読書ログ 「ヨーロッパ思想を読み解く」 ― 2014/11/02 06:12
出張の新幹線の車中で、半分眠りながら読んだので。
ちゃんと読めているかは微妙なのだが。
これが、「ヨーロッパの思想を読み解いた」ことになるのか、私には、よくわからない。
哲学概念的な「向こう側」の、取り扱われ方や変遷について、著者の考えを述べた本だ。
「向こう側」というのは、真実とか、本質とか、理想なんかがある所。
こちらからは見えない。我々に見えているのは、ものごとの半分、こちら側を向いている部分だけ。
「向こう側」を含めた、ものごとのありのままがどんなものなのか、我々は、こちら側の事象を眺めながら、想像するしかない。想像をしながら、頭の中に形作った真実や本質を、繰り返し更新し緻密化し続けることで、より真実に近づいた、進歩した、そういう考えで来たのだと。
いくつか、注意点がある。
まず、「向こう側」は、「あの世」とは違う。死者や神がいるところ、宗教的な概念とは違う。
また、日本には、ついぞなかった概念だ、とも言っている。日本人にとって「向こう側」は、妖怪や、神様(やおよろずの)なんかがいる世界のことを、今でも意味することになるだろうと。
著者は、「向こう側」とは、これら、宗教的、民話的な概念とは違う、純粋に哲学的な話をしているのだと、繰り返し注意を喚起している。
(ちなみに、力に優れ傲慢な敵に対し、暴力的な攻撃心を抱くことにトキメく、おじさんライダーの居場所でもない。ごめん、そんなマンガが昔あったのを思い出した…。)
想像するに、「向こう側」とは、月の裏側のようなものだろう。すぐそこに見えているようで、実は決して見えていない。どころか、見えていないことに気付きもしなかったりする。それがどうなっているのかは、実際に見えている残りの半分(表側)から、想像するしかない。決して検証もできないから、どんなものを想像しても個人の自由だし、その是非は、その時々の人々で、ワイワイやるのがせいぜいだ。
で、「ヨーロッパの思想」の方だが、カントやヘーゲル、ニーチェやフッサールといった近代の哲学者たちが、この「向こう側」をどう扱ってきたかについて、著者の観点でもって、ひも解いて・・・というか、一刀両断にしている。ドイツやフランスの哲学は、それを崇めたり無視したり、盗んだり貶したり、ぶん殴った後に泣き出したり、ニードロップと言いながら、実はつま先からそっと着地していたりで、結局は扱いきれずに、行き詰って終わっている。多少とも役立つのは、「向こう側」のあり方にこだわらず、実用本位で来ているイギリス哲学の方だろうと。
日本人は、「向こう側」に向き合った歴史がない。科学は、見えない真実を繰り返し探り続けるという意味で、ある程度「向こう側」を想定したものなので、全く馴染みがない、というわけではない。ただ、そういう考え方に触れたのは近代以降で歴史が浅いし、「そういうセットで」与件として輸入したので、未だに本気で取り組めていないと。
ここ何十年、日本は、バブルやら冷戦(社会共産主義、つまり革命ね)なんかの崩壊を経て、オウム事件で宗教に完全に止めを刺した後、ちょっとすり寄ってみたバーチャルな世界もすっかり汚して、今や「生きている実感のない人」で溢れている。(この辺の描写はなかなか面白かった。) そんな日本にとって、「向こう側」に真摯に向き合うことは、この閉塞感を打破し、発展を続けるための新しい糧になるのでは、と著者は言っている。
理念やら情念なんかで行き詰っているのは、世界中、同じだ。冷戦の後に、民族や宗教でもって、さらに面倒な紛争を続けている。ただ、「向こう側」の扱いに行き詰ったヨーロッパに比べ、日本には、失敗体験がない。その点を、有利に転化することが可能だろうと。
どうやって?という手段の方にも触れているのだが、そちらの方は凡庸かつ無責任で、あまり面白くなかったので。ここでは触れない。
私が気になったのは、そういった、本書の本筋の方ではなかった。
これが本当に、「ヨーロッパ思想を読み解いた」ことになるのだろうか、とそっちの方だ。何となく、著者が言いたかったことに、哲学を、かこつけたようにも思えるんだが。
それに、物の真偽にかかわるマジメな問いに対し、「オレはこうやっている」という答え方は、「哲学」と言えるんだろうか。
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ヨーロッパ思想を読み解く: 何が近代科学を生んだか (ちくま新書)
読書ログ 福野 礼一郎のクルマ論評2014 ― 2014/11/16 07:35
久しぶりに礼さんの新刊を読んだ。
新刊といっても、例のように、どこぞの雑誌の記事の過去ログ集、しかも図や写真の類は一切なしの「活字オンリー」。このクルマのここのスタイリングがどうのこうのという、ビジュアルに関する文言が虚しく空振る作りだ。ページ数は結構ある(300頁ちょい)が、お値うち感はかなり低め。
記事の方は、いつものエンタメ臭プンプンの、テンポのよい筆運びは影を潜めて、ちょっとだけ、マジメな筆致になっている。
そも、「自分のインプレは当てにならない」ことを前提に書いている。
数値に対するこだわりが減ったように見える。スペックを引きながら、あっちが転んでこっちが滑った、とやる頻度が前ほどではない印象。それよりも、実際にモノに触れて、乗った感じがどうだったか、その感覚の方に重きを置いている。
感じ、感触、感情となると、当然、ぼやける。人の感じ方なんて千差万別(書き手と読者で感じ方は違う)、かつ尺度(知識の量と質、経験値の両方)も異なる。加えて、モノの方も、製造の個体差や、使われ方やメンテナンスの差、時間が経てば、同じ型とてメーカー未公表のマイナーチューンで別物になっていたりもして、いつ何がどう違ってるのか、わかったもんじゃない。
だから、正確を期そうとすると、この時期に、この個体で、このシチュエーションだとこうでしたよ、という言い方になって、何だか、言い訳じみてくる。あの、いつもの礼ちゃんの「バッサリ感」がない。(いや、後書きで、自分をバッサリ切っているが。)
著者の尺度は相変わらずで、ヨーロッパ車、特に高性能ドイツ車の、カッキリきっちり思い通りに走れる感がやっぱり「好き」で、それを見つけたとき、嬉しまぎれに出てきてしまう「礼ちゃん節」は、少しだけ楽しめる。
それでも、全体に「奥歯に物が挟まっている度」は、以前に比べれば、やっぱり高まっているようで。まあ、よく言えば熟成、悪く言えば衰えたような。
BMWの何番とかベンツの何型なんかが良くて、他は要注意(以前だと「スカ」呼ばわりかな)だとか、ゴルフ7の1.2Lが「神」だとか、そんなことが、いろいろ書いてあるのだが。当の読み手の私の方が、もうクルマには興味を失くしていることもあって、ほぼ遠い世界の物語として、楽しく読ませていただいた。
技術的にはいろいろ進歩していて、凄んごいんだな、というのはわかった。
他方、商品としてはファッション化、使い捨て化が進展していて、今この瞬間の輝きだけで、モノの価値を計る度合いは、その後もずいぶん高まったんだな、とも感じた。
私も以前は、真っ赤なイタリア車(クルマね)に乗ったことがあって、これがまたすごく気に入っていて。捨ててからもうずいぶん時間が経った今でも、たまに身体がふと思い出して悶絶するという(←エッチな表現だな)トラウマ持ちだ。だから、筆者がヨーロッパのイイクルマに乗ってヨガったりホエたりするのは、わからんでもないんだが。クルマの維持費に趣味性を持ち込む金銭的余裕をなくしてこのかた、そちらの方は、(半ば意識的に)完全に無視することにしている。
残り少ない金銭的余裕は、二輪たちの維持で食い尽くされ続けているわけで、クルマの本を読んだ感想だというのに、やはり、バイクの話になってしまうのだが。
評価の軸は、この著者と、同じようなものだと思うのだ。
「思い通りに動くもの」
今でも、LeMans 1000に乗るたびに思う。
前後左右上下、もう思い通りに動く。(「上下」は、加/抜重のことね。)
行きたい、または行くべきその時(タイミング)に、行きたい、または生きたい所までキッチリ行ける、そう思える手ごたえ、そこから得られる安心と、自信。
単に「高性能」という意味ではない。行けない、または行くべきでない場合は、ハッキリとそうわかる、逆の意味でも明瞭なのだ。(行けない、または行くべきでない所までも行けそうに思えてしまう単純な「高性能」だと、実際に行った日にゃ大事故だし、そうでなくても、迷いが生じる、その一瞬の「間」が、命取りになることもままある。)
また、今日は行きたくないな、と思うのなら、ゆっくりも走れる。そういう意味での「下方向の自由度」もまた、「如意加減」を語る上では重要な尺度だ。(イケイケ!と煽るだけの、上方向だけの自由度というのは珍しくない。そうではない、全方向の懐の広さのことを言っている。)
これは、あの時代のMoto Guzzi だけが、持っていた乗り味だ。
同じGuzzi でもその前後では異なるし、同世代の機体でも、例えば、スポーティで名高いDucatiでは、また話が違ってくる。
車重が軽いからトラクションがよく効いて、ズバズバと思った動きができるのが売りではあったわけだが。車重が軽いからこそ、接地面の面圧確保に、常に留意し続ける必要があるという、気の抜けない性格でもある。
Ducati でしかできないことがある一方、Ducati ではできないことというのもいっぱいあって、前者を優先して後者を捨て去る(または見ないで過ごす)度量の有無が、ユーザーを「ふるい」にかける仕組みになっていた。公道では、両刃の剣となりうるこの道具は、だからこそ、よく言えば懐が広い人、悪く言えば諦めきれないことを自ら悟った人間にとって、得がたい道具として、機能してきたのだ。
(最近の型は、そうでもない。アレもコレもと全部揃える、ホンダみたいな「儲かるメーカー」になろうとして、古参のユーザーが眉をひそめていたのは、もう十年以上前の話だ。)
コーナーを何km/hで回れるか、その限界性能を最優先にした尖がった性能というのは、それ以外の粗方を、捨て去る結果になる例が多い。(全部を両立させるというのは、一般に、コストも時間もかかる、大変な仕事にならざるを得ない。市場にあるほとんどのバイクは、そこまでは真面目に作られてはいない。)
公道では、いつ、どこで、何が、どれだけ必要になるのか。
一口には言えない。
「わからない」とも言える。
だからこそ、その「全方位に、いつでも如意に動ける」意味での性能というのは、最優先のニュアンスであるはずなのだ。
「このエンジンで、サーキットをなるべく速く」
そういう制限の元では、例えば、Moto2のようなアライメントも「有り」だろうし、一つの「解」として光って見える。そういうこともあるだろう。
そんな「レースで見たまま」を手に入れてほくそ笑んでいるだけなら、まだ罪がないのかもしれないが。
そのデチューン版、ハンドルを高くして、エンジンを低速セッティングにして、コストダウンも含めて動性能を丸めてみました、そんな例を、「マジメな公道バイク」と勘違いして買わざるを得ない(買わせようと仕向ける)例が、いまだに多い。どころか、かえって増えているようにも感じる。
「不真面目だ」
裏返すと、「ホンモノじゃない」。
私がホンモノと言っているのは、 LM1000のエッセンス だ。
そのエッセンスを、「これですよ」と純な形で抽出してみせる描写力は私にはないし、たとえ皆様がLM1000に乗ったとて、私と同じ事をお感じ頂けるとも限らないので。何とも伝わりにくいとは思うのだが。
「前後左右上下、思い通りに動かせる」感じ、それに伴う心地よいリズム(波長)と緊張感。
これに関して、LM1000に上回るものに、今に至るまで、私は触れることができないでいる。
確かに、当のMoto Guzzi でさえ、これを、これだけの濃度で現出できたのは、数あるラインナップの中でもLM1000が唯一だと思うし(LM IIIは「良さ」のニュアンスが違う)、その後に続く後輩たちは、スペックとか、エコ性能とか、生産技術とか、いろんな意味で「進化」はしているのだと思うのだが、この乗り味のエッセンスは、はやり、薄れて行く一方のようだ 。
つまり、当のMoto Guzzi ですら、これが何だったのか、具体的にどこをどうすれば実現できるものなのか、わかっていなかった(後輩に伝えられなかった)証左であると言える。
いや、私が感じていることのほとんどが、ただの幻想か錯覚だろうと、そういう言い方もできるのだろう。
もう一つある。
耐久性だ。
電子制御は、長持ちしない。
正確に言うと、長持ちかどうかに、留意していない。
物は、いずれ壊れる。
当たり前だ。
ただ、これだけの値段を出して、ウンチクやコストやリスクなんかを背負って得られる価値というのが、たった一代きりで終わりというのは、はやり、どこかやるせない。
片やLM1000は、「ポイントを磨いてキャブを見れば、何とか動いてしまう」という世界。消耗パーツの供給と、基本的な整備の知識と腕でもって、何度でも蘇生が可能である。
多分、私のLM1000の寿命は、私個人の寿命より、遥かに長い。
状況さえ許せば、私の孫子の代でも乗れるだろう。
そういう世界に棲む私の感覚としては、何百万も出して買うクルマが「基本、使い捨て」であることと、それがさも当たり前であるかのような前提で、クルマの良し悪しが論じられているということに、抜きがたい違和感を感じる。
結局は、メーカーのやり方、つまり
進歩だ何だと言いつのるのが、要は、頻繁にリピートしていただくため。
「食うため」
そのやり方に、寄り添っているだけ。
その辺の、一般ライターと同じ。
「宣伝」
この著者は、それを、わかっていて、やっている。
(と、後書きに自分で書いている。)
罪なのか、衰えなのか、余裕なのか、諦めなのか。
「飽きた」ということか。
片や、私の方といえば。
「うん、コレがいいや」と、納得ずくで楽しく乗れる機体が、長く手元にあり続けているというのは、それだけで、十二分に幸せなことではあるのだが。
新しくて、もっといいもの、それを感じる感性をなくしてしまった、衰えた時代遅れである証拠、かもしれないわけで。(そうならないよう、努力はしているつもりだが。)
ああ、妙な所に来ちまったなあ、しかも動けないし、と。
また、感じた。
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福野 礼一郎のクルマ論評2014
読書ログ 「木村伊兵衛と土門拳」 ― 2014/11/23 08:23
何度も読む本、というのがある。
何度も読んでいるから、見覚えがある文章なのだが。
でもやっぱり、よく書けているなあと、また感心したりする。
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時間というのは、不思議なものだ。
刻一刻と、等間隔で、刻まれ続けている。
そう思われている。
物理的には、そう証明できるもの、なのかも知れないが。
生活感としては、それは証明済みの事実なんかではなくて、ただの仮定のように思える。
楽しいことは早く過ぎる。
いやなことは、長く感じる。
小さい頃や、若い頃は一日が長かったが。
歳を取ると、一瞬だ。(一日どころか、十年だってあっという間。)
遠い昔の記憶でも、リアルに思い出せることがある一方で、
憶えておくべき重い出来事のはずなのに、なぜか印象が薄くて、
遠い昔のようにも感じることもある。
実際、時間は、等間隔なんかでは全くない。
不均一なだけでなく、濃淡をもって、流れたり、淀んだりしながら、
我々の周りを、たゆたっている。
我々はその中を、過去を眺めながら、後ろ向きに背中から、未来に向けて歩いている。
(昔のギリシャ人の時間観がこうだったと、どこかで読んだ。)
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「写真」に、話を移す。
改めてこの漢字を見ると、また、えらい訳語だなと思う。
まことをうつすもの
picture というと「絵画」も含むし、photography というと光の話、「光学的複写」のようなニュアンスを感じる(職業柄かも)。でも、日本語の訳語ように、「真実を扱う」ニュアンスは、あまり感じない。
映像が真実を写すというのは、ただの思い込みに過ぎない。
面白おかしくでっち上げられた映像は、今やその辺に溢れているし(広告やCMからYouTube、ブログに写メ・・・)、政治的な意図が込められた報道写真(映像)なんかは、もうオワコン扱いだ。
それでなくとも、「こんなはずじゃなかったのに」を繰り返している、(私のような)下手っぴカメラマンは、その類の「映像の罠」の深さと痛さを、人一倍よく知っている。
写真が写しているのは、撮影者の記憶や印象だ。
その、何百分の一秒とかの、「一瞬」の時間。
一方で、写真を見る者が感じるのは、自分の記憶や印象だ。
その「一瞬」が、私の中から探し出した「何か」。
写真は、その間をつなぐ。
つなぐことができる写真が、よい写真だ。
その「一瞬」を見つけたくて、写真好きは、ファインダーを覗き続けている。
(全く、ファインダー、「見つけるもの」とは、良く言ったものだ。最近は無くなっているようだが。)
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この本は、日本の昭和を代表する二人の写真家の、作品とバックグラウンドを、時系列に追ったものだ。
戦時中から戦後にかけ、写真は、一部の専門家から、一般庶民へと普及するにつれ、その使われ方も、報道や芸術などの上層から、記録や趣味などの下層へと広がりを持って拡散して行く。使われ方だけでなく、社会的な位置づけもシフトしていたから、撮り方、見せ方、捉え方、考え方なんかをめぐって、いわば、「写真がアツかった時代」があった。
カメラのハードも移り変わっていた。機械、レンズ、フィルムの三つ巴で精度や性能が向上していて、その各々が、撮れるものの精度や性能を日々、上げていた。その一つ一つが真新しくて面白かったし、かくして「カメラが売れると紙屋(フィルムとプリント紙)が儲かる」という不思議な構造の業界を、広い裾野でもって、支え続けていた。
その頃の、重鎮(または教祖?)であり、代表でもあった二人が、
何を考え、何をして、何に至ったのか。
丹念に追いながら、解釈を加えていく。
(必然的に、日本の写真史を、側面から見つめる作りにもなっている。)
それにしても、よく書けている。
著者が、これら写真家の作品から感じ取る情報量は凄い。
もともとは、写真雑誌の編集さんなのだそうで、「写真の見方」には慣れていたろうし、これら写真家の著作や言動などの「背景」にも通じているから、ある意味、当たり前とも言えるのだが。そういった事情を抜きにしても、その感性が、写真の下からすくい取る情報の深さと鋭さは、この人自身の実力だろう。その一々が持つ説得力が、並大抵ではないのだ。
それら「背景」と、著者の「読み」を突き合わせ、より合わせして、物語として紡いでいくその様には、ある種の、執念のようなものを感じる。
それに、この文章力だ。
自分が感じたことを、言葉にして表し、伝える能力。
私も、こんな文章を書きたいものだ、といつも思う。
(でもこの人は、この一冊しか書いていない。)
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カメラが、「庶民のもの」になり、その数を増やすにつれ、
撮ること、撮られることに対する余裕も、失くしていく。
それまで、ふんだんにあった自由度を、互いに、食い尽くすかのように。
カメラの使い方が、次第に限定されていく。
当初、「何でも撮れる」と思われていたカメラは、こういうものを撮るもの(それしか撮れないもの)というふうに、「残された少ない余地」に特化していく。
その動きに、「技術の進歩」が同調し、互いに絡み合うことで、余計に、行き場を失くしていく。
(「どこにでも行ける」筈だったクルマやバイクが、次第にどこへも行きづらくなっていったのに似ている。他にも類例多数だろう。)
そうやって、時代は変わって。
「便利」だけが残った。
「カメラ」が、電話の片隅にひっついた節穴になった今、この本にある意味での写真のニュアンスは、理解されにくいかも知れない。
この楽しみを再現するのは、もう難しいように思うし、「惜しい」とも思う。
撮ってアップして終り、という「使い捨て」から、この感性(愉しみ)を救う手立ては、ないものだろうか。
以前、一回書いたような気がするのだが。
画素は少ないが、感度(レンジ)が広いセンサー。(CFなしの白黒でいい。)
コントラストだけの、簡単な現像ソフト。
薄い象牙色の上質(そうな)紙と、漆黒のトナーの、専用プリンター。
そんなエコシステムを作ってくれる、粋なメーカーはないものか。
(既存のフィルムカメラの資産を流用できる、デジタルパックだと尚良い。背面モニターなど必要ない。フィルムの頃と同様、画像データを持ち帰って、現像できるだけの、最低限の仕組みさえあればいいのだ。)
シンプル、かつ手を入れる余地が大きいほど、趣味として「はまる度合い」は深い。だから、そういうシステムを作ってやれば、この趣味に馴染みがあるオジサマ連中は勿論、若い人にもアピールできるんじゃんないかと思うのだが。
写真は、時間を撮るものだ。
だから、時間とか、経験なんかと同じように、
淀んだり、たゆたったりしながら、
我々の周りを、流れ続ける。
今も、これからも。
そういうものなのだろうと思う。
だから、そこに漂う深みやニュアンスを、やはり、なくして欲しくないなあと。
この、よく書けた文章を読みながら、また感じた。
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※ 先週の と違って、ちゃんと写真も載ってますのでね。
文庫版
木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯 (平凡社ライブラリー)
単行本
木村伊兵衛と土門拳―写真とその生涯
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