読書ログ 自動車のエレクトロニクス化と標準化 ― 2014/08/02 06:30
図書館で見かけて、興味本位で読んでみた。
著者は、立命館大学の、社会学システムの研究員さんだ。なので、内容としては、技術者さんが最新の技術情報に触れたりとか、この業界で働く人が実地の知識を得たりといった感じではない。外様の目線でもって、この業界はこういう構造で、こっちの方向に動いているのか~といった、馴れ初め?昔話?を大雑把に把握できる、とそういう感じ。まあ、私のような興味本位の読者には十分な内容なのだが。2008年の刊なので、情報としては既に、少し古い。
内容は、大きく二つ。
前半は、業界の構造とか、仕組みについて。
後半は、自動車の電子化の様相の概観。
前半の方は、お役所などのホームページにあるような統計の情報を自分でコネコネ解析して、各社のシェアなんかを算出しながら、やっぱりデンソーが圧倒的デスネエなどとやっている。クルマのパーツのサプライヤーは、セグメントごとに細分化しているし、メーカーの系列の多重構造を持つから、構造がややこしい。さらに、合併や倒産、社名変更などもあるので、結果はこれです、と見せられる「表」、時系列に数字をまとめた表だが、それがやたら細かくて、アタマが弱い私のような人間には、何かが見えた感じが、あんまりしない。単純に数字を統計処理すれば、一番数が多いトヨタ~デンソー系が大勢として目立つのは当たり前で、あとは、ちょうどゴーンがニッサン系のサプライヤに大鉈を振るっていた頃なので、その辺りの動きが見えるかな、といった感じのようだ。一般に、業界で働く皆様にとって、技術と市場は、お動きをある程度、統一してやるご都合があるわけだが、技術と市場のどちらの側から見ても、あまり参考になる内容ではなさそうに思えた。
で、後半の電子化の方だが、こっちも、ニッケイ何トカといった技術系の雑誌の記事をおまとめした感じで、オートザーとジャスパーがすべって16949と26262が転んだ、のような話が延々と書いてある。この辺りも、業界専門用語に少し馴染みのある方には「ああ、あれね」なのかもしれないが、それを新たに学びたい人にはチンプンカンプンという、この手の本にありがちな断絶を内包する結果になっている。
まあ大体、車載に限らず、ソフトの開発というのは、実際に本職としてやっている皆様ですら、全体像を把握できている人って滅多に居ないのが普通という刹那的な実情だから、それを文章で一般にわかるように説明するなんてのは、研究者さんには無理な話だとも思う。
総じて、「業界研究」としては、まあ一応はまとまった感じにはなっているが、真新しかったり腑に落ちたりといったことは、ほとんどなかったので。読書としても、あんまり面白くはなかった。
ただ、業界の混沌具合というか、ヌタヌタに淀んでいる感じは何となく読み取れて、正しくやろう、ラクしよう、手をかけた分は儲けよう、そんな、各々のプレイヤーが持つ意欲や意図には意味があったのかもしれないが、全体として、そのベクトルがくんずほぐれつし、結局のところ、どれもあまり成功していなくて。メーカーとサプライヤだけではなく、ユーザーまで置いていかれているという、これまた刹那的な結果になっているようだったのが、切なかった。
全く、こんなのは、近頃は「良く見る光景」で、最近の半導体や家電の業界も同類だったし、私が個人的に文句を言い通しのバイクだって、病理としては同じではなかろうか。ARMとQualcomにかしずいている、スマホ業界も同じかなと。
端的に言うと、「ソフトが上手く書けたか」と、「モノがちゃんと動くのか」が、もはや分離し始めているというマヌケな状況があって、それが、実際にモノが動いた時にユーザーを幸せにできるのかを忘れてよいことの理由として、実に便利に使われているんじゃないか、と。そんなことを、ずっと感じ続けているんだが。
話が飛ぶが、この辺の、技術の標準化って、西欧起因のものが多い。
いつだったか、私の個人的な見解として、聖書、法律、ソフトウエアは似ているんじゃないか、と書いたが。ひょっとして、ヨーロッパの連中は、いまだに「自分でバイブルを書いて、植民地式にばら撒けばOK」と、そんな感覚でいるんじゃなかろうか。この行間の美しい価値観に感謝して敬え、のような。過去、そのやり方が招いた影響を、もう忘れかけているとしたら、歴史認識の劣化としては、アジアと同じということか。(変わらずに、繰り返す。)
さらに、
それじゃあモノは動かないんだよなあ・・・と手を動かすのは、やっぱり、日本人の仕事なんだろうか。
最後に、
標準に関し、知財面からの説明が少ししかないのは不足かと思う。
認証以外で、実際に「引っかかって」イタイ思いをするとしたら知財なのだが、本場USAの知財訴訟というのは、その生真面目そうなイメージとは裏腹に、ハイリスク・ハイリターンの権化のような世界で、実際に引っかかると、それはそれは面倒だ。さらに、そもそも知財は国内法なので、USA以外は様相が各国毎に違っているから、もっとややこしい。また、法的には契約で上書きできる場合が多くて、アライアンスやRANDやらがその上に重なるので、もーっとややこしいという伏魔殿だ。一番大きな落とし穴なのに、皆が見ない振りをしているという危ない状況でもあり。いかな研究とは言え、もう少し、配慮が欲しいようにも思った。
どうでもいいんだけど。
これって、横から見ると、電子化で、どんだけユーザーが便利になるか知らないが、その分の何倍もの仕事がエンジニアに背負わされていて、その分キッチリ値段に乗っかって、結局はユーザーが払わされている事態なんだろうと思うんだが。これって、誰にとっても結局は損なんじゃん?とも感じるのだが。やっぱり、ワタクシは間違っておりますのでしょうかね。
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自動車のエレクトロニクス化と標準化―転換期に立つ電子制御システム市場
読書ログ ピーター・ライス自伝―あるエンジニアの夢みたこと ― 2014/08/02 16:30
図書館で、何故か、目が合った。
既に日焼けした、古びた表紙。
「エンジニア」という単語に惹かれたのかな。
それとも「夢」か。
読んでみると、1970年代から、建築業界で、エンジニアとして活躍された方の自叙伝だった。
「建築業界のエンジニア」って、何のことかというと。
建築をデザインするのは、建築家、アーキテクトだ。
アーキテクトが作るのは「思想」、カッコよく言うと、コンセプトだ。
そのコンセプトを理解した上で、エレメントに分割し(素材にまで降りる)、それが実際に組めるのか確かめて、どうやって作って組むのかを開発し、実際に組んだ結果が人々にどんな印象(インパクト)を与えるのかを計算し検証しつつ、業者を集め(労働サイド)、アーキテクトと議論し(芸術サイド)、クライアントやお役所などと折衝したりする(産業サイド)。要するに、建築を具現化するにあたっての、全てにかかわるお仕事のようだ。
70年代は、いろんな面で、技術的な大きな変革があった時期だ。
まず、数値計算による解析法が確立されて、設計手法に小さくない変革をもたらした。それまでの、主に経験に依った手法(伝統や職人芸)の枠を出て、より複雑で、困難な、新規の構造も活路を見出せるようになったのだ。(そしてさらに、コンピュータの出現が、この傾向を補強していくことになる。)
素材・材料の面でも、革新的な開発が相次いだ。冶金技術が進歩して、金属材料も、様々な種類や特性を、新たに獲得する傍らで、材料透明ポリカーボネートやエンジニアリングプラスチック、高機能な「布」ファブリックなどの高分子系の材料も、えらい勢いで登場していた。現場の職人も研鑽を積んでいて、加工技術も、その変化に追随していた。
著者はいわば、アーキテクチャに、新たなチャレンジと斬新さが求められた時代に、これらテクノロジの変化を使いこなしながら、アートとストラクチャの合間を埋めるべく、困難な現場を渡り歩いてきた。
その態度や思考回路には、エンジニアなら範とすべき姿勢が満ち溢れている。
クレバーでなくていい。真摯であり、懸命であり、逃げないこと。
無論、それだけでは、「仕事」は成就できない。
なにせ、建築の場合、プレイヤー(または関係者)が多岐に渡る。上は国や自治体から、直近のアーキテクト(難物も多い)、部材や備品の調達から、現場の職人まで、裾野が広いのだ。
しかも、「繰り返し」が効かない。建物は、基本、全てがワンオフだ。量産を前提とした、ものづくりスキームとは全く異なる世界である。
そして、その仕事は「建ててしまったら終わり」ではない。「仕事としての建物」を評価するのは、それを使い続ける、一般の人々だ。その建物が提供する空間の、形、光、過ごし具合。無論、建物の耐久性や、メンテナンス性のこともある。
著者は、産業界、つまり、建築を作らしめる側の構造にも目を凝らし、本書でも言及している。クライアントは誰(何)なのか、その意図や、目的は何か。それがどのようにもたらされ、終わるのか。その方法と、様式(つまり癖)について。
また、建築の「価値」、その良し悪しを伝える手段としての「写真」にも、言及している。
建築は、マクロで見た概観と、ミクロで見た構造の両面で、空間と質感を作り上げるアートであり、デザインである。本来、そのクオリティは、実際に実物に触れて、その内面と外面の両方を、共につぶさに体験しないと伝わらない。しかし現代では、実際に建物に触れることが叶わない遠方を含む、世間の大多数の人々にも建築が紹介され、文献として後世に残される。そこで、建築の何たるかを伝える役目の大部分は、写真が占めているのだ。
しかし、写真は実物の一部を切り取ることしかできないから、建築が持つ、マクロとミクロのイメージを、両方伝えることはできない。材料の質感や、実際に光が当たった時の明暗、空間の広さ狭さ、そんなものも伝えにくい。だからこそ、写真の撮り方が重要になってくるのだが、著者は、その辺りまで見回して言及している。
だいたいの場合、写真と、これはこういう建物ですよ、というキャプションを見せられれば、普通なら、ああそうなんだ、と思い込んでしまう。自分で検証などはまずしないから、その情報でもって、人々の概念が決まってしまう。
クルマやバイクのインプレ記事と同じである。雑誌を読んで、ああそういうクルマなんだ、と思い込んで、普通なら、自分で確かめることもしない。たとえ実際に乗ってみても、その評価軸を確かめるだけで、更新はしない。
「やっぱりドカティはスポーティだ。終了。」
そういう、近代ならではの「価値」の伝わり方の様相を、横から眺める著者の視点が、個人的に、妙に示唆的に思えて面白かった。
著者は、クルマのプロジェクトにも関わっている。
FIATのIDEA (Institute of Development in Automotive Engineering)で、構造工学の専門家として、クルマの設計に革新をもたらす試みに加わったと。
http://www.cardesignnews.com/site/home/display/store4/item197480/
クルマ業界の「大企業ぶり」に、辟易しながらの仕事だったようだが。(笑)
私は、クルマやバイクの設計も、基本的な所は、70年代には終わっていたように思っている。クルマというのはこう作るんだよ、という基本的な「要件」が、その頃にはもう、あらかたがわかっていた。その後は、エネルギーのレベルを上げて、それに応じて補強してるだけ、とそんな感じ。
だから、実際に乗ってみて、意外と良かったり面白かったり、感動したりするクルマというのは、そういう「要件」を探り当てようと、エンジニアがいろいろと捻りを効かせた跡を感じさせる、ひと昔の前の車種の方が、多いように思う。
対して、今のクルマは、大きくて快適だなあ、速くて凄いなあ、とは思うものの、感動することは、ほとんど無い。(どうせ、もっと快適で速いのが、またすぐに出る。)
ユーザーの方も、知らないもの、斬新なものにイッパツ張りこんでみよう、などという粋な余裕は既になくしていて。よさそうに見えるもの(そうCMされているもの)や、みんながイイと言っているもの、つまり「既にそこにある良さげ」を欲しがるだけの嗜好に、適当に丸まってしまって久しい。
もう、軽自動車でいいや、と。
現代に翻って、ちょっと周りを見回してみると、この所、何となく、「仕事」の内容が、「要件が決まっていて、ただそれをこなすだけ」のようなニュアンスで語られることが多いように感じる。法規制とか何とか、「この中でやれ」と、制約は増える一方と。
そうではなくて、要件を満たし、かつ、それ以上の何かをひと盛りすることが当たり前だった頃の、「仕事」のニュアンスを久しぶりに垣間見た気がするし、我々が既に見失いつつある仕事の面白み、それに相対する態度や考え方について、濃密な示唆を与えてくれるような。そんな内容に思えた。
建築も同じで、楽しかったのは、この時代までかもしれない。
そう思うと、やはり、少し寂しい。
建築というのは、人間が作るものの、最大の部類に属する構造物だ。
そこに宿る夢も、大きく保ちたいと思うのだが。
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ピーター・ライス自伝―あるエンジニアの夢みたこと
読書ログ 「スーパーカー誕生」 ― 2014/08/03 04:13
この春の増税前に、駆け込みで買った本だ。
(高額なので迷っていたが、どうせ、いつかは買うだろう本だからこの際・・・という動機。)
スーパーカーと呼ばれるクルマについて、その登場の背景から本質までを、時系列で流れを追っている。
このクルマはこんな感じ。カッコはこうで内装がどうで、速くてすごくて・・・。
普通、インプレというのは、そのクルマを単体で論じるのが常だが。
この著者のことだ。全然違う。
「どういう流れで、誰が、どんなことを考えて作った結果だったのか。」
物が作られた目的や、そこに込められた意図というのは、その物だけを見ていてもわからない。物の周辺の情報は勿論、時と場所をさかのぼって、当時/当地の時代背景や価値観(人々の目がどちらを向いていたか)の見極めが必要、というより肝要になったりする。
当のメーカーはもちろん、時間的に前後するモデルや、ライバルメーカーの動向も横目に見ながら、都合と意図が作り出す、人と技術の流れと、その意味を、時系列に紡いだ物語。
その「紡ぎ」を、徹底してやっている所が、この本の価値だ。
とは言え、一読すれば分かるが、この著者は、1冊にまとまる分量だけを、選んで書いている。多分、言えること、言いたいことの、1~2割しか書いていない。(終章の紹介文にも、同じようなコメントがあるが。)
私も以前、クルマではなくてバイクだが、同じような書き物を 試みたことがあった 。だから、何となく想像ができるのだが、やっぱり、文章にまとめるとなると、一本に連なるものしか書けないので、それ以外のことは、捨てる作業を余儀なくされるものなのだ。本書にも、同じ臭いがする。
しかも、題材がクルマとなれば、事情はより複雑だし、関わってくるプレーヤーも数が多い。スーパーカーが誕生してから現代までという、時間的にも長期間にわたる途方もない課題を、物語としてキッチリまとめて、かつ、読ませる。その結果が、これだけの分量になるのは、むべなるかなだ。700頁を軽く超える。まるで辞書のような厚さの本だ。
著者も自分で書いているが、この物語に深みをもたらしているのは、当事者、つまり、設計者とか、工房の生き残りの爺さんなんかだが、そういった関係者へのインタビューだ。やはり、実際に合って話をするというのは、文献を読んだり、メールをやり取りするのとは、情報の濃さが、桁で違う。
そこへ来て、この著者はもともと、情報が豊富だ。技術的な情報はクドいくらいに聡いし、業界の事情、メーカーのラインナップの裏事情なんかだが、その辺にまで通じている。さらに、実際に触れた(試乗できた)クルマについては、深く深く考え込んで止まない執拗なネチッコさ。インタビューに加えて、そういった情報でもって補完した上で、物語を筋から抽出して、紡いでいる。面白くないわけがないのだ。
本書を読むと、スーパーカーというのが、どういう商品だったのか、よくわかる気がする。
それは、専ら、お金持ちのハートをキュンとさせるため「だけ」に、とてつもないパワーと余分極まりないメカニズムと、エキセントリックな内外装を組み合わせた、一種、異形の機械装置だ。設計者の「いーんだよコレは」的な言い訳を誘うような、あらたかな庇護を内包した機械。そういう実情が、設計者本人の吐露も含めて、繰り返し述べられている。
実際に使い込んだり、ましてや使い切ったりすることは、想定されていない。だから、特に、出初めの頃の配慮が足りない機種であれば尚更なのだが、素人が「つい踏んじゃった」りすると、命取りになりかねない。
無論、「スピード、あるいはタイム」を目指した、ストイックな設定というのもありうるのだが。それは主に、サーキットをねぐらとすべき装置であり、公道には居場所がない。
大昔、私らスーパーカー世代が、ガキの頃に夢見たその姿というのは、エキセントリックさと、凄まじい高性能の両方を、見事に、かつ身近に両立させた宝物であったはずなのだが。実際は違うようだ。カウンタックとBBの「最高速の2km/hの差」なんかは当然として、まともにコーナーを云々するにはナンなことは勿論のこと、GTとしても「どうかしらね」と。それが、どうしてそうなるのか。本書を読めば「そりゃそうだ」となる。
その矛盾、「性能を上げると、単純に、使いようがなくなる」というアンビバレンスは、今でもそのまま残っていて、それを、「両立」と言えば聞こえはいいが、要は「ごまかす」ために、あちこち電制してみたりと。そういう訳だ。
公道で、高性能を楽しむには、レーサーとは違う方法論になるはず、
(公道で乗り物を楽しむには、絶対性能とは違う尺度になるはず、)
その矛盾は、実はバイクの方が如実に身近で、かつ、ダイレクトに死活問題なんだけどね、というのが、私が、キーボードがテカってくるほど、繰り返し書いていることなんだが・・・。
本書に戻って。
そんなわけで、実によく書けている本書なのだが。
危うさもある。
どうも、結論ありきで書かれた雰囲気がある。
著者が、その論の大きなより所としているインタビューだが、それを信じ過ぎているような。
インタビューの相手は、スーパーカーと呼ばれるこの類稀なマシンを、実際に具現化するほどの「伝説の」設計者たちなので、頭もいいし、話もうまい。何十年も前の、設計当時の昔話を淀みなくするし、細かい数値だってスラスラ出てくる。凄い。それはわかる。独創的な人の話と言うのは、どこから聞いても面白いし、惹かれるものだ。
ただ、かつてエンジニアとして働いた経験からすると、こういう人は、その場その場で論理の破綻なく話を作り上げることなど造作もない。頭の回転が速いから、四則計算が速いのと同様、打算をはじく方も速かったりする。スラスラ出てくる数字だって、厳密に合っているのかは、本人しかわからなかったりするから、検証もやりようがない。
怖いのは、わざと相手を騙してやろうと、悪意でもって、そういう話をしているわけでは必ずしもなくて。どころか、自分でも、ちゃっかりとそれを信じちゃったりする場合もあるのでややこしい。(純な人や、夢見がちな人に多かったりするので。かえって始末が悪い。)
以前、こんな話もあった。
子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき
同じような内容は、脳科学関連の本では、繰り返し出てくる。
ほぼ常識らしい。
無論、本書の場合は、著者の方で、それ以外のデータ、図面や、自身の経験値などで、インタビューの内容を検証し直しているから、大ハズレ、ということは無いと思うのだが。何となく、「結論ありき」で話ができているような部分も見受けられて。少々だが、気になった。
例えば、あのカウンタックが、最初期型の当時から、四駆を標榜していたとあるが、本当だろうか。今、図面を見ると、ミッションがグサッと前に向かっていて、いかにも、すぐに四駆化できそうには見える。そこに異存はないのだが、センターデフのメカニズムが影も形もなかった当時から、「それを想定していた」って、ありうるのだろうか。
まあその辺は、程度問題かも知れないし、そもそも、この本が、著者の経験から一本、筋を抜き出した「物語」なのだから、うるさいこと抜きに楽しめればよいのだし、どうしてもうるさいことを言いたければ、自分で検証し直せばいいのだ。(著者も終章でそう言っている。)
この本は「研究」ではない。(研究ならば、自分の個人的経験や感情、感覚などを、一切、完全にネグレクトする所から始めないといけない。)だから、この本はこれで十分、どころか十二分に力作だし、私は存分に楽しめた。
これと同じような深度の物語が、他の著者からも出てくるようになれば、面白いと思うのだが。
いまだに、クルマ業界で結構な金額を稼いでいる国に住んでいるし、実際、私もそのおこぼれに預かっている(納品している)。
クルマって何なのか、考えることはムダではないはずだ。
あっ、そういえば。
「午前零時」の7巻目 が出たんだった。
まだ買ってないな・・・。
ご参考:同じ著者の過去のエントリー
「午前零時の自動車評論」
「自動車小説」
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スーパーカー誕生
【追記】
これだけのページ数と値段の本なんだから、もう少し、イラストとか写真、図面!なんかの絵的な情報も、入れ込んで欲しいと思う。これは「午前零時」も同じだが。せっかく出版し直すのに、元記事からほとんどupdateがないなんてサボり過ぎだ。仕事しろ出版界!。
読書ログ 生まれた時からアルデンテ ― 2014/08/09 06:14
これまた、図書館で題名借りした。
アルデンテ?。何でしょうね。
私ったら、生まれた時からコシがある子だった?
キミという料理は生まれた時からおいしい絶頂に作られているね?
著者は若い女性で、食べ物に関してあれこれと、写真やイラストを入れたりしながら書いている。
何をしている人なんだろう、偉いシェフにインタビューなんかもしているようだ。
「料理を書く」といっても外食系の人で、自分で料理をして云々する方向ではない。あの店のアレを食べたらこんな感じ、というのが大半だ。後は少し、食べ物で遊んだりしている。
とはいえ、ただの「外食べログ」とは毛色が違う。その筆致というか、単語は料理とは無関係そうなものが多くて、しかも、それが並んだ様は、普通の日本語とは、ちと違う。
ナンか外れているというか、少々ブッ飛び遊ばしている。
いや、イマドキの若い人の書き口としては、珍しくないのかもしれないが。
人気のブロガーだったりもするようなので。
いわく、
わかりやすい敵を作って
反発するのは
全然かっこいいことと思わないけど
それでもやっぱり
パンケーキよりははんぺんだし、
フレンチトーストよりは厚揚げだと思う
どこにどんな店があって、どんな風評か。一流レストランから庶民のお菓子まで、その手の情報には、ものすごくさとくて。労を惜しまず、遠方まで、確かめにも行く。しかし、いざ自分で味わう段になると、そんなものは全て忘れて、自分の舌に集中する。どころか、ほぼ口腔だけの生き物と化す。
本当に、食べることが好きなようだ。
自分が食べてどんな感じか、それが好きで楽しくて、それ以外のことはどうでもいいと。
だから、巷の情報は、ただの、きっかけ。
そうやって、あれこれ食べて、著者に残るのは、感覚の記憶。
味は、食べたその時の一瞬だし、食べ物は、消化してなくなってしまう。
そも、儚いのだ。
しかし、考えてみると、人生の粗方ってみんな、そんなもんだ。
日々の暮らしで我々を生かしているのは、うれしい、楽しいと思った、その感覚の記憶なのだ。
と、著者は言っているようだし、
私もそれには賛成する。
夏のボケた頭には、肩の凝らない食べ物ポエムもいいかもしれない。
でもね。
私は半分で飽きた。
週1回のブログのように、たまに読むなら楽しめるのかもしれないが。
1冊の本にまとまった量を通読となると厳しい。
何だか最近、そういう本が増えたような 気がする 。
パッと見のアピールが良さげだったり、書評などでも好評なものに多い気も。
ネット時代の本の作り方・売り方、ということなのだろうか。
LINEのブツ切り会話を、そのまま出版するような暴挙は、御免被りたいがね。
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生まれた時からアルデンテ
読書ログ 宇宙の扉をノックする ― 2014/08/09 16:22
どこかの書評に出ていた本だったと思う。
図書館に予約していて、忘れた頃に番がやってきて、借りられた。
本は、既にえらく汚れていて。
理科好きの皆様は、借り物を大事に扱わないのが多いらしい。
えらくブ厚い本だ。600ページ近い。
題名通り、宇宙に関する科学的知見の最先端を、ミッチリ綴ってある。
今、最先端の科学者は、宇宙の扉のどの辺をノックしていて、それは、どんな音がするのか。
いろいろ、クドクドと・・・もとい、丁寧に書いてある。
内容は、大きく3つに分かれると思う。
まず、基礎的な内容。これまで科学はどのように進歩してきたか。ガリレオが泣いてニュートンが笑ったとか、そういう話だ。現在の量子力学ベースの理論に至るまでに、世の中で、何が理解されていて、何が理解されていないか(こんな誤解が流布しているけど違いますよ)、といったこと。
次に、最先端の宇宙科学の研究施設である加速器(ハロルド君)の建造に関する内容。いささか政治的なことから、土建屋的なことまで触れてある。とはいえ、泥臭い話にはならなくて、加速器の設備の全体像&解説や、内部の写真まであって、メカマニアや、(近年、台頭が著しい)プラントマニアなんかにも、垂涎の内容である。無論、純粋な科学者(または理科マニア)の皆様にもアピーリングだ。本当に最先端を走ろうと言う学者は、象牙の塔で霞を食ってる引きこもりなんかじゃダメダメで、足元に転がる人間臭っさい問題をも、まずこなす。そういう能力が、必要なようだ。
最後は、その先端の設備で何をやったらどんな結果が出て、科学者はどう解釈していて、次にどんな実験を組もうとしているのか、その辺りの解説だ。ここへ来てやっと、上の二つ、基礎的知識と、どんな施設で何を見ようとしているのか(見えているのか)の知識が、具体的に組みあがって、形を成す。ああ、科学者がノックしている扉と言うのはこんな形をしていて、そのノックの音はこんなエコーなのか、とそんな辺りが伝わってくる。
そうやって、知らないことを知ろうとすること、クリエイティブであること、世間のたわ言や誤解に関わらずに、真実を見極める姿勢を持ち続けるというのは、どういうことかに簡単に触れて、全体をまとめて終わっている。
そこまで至るのに、600頁。
長げえよ。 ( -.-) =зフゥ
ちなみに、著者は、女性の物理学者だ。
超一流の大学教授を歴任して、ダークマターなど物理のダークサイドは無論のこと、加速器建造に伴う、学者と政治家が予算で戦うような、リアルにダークなマターをもかすった後に、ややこしい実験結果から見え隠れする、お目当ての(宇宙物理学的な)ダークマターの影の影まで、「笑顔で」取り組んでいるという、恐ろしい女性だ。
デキるオンナの物理の話。
しかも、この文章量。
フツーのオトコは、消化不良必至である。
我こそはという諸君。
健闘を祈る。
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