読書ログ 音楽の進化史 ― 2015/01/25 07:11
カラバッジオの絵表紙に、この題名。
少し期待したんだが。大した本ではなかった。
ほぼ、西洋音楽の「モデルヒストリー」だ。
こんな曲が出て、こんなスペックで、こんな評判で。
次に、こんなのが出て、以下同文。
それらのつながりは、大体こんな。(←著者の思いつき、もとい研究成果)
真新しいことはほとんど無くて、どちらかというとサマリーに近い。でも文章量は多い(活字が小さく密度も高く、500ページに及ばんとする大著)から、一字一句を追うような読み方は似合わない。
読み物としてフフンと読んで、ちょっとレアな知識を仕入れて満足。
そんな本。
以下、私の見解を(たくさん)交えつつ、簡単に骨だけ記録して終りにする。
音楽とは、基本、一過性のものだ。
聞こえている最中だけ。鳴り終れば消えてしまう。
「今」だけのもの。
題名のように、音楽が「進化」するものなのかは知らない。
せいぜい、「進歩」するだけだとは思うのだが。
(ちなみに、原題は Story of Music 、ただの「音楽の物語」。)
でも、歴史のお話なので。
通例として、古い方から始まる。
最も古い手がかりは、数万年前の壁画にある楽器と思しき絵や、遺跡から出土した笛のような加工が施されている骨なんかだ。しかし、その当時、どんな音楽が奏でられていたのかは、知る由もない。ただ、ずいぶん昔から、人間は音楽を嗜んでいた「らしい」ことがわかるだけだ。
そんな古い洞窟の、音響効果を解析したところ、演奏場所とされる位置は、最も音響効果がよい場所だということがわかった。これは、暗くて長い洞窟内で、自分がどこにいるかの位置特定に役立っていたのではないか、といった「最新の研究成果」の話も紹介されている。(他方、位置特定のために出す音が、音楽と言えるのか?についての考察は、全くされていないが。)
音楽を「記録」する手段がなかったから、その伝承は、もっぱら「記憶」によっていた。たぶん、凝り性というのは当時もいて、新しい曲を作るような試みもされていたと思われるが、その発表は、「他人に教える→さらに拡散」のクチコミしか手段が無かったろう。その過程で、変質してしまうこともありうるし、曲が拡散するエリアというのは、限られていただろう。
なにせ「記憶」しか手段がないから、長い間残る音楽というのは、「憶えろ」と強制する、何らかの力を後ろ盾にしていることが多い。その代表格が宗教で、例えば、ユダヤ教の何とか言う聖歌は、紀元前何年頃から変わらずに(変えることを許されずに)伝わっている(という記録が残っている)、といった例がまず出てくる。そこから、当時の音楽はどんな構造をしていたか、和音の数は乏しかったが、神の権威を象徴する正しい和音はコレだと思われていたとか、そんなことが分かると。
ハードの側面もある。楽器のことだ。教会にはパイプオルガン(技術的には「笛のバケモノ」)は古くからあったが、歴史的に、イスラムとの侵略⇔奪還の繰り返しで、技術や文化のやり取りがあった副産物で、新しい楽器、特に弦楽器が伝わったりしたと。出せる音のバリエーションが増えたから、音楽の造りにも影響してくる。
この辺りまでの音楽の「進歩」は、すごく、ゆったりしたものだった・・
・・・のでスっ飛ばしましてですね。
初めのブレークスルーは、ルネッサンスと共にやって来た。
楽譜の発明と、印刷の普及が、ほぼ必然的に、重なった。
譜面という、音以外の手段でも伝えることが可能になった結果、音楽は、「記憶で伝える、その場限りのパフォーマンス」から脱却した。
音楽が、教会(宗教)や宴会(フォークロア)といった、従来のフィールドを越え始める。
需要が増えれば、供給も増える。
宮廷音楽家から庶民向けの演劇まで、作曲家のイスも増えたし、和音やリズムの研究開発も進んだ。
音楽は、初めの開花の時期を迎えた。
とはいえ、何せあの頃の宗教は政治と表裏一体だから、宗教改革なんかの時代の行きつ戻りつは、音楽の方にも影響する。(正しい和音を使わなかった異端の罪で処刑、みたいな。)その裏で、新しい曲「こんなのどう?」→「その手があったか!」もっと新しい曲、のような切った張ったがあったことは、楽譜を解析すれば今でもわかる。(ついでに、現代の我々が音楽に使っているピースのほとんどが、この時代に出尽くしていた、ということも。)
その後も、人が大陸に拡散するのに伴って、音楽も一緒に流出する。さらに、世界中から奴隷たちが連れて来られていたから、彼らが持ち寄ったピースが、その辛く悲しく、苦しくて鬱屈した感情の表現方法として重なり合い、交じり合う。(フォークロアが変化する。)
他方、音楽家の方も、従来のタブーやマナー、ルールなんかにも挑戦していて、汚い和音や、目茶苦茶なテンポ、その時限りの即興なんかも取り入れられる。それが許される時代のひだがあったし、音楽が変われる余地としても、もうその辺りしか残っていなかった、と言えるかも知れない。
その次のブレークスルーは、「放送」と「録音」がもたらした。
ラジオにより、音楽は、演奏の場に行かないと聴けないものではなくなった・・・どころか、なんと、「ほとんどタダ」になった。さらに、レコードの普及で、音楽は、やる方、聴く方の双方にとって、「その場限りの一発勝負」から、何度でも気軽に繰り返す代物に変わった。
音楽は、かつてのように、舞台に出向いて聴いたものの全体感を、経験として語るものではなくなって、繰り返して聞かれては、より細部を云々される傾向が強まった。結果、クラシックの音楽家は、原曲の再現という一種の原理主義を経た後に、古い楽譜を繰り返し引っ張り出しては、その微妙な解釈で勝負するという、小さなフィールドに活躍の場を限られるようになった(この本の著者も、このフィールドに居る)。当時の原曲を直接は聞けない以上、古の作曲家の意図など、確かめようもないにかかわらず、だ。
他方、クラシック以外の音楽は、より庶民的な側に寄る傾向を強めて行って、ジャズやタンゴなんかの土着風味がブレークした後、その決定版(?)として、あの圧倒的だったビートルズを経て「ロケンロール」が底辺として定着した。
そして今、ギターとドラムなんかの数人のバンドスタイルで、3分くらいの曲を演るという「商業音楽としてのポップス」に収斂するに至った。
音楽は、百花繚乱でございます・・・。
とまあ、早口で言うと、こんな感じだろう。
今、我々が聞いている「音楽」(商業音楽だが)のスタイルができたのは、ほんの、ここ数十年のことだ。
時系列に見ると、今の音楽は、連綿たる進歩の過程で発見されたピースの再発見と集大成だ、つまり「由緒正しい」と、この著者は言いたかったようにも見えるのだが。音楽の血統に何か意味があるのか、私にはわからない。
朝、仕事に出る農夫の鼻歌は、紛れもない音楽だ。
でも、カラヤンの録音は音楽ではない。
どこかで読んだ、偉い音楽家のセリフなのだが、これが示唆するものが、引っかかり続けている。(私もどこかで、そう思っている。)
「いい音楽」は、物理的な尺度として、一律に決まるものではない。
実際、ただ、アナタがその時にそう思った、というだけのものなのだ。
法則とか原理的なものでは全く無い。
多分、私たちが「いい音楽だ」と思っているものの正体は、「これがいい音楽なんですよ」という評価と共に他人から提供されたものを、丸呑みした結果、またはその重ね合わせだ。
過去にウケたもの、のようなもの。
その、いいとこ取り。順列組合せ。亜種。
作り手の「個性」なんて、その狭いフィールドの中で使われる、「さして致命的ではない武器アイテム」のようなものだ。(ひとつがヘタっても次があると。そういうふうにできている。業界が。)
そこへ来てだ。
最も進化したパッケージであるiPod、「いつでも気軽に再生できる電子プレーヤーの何千曲」というのは、どんな価値を加えたというのか。
ほんの100年も遡れば、音楽は、もっと現実的だった。
街角で三味線の音が聞こえたら、それは、誰かが三味線を弾いている、紛れもない証だった。
今は違う。
無意味な音が、その辺に溢れていて、我々は普段、そのほとんどを、ろくすっぽ聞いていない。
あの、朝の鼻歌にはあったはずの、現実としての感情、「本当の音楽」とは。
音楽の、魂とは。
もともとなかったのか、忘れたことも忘れたのか、その区別すら、もう、おぼつかない。
個人的な観測だが、それと同じことが今、写真にも起っているし、次はたぶん、自動車辺りでも起こるんだろう。(バイクはもうダメかも知れない。)
もう一つ。
ハード技術のこともある。
ギターを例に話す。
楽器としてのギター類は、大昔、琵琶やリュートでシンプルに音を刻んでいた、あの優雅な時代から、いろんなものと戦ってきた。
ギター類は、その動作原理を、弦の自由運動に依っている。自由振動はエネルギーが小さいから、音量も小さい。音量を増やすには、重い弦を強く張ればいい。(何なら2本張ってもいい。マンドリン。) だが、それに耐える「弦の製造技術」はもとより、楽器の方にも問題が出て来る。弦をたくさん強く張れば、ネックやボディは反りかねないので、楽器自体を強く作らねばいけない。しかし、強く作った楽器というのは、おしなべて鳴りが悪い。結局、思ったほどはよく鳴らない、というパラドックスに陥ってしまう。
音質にも、問題がある。ギター類は、原理的に、音が減衰してしまう。こればかりは、どうしようもない。だから、長々と続く音がメロディをつむぐ曲(G線アリアのような)は、弦を擦る方の弦楽器(バイオリン、強制振動だからエネルギー:音量もでかい)か、リード類(ラッパやハーモニカなんか)に任さざるを得ない。ギターは後ろで伴奏係だ。
一旦、脱却しかけたこともあったのだ。
ギターの長所は、たくさん(ても6コだが)の音が、同時に出せることだ。(対して、擦弦楽器やリード類は、和音が苦手だ。)だから、短い音でメロディーを刻みながら、伴奏もいっぺんに自分でやる。(クラシックギター)
独りでやるんだから、大変な仕事だ。
やれることは限られるのに、えらい練習量が要る。
そして、事前に作ったものを、時間をかけて練習し、本番でそれを披露する。そういう仕事のスタイルになる。
そこに、あの「鼻歌的な真の音楽」はありや?。
ギターが次にブレークしたのは、エレキだった。
緩く張った弦は、しばらく震えている。
ギターの天敵、あの「減衰」が少ないのだ。
音量はさっぱり出ないんだが、そこは電気的に増幅しちまえばいい。
これは、技術的には、本格的な脱却だった。
エレキは、長い間、ギターをつないでいたくび木から開放した。
ギターが始めて、ステージの一番前でメロディーを奏でられるチャンスがやってきたのだ。
一部の人々はそれを正確に見抜いて、何人かは実際にトライした。
でも、伝説で終わってしまった。
(伝説というのは、跡継ぎが居ないやつのことらしい。)
後は、文句ばっかりだ。
「バックバンドぐらいつけてくれよ。やってらんねえよ。」
以下同文。
ギターを弾くこと。音楽をやること。
その間で、ギターという道具が提供していた(するはずだった)価値とは。
そこで奏でられる音楽が、つむぐ(はずだった)価値とは。
いや、
そもそも、その「価値」とは。
「価値って何?」
また、いつもの問いに戻ってしまうのだ。
・・・ふん。
今や、どんなに難解な曲とて、初音さんが、息継ぎもせず、いとも簡単に歌ってくれるご時勢だ。
私の問いなど、もう価値はないのだろう。
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