔のロールプレイングゲームの攻略本」のニュアンスの、「あー、あったな~・・・」的なお楽しみのネタとして、お勧めしておくことにしよう。
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古本しかないが、\1のがたくさん出ている。定価は\762。
冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行 (日経ビジネス人文庫)
バイクの本 「RACERS Vol.23/24 Marlboro YZR」 ― 2014/05/18 14:17
確か、誰だかに読めと言われて。
まあ、興味もあったので。自分で買って読んだ。
この雑誌の通例で、要はただの昔話なのだが。
最近、新たに取材をしなおした内容でもって、構成をしなおしている。
「あの時のアレはこうだった」という文脈。
薄い割には高い本だが、「広告がない雑誌」という珍しい作りのおかげで、何だよこれ!結局は物欲刺激かよ!という例の不快感からは無縁に、安心して、昔話に浸れる。
今回のは2冊続きで、内容は90~94年のヤマハの歩みだ。
レイニー最強といわれた時代。
そして、それが突然の終焉を迎えた時。
当時、日本は、バブル期のバイクブームがピークを過ぎた頃だ。
レプリカは峠で渋滞していたし、北海道はミツバチがブンブン飛び回っていた。
「数がいた」という意味で、それなりの市民権を得ていた、ということだろうか。以前は、テレビ界からほぼ完無視されていたバイクのレースも、ぼちぼち放映されるようになっていた。(夜中に眠い目をこすりながら、雄叫ぶ千年屋さんに、周回遅れでついて行ってた・・・。)
世界GP開幕戦の鈴鹿といった大一番は、(ほぼ?)生で中継されていたように思う。高速コーナーでホイルスピンしつつ、横っ飛びしながら立ち上がってくる、あのレイニーの強烈なライディングのインパクトは、今でもよく憶えている。
2st 500の時代は、メーカーのカラーが、今よりもハッキリしていたように思う。
ヤマハは元から2st志向が強くて、市販レーサーもずっとあったし、公道車でもRZなんかでやらかしていた。GPもケニーの時代から続いていたし、開発チームは、リソースはあまり潤沢そうではなかったが、よくがんばっているように見えた。今流に言うと、傍目にも「ストーリーが見える」感じだったろうか。
ホンダは、初めは4st志向が残っていたが、結局ダメで、2stに来た。でも、3発とか妙な形式で、独自性だけは保とうとしていた。開発は、そういった変な、もとい独自性の強い(カネがかかる)開発を、すまし顔で進めていたようにも見えていた(お金持ち大企業のイメージ)。ファン層も、正義の味方や官軍が好きなヒト、あるいは宗一郎伝説に染まったままのイメージだったような。
スズキは・・・、えっと、良く知らない。(笑)
いやホントに、シーンとシュワンツの間が思い浮かばないのだ。マモマモくらい?
という書き口をご覧になって分かる通り、当時、私はどちらかというとヤマハ派で、コンペのホンダは、チームの運営(乗り手を筆頭に、人の扱い方なんかも含む)が大企業的だったりで、ドウモネ~な感じで眺めていた。
じゃあ、アゴやケニーは官軍じゃなかったのかよう、というご指摘には、ま、そうかな、と今は思うが。(笑)
戻して。
ヤマハが、強かった当時。
レイニーは、GPチャンピオンを3連覇していた。
終わり方(例の事故)も唐突だったから、そのインパクトたるや、大きかった。
あれから、20年が経った。
20年だ。
苦すぎる思い出も、微妙にぼやけて、細部が甘さを帯びるには、十分な時間だ。
その20年の間に、読み手(私)も年を取った。仕事を含む様々な経験もあって、当時の状況を、よりリアルに把握できる。
本書で描かれる当時の開発の状況というのは、全く、「トラブってる現場」そのものだ。
現場から、金切り声で断末魔を叫ぶフィールドエンジニア。
連日の徹夜で応える設計陣。
積み木崩し(※)の連続で疲弊する製造現場。
(※) 多種多様な製造案件を効率よくオンスケジュールでこなすために緻密に積み上げた製造プランを、こっちを急ぎでやってくれ!という「突っ込み案件」に突き崩され、再度、積み直すことを言う業界用語(?)。
きっと、これに「ソフト開発」を加えて、しかもそれをカネで解決すべく人海シフトを敷いたりすると、今のレースの現場になったりするのかな。
その当時の、ヤマハの開発の技術的な道筋だが、端的にまとめると、
・開発案件が多い
・でも逃げずに全部やる
・あちこちイジって、かえって何だかわからなくなって
・結局、振り出しに戻る
「カネと時間と工数をかけた挙句のありがちな結論」、またはデスマーチ?。全く、ものづくりの現場では、今でもよく「あるある」だ。
でも、やはり、一番、強烈に甦るのは、あの時の「終わった感」だ。
あのレイニーが、突然、選手生命を絶たれた。
世界最高のライダーでさえ使いこなせない、どころか、一瞬で葬り去る。
そんな技術に、意味あるのか?
私の疑念のアスペクトは、2つある。
まず、これらのレーサー開発から、我々ユーザーにフィードバックされたものが、ほとんどないこと。
当時、いくつかあった市販車の2st 500なんて、いかにも「まがい物」丸出しだったし(400のNSは酷かった!)、250だって、繰り返すモデルチェンジの実態は、先鋭化というのは褒め過ぎで、その荷重設定域は、素人・公道ユーザーにとって「死ね」に等しい例すらあった。(公道レベルでは、どうにも操りようの無い設計、ということ。)
当ブログでも、過去、メーカーによるレプリカの訴求のし方については、 ホンダで暴露された例 を見たことがあったが。実態としては、ヤマハも大同小異だったろう。(後方排気やV型を彷徨っていたあの頃のこと。)
もう一つは、「顧客に向かっていない」ことだ。
ここでの「顧客」は、レーシングライダーのことになる。
どうも、一般消費者とは違う意味で、無視され続けているように思えるのだ。
だって、大治郎が死んだ理由が「わからない」なんて、ありうるのか?
エンジンだってサスだって、いろいろログっているはずなのに。
富沢もシモンチェリも、自爆じゃなくて、他者に轢かれて死んでいる。
最近、同じ事例が多い。
これは、何かの示唆ではないのか?
もしこれを、「刃物の切れ味が増せば、殺傷力が上がるのは仕方ないですよね」と評するなら、「タイヤを初め、全体のエネルギーレベルを上げているだけだから、タイムが上がるのは当たり前でしょうね」と返さざるを得ない。
私は、「バイクを作る」という仕事は、「ただ研ぐだけ」ではないだろう、と言っている。
作り上げた物の価値を、誰に問うているのか。
問う相手は「顧客」、本来は、エンドユーザー(バイクを買ってくれる公道ライダー)であるはずだが、レーサーの場合は、レーシングライダーでもよい。そこに向かって、自分が作ったものの「意味」を、問うているのか。
この、「ユーザーに問う」姿勢が無いと、技術者の仕事は、ただの一人よがりになる。そうして、次第に腐っていく。
(最近は、「上司に問う」ことしか考えてない例も多い。最低以前に、最悪である。)
最近は、矜持とも言ったりするようだが。
それがない。
本書の中で、このYZRの「ユーザー」は、すっかり不自由になってしまった自分の20年の向こう側を振り返って、こう言っている。
「僕には、後悔することなんて、一つもないんだ。
だって、僕は、完璧にベストを尽くしたんだ。
あれ以上のことは、僕には、できなかったはずだから。」
全く。当時の現場のエンジニアの中にも、同じ考えの人間が、何人かはいたかと思うのだが。多分、実際に発言することは無理だろうと思うので。私があえて書くのだが。
やはりあれは、技術者として、恥ずべき仕事だったと思う。
まあ、そんななので。
レイニーが飛んだその日から、私は、レースを次第に見なくなった。
だから、その後の、ミック無敵の時代などは、噂にしか知らない。(「お金持ちが余裕で安定している」様子にも思えて、興味が沸かなかったこともある。誤解だったのかな。)
その後、「世界GP」が「Moto GP」になって、フォーマットが4stになり、Ducati が帰ってきて。何か変わるんじゃないか、と期待させるものがあったので、また見始めたのだが。
多少の変遷は経たものの、やっぱり、結局はあんまり変わっていないように思えている。
要は、タイヤの設定に、車体が呼応しただけではないのかな。
「バイクの進歩」って、つまりは「タイヤ容量の向上」のことなんですかね。
そして、その上に、電制と来ている。
ユーザーの関与は、どんどん減っていないか?
そのせいかは知らないが、最新のスポーツバイクで峠を飛ばす人の姿は、もてあましているのに、やることがない、そんな風に見えることが多い。
そんな、どこか物憂げな背中を、何十年も前の古いバイクに跨りながら、私は、静かに眺めている。
不思議だなあ、と思う。
隔世の感、だけはある。
でも、年月の重さって、こんなもんなんだろうか。
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