読書ログ 「枕もとに靴」 ― 2014/06/01 05:54
図書館で、この不思議な題名に目が留まり。
初め、著者が女性だとは気付かなかったのだが。
そのブログを、本にまとめたものだそうだ。
30代も終盤に差し掛かろうという、うら若くない女性の、ひたすら自堕落な呑み助ライフが綴られている。
話としては大した事が無い。会社ではいくらでも転がっている類の「飲みすぎ譚」だ。ただ、著者が妙齢の女性であることと、職業がら(物書き)時間に融通が利くせいか、その「程度」はなかなか侮れない。そこを笑ってもらうのが本書の目的で、教訓とか真実や絆なんかを求めてはいけない。純なエンタテイメントだ。
ただ驚くのは、その軽妙な語り口(書き口か)だ。2000年代初頭の「ブログ」という単語がまだ無かった頃のブログだが、本当に中身の無い、ダラダラ綴っただけの文章なのに、妙に「読ませる」。活字を追う目線が、全く労力無しに、ページの上を滑って行く。その、摩擦の無さ加減だけは、感心した。(なかなかこうは書けない。ページの作り、活字の密度とかも、効いているんだが。)
でも、ただつら~っと読んで、フと笑って、それでおしまい。印象も何も無い。ただ単に、消費されるだけの文章だ。これは今っぽい。ネットは、こんな文章であふれている。気を引くだけで、何かを伝えることもなく、でも形や色なんかは変えながら、いつまでも続こうとする。(続けられるのはすごいんだが。)
ネットで暇つぶしに読むには好適かもしれないが、繰り返し読むことはないだろう。本として手元に置くのは、ムダかと思う。
私は最期まで読まずに飽きてしまった。いくら軽い文章とて、「次も同じ」とわかってしまえば、読み続けるのは辛くなる。自然に手が本を閉じた。一冊の途中でやめるのは、久しぶりだ。
これに比べれば、私の文章はヘタクソで、読みにくくて、分かりづらい。でも、久しぶりにまた読むと、なにか分かったような気になれるような、そんなスルメ型の文章を、ボクは目指している・・・ことにして、言い訳に替えておこう。
あっ、
本書で、心に残ったこと、ひとつだけ。
・・酒、やめようかな。
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私が読んだのは単行本。
枕もとに靴―ああ無情の泥酔日記
文庫もあるようだ。
枕もとに靴: ああ無情の泥酔日記 (新潮文庫)
続編やらなにやら、いっぱい出ていた。
どうやら、ロングテールな著者らしい。
読書ログ 「日本人へ 危機からの脱出篇」 ― 2014/06/07 21:52
塩野センセーの本は、ブ厚い単行本を、既に何冊か塩漬けにしていて。
後から出た新書なんかを、読んでいる場合じゃないんだが。
でも読んでみると、見覚えがあった。
シリーズ物?の3冊目らしい。(前の2冊は以前、読んでいた。)
文藝春秋の連載を、まとめたもの。
都度、適当な副題をつけて出していると。
いわく、「危機からの脱出篇」。
初出は、2010年5月~2013年10月号。
日本では、選挙で民主党が歴史的に(?)勝って、と思ったら新旧勢力が分裂して足の引っ張り合いを始めて(小沢が当局から足を引っ張られて)。それが済んだ瞬間に、歴史的な(!)地震に見舞われて。原発がカチ割れるという人災の追い討ちまで食らって。んでもって、何やかんやの後、なぜか、都知事の爺様が離島を買うと言い始めたのをこれ幸いに、「モンスターご近所」が図に乗り始めて・・・と、そんな時期。
ヨーロッパも、いろいろあった。ギリシャ危機が南欧に波及しかけて、イタリアでは妙ちくりんな政変があって。消費税が20%を超える?という緊急事態?緊縮財政??があって。その後も、ゴタゴタとグズグズが並行して。(いつもか。)
イタリア以外でも、景気がグラついたり(ずっとか)、極右が増えたりとか、相変わらず、ウダウダやっていた。(ヨーロッパだからね。)
地中海の向こう、もっと南の大陸のあちこちの国々では、ジャスミン革命がケつまづいてキナくさくなったり、さらに南の方の国々も、やっぱり、あちこちで散発的に、ドンパチが続いていた。
そんな世相を背景に、ローマに在住するゴリゴリの日本人である著者が、思うことをあれこれと書いている。
なにせ、持っている知識も、ものの考え方も「流されない」ところに、その視線でもって、必ず提言のようなものを書いてくれる、稀有な人でもある。「専門家」の皆様からすれば「浅い」提言かもしれないのだが、何せ、先頭に立って「こうすれば?」を言う人が、極端に少ない我国のこと(みんな逃げまくり)。 その提言のエッセンスは、参考になることが多いように思う。
そんなこんなを、過去の時事記事のログとして、その変遷を追いながら(おさらいしながら)、まとめて読む。ちょっと、珍しい体験だった。
幾つか、トピックを挙げると。
・ 死ぬ前に降りた法王
伝統的に、終身任期のはずなのに、「辛いから」十字架を勝手に降りた法王が、象徴するもの。
かつての重みがなくなる(なくなって行っている)のは、宗教の意味とか言うよりも、我々の全てが負っていたはずの十字架、人生の重みとか、中身、なのかもしれないなと。
・ 政治の話
かつての民主・小沢から、今度のリターン安倍まで、著者が応援するのは「何かヤラかしてくれそうなタイプ」ばかりだ。それは、とにかく何でも、やらなければ始まらない、という著者の焦り、まあ、ローマから日本を見ていて、「端から見ていてじれったくて」となるのは、私もよくわかるのだが。「とにかく、やる」というその中身が、こんなことなの?というのがわかった今となっては。その期待感も、妙に薄れるのは致し方ないかな。
・ 国の終わり方
エリート層が無能化して、国家が堕落した際に、それまで、そのエリートたちに虐げられ続けてきた底辺の人々が、エリートたちの側に立って、身を粉にして国家を再建し、その挙句、エリートたちに、後ろから刺されて抹殺される、そういう事態が、過去、ローマとイギリスにのみ起こったと。
それは何故か。
いずれ書いてくれそうなので。楽しみに待っていよう。
私も興味はある。そういう事態は、日本やアメリカ、中国などでは、決して起こらない気がするのでね。
その他、ヨーロッパから見た時の常識、というか「そんなん、わかるだろ普通」といったポイントが散在しているようなのも、面白いと感じた。(欧州車を理解するのにも、役立つかも知れない。)
どんな状況でも、向こう側から、こちらを冷静に見つめる視線というのは、欠かせない。
ところで、この副題なのだが。
我々日本人は、危機から脱出できるんだろうか。
ずいぶん前に、どこかで読んだ話なのだが。
日本人が、危機に対して行ってきた唯一の解決策は、
「原因が消滅するまで待つこと」だけだと。
どうも、周りを見回すと。
またいつも通り、それと同じ姿勢でいるようにも思えて。
そこだけは、気が滅入った。
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極安の古本がたくさん出てますな。
日本人へ 危機からの脱出篇 (文春新書 938)
読書ログ 「ミツバチの会議」 ― 2014/06/08 07:10
副題は、「なぜ常に最良の意思決定ができるのか」。
一見、「御社の会議はなぜダメなのか」のような、ビジネス書にも見えるのだが。全然違った。
ミツバチの生態に関する研究の成果を、最新のものまで、逐一をまとめた本だった。著者は、この分野の研究者だ。
ミツバチは、非常に優れた仕組みでもって、群れ全体で統一して意思決定を行う。そのシステムを、実験の方法から結果まで詳細に説明することで浮き彫りにする。それが、本書の眼目だ。
一応、その仕組みの一般化というか、おまとめのようなものも試みていて、他の意思決定システム(ニューロンとか)との比較も行っている。巻末に、教訓集のような形でまとまっていて、我々人間も、ミツバチの「暮らしのコツ」を学べる作りになっている。といった辺りは、ビジネス書のように読むことも可能なのだが。
やはり、本書の眼目は、実験の説明の方だ。結構長々と続くのだが、著者の、ミツバチへの惚れこみ具合、ねえ知ってる?ミツバチってすごいんだよ!と言いたくてしょうがない、という。そこは、よーく伝わってくる。(そして実際、ミツバチって、すごくて面白いなと思える。)
訳者のあとがきによると、著者は、これまでに、同類の本を2冊まとめている。
一冊は、ミツバチの生態を一般にまとめたもの。
ミツバチの生態学―社会生活での適応とは何か (自然誌ライブラリー)
もう一冊は、ミツバチが餌のありかを伝達する方法についてまとめたもの。
ミツバチの知恵―ミツバチコロニーの社会生理学
そして、この本は、ミツバチの分蜂(ぶんぽう)のメカニズムについて、述べている。
「分蜂」というのは、ミツバチの「巣別れ」のことだ。
ミツバチにとって、一か八かの大転機。
ミツバチの群れというのは、一匹の女王蜂を中心に、万単位の働き蜂で構成されているが、新しい女王蜂が育つと、「女王蜂+たくさんの働き蜂」のセットで群れを分かち、新たな巣を作る。
古巣を離れた万単位の蜂の群れは、まず、手近な場所に塊になって止まり、そのうちの数%が探索蜂となり、新たな巣の好適場所を探しに出る。探索蜂は、場所を見つけて評価し、情報として巣に持ち帰って伝える。群れは、集まった選択肢の中から最適のものを民主的に決定した後、そこに向かって、タイミングを合わせて、一斉に飛び立つ。
ミツバチは、木のうろなどに巣を作るのだが、その「物件の条件」はとても重要だ。ミツバチの群れ全体の運命の、粗方を決めてしまう。出入口は天敵に襲われにくい高さと大きさであり、湿気や寒さから逃れられる環境(日当たりや風通し)であり、蜂蜜を十分に蓄える容量が絶対的に必要。この選択を誤ると、群れは、季節の変動を越えられない。実際、最初の越冬に失敗し、全滅してしまう群れが大半だと。
その、生死を分かつ非常に重要な住まい探しを、「民主的に、最速で」進めるプロセスの内容だが。ネタバレになるが、少しまとめてみる。
・探索蜂は、巣の評価の尺度を予め持っている。(価値観の共有)
・探索蜂の評価は各個独自で、他の蜂に影響されない。(個性がある)
・探索蜂は、候補地の評価を、ダンスで群れに伝える。評価の高さは、ダンスの強さに比例する。
・候補地の情報を得た探索蜂は、各個に再評価を繰り返し、群れの情報を上書きする。
・一匹の探索蜂のダンスの強度は、時間に従い減衰する。(忘れる)
・評価の低い候補地は、ダンスの強度が弱いので、新たな賛同者を得にくい。評価者が「忘れる」勢いが早ければ、賛同者は減り、最後にはゼロになる。
・高評価の激しいダンスは、賛同者を集め続ける。その増加が「忘れる」勢いより強ければ、賛同者は増え続ける。
・全体の評価の趨勢は、上記二つの二択となり、全体の意見は集約に向かう。
・集約の結果、賛同者の数が、ある一定の「定足数」を超えた時点で合意とみなし、群れは、旅立ちの準備に移行する。
お次は、万単位の群れが、一匹の女王を中心に、まとまって「せーの」で動く、その「群れ制御の秘訣」についての説明が続くわけだが、それは、本書を読んでのお楽しみだ。
全く驚いたことに、ミツバチの意思決定というのは、個々の個体の判断力や、特定の「指導者」の意見なんかに偏ることなしに、より多くの選択肢を俎上に載せ、かつ、均等に優劣を評価しつつ、所要時間を最小に抑えながら(全員一致まで議論するといったムダはせずに)、決定に至る。
この「意思決定システム」だが、例えば、脳のニューロンなど、自然界にある他のシステムとも類似しており、結果、ミツバチの群れそのものが、一つの意思決定システムとして機能することを可能にしている(群れが全体として、一つの生き物のように動ける)、と書いている。
一方、巻末の、このシステムから得られる知見を一般化した「教訓」だが、こちらは、ちょっと力技というか、唐突な感じが否めない。まあ、話半分か、ご参考程度にとどまるようだ。(そこに至るまでの研究の話を抜きにして、そこだけ読んでも理解しがたいだろうなと。)
確かに、一読には値する。何せ、我々日本人は、上の箇条書きの初めの二つ、価値観の共有と、個性の許容だが、これだけで既に「落第」なのだ。
他方、教訓の部分だけ抜き出してしまえば、社長さんが「お前ら働き蜂がイカンのや!」と一方的に主張することも可能そうだ。優れた教訓だからこそ、背景を含めた理解は必須、ということだろう。
しかしまあ、ミツバチの群れの研究の現場というのは、全く、想像通りの場所のようだ。
何万匹のハチの中から、コレとアレをより分けて、印をつけて動きを追って、解析して統計処理して、優位傾向を抽出して、妥当性を議論する・・・。全く、気の遠くなるような作業の連続だ。
著者は、そこで、何十年にも渡って研究を続けてきた。
その、あまりの「はまり具合」に、敬意を表せざるを得ない。
(こんなに熱中できるなんて・・・少しうらやましい・・・)
その著者の「熱さ加減」が、よく書けている好著だと思った。
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ミツバチの会議: なぜ常に最良の意思決定ができるのか
読書ログ 「イベリコ豚を買いに」 ― 2014/06/21 05:05
図書館で見かけて。
スペインの食文化を楽しく紹介してくれる本、または、ちょっと変わったスペイン旅行記、といったあたりを想像したんだが。
違った。
正しい題名をつけるとしたら、イベリコ豚を『売りに』。
副題は、食品業界のOJT、といった所か。
著者は、数多くの著書を持つ作家さんだ。
ルポっぽいものも、たくさんあるらしい。
本書も、その一冊だろうか。
基本的には、何かを紹介したり、特定の題目について掘り下げる本ではない。著者が見聞きしたこと、考えたことを、そのままのアスペクトで記していくスタイル(よく言えばルポ)だ。
ひょんなことから、イベリコ豚に興味をもった著者が、本場スペインの関連業者に取材を申し込む。しかし、時期が悪く断られてしまう。どうしても取材をしたい著者は一計を案じ、「売ってくれ」という話に挿げ替えることを思いつく。ビジネスとして話を持ちかけることで、玄関を開けてもらおうという算段だ。それで、晴れて取材は叶ったものの、「買ってしまった」豚肉は、量としては少なくない。かかった金額を考えても、ぜひとも商売としてさばきたい。そこでの苦労や工夫なんかを、時系列に綴っていく。
表向きは、そんな感じだ。
でも、これは私の当て推量だが、著者はたぶん、単なる取材のための方便として、豚肉を買うことを思いついたのではないのだろう。ずっと前から、食品を売ること、食品でビジネスをすることに興味があった。「やってみたい」 その思いが、このきっかけで発露した。そんな感じがする。
著者が伝えたいことは、次の2点のようだ。
まず、イベリコ豚が、実は大変に希少であり、我々がその辺で触れているものの大概は「まがい物」だ、ホンモノはもっと素晴らしく美味である(値段も相応だが)、ということ。
ちょっと前に、オリーブオイルでも同じような話をしている人がいたが(エキストラバージンの粗方はまがい物だ、云々)。実際のところ、ワインなんかも、大同小異なのだろう。私個人の経験でも、イタリアで飲んだキァンティやグラッパは、こっちで呑んだのと全然違って、「美味い」どころか、ダイレクトに「嬉しい」代物だったし、オリーブオイルなんて「まるで別物」だった。そういった、食材の実際と風説の乖離は、今や世の中的にもある程度は了解済みのような気がするし、だから、今更イベリコ豚で強調されても、特段の感想もない。この本に手を出しそうな好き者の皆様も、大概は同じではなかろうか。
もう一つは、食品をビジネスとして成立させることの大変さだ。値段相応の味であることは無論のこと、品質の安定性(製造バラツキや、流通中の品質変化の少なさ)や、歩留まり(加工で減る分や、不良品が少ないこと)も達成せねばならない。そういったことにかかる労力は並大抵ではないのだが、著者自身、それを初めて体験し、感動したから、伝えたいと。
しかしこれも、要は、プロというのは、アマと違っていろんなことに気を使っているんですよ、知識レベルはもとより、守備範囲も桁違いですよ、というだけのことだ。「プロの道は厳しい、生半可なことでは食ってはいけない。」 そんなのは、食品以外でも、何らかのビジネスを生業にしている皆様には、普通の感覚だろうと思う。私も特段、真新しい感じはしなかった。
というわけで、期待ほどには、読むところが無い本だった。
意地悪く見てしまうと、「こんなに苦労して作った私の商品は、ホンモノのイベリコ豚を使っていて、その辺には無い、素晴らしい商品ですよ」という宣伝かい、とも言えるのだが。そこまでの悪意は感じなかった。著者がいろいろ体験し、学んで行く様を、純粋に楽しめる方というのもいるのだろうし、そういう人にこそ、向けて書かれた本なのだろうと思う。
ちなみに、食品ビジネスを始めようとする人が、実地の参考にするのも難しい。本書の内容は、既に食品業界に人脈があり「顔が利く」著者だからこそできたことで、一般人が直接の参考にできることは、ほとんどない。抽象的な教訓として読むのが、せいぜいだろう。
しかしまあ。
読んでいる最中は、腹が鳴り通しだった。
そりゃね。美味そうな肉の描写が続けばね。
でも実際、ここ日本では、ただの生ハムだって、ホンモノは探さないと見つからないし、あったとしても、高くて買えない。ワインも同じだ。それに、よしんば買えたとしても、ご当地で食べるのとは、全然、味が違ったりする。
イベリコ豚だって、スペインに行って、向こうの風土と人々に囲まれながら食べるのが一番だし、その食材の本当の味というのは、そうしないとわからない。
それに、輸出入の経路での品質の劣化も当然ある。それを知りつつ、あえて持ってこようとするのは、著者が主張する「食材に対して失礼」に当たるようにも感じるのだが。
だから私は、どうせならニッポンの食材に凝りたいし、そっちの方が、やはり本筋のように思う。
せっかく日本に住んでいるんだから、ホンモノの日本酒や日本食の方に、まず、目を向ける。
今なら、迷わず、福島産だ。
(実は、当地の酒蔵から、せっせと通販していたりする。これが旨い…。)
梅雨の晴れ間に、地元をツーリングしながら、田植えからしばらく、苗が青々と延びてきた田んぼが連なる風景を眺めながら。今年も、いい米、美味い酒を、農家の皆様と八百万の神に祈った。
ホント、何もできませんが。せめて、その分は払いますので。何卒、今年もよろしくお願いします…。
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イベリコ豚を買いに
読書ログ 「エフェクト」 ― 2014/06/28 05:39
FBやtwitterなどのWebソーシャルがどれだけの勢いで動いているのかをいちいち数えて、驚いたり警告したりしている本だ。
ネットを徘徊する人々を、客として利用すべく、駆使されている最新の方法を解説している。または、米国流・顧客第一主義@latest といった所か。
米国では、人々がネットに没入する度合いが増え続けていると。ゲームやSNSを始め、中毒性が高い、射幸性が強い、といった言われ方をよく聞くが。ネット自体は、まさにその方向性を強める向きに進歩していて、だから、いわば「当たり前」なのだろう。webにアクセスする時間が長いのは、それが新鮮だったり必須だからではなくて、単に「癖になる」ということらしい。
確かに、情報の量は増えた。twitterやLINEのような、量的にも時間的にも細かくて、これまでなら伺い知る事ができなかった、底辺のありのままの情報まで、アクセスが可能になった。まあ、ある意味、すごいことである。
とは言え、実質、情報の質としては疑わしいものが多いし、特定の意図に沿った捻じ曲げや捏造が混入していても検証がしにくい。その意味では、当局による大本営発表という「既存の歪み具合」と、あまり変わらないことになる。逆にそれが、じゃあオレたちがこれまで信じてきた「報道」そのものが、こんな捻じ曲げや捏造が含まれた「まがい物」だったのか?という疑念を巻き起こすし、悪いことに、それに対して、誰も確かなことを言えていない。結局、「面倒だから信じられそうなものを信じる」となれば、都合の良いものにばかり支持が集まってしまうし、数が多い、または声がデカイ奴が勝つことになれば、結局は今までと変わらない。利権を始めとした各種の構造は、その歪みと共に温存される。何が何だかわからない、なのに何にも変わらない。ネットって、自由ははずだったのに。それって、今、皆様が感じている閉塞感、そのものではなかろうか。
だから、その仕組みを解析して(ツールはいっぱいある)、ニクい所にひと工夫加えることで利益誘導は可能だよ、実際にもうかなりイケてる奴らもいるんだから、みんなもやらないと儲からないよ、ずっとやり続けないとラチあきませんよ、と著者はそう言っている。そうして、ニクい工夫の実例を挙げて、さらに構造を見える化して解説したりしている。
著者の説明は、何となくコンサル的な、「最新の現実」で艤装した理想論にも見える。私としては、ちょっとそらぞらしくて、あまり興味を引かれない。ただ、「信者」によくある類の、単純な賞賛ではなくて、ただ冷静に、世の中の動きを、数字でもって記述しているだけだ。現に、より多くの消費者(モノを買う人)が、より多くの時間を、ネット上を徘徊することに使い始めているのだから、それを顧客として扱う皆様には、無視できない変化なんですよと、そう言っているだけだ。
例えば、「経験の共有」といったキーワードが挙げられている。経験とは、自分が出会った事象の印象の記憶、及びその履歴のことだ。でも、例え同じ事象に出会ったとて、印象や受け取り方なんて、人により様々だ。その後のこなし方や、薄れ方も違ってくる。つまり、「経験の共有」なんてのは、所詮はムリな話なのだ。だから、「共有される経験」というのは、初めから「印象」、価値とも言えるだろうか、それが決まっている「イベント」として、据えられたものでなければならない。
「これは価値ある商品ですよ」と、初めから決まっている。
最近は、ブランディングとも言う。
この「顧客に新しい経験を強制する」という欺瞞を、「お客様のため(スマイル)」という演技でもって薄っすらと擬装しながら、延々と繰り返すこと。それを、売る側の人々が強制される世の中なのだと。
単純に、総ポルノ化とも言えると思う。
本書を読んでいて、デジタルデバイド、という単語が、ふと浮かんできた。
本来は、最新のデジタル情報機器に馴染めず、それがもたらす革新性から疎外されている人々(老人、貧乏人、偏屈者など)を指す意味だったと思う。私が感じたのはそうではなくて、デジタルが人間性を分割するイメージだ。例えば、目の前にいる人に残っている意識と言うのは、まあ大体、半分くらい。もう半分(以上?)は、ネットの方に没入したままになっている。だから、スマホなんかをしょっちゅう撫で回していないと不安なのだ。意識が、リアルとネットに分割(デバイド)されている人々。
そういった人々の価値観というのは、素の自分がどうであるかより、他人からどう見えるかの方が、常に優先されるようだ。買い物はいわば、そのための大切な手段の一つらしい。買い物、つまり消費を、アイデンティティの道具として使うのだ。昔、WASPは自分より外見が劣った人を友達に選ぶことで自分を引き立てようとする性癖がある、とどこかで読んだが。そんな感じの、各種のキャラクターを周囲に配置することで、マイワールドを形作ろうとする「相対的な世界観」という意味では、白人的な価値観なのかも知れない。
確かに、「これを持っているボク」という価値観は、昔からあったような気がするし、現に、今の日本でも広く行き渡っている。でも昨今のはちょっとちがっていて、SNSでのリアルタイムの情報発信が可能になった結果、「これを買っているボク」という新たな価値を、買い物に与えているらしい。「いい買い物なう」を、友達の気を引いたり、うらやましがってもらうための駒として使うのだ。著者は、これを称して「エゴシステム」などと称していて(エコじゃなくてエゴね)、言い得て妙だ。だから、売り手の方も、ビッグデータを解析して、その性向を逆に商売のツールとして使うために、うまいことポイントを突ければ、買い手ともども、幸せになれますよと、そんなことを延々と書いている。
ネット上の自分、FaceBookなんかのSNSに描き込む自画像のことだが、それを彫り続ける作業に意味を見出せて、没入した挙句に満足できるなら、まあ、それでも幸せなのかな、とも思う。何せ、実体が無い虚像で遊んでいるだけなので、モノあまりの世の中なのに、さらにモノ作りを積み重ねんとする、従来型の「消費」に比べれば、まだ罪が軽いかもしれない。(ゴミも出ないし、エネルギーの無駄遣いも少ない・・・のかな。)
著者いわく、ネットの動きは驚くほど速いと。それは確かにその通りで、著者がネットについてあれこれ書いて一冊の本にまとめている最中にもネットは変わり続けていて、本が実際に出た頃には、既に古臭く見えるという、皮肉な事実が証明している。(今更FBもないよね。)
所々の説得力は認めら得るものの、最期は自分が繰り出した足払いにケつまづくという、切ない結果に陥っているようでナンだった。
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エフェクト 消費者がつながり、情報共有する時代に適応せよ!
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