'90sのバイクの本(4) 浜松オートバイ物語2015/08/09 09:01

1993年5月刊


題名から想像される通り、二次大戦直後の、国産バイクの興隆期を描いた本だ。

毎日新聞の記者である著者が初めに興味をいだいたのはライラックだったようだが、その調査を行ううちに、情報の量としては圧倒的に多いホンダの方に興味を奪われ、そちらを先に地方紙に連載。その後、著者の転勤と共に連載中止となっていたものを、当初の動機であるライラックの章を加えて単行本にしたと、そういう経緯の本だそうだ。

前半のほとんどは、本田宗一郎の生い立ち、アート商会時代から、ホンダ技研の立ち上がりまでが描かれている。大体は、よく聞く話がほとんどで、つとに有名なその暴力性、何か気に障ると一生傷跡が残るほど、こっぴどく従業員をスパナでぶん殴るというブラック具合などが書かれている。もっとも、彼が部下を殴るのは、必ずしも「仕事のための愛のムチ」というわけではなくて、毎夜の芸者遊びから帰ってきて、機嫌が悪い時に残業している社員を蹴り飛ばしてマジ反感を食らったとか、「よく聞く話」以上の赤裸々な記述は少々真新しい。

次は、戦後の二輪のレースの勃興期の話で、ホンダのTT参戦や、ヤマハの赤トンボの立ち上げ時の話なんかを中心に書かれている。これも、宗一郎によるTT優勝宣言など、お話としては有名なものが多いのだが、国内外のレースが、技術開発と宣伝を兼ねた場として立ち上がってくる様子を、メーカー側の目線でもって、生き生きと描いている。

と、ここまでは既知の話が多くて、何も90年代にこんな本を改めて出さなくても?と思うのだが、終章のライラックの話は、著者の元々の執筆の動機なだけあって、一番おもしろく読ませてもらった。

ライラックは、日本車には珍しいシャフトドライブにこだわったメーカーとして描かれている。主な登場人物は、丸正自動車の社長と技術責任者のお二人だ。ホンダやスズキとの関わりや、丸正がつぶれた後に技術者が移ったブリジストン、台湾のバイクメーカーなどの動きなどを絡めながら、最後に、現在のこの二人が、当時を振り返る感想が語られる。

「ホンダのように厳しくは出来なかったなと思う。ホンダの起死回生策もいろいろ調べたけど、性格的に、自分にはできないことも多かったなと・・・」

「宣伝による拡販や他社との提携などに依らず、技術の開発や投資に励んで、もっと地道にやっていれば、続けられたかもしれない・・・」

「我々の時代には、車を作る時には『こういうものが作りたい』という気概であふれていたが、今はそうではなく、『どうやって売るか』が先になっている。それに、フレーム、エンジン、サスペンションなど分業化が進み、『これはオレが作ったんだ』と車そのものに愛着を持っている技術者は少ないのでは。でも、そうじゃないと大企業として生き抜くことができないのでしょうね・・・」

一応、念押ししておくが、以上は、本書からの引用であって、私が、自分の意見を書き下ろしたわけではない。(いや、いつもの私のグチに、よく似ているなと・・・。)

また、以下のような話もあって、笑わせてもらった。

「イタリアではモトグッチなど昔ながらの家族的企業が未だにファンに愛され、少量ながら生産を続けている。昭和36年の倒産当時、国内には熱烈なライラック愛好者が数多くいた。海外からの評判もよかった。だから、彼らを満足させる商品を堅実に作っていれば、モトグッチ並みにはやっていけたのではないか・・・」

わざわざGuzzi を引き合いに出さなくても・・・とも思うのだが、ご存知の通り、ライラックは、縦置きVツイン&シャフトドライブを出していたから、そんな繋がりで、話が出たのかもしれない。

時系列に見ると、縦置きVに関して、ライラックはGuzzi の先輩だ。

ライラックの縦置きV。今見ても、清楚なくせに、ちょいとすばしっこそうなあの機体が世に出たのは、1959~60年頃。その直後の1961年に会社が一旦倒産し、1967年までに廃業に至っている。

Moto Guzzi が、Vツインのバイクの設計を始めたのが、1963年。発表が、1965年。

実際の所、バトンを渡された、というわけでは全くなかったのだが。
ぱっと見は、そのように見えなくもない。

もし、縦置きVというアーキに注目したことが「先見の明」だったのだとしたら、それは、確かにライラックにあったのだ。

しかし、「先見の明」というのは、どうも、それだけでは活きないもののようだ。

こんな、「立ち行かなかった先達の話」が、バブル崩壊の冷たさが身に染み始めた90年代の初頭に出版されたのは、日本の工業界の青春時代を、振り返り、懐かしみたいということだけではなく、何か、必然のようなものも感じてしまう。

失われた20年とは、よく言ったものだが。
もっとずっと前から、もっとたくさんのものを、失い続けてきたのかもしれない。


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なんか、英語の表紙のしか出てきませんが。
ちなみに、私が見た本は定価¥1553(税抜き)
浜松オートバイ物語―夢を追いつづける遠州の男たち

'90sのバイクの本(5) オートバイのサスペンション2015/08/15 07:25

1994年3月刊


カヤバ工業による、バイクのサスペンションの本である。
どんな内容かと思ったら・・・ほぼ「工学書」でした。
仕事としてバイクのサスを作る人のための、工学的な知識のまとめである。

・バイクのサスペンションの歴史
・タイプの紹介と図解
 (ガーターはこう、アールズはこう、メリットとデメリット・・・)
・バイクの挙動とサスペンションの動作の相関 (数式がいっぱい)
・サスのセッティングと評価、サスペンションの将来像

サス、特にダンパーは油圧回路で、フロントフォークのインナーとアウターの間の細かい所に油の流路があり、インナーのパイプの端部あたりに制御機構がくる。一般に油圧回路は読み取るのに慣れが要るところに、フォークの場合は断面図で見ると肝心の部分がすごく小さくなるので、余計にわかりにくい。一応、拡大&流れ方向の図示などもあって、何とか読み取れる・・・こともある、という感じ。何せ90年代の本なので、まだアンダブの解説なんかがあって懐かしい。

バイクの挙動の辺りは、ずいぶん詳細な数式から始まるかなり本格的な内容なのだが、基礎式から順繰りに解いて見せてくれるわけではなくて、この数式モデルでは結果の式はこう、と「風が吹けば桶屋」方式の記述が多い。工学的な数式の形にかなり馴染みのある玄人、「ああ、この式の形はアレだったな」と式を文のように読める人以外には敷居が高い。文献の孫引きも多くて、詳しくは元の文献を見よ、と引用元が紹介されてバスッと話が終わったりしている。総じて、この世界のプロの皆様が、「教養として憶えておく」か、「必要なら遡って調べて、手と頭を使って自分で考える」のどちらかになるような感じだ。

素人としては、まあそれなりに順応して、「詳しいことはわからないし理解もしていないが、結果だけ丸呑みして知ったような顔をする」という宮城光方式(笑)で行けば、使えなくもないだろうが。

フンフン・・・

まあ、肝心の「サス特性との相関」の部分があまり詳しくなかったりするし、サスの評価の章は、「結局は乗り手の体感による」てな話や、メーカーの耐久試験の紹介で終わったりするので、これを詳細に学んでも、例えば「趣味でやってるレースのサスセッティングに活かせる」のような実利があるかは怪しい。

サスの将来像の章では、ちょうどBMWのテレレバーが出た頃で、これってストラットだよね・・・と、4輪の方のサスの構造まで図解してある。バイクではまず見ない方式の解説まであって、知識としての充実は図れるかもしれない。

これって、ハイドロだよね・・・。

確かに詳しいだけあって、時たま「ややっ!」という「知る喜び」はやってくるのだが、不親切な講師に「ついて行ってやる!」と対抗心を燃やせる若さがないとちょっと厳しい感じで、脳ミソの体力も残り少ないオジサンには、ちょいと荷が重かった。


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ちなみに定価は、税抜き¥2913。
オートバイのサスペンション (MECHANISM SERIES)

'90sのバイクの本(6) バイクで駆けるインドシナ1万キロ2015/08/16 07:10

1994年7月刊


賀曽利 御大のツーリング記である。

当時、既に売れっ子だった御大が、BACK OFF、月刊オートバイ、旅(JTBの)といった雑誌や、共同通信などに連載した記事を、おまとめ&追記したものらしい。

今度のステージは、インドシナだ。
インドネシアではない。
具体的には、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア。
マレーシア、シンガポールも少々。

90年代の中ごろとは言え、まだ内戦が進行中だったり、そうでなくても戦闘の傷跡が生々しい一方で、華々しい経済発展と、共産主義なんかがパズルのように入り組んでいる。さらに、民族や言語、宗教は別の模様で重なっていて、人々は、優しかったり、大らかだったり、ゆっくりだったり、融通が利かなかったりと、いろいろだ。ジャングルは深く、道はぬかるみ、メシは簡素だが美味く、でも下手をすると腹を壊す。懐は深いのだが、入り口は狭く、所々で難渋が予想される。(ツーリングはしにくい。)

案の定というか、いきなり、バイクを空輸した先のタイで通関がならず、えらい時間を空費する。それを待つ間、仕方なしに、バス&電車で、一足早くインドシナ一周をして。それでもまだダメで、一旦日本に戻って、またあちこち国内をツーリングして記事を書いて。

そんなこんなで、やっと当地でバイクを受け取って走り出すまでに、実に4ヶ月。(ここまでで、本書のページ数も半分を費やしている。笑) 何でも、タイは国内で生産している150ccの枠を越えるバイクの輸入を制限していて・・・なのだそうだが。まあ、世界を旅している御大にとって、バイクの受け取りに半月かかるなんてのは珍しくないらしいが、それにしても長すぎだ。でも、同じようなお役所仕事には、この先も苛まれることになる。

まず、国内のビザや走行許可証を取とうとするも、正面玄関からでは埒が明かず、コネを作る所から始めるという有様。それより何より面倒なのは、何と言っても「国境越え」だったようで、一応はビザを取って、いつものように楽観主義で「行ってみれば何とかなるだろう」と国境へ向かうのだが、「陸路からの入国は認めない」とけんもほろろなのが大概で、文字通り「当たって砕けて」しまう。しかし、ようは「陸路はダメ」と言っているだけで、一旦引き返して、先方の首都(ハノイとか)にバイクごと空輸すれば、ほぼフリーパスだったりで、のど元過ぎればナンとやら、「いい国だなあ」となったりする。で、そこから、あの「通してくれなかった国境」に、逆方向からお礼参りに行って、「帰ってきたのか!?」となって、酒盛りになったりしている。

カンボジアでは、大きな戦闘のすぐ傍を命からがら駆け抜けたり、その先の国境では「行くのも戻るのも許さない」と、えらく無体な目にあったりと、文字通り凸凹だらけの旅路だが。終わった後に振り返れば、また今度も、筆者にとっては、印象深い旅となったようだ。

もともと、この辺りの地域を走ろうというのは、筆者の強い願望から始まっている。(いつもだけど。) 同じアジア、民族的にも近くて、稲作など日本の原風景とも言えるこの地域を、我が身で直に走るということに、特別の感慨があったと。まさにその願いをかなえてくれる、貴重な経験となったようだ。(実際、写真に写る日焼けした御大は、現地人と同化して、区別がつかなくて笑える。)

ある程度は出来レースだった「水曜どうでしょう」のベトナム・カブ記なんかとは違って、掛け値なしの完全な単独行、しかも、この世界のプロ中のプロである御大のレポートとくれば、面白くないわけはない。私はかなり楽しめた。

見たこと感じたことの細かい逐一を、つぶさに教えてくれる本書なので、私が書き写すと、かえって塗りつぶすことになる。ご興味をお持ちの向きは、安い古本も出ているようなので、本書を直接、ご覧いただくのが良かろうかと思う。

ちなみに、使ったバイクは、スズキRMX250。
113kg、40ps。
2st時代のピーク&ラストである。
よかったよなあ、あの頃は・・・。(← 2st欲しい病 再発か?)

それにしても、御大は、いつもスズキのバイクばかりだ。
何ででしょうね。


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定価は¥1456(税抜き)
バイクで駆けるインドシナ1万キロ 単行本

'90sのバイクの本(7) 三ない運動は教育か2015/08/23 08:22

1994年11月刊


3ない運動の成り行きを追ったルポタージュである。
毎日新聞の編集委員と、交通事故分析・安全教育の研究者の共著だ。

題名の通り、三ないの教育としての意義を追求する内容である。
いつぞや取り上げた類書 とは、かなり趣が違う、ちゃんとした本だった。

90年代のこの頃は、三ないからの脱却が目立ち始めた頃で、その変化を、教育現場で直に取材するという、絶妙のタイミングで書かれている。

三ない運動が始まり、盛り上がったのは80年代の前半。表向き、きっかけは「PTA連合会からの要望に応じて」ということになっていたようだ。

PTAとあるから、父母の側からの要請があったように思われそうだが、「教育委員会のヨメ」(無償で献身的なお世話を強制されているの意)と揶揄されるPTAが、自主的に何かを言い出すはずがない。(実際にPTA活動に携わったことがある方なら、ご想像が付くはず。) 先生の側の意向であったのは明白で、要は、言いだしっぺの責を免れるための策だったのだろう。

自分の中高生時代を思い出してみればわかるが、先生というのは、大体はお役所思考だ(公立校なら尚更)。そうではない先生も、いないことはないだろうが、いてもほんの数人、が現実だろう。

自分の高校の生徒が、バイクで死ぬ。これは、先生方にとって、2重の意味で落ち度になる。まず、生徒がバイクに乗る不良だということ。次に、死という最悪の結果を防げなかったこと。指導力と管理力の両面で、無能という烙印を免れない。

時代は、80年代の中盤。バイク界は、底辺の原付に着火したブームが、レプリカに向かって燃え盛っている最中だ。バイクのハードのスペックはドカンと一気に上がったが、操縦性にマージンは無くて、うまく乗るのは相変わらず難しかった。なのに若者は殺到して、路上の台数も見るからに増えたが、事故はそれ以上の勢いで増えていた。

あの頃の情景を思い出すと、各地の峠は、スニーカーでスッ転んで、路面でくるぶしを平らに削った若いトンビなんかで溢れていた。友人を亡くしたような経験をお持ちの、ご同輩も多かろう。

今考えると、全く信じられないのだが。
当時、若者がバイクに乗りたいという熱意は、こんなにも強かったのだ。

つまり、三ないを炎上させる燃料には、事欠かなかった。

お役人が、問題解決に用いる方法は、2つある。
「無かったことにすること」と、「終わったことにすること」。

バイクに乗れる16歳は、親にとっても扱いにくい年齢だ。親の言うことなんか聞きやしない、先生何とかしてください、そんな丸投げ型の親も少なくない。管理強化の名の元に、何かを「やること」ではなく、「やらないこと」で解決しようとする三ないは、一番簡単かつラクな、小役人が考えそうな手段だった。さらに、親と教師で利害が一致していたから、いかにも便利に吸収されて、すぐに定着した。

初めに口火を切ったのは愛知県だったそうだが、全国レベルでの実施を先導したのは神奈川県だったというのは、有名な話だ。(先頭を切って出てくるのがこの2地域だとういうのは、何となく納得できて笑える。)

1982年の高P連で採択されて、三ないは全国規模の方針となった。つまり、三ないは、お役人組織に生きる先生という職種にとって、デフォで守るべき命令に昇格した。と同時に、数少ない「職場の良心」を握りつぶす方便として、機能を始める。

一応、高P連での決議では、5年毎に方針を見直すことにはなっていたようだ。5年も経てば、校長先生は交代になるから、自分の任期さえ無難に過ごせば、後は次の校長が考えれば?と、そういう意味なのだろうと思われるが。まあ想像の通り、その5年毎の採択も、現状確認の大本営発表を繰り返す方便になっていて、議論がその方向で進むよう、周到な根回しがされていたとある。

田舎の高校なんかでは、生徒がバイクに乗れないと、単純に不便だったりするので、三ないに対する疑義のような意見も、一応は述べられる。しかし、「全体方針に従わない不届き者」としてさらし首になった後、あっさり無視されると、そういう筋書きだ。(筋書き以外のイベントも、事前に周到に排除される。)

以上でもわかる通り、バイクは問題なんかじゃなかった。
小役人ライクな、メンツとか都合の問題だった。
皆が知ってる通りだ。
だから当然、効果もない。

三ないに効果が無いことは、統計を見れば明らかだった。
90年代に入っても、事故(死)は増え続けていた。

生徒たちは、二輪だけではなく四輪の免許も取っていたし、クルマで死ぬ数も少なくなかった。死傷者数は、地域によって差が大きかったが、それは、三ない運動への熱心さよりもむしろ、交通環境(街中の混雑など)などの他の影響を示唆しているようだった。(そも、第?次交通戦争とか言われていたくらい、道路状況が荒れてもいたのだが。)

でも、先生というのは不真面目だった。学校でバイクを禁止された生徒が、仕方なく乗っていた自転車で轢かれて死んでも、それが自分のせいだなんか考える先生は居なかった。そもそも、生徒の事故の原因を考えて対処ようなんていう、真面目な先生が皆無だった。もう学校とは無関係の、卒業生の死因となれば尚更だ。

無論、少しだけはいた「良心」を持った先生は、この現実を前に動き出そうとはしたようだが。当然のように、無体な圧力がかけられた。(上記の不都合な統計を「なかったこと」にするとかそんな。笑) その状況を変えるきっかけが、お役人仲間でもある、警察からの支援だったというのは皮肉である。

校長先生は、自分の任期だけを、平穏に過ごせればそれでいい。
しかし警察は、増え続ける交通事故という数字からは逃げられなかった。

他にも、例えば、あの青木兄弟が高校生の時、学校側が突然に方針を転換し、「レースをやめなければ即・退学」と言い出した際に、紆余曲折の末、人権委員会の介入を招いたら、学校側の態度が豹変したと、そんな例も挙がっている。(小役人は、格の差なんかに敏感、かつ弱いのだ。)

警察(一部ではメーカーも)と連携した、交通教育が本格化し始める。
先陣を切ったのは、あの神奈川だったというのも有名な話だ。
(事故死が全国ワーストで、余裕が無かったのが効いたらしい。)

生徒向けのカリキュラムの検討が始まって、ようやく、「やらないこと」ではなくて、「やること」の難しさに、(良心以外も含めた)現場が気付き始める。何をどうやって教えれば、高校生が吸収してくれて、かつ事故の削減に効果を持つか。手探りの苦労と、事例の紹介・・・。

その辺りで、本書の記述は終わっている。

それから、20年が経った今。

少し調べてみたところでは、三ないは、「全国統一」という枠組みは崩壊したらしいが、取組みの熱意は地域別にマチマチという状況を引きずりながら、現在まで来ているらしい。

まあそれ以前に、若者が乗り物に対する興味をなくして、三ないそのものが無意味化したことの方が大きいように思うが。なにせ昨今では、営業に配属された新入社員クンが、実は運転免許を持っていないことが後から判明して人事が慌てたとか、そんな話もよく聞くご時勢だ。(若者界では免許取らないのがデフォ。)

想像だが、今の学校の現場では、三ないがあった頃の話を聞く方が難しいのではなかろうか。お役人にとって、大勢が変われば、その前のことは「なかった」ことになる。当然、担当者も消滅するので、それを語るお役人も居なくなるからだ。(戦中を語る職業軍人がごく少ないのと類似。)

そんなこんなで、もう過去の遺物のようにも思われる三ないだが、日々、バイクで路上に出ている身としては、それが終わった感じは、あまりしない。

三ない精神とはこじ付けかもしれないが、手近なバイクなんかを悪者に仕立てて、便利に現実逃避して安心したがる薄らバカは、今でもいくらでもいる。

逆に、バイクに現実逃避したがる連中も増えているような気がしていて、混迷の度を深めているように思う。

バイクには、現実逃避は通用しない。
(してもいいが、自殺と同じだ。)

ここ何年かで、ウチの周りだけかもしれないが、あの時の峠族のような軽装で、ピカピカの250ccで直線だけは妙に飛ばす、ヘッタクソなオッサンなんかを、よく見かけるようになった。その走りっぷりは、何と言うか、自分の居場所を確保して、できうる限り広げたいと、そんな瑣末な意図を強く感じさせて、妙に不快だ。

勘定してみると、最近、路上で事故を増やしていると話題の団塊リターンの皆様は、実は、三ないが盛り上がった当時に、それにもろ手を挙げて賛成していた親の世代、そのものなのだ。

実に納得しがたい矛盾だ。
バイクは子供にはダメだが、自分はいい、ということだろうか?

その考え方と、年齢からして、思い直して謙虚に上達というのは、期待薄な気がする。

教育や指導が通用しないのだとしたら、事態は、三ないの頃よりも、ゆゆしき方向に落ち込んで行っていると、思っていた方が良さそうだ。


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三ない運動は教育か―高校生とバイク問題の現在