写真集 アッジェのパリ ― 2015/02/01 09:48
音楽 、 映画 と続いたので。折角なので写真のことも書いておく。
1900年ごろのパリを写した、古い写真集。
まだ、フィルムやライカなんかが世に出る前だから、ガラスに銀塩の乾板に、蛇腹式の大型カメラ。
建物を真っすぐ撮るために、かなりレンズをシフトしたりしている。
特に意図のない写真だ。
画家のデッサン練習用として売るために撮られ、最後には歴史博物館に「資料」として売られた。
多少の紆余曲折を経て、作者の死後にやっと、作品は「写真」として、評価されるに至った。
人が居ない、昔のパリ。
(早朝なのだ。)
彼の写真からは、いろんなものが感じられる。
即物的には、当時の風物をリアルに伝える「記録」なのだが。
もっと別のもの。
視界がもたらす、奥行きなんかの、空間の感触とか。
光が刻む陰影から立ち上がる、何らかの意味、とか。
それらが想起させる、何か。
写真は、それを、伝えうる。
そう教えてくれる。
古い写真。
確かに、題材(時代と場所)も良かったと思うのだが。
そういう問題じゃない。
例えば、この後にもずっと続いている「パリ写真集」や、今も数ある似たような路線の作品集(昭和の子供たち的なやつとか、ノスタルジー路線)が、この味が出せている限らない。(別の味は出ているかもしれない。)
撮る方としても、アジェのように、特に意図をこめずに、自然体で撮りさえすれば、「何かを伝える街の写真」が撮れるというわけでもない。(何の印象もない画が撮れるだけ。)
何かを感じたと思って、あわててシャッターを切ったとて、その「感じたもの」が、写っているとも限らない。
技術的にも、高精細・高感度デジカメの最新鋭のテクノロジーが、何か助けてくれるわけでもない。
逆に、アジェと同じような、古い銀塩のガラス乾板に、蛇腹の大判カメラを備えたとて、こんな画が撮れるわけでもない。
そういう問題じゃないのだ。
きっと要点は、違う所にある。
・・・ただ。
何となく。
こうやって、ページを繰りながら。
ああ、ずっと見ていたいなあと、なぜか思う。
この感触。
ちょっと話がずれるのだが。
ルマンに乗っていて、ああ、ずっと乗っていたいなあと思う、あの感覚に似ている。
そこに共通する本質、「クオリティ」。
それが何なのか、私はクリアに知りたいし、
できれば皆さんにも伝えられたらなあと。
そう願っている。
(拙者、まだまだ未熟者である。 未熟者カウンター をチン!。笑)
Amazonはこちら
アジェの作品集は、内外に数あるが。
私はこれが一番好みだ。
昭和54年(1979年)刊。定価\5800
アッジェのパリ (1979年)
読書ログ 仕事に活きる 教養としての「日本論」 ― 2015/02/07 06:50
図書館で見かけた。
ウルサい表紙の本だ。
「仕事に活きる」って何やねんな、と借りて読んでみた。
半分予想した通り、たいした本ではなかった。
昔、「ミスター円」で有名だった元大蔵官僚氏が書いた本だそうだ。
日本の歴史や現状について、著者の見解があれこれ書いてある。
大体は、日本はこんなにいい国ですよ、というご主張である。
しかし、根拠の方はどうも薄くて、大体が孫引きによっている。
「日本の自然資源は世界有数のレベルです。統計を見ると・・・」
「日本が育んできた文化文明は大変優れています。誰それの著書によると・・・」
日本の歴史解釈については、孫引きなしに自説を展開している。
駆け足で端折ると、いわく、仏教擁護派と排斥派が戦って擁護派が勝って天皇が仏教に帰依し、その後に空海がうまく神仏共存を図ったので天皇が象徴になり政教分離につながった、権力(武士・官僚)と富(商人・財閥)が分離したから世の中が安定して、世界的に見ても珍しいほどの長期間、戦争のない平和な期間を過ごすことができた(江戸時代)、戦争に突っ走った明治から昭和初期までが異常な期間だった(だから司馬遼太郎は間違っている)、今こそ日本は、本来の精神である明治以前に戻るべきだ、云々。
何だか、まるで見てきたような書き方なのだが、これも何かの孫引きで、情報元を書かなかっただけなのかは、よくわからない。でも、著者が自分で古文書に当たって研究した結果、ということではないように見える。どうも、お話が全体として「都合が良すぎる」のだ。多分、著者が正しいと思ったり、心地よいと感じた言説だけを集大成した、とそんな所ではなかろうか。
だから、この本は、著者と同じように、このストーリーを心地よいと感じる人には、評価されるだろう。
(いい所ばかりを書いているから、そういう人も多いはず。)
個人的には、日本文化論として、最近よく目にする類の言い分だと思った。
私は勝手に、「成功体験としての、鎖国・江戸時代論」と呼んでいる。
あの頃、日本は諸外国の影響なしに、自立して立派にやっていた。だから、その時代精神に立ち返れば、今でも同じことができるはずだ、という理屈(気分?)だ。
多かれ少なかれ、昨今の、隣国からの悪意や揶揄に対して反応しているという側面は否めないだろう。(恐怖感の裏返しかも知れない。)
まあ確かに、江戸時代の方が良かったことも、あったろうとは思うのだが。
無論、悪かったこともあるはずなので。ただ戻れば済むワケではなかろう。
何が良かったから、そこは生かそう、
何が悪かったから、次はあらためよう、
将来はこうしたいから、今はこうしよう。
「歴史に学ぶ」というのは、そういうことだと思う。
そして、もし、歴史が、事実のことも指すのなら、都合が良かったり、心地よかったりすることばかりではないのは、無論なのだ。
だから、その片方(いい方)だけを拾い上げて、昔はよかった、昔に戻ろう、というだけなら、ただのノスタルジー、遠い目をしたお爺ちゃんのグチになってしまう。
お金を払って読むほどのことは無かろう。
そうそう、冒頭の「仕事に役立つ」の件だが。
本書の最初で著者いわく、まだ大蔵官僚の頃、諸外国では、皆、大変に日本をリスペクトしてくれた、日本は良い国だ、その良さをもっと伝える必要がある、と。
翻って、最近、外国からの揶揄が喧しいのは、外国で仕事をするビジネスマンが、日本の良さをちゃんと伝えていないからだ、この本で日本のいい所をちゃんと学んで、もっと盛んにアピールなさいと。
そういうご主張らしい。
立場やタイミングに、ずいぶんと恵まれた方だったのだな、と苦笑してしまうのだが。今、実際に、ビジネスの最前線で、切った張ったの戦いをしている皆様も、粗方はご同意いただけるだろう。
「仕事に活きる」の方も、表題だけと思った方が良さそうだ。
(ウルサい表紙の本って、大概はこんなもんである。)
Amazonはこちら
仕事に活きる 教養としての「日本論」
バイクの本 70年代(1) オートバイの本 ― 2015/02/08 06:34
最近は、図書館の検索システムにも、カテゴリー検索のような機能があって。先日、ふと「オートバイ」の分類があることに気付いた。それによると、バイク関連の蔵書は、古くは70年代からあって、全部で数百冊に上ると。
これ、最初からナメて行くと、バイクにまつわる文化史というか、バイクがどう思われて、扱われて来たのかの変遷を、概観することができるんじゃないか?
この所、バイク関連はネタ切れ気味だったので。
試しにやってみようかなと。
そんなわけで。
栄誉ある(?)初めのエントリーが、本書である。
オートバイの本
景山克三 著
光文社 カッパブックス
昭和48年7月10日 (1973年)
何せ古い本で、Amazonにもない。
最初は、ナメていたのだ。どうせ、内容は見知ったことばかりだろうと。
違った。
どころか、初めから「はまった」。
ご覧の通り、題名は、捻りもなしのド直球だが、副題は、
自由のマシンを乗りこなせ
「自由に」ではなくて、「自由の」である。
その辺のニュアンスが伝える通りの、ちゃんとした本だった。
著者は、自動車工学の先駆けとして活躍された日大の教授(当時)で、二輪車についても工学的な観点から研究をされていた方だ。この本を書いた当時、齢53際にして、既に30年のバイクキャリアを持つマニアでもあった。ご自身のライダーとしての経験と、研究者としての知識が相まった、なかなか得がたい記述がされている。
それは、著者が、バイク乗りとして日々感じたことと、仕事として日々調べてきたことがリアルタイムで相関しているのだが、その様子が、我々一般ライダーが、日々感じ、理解を進めている、そのプロセスに非常に近いのだ。だからこそ、我々が読んでも、親近感をもって理解しやすい。そういったコンテキストで語られているように感じられた。
目次から内容を概観すると、
第1章 オートバイはなぜ倒れないか
二輪車の安定性と操縦性の考え方、旋回のメカニズムについて。
第2章 オートバイはなぜ走るか
エンジンやミッション、タイヤなどの動力系の構造と原理、扱い方について。
第3章 オートバイの選び方
オートバイの魅力と、リスク/コストの考え方と、それを踏まえた機体の選び方。
第4章 オートバイにどう乗るか
乗り方の基本となる考え方から、細かい操作法、服装や心構えの示唆など。
バイクに乗るというのがどういうことなのかを、理論とメンタルの双方から描き出し、実際に乗るにはどうしたらいいか、どうすれば上手く乗れるのか(楽しめるのか)までを、幅広い視点でまとめている。
技術的にややこしい所を踏まえつつ、それを正確にわかりやすく伝える日本語能力の高さは、著者の世代の特徴でもある。
その能力は、初めの章から発揮されている。
バイクの運動特性の基本的なところを、これほど理論的に、かつクリアに説明できている例は本当に珍しい。今まで取り上げた、 乗り方論の類 から、工学書の類( その1 、 その2 )なども凌駕している。
印象に残った所を、大股に記す。
二輪の前輪には、安定限界速度がある。それ以下ではセルフステアが機能しなくなる速度のことで、大体は25km/h程度。これを下回ると、ライダーが直接ハンドルを操作しなければならず、端的に「疲れる」。(渋滞すり抜け時のアレである。)
二輪の安定性と操縦性は、複雑に入り乱れており、二律背反であると共に、表裏一体である。安定性とは、擾乱に対する復元力、操縦性とは、乗り手の意思の再現力、と定義できる。両方ともが欲しいのだが、原理的には相反するものでもあり、両立はできない。また、時と場合により、どちらが重要なのかも変わる。
一般に、二輪車は、重心は「前寄り」で「高い」方が安定性は高まる。(他方、操縦性は低下する。) だから、巷でよく言われる「低重心だから安定がよい」という言説は、間違っている。多分、低重心の方が、取り回しの押し引きがやりやすいことによる誤解だろう。
安定性と操縦性の複雑な相関の一例として、横風に対する挙動が挙げられる。普通、二輪車は横風を受けると、進行方向が風下に振れる方向の動きとなる。これを嫌って、安定性を上げるために、フルカバードのカウリングや、飛行機の尾翼のようなものを取り付ける研究もあった(NSUのスピードレコードなど)。しかし、結局これらは根付かなかった。二輪車は元々、横風を受けた際に風下に持って行かれた進行方向を、小規模な旋回に伴う遠心力で補い、進路を戻す特性を持っている。また、それがライダーの感覚にも合う、自然な挙動でもあったから、結局は、技術的にもその方向、つまり、物理に無闇に逆らったり封じ込めたりするのではなく、適当に従いつつ「いなす」、そういった方向に進んできた。このように、安定性と操縦性は、どちらが優勢と一辺倒に片付くものではなく、深い理解が特に必要な事象である。
二輪の場合、スリップアングルとキャンバーアングルの両方がコーナリングフォースとして働く。しかし、一般に車体全体に大きなキャンバー角がつけられるため、キャンバースラストの寄与の方が大きい。スリップアングルの寄与は小さいため、4輪車ほどの横滑りはしない。(させてもいけない。操縦性が悪くなる。) また、前輪にはキャスター角がついているため、寝ている最中は、後輪よりキャンバー角が大きい。他方、旋回中の二輪車の重心は後輪側に寄っているのが一般的で、旋回への寄与は後輪の方が大きい。前輪のコーナリングフォースは小さくてよいから、後輪よりスリップアングルが小さくなる。(スリップアングルは後輪の方が大きい。ひところ、「リアステア」と呼ばれた事象の説明か。)
前輪のステア系は、キャスター角がついていて、重心が回転軸より前にあるので、実は、トレールがマイナスでも安定して走る。(実験して確かめた。) 市販車のトレールが大きく取ってあるのは、悪路でのトレール変動を想定しているからだ。また、ステア系の回転慣性は、小さいほど、安定性と操縦性の双方が同時に向上する。
二輪車は、旋回のためにバンクを始めるきっかけで、一旦バンクとは反対の方向に前輪が切れる動きが、原理的に必要である。通常は、それと分かる動作が外から見えるほどの大きな動きが前輪には表れない。(実験して確かめた。) 二輪車は、直進中に、前輪が左右に振れて直立状態を保つ保持機能が働いているが、その片方の動き、例えば、右に切れる方向だけを封じるよう、右のハンドルだけに少し力を入れさえすれば、その直立状態を保つバランスが崩れて、バイクは右に傾く。(ハンドルを「こじる」のではなく「当てる」だけでアプローチには十分、というあの動作のこと。)
ふむふむ・・・
この他、太いタイヤはバンク角に伴う接地点の移動が大きく、キャンバー角が変動するため、操縦性が悪くなる・・・といった、今でもよく聞く事象も出てくる。
本書の記述を正しく理解するためには、時代性、つまり、当時のタイヤはしょぼく、車体は弱く、エンジンは重くて特性も扱いにくかった、そんな事情も考え合わせた方がいい場合もあるのだが。
総じて、冒頭で記した「研究者兼マニアの実力」が如何なく発揮されていて、我々が普段触れている感覚的な事象を、理論的に、かつ分かりやすい言葉で説明できていて、実に感心した。
そういった著者の実力は、終盤の「乗り方論」にも反映されていて、現代の恵まれた我々が、既に忘れていることや、技術の進歩にカバーしてもらっていて気付かずに済んでいることなどを、事細かに網羅する説明(リマインド)が成されていた。
ためにもなるし面白いしで、なかなか役に立つ本だ。価格も、当時の定価で¥650と、高くはなかった。大変に質の高い、評価できる仕事だと思うのだが。当時、どれだけ読まれたのかはわからない。
何せ、あの頃の「本」というのは、本屋で見かけるかどうかが出会いのチャンスの全てだったし、一方で、バイクに真面目に取り組んでいて、この手の情報に飢えていた人というのは、ベテラン、ニューカマー両方考えても、そうは居なかったろう。粗方は、月刊オートバイ辺りのメジャーどころで満足していた(せざるを得なかった)状況だったから、この本のニーズとシーズが出会う確率は、本当に小さかっただろうと想像される。著者が、この本にこめた良質の努力の数々が、どの程度評価されたのかは、かなり微妙だったのではなかろうか。
対して今。
あまたの「オートバイの本」はあれど、内容の方はどれも、「所詮はどこかで聞きかじったことのおまとめ」で、金儲け臭はするが、真面目臭はしない、そんなものばかり。
それとは全然、質が違う。
70年代、
侮り難し。
バイクの本 70年代(2) 図鑑 自動車・オートバイ ― 2015/02/11 17:04
前回の の著者が関わった本が、もう一冊あったので。
借りてみた。
自動車・オートバイ (旺文社学習図鑑)
図書館のデータでは、1976年刊の本だったのだが。
(Amazonのリンク) 自動車・オートバイ (旺文社学習図鑑)
借りてみたら、どうもその再販と思しき、1985年刊のこっちらしかった。
自動車・オートバイ (旺文社図鑑 (10))
だって、
これ、パリダカの、ガストンライエだよね?
YZRの、平忠彦だよね?
80年代だよね?、これ。
表題に「学習図鑑」とあったから、ナンボか難しい内容、ひょっとして工学書?かと思ったのだが。(景山先生は、 機械設計なんかの工学書の類 をたくさん書いていらした由。)
でも、実際に見てみると、この本。
単なる、お子様向けの図鑑セットの一冊のようだ。
自動車やバイクについて、広くいろいろと解説してある。
シンプルだった頃のカウンタックの表紙に少し萌えた後、中をパラパラめくってみると、消防車や巨大トラックなどの特車の数々に、もう少し萌えて、でも、バイクの記述は多くはなかったし、知らないことも、ほとんどなかった。
唯一、これくらいかな。
ミュンヒ・マムートだそうだ。
先生!すいません、わかりません!。(笑)
読書ログ 真実を見抜く分析力 ― 2015/02/14 06:16
どこかの書評で見かけたんだと思う。またずいぶんと、大上段な題名だが。
中身の方も、その題名の印象の通りで、一見、親切で丁寧に見えて、その実「知らないの?」と上から目線で正当性を説かれちゃう型の、ビジネス書だった。(日経BPなのだ。どうりで。)
「ビッグデータ解析」だが、巷ではもう、「よく見かける」を通り越して、ほぼ「常識扱い」のようにも見える。つまり、「知らないの?」路線で煽るには、ちょうど旬なのだろう。
実際に、データ分析のスキルをビジネスに役立てるには、どういう手順を踏むもので、どんな所に気をつけたらいいものか、豊富な事例で説明している。
ビジネス側の人には「分析の役立て方」、分析側の人には「ビジネスへの活かし方」、その両方の読み方ができるように書いてある。
ただ、書き方が通り一遍で繰り返しが多く、自説への我田引水が鼻につく。そこへ来て、事例ばかりが多いと来れば、かえって焦点がぼやけてしまって、「オレの状況はこのケースで理解できる」という辞書的な読み方はできなくて、「結局はケースバイケースなんだな」と、理解のポイントが散ってしまいそうだ。著者は「プレゼンのスキルも大切」と説いているが、自分でやってることは違っていて、「言いたいことを全部書いた」ようにも見える。
アナリティクスは、要は統計論なので、統計に馴染みがない方はピンと来ない。ピント来ない人には、「まず統計の本でも読んで」としか言いようがないのだが。本当に、その一言で終わっていたりするので、数学的な所まで含めて、細部が欲しい人にとっては、相変わらず敷居は高いまま、または物足りなかったりするだろう。
また、「一番使えるフリーソフトはこちら」のような、一番使えるはずの情報も欠落しているから、実務畑の皆様にとっての有用度も、厳しかろうと思われる。(有料ソフトの一覧はある。)
そんなわけで、皆さんが今お抱えの課題に、直接役立てるような便利な任務に耐えるかどうかは難しそうだ。総じて、「一応、知識として知っておく」程度の有用度になるだろう。無論、「ITを理解できない役員の説得材料」のような、転用も厳しいだろう。
個人的な印象だが、分析は科学だアートだといくら説かれた所で、やっぱり眉唾だなあと感じる。データの取り方や妥当性の解釈、パラメータの選択と決定、モデルの構成のし方、数値解析結果の解釈、これら一連の工程の各々で、経験やひらめき、意図なんかの不確定要素が、入りまくりなのだ。
例えば、夫婦の真の相性を解析するため、夫婦の会話から以下の「変数」を評価する。
ユーモア 同意 喜び 愛情 関心 怒り 優越
悲しみ 泣き言 好戦性 自己弁護 妨害 嫌悪 軽蔑
このモデル化によれば正確な分析が可能、という事例が紹介されているのだが。
上に挙がった「変数」で、本当に全てか?、どうしてこれだけでいいと言い切れるのか?、これ以外の要因は本当に不要なのか?、証明は不可能だ。ただ、この分析を行った人は「これでいいと思った」し、結果を解析すると「これで妥当と思われる」というだけだ。
「分析の妥当性は、分析して判断する。」
うーん・・・。論理が閉じてるよねえ。
「賛成の反対」 (by バカボンのパパ) みたいな?
そもそも、統計というのは、個々のデータの細部はとりあえず無視して、全体像を大雑把に鳥瞰する目線だ。例えば、試験の偏差値は合格の確率を予言するだけで、保障はしない。そもそも、平均点を取ったヤツなんて、居ないかもしれない。「大雑把」だけに、個々の細部は欠落してしまうのだ。
だから、初めから統計だけに閉じている議論には、危うさを感じざるを得ない。何が抜け落ちたのかも分からないのだ。
足元はそんな感じで危うい所に、最後には、分析者が、この「変数」を選んだ根拠が、ひらめきや勘、センスなんかであって、そういった経験の蓄積が、彼を信用できる根拠ですよ、となると。ワタクシなんぞはもう、どうしたらいいか分からない。(笑)
ひらめきや勘の代わりに「意図」を用いたら、思い通りの結果を出すこともできるし、例えば、意に沿わぬ事象から目を逸らさせるような、うまい使い方も可能だろう。(実際に、そういう事例もよく見かける。)
データは、何かを教えてくれる。それを、ありのままに見探るという作業は、エンジニアなら普通にやっていることだ。うまく辿れば、問題の帰結をつまびらかにし、解決の役にも立つ。本来は、実に楽しい作業なのだ。
これが、いざ目的がビジネスとなると、なんでだろうか、途端に危うくなる。ありていのデータをこね回し切り刻んで、何か出て来ないか試している、そんな印象。分析自体が、自己目的化してしまうせいではなかろうか。
その亀裂を埋めるのを、ビジネスエリートに任せていたんじゃ無理そうだなあと。そんなことだけは、わかったような気がした。
Amazonはこちら
真実を見抜く分析力 ビジネスエリートは知っているデータ活用の基礎知識
最近のコメント