読書ログ 結局、どうして面白いのか─「水曜どうでしょう」のしくみ ― 2015/01/03 10:20
( 先週の の続きだが。本の内容としてはほとんど関係がなかったので。別エントリーとして上げておく。)
著者は、カウンセリングの辺りが専門の、心理学の学者さんだ。本書は、著者自身の専門である心理学的なアプローチでもって、この番組の面白さが、どう解剖され、理解されうるのかを綴ったものだ。
このTV番組だが、二人の役者があちこち旅して回る様子を面白おかしく写したものだ。画面に映るのはこの二人だけなのだが、撮影スタッフとしてついて回っているディレクターやカメラマンが、横から音声で茶々なんかを入れている。造りとしてはすごくチープなのだが、何となくダラダラ見てしまう不思議な魅力があって、初めは地方局のローカル番組だったがブレークして、今では全国的に根強い人気を誇っているそうだ。
著者は、この番組の大変なファンで、好きが高じて(?)上記のディレクターなど番組の制作側スタッフに自ら長時間のインタビューを行い、その言説を心理学的に解釈した見解を本書にまとめた、とそういうわけだ。
その見解とやらを簡単に書くと、この番組は、登場人物の二人の旅という「オモテのストーリー」と、その映像を撮り、編集して番組として作る側の「ウラのストーリー」が、前後左右に少しズレながら展開される、その二重構造がミソですよ、ということらしい。それら二つのストーリーをそれぞれ「物語」と「メタ物語」と名づけて、その位置関係や方向(ベクトル)がもたらす効果や意味についてあれこれ論じている。
一見、何となく、意外性とともに本質を突いているようにも思えるのだが、通読し、よくよく考えてみると、やっぱり、コジツケと言うか我田引水のような気がして、納得感が残らない。本の最後には、本格的にカウンセリングの話になって、すっかりご自分の庭にお戻りになって終わっている。
件の番組だが、確かに、不思議と気を引く妙な造りではあるのだが、番組としての映像を作るための方法論としては、さして新しくない。だらだらと撮った中から面白いところだけを編集するような造りは40年前からあったし(欽ドン)、普通は画面に出ないはずのスタッフが横で掛け合いをやっている例も30年以上前にあった(ビートたけしのオールナイトニッポン)。行き当たりばったりの過酷な旅を意外性で見せるという造りは、言わずと知れた猿岩石くんだろう。
そんな古の造りを組み合わせつつも、本職の役者さんが、ちゃんと受けを狙って演技している、そういう番組だというのは、見ていればわかる。学者さんに、今さら分析していただくほどのことはなかろうと思うし、解説していただいても特段面白いということもない。
大体、番組なんて「何となく見ちゃうね」でいいだろうし、楽しいなら楽しめばいい。(幸いなことに、何度も再放送してくれている。)
内容からすると、本来は、この「番組」ではなくて、「心理学」の方に興味のある方が読むべき本なのだろう。そういう表題にはなっていないが。
でなければ、この番組のマニアが、豊富に収録されているスタッフのインタビューを拾い読みして楽しむ程度が相応だろう。
どちらにしても、読後感はあまりパッとはしないだろう。
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結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ
読書ログ わが生涯のすべて・マリオ ジャコメッリ ― 2015/01/04 08:33
図書館の「写真」コーナーにあった、活字の本だ。先ごろ亡くなった著名な写真家さんが、亡くなる前にあれこれ語った内容を活字に起こした本だそうだ。
あの写真家の奥深い内面が今、明らかに、とかそんな売り口上。
私は存じなかったのだが、戦後1950年代から活躍された、イタリアの写真家さんだそうだ。
図書館の同じコーナーに写真集もあって、パラパラと拝見する。ちょっと古めのイタリアの田舎の風景で、昭和の写真イタリア版、といった趣。しかし、えらくコントラストのきつい白黒写真で、自己主張の強さを感じた。
何となくだが、こう見せたいとか、見て欲しいといったような、物欲しげなところが全く無くて、ただ、オレにはこう見えた、という印象そのものを、ひたすら追いかけたような。そういう自己意識の強さでは、やっぱり「イタリア人らしい」写真家さんだなあと感じた。
自分が撮った写真を、他人に見てもらうとする時、その過程で、写真は、多くの人々の手を経る。そして、その人々が、写真家と同じ意図を持って動いてくれるとは限らない。
そも、機械(カメラ)からしてそうだ。フィルムを入れて巻き上げて、ピントと露出と構図を合わせてシャッターを切ってから、面倒な現像や焼付けを経て、それでも、意図した(感じた)ものが、写っているとは限らない。
そして、写真を見る側の他人のこと、その写真を他人がどう受け取るかを考える時、自分は何を感じていて、撮ろうとしたのか、内向的に考え込まざるをえないという、不思議な転向をもたらす。他人を意識すればするほど、自己を見つめるハメになるのだ。
この思考の転向は、文芸や映画など、感覚的に何かを伝えようという芸術的なものであれば、同様に付きまとう類のものでもあるのだが、写真の場合、他の芸術とは異なった、特殊な筋道を辿ることになる。まず第一に、写真家一人の個人に閉じざるを得ないこと。第二に、その思考は、ほとんど言葉に依れないこと。だから、本書のような試みは、普通は混み入った独白、または年寄りの昔話になってしまう。(なので よく書けた例 は貴重だ。)
普通の写真家は、そのことを知っている。だから、饒舌な写真家というのは、あまり居ないものなのだ。だからこそ、本書のような例は貴重なのだが、読者の側にとっては、いくらつぶさに読み、写真家の内省を正確にトレースできた所で、彼と同じような深い写真表現ができるようになるわけではないという冷たい事実を、端的に教えてくれるに過ぎない。
この写真家さんは、詩を愛していたそうだ。
詩とは、いかに少ない字数で(いや、少ない字数だからこそ)、鋭利にえぐり取ることのできる、真実の表現と、私はそう理解している。自分の言いたいことを、簡潔に述べる能力をもたない私のような凡人には、最も遠い憧れの境地だ。(その凡庸さ加減が、私の文章だけでなく、私の写真や、音楽にも、同じように含まれていることを、私は知っている。)
本書の活字を追いながら、思考の裏側で、ふと妙な感覚を思い出した。
突然の難病で、先に死んじまった同期が居たのだが、その亡骸に向き合ったときの、何か言い忘れたというか、言い損なったような、微妙な感情だ。(良い意味でも悪い意味でも)神に見られることのない、スタンドアロンな凡人としての私。
いかん。どうも、著者の内省に引きずられたらしい。
本書だが、表向きの字面は、ただのイタリア爺ちゃんの、ちょっと変わった身の上話だ。その上、裏の事情を知らないと理解できない、楽屋話のような話題が満載だから、曖昧な笑顔を浮かべながら表面だけ付き合わざるを得ない読者の方が多いだろう。
たぶん、この本の価値を本当に理解できるのは、この写真家のファンやマニアだけなのだろうと思う。
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わが生涯のすべて
読書ログ 時代と人間 ― 2015/01/18 07:36
メモ帳に、この著者の名前を見つけた。
「いつか読んでみようとリストした」ようなのだが、なんで読もうと思ったのかは書いていない。
たぶん、ネットの記事か書評か何かで目にして、そんなにホメるならいっぺんめくってみるかな、といった程度だったのだろうと思う。動機としてはあまり強くなかった。(強かったら、メモに書くか、憶えているかしているはず。)
歴史ものなんかを、いろいろと書いていた人だったようだが、入門書というかダイジェストというか、一番、気軽そうなのを図書館で借りて読んだ。
鴨長明、モンテーニュ、ゴヤといった偉人が遺した著作を縦横に吟味して、彼らの人となりや、生きた時代について考察した経緯や結果が、つらつらと書かれている。語り口は平易で、活字の配置も密でなく、注釈も豊富で、しかもすぐ見える位置に置いてある(いちいち巻末をめくり直さないでいい)、すごくわかりやすい本だ。
どうも、各々ずいぶん時間をかけて研究をし尽くした後に、回顧しながら、あらましだけをまとめた、とそんな風情。方丈記やゴヤの連作などもものしていた著者なので、そのダイジェスト版と言えるのかも知れない。
人物の吟味の仕方は、 塩野七生先生 の辺りと似ていて、歴史上の人物なのだが、彼らが今ここに居たらどんなヤツだろう、といった感じで思いをめぐらす。当然、生き生きとして理解しやすい、「もっともらしい」描写になる。
この本でも、鴨長明やゴヤが、まるで「近所のオッサン」扱いで書かれている。(巻末の、著者の娘さんの寄稿文にも、そう書いてあった。)
でも、個人的には、この「歴史の考え方」はどうなのかなあ、と思っている。
そも、時代や国が大きく違えば、考え方や感じ方はまるで違うはずだ。だから、このやり方は、今風に言うと、OSが違うソフトを丸ごとエイヤッとエミュレートして、結果だけを見ている、どんな仕様が抜け落ちたのか考えもしない、そういう類の危うさを、常に孕んでいると思う。
歴史を考える際の危うさは、いつもここにある。
それを行った当時の人間と、それを今、考えている人間の乖離は、どうやっても埋められない。
塩野センセーのように、ドラマとして楽しむのが目的なら、それでいい。
しかし、ことが哲学や歴史となると、話は別だ。
もっとも、頭が切れる著者なので、その辺のことはよくわかっていて、これは私の歴史です、といったような前提が、行間にあるように感じられた。
私が考えると、こうなります(なりました)。皆さんは、どうですかな。
歴史は、繰り返さない。人間が、繰り返すだけだ。
著者はそう思っているし、深く深く考え続けた結果、やはり、そう思ったと。
私は、これは「歴史の素材集」なのだと、そう思った。
(巻末の解説にも、歴史を考えるきっかけに使えばいい、と同じようなことが書いてある。)
翻ると、このところ、国際情勢に絡めて、歴史の解釈について、云々され続けているようだ。
きっとそれは、この先もしばらくは、続くのだろう。
そういう時代にあって、確かに、一読に値する本と思われた。
(ちとコスパが悪いのが玉にキズだが。)
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時代と人間
読書ログ 「加藤周一 最終講義」 ― 2015/01/24 10:40
先週 に続き、「メモ帳にあった、良く知らない著者名を、図書館でエイと借りてみました」。著者のあらましを大まかに把握するには、良さそうな題名だと思ったのだ。
内容は、著者がなくなる前に、あちこちの大学なんかで講演された内容を、文字に起こしたものだ。口述筆記なので、内容は薄い。著者の主張をしっかり読み取るには、ちゃんと著作の方を当たる必要があろう。
講義(講演)のはずなんだが、与えられたトピックを中心に話を作る、一般の講演とは趣が違った。全体に、自分のあらましを駆け足で語ったような内容が多い。トピックは与えられたが無視したのか、それ以外だけを抽出した本なのかは、わからない。
本人も仰られている通り、著者ならではの、独特な「横から目線」での読み解きが面白く、参考にもなる。博識であり、自力で足で歩を進める類の考え方。
実際に地域を渡り歩いていた。
巷で、文化と呼ばれるものの、渦中に身を置いた。
思考は広がり、時間をまたぐ。
巷で歴史と呼ばれるものを、指先の感覚で確かめ直した。
合っているかは別、それは先週と同じ。
(日本人は集団主義的、それは農耕文化による、とある。本当かな。よく聞く言説だが、この人がオリジナルかも知れない。)
(マルクスは、経済的には今でも参考になる、とも。そうかも知れない。でも、今さらマルクスをひっくり返して確かめる気にはならないが。)
縁があれば、また会うこともあろうかと。
そんな読後感だった。
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加藤周一最終講義―佛教大学 白沙会 清華大学 立命館大学
読書ログ 音楽の進化史 ― 2015/01/25 07:11
カラバッジオの絵表紙に、この題名。
少し期待したんだが。大した本ではなかった。
ほぼ、西洋音楽の「モデルヒストリー」だ。
こんな曲が出て、こんなスペックで、こんな評判で。
次に、こんなのが出て、以下同文。
それらのつながりは、大体こんな。(←著者の思いつき、もとい研究成果)
真新しいことはほとんど無くて、どちらかというとサマリーに近い。でも文章量は多い(活字が小さく密度も高く、500ページに及ばんとする大著)から、一字一句を追うような読み方は似合わない。
読み物としてフフンと読んで、ちょっとレアな知識を仕入れて満足。
そんな本。
以下、私の見解を(たくさん)交えつつ、簡単に骨だけ記録して終りにする。
音楽とは、基本、一過性のものだ。
聞こえている最中だけ。鳴り終れば消えてしまう。
「今」だけのもの。
題名のように、音楽が「進化」するものなのかは知らない。
せいぜい、「進歩」するだけだとは思うのだが。
(ちなみに、原題は Story of Music 、ただの「音楽の物語」。)
でも、歴史のお話なので。
通例として、古い方から始まる。
最も古い手がかりは、数万年前の壁画にある楽器と思しき絵や、遺跡から出土した笛のような加工が施されている骨なんかだ。しかし、その当時、どんな音楽が奏でられていたのかは、知る由もない。ただ、ずいぶん昔から、人間は音楽を嗜んでいた「らしい」ことがわかるだけだ。
そんな古い洞窟の、音響効果を解析したところ、演奏場所とされる位置は、最も音響効果がよい場所だということがわかった。これは、暗くて長い洞窟内で、自分がどこにいるかの位置特定に役立っていたのではないか、といった「最新の研究成果」の話も紹介されている。(他方、位置特定のために出す音が、音楽と言えるのか?についての考察は、全くされていないが。)
音楽を「記録」する手段がなかったから、その伝承は、もっぱら「記憶」によっていた。たぶん、凝り性というのは当時もいて、新しい曲を作るような試みもされていたと思われるが、その発表は、「他人に教える→さらに拡散」のクチコミしか手段が無かったろう。その過程で、変質してしまうこともありうるし、曲が拡散するエリアというのは、限られていただろう。
なにせ「記憶」しか手段がないから、長い間残る音楽というのは、「憶えろ」と強制する、何らかの力を後ろ盾にしていることが多い。その代表格が宗教で、例えば、ユダヤ教の何とか言う聖歌は、紀元前何年頃から変わらずに(変えることを許されずに)伝わっている(という記録が残っている)、といった例がまず出てくる。そこから、当時の音楽はどんな構造をしていたか、和音の数は乏しかったが、神の権威を象徴する正しい和音はコレだと思われていたとか、そんなことが分かると。
ハードの側面もある。楽器のことだ。教会にはパイプオルガン(技術的には「笛のバケモノ」)は古くからあったが、歴史的に、イスラムとの侵略⇔奪還の繰り返しで、技術や文化のやり取りがあった副産物で、新しい楽器、特に弦楽器が伝わったりしたと。出せる音のバリエーションが増えたから、音楽の造りにも影響してくる。
この辺りまでの音楽の「進歩」は、すごく、ゆったりしたものだった・・
・・・のでスっ飛ばしましてですね。
初めのブレークスルーは、ルネッサンスと共にやって来た。
楽譜の発明と、印刷の普及が、ほぼ必然的に、重なった。
譜面という、音以外の手段でも伝えることが可能になった結果、音楽は、「記憶で伝える、その場限りのパフォーマンス」から脱却した。
音楽が、教会(宗教)や宴会(フォークロア)といった、従来のフィールドを越え始める。
需要が増えれば、供給も増える。
宮廷音楽家から庶民向けの演劇まで、作曲家のイスも増えたし、和音やリズムの研究開発も進んだ。
音楽は、初めの開花の時期を迎えた。
とはいえ、何せあの頃の宗教は政治と表裏一体だから、宗教改革なんかの時代の行きつ戻りつは、音楽の方にも影響する。(正しい和音を使わなかった異端の罪で処刑、みたいな。)その裏で、新しい曲「こんなのどう?」→「その手があったか!」もっと新しい曲、のような切った張ったがあったことは、楽譜を解析すれば今でもわかる。(ついでに、現代の我々が音楽に使っているピースのほとんどが、この時代に出尽くしていた、ということも。)
その後も、人が大陸に拡散するのに伴って、音楽も一緒に流出する。さらに、世界中から奴隷たちが連れて来られていたから、彼らが持ち寄ったピースが、その辛く悲しく、苦しくて鬱屈した感情の表現方法として重なり合い、交じり合う。(フォークロアが変化する。)
他方、音楽家の方も、従来のタブーやマナー、ルールなんかにも挑戦していて、汚い和音や、目茶苦茶なテンポ、その時限りの即興なんかも取り入れられる。それが許される時代のひだがあったし、音楽が変われる余地としても、もうその辺りしか残っていなかった、と言えるかも知れない。
その次のブレークスルーは、「放送」と「録音」がもたらした。
ラジオにより、音楽は、演奏の場に行かないと聴けないものではなくなった・・・どころか、なんと、「ほとんどタダ」になった。さらに、レコードの普及で、音楽は、やる方、聴く方の双方にとって、「その場限りの一発勝負」から、何度でも気軽に繰り返す代物に変わった。
音楽は、かつてのように、舞台に出向いて聴いたものの全体感を、経験として語るものではなくなって、繰り返して聞かれては、より細部を云々される傾向が強まった。結果、クラシックの音楽家は、原曲の再現という一種の原理主義を経た後に、古い楽譜を繰り返し引っ張り出しては、その微妙な解釈で勝負するという、小さなフィールドに活躍の場を限られるようになった(この本の著者も、このフィールドに居る)。当時の原曲を直接は聞けない以上、古の作曲家の意図など、確かめようもないにかかわらず、だ。
他方、クラシック以外の音楽は、より庶民的な側に寄る傾向を強めて行って、ジャズやタンゴなんかの土着風味がブレークした後、その決定版(?)として、あの圧倒的だったビートルズを経て「ロケンロール」が底辺として定着した。
そして今、ギターとドラムなんかの数人のバンドスタイルで、3分くらいの曲を演るという「商業音楽としてのポップス」に収斂するに至った。
音楽は、百花繚乱でございます・・・。
とまあ、早口で言うと、こんな感じだろう。
今、我々が聞いている「音楽」(商業音楽だが)のスタイルができたのは、ほんの、ここ数十年のことだ。
時系列に見ると、今の音楽は、連綿たる進歩の過程で発見されたピースの再発見と集大成だ、つまり「由緒正しい」と、この著者は言いたかったようにも見えるのだが。音楽の血統に何か意味があるのか、私にはわからない。
朝、仕事に出る農夫の鼻歌は、紛れもない音楽だ。
でも、カラヤンの録音は音楽ではない。
どこかで読んだ、偉い音楽家のセリフなのだが、これが示唆するものが、引っかかり続けている。(私もどこかで、そう思っている。)
「いい音楽」は、物理的な尺度として、一律に決まるものではない。
実際、ただ、アナタがその時にそう思った、というだけのものなのだ。
法則とか原理的なものでは全く無い。
多分、私たちが「いい音楽だ」と思っているものの正体は、「これがいい音楽なんですよ」という評価と共に他人から提供されたものを、丸呑みした結果、またはその重ね合わせだ。
過去にウケたもの、のようなもの。
その、いいとこ取り。順列組合せ。亜種。
作り手の「個性」なんて、その狭いフィールドの中で使われる、「さして致命的ではない武器アイテム」のようなものだ。(ひとつがヘタっても次があると。そういうふうにできている。業界が。)
そこへ来てだ。
最も進化したパッケージであるiPod、「いつでも気軽に再生できる電子プレーヤーの何千曲」というのは、どんな価値を加えたというのか。
ほんの100年も遡れば、音楽は、もっと現実的だった。
街角で三味線の音が聞こえたら、それは、誰かが三味線を弾いている、紛れもない証だった。
今は違う。
無意味な音が、その辺に溢れていて、我々は普段、そのほとんどを、ろくすっぽ聞いていない。
あの、朝の鼻歌にはあったはずの、現実としての感情、「本当の音楽」とは。
音楽の、魂とは。
もともとなかったのか、忘れたことも忘れたのか、その区別すら、もう、おぼつかない。
個人的な観測だが、それと同じことが今、写真にも起っているし、次はたぶん、自動車辺りでも起こるんだろう。(バイクはもうダメかも知れない。)
もう一つ。
ハード技術のこともある。
ギターを例に話す。
楽器としてのギター類は、大昔、琵琶やリュートでシンプルに音を刻んでいた、あの優雅な時代から、いろんなものと戦ってきた。
ギター類は、その動作原理を、弦の自由運動に依っている。自由振動はエネルギーが小さいから、音量も小さい。音量を増やすには、重い弦を強く張ればいい。(何なら2本張ってもいい。マンドリン。) だが、それに耐える「弦の製造技術」はもとより、楽器の方にも問題が出て来る。弦をたくさん強く張れば、ネックやボディは反りかねないので、楽器自体を強く作らねばいけない。しかし、強く作った楽器というのは、おしなべて鳴りが悪い。結局、思ったほどはよく鳴らない、というパラドックスに陥ってしまう。
音質にも、問題がある。ギター類は、原理的に、音が減衰してしまう。こればかりは、どうしようもない。だから、長々と続く音がメロディをつむぐ曲(G線アリアのような)は、弦を擦る方の弦楽器(バイオリン、強制振動だからエネルギー:音量もでかい)か、リード類(ラッパやハーモニカなんか)に任さざるを得ない。ギターは後ろで伴奏係だ。
一旦、脱却しかけたこともあったのだ。
ギターの長所は、たくさん(ても6コだが)の音が、同時に出せることだ。(対して、擦弦楽器やリード類は、和音が苦手だ。)だから、短い音でメロディーを刻みながら、伴奏もいっぺんに自分でやる。(クラシックギター)
独りでやるんだから、大変な仕事だ。
やれることは限られるのに、えらい練習量が要る。
そして、事前に作ったものを、時間をかけて練習し、本番でそれを披露する。そういう仕事のスタイルになる。
そこに、あの「鼻歌的な真の音楽」はありや?。
ギターが次にブレークしたのは、エレキだった。
緩く張った弦は、しばらく震えている。
ギターの天敵、あの「減衰」が少ないのだ。
音量はさっぱり出ないんだが、そこは電気的に増幅しちまえばいい。
これは、技術的には、本格的な脱却だった。
エレキは、長い間、ギターをつないでいたくび木から開放した。
ギターが始めて、ステージの一番前でメロディーを奏でられるチャンスがやってきたのだ。
一部の人々はそれを正確に見抜いて、何人かは実際にトライした。
でも、伝説で終わってしまった。
(伝説というのは、跡継ぎが居ないやつのことらしい。)
後は、文句ばっかりだ。
「バックバンドぐらいつけてくれよ。やってらんねえよ。」
以下同文。
ギターを弾くこと。音楽をやること。
その間で、ギターという道具が提供していた(するはずだった)価値とは。
そこで奏でられる音楽が、つむぐ(はずだった)価値とは。
いや、
そもそも、その「価値」とは。
「価値って何?」
また、いつもの問いに戻ってしまうのだ。
・・・ふん。
今や、どんなに難解な曲とて、初音さんが、息継ぎもせず、いとも簡単に歌ってくれるご時勢だ。
私の問いなど、もう価値はないのだろう。
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