バイクの本 Moto Guzzi 2-valve big twins その52016/03/27 07:48



前回 より続く)

内容が本からかなりスピンアウトしているが。
最後に、未来の話を書いて終わろうと思う。

まず、電制の話からだ。
電制は、クルマの方が進んでいるので、そっちを見回すと話が早い。

大概のバイクでは、電制といってもアクセルとブレーキがせいぜいだが、クルマの方は、クラッチ、ミッション、サス、デフにまで制御が入っていて、もう車体のあちこちで、カサコソ(ニチャニチャ?手触り悪いからね)動き回ってくれている。電制化の程度は高級車の方が高くて、昔、硬派で鳴らしたスポーツカーメーカーが、制御のせいですっかり鈍らになったとは本で読んだ。

人間がヘマしても補ってくれる、ヘタクソでも飛ばせる、そういう評価(利点)もあるのだろうけど。機械がそこまでやってくれるんなら、もう人間自体が要らなくね?と、そうなるのも自然な成り行きだ。だから、クルマ業界の次のお題目として、自動運転にスポットが当たっているのも当然なのだろう。

電制の側からしてみれば、ヘマをする不出来な人間が介在するから話がややこしくなるのであって、全部、電制側に任せてもらえば、かえって不確定要素が減るのでやり易い。いつものようにアップデートを繰り返すことで、完成度も高めて行ける。

そんな傾向は高価なクルマほど顕著なようで(開発コストの回収がラクだから)、もうふんだんに制御が入っていて、まるで「タイヤの付いたスマホ」のような有様になっているらしい。(いつぞや取り上げた 沢村氏 はさらに評価が辛らつで、いわく「 童貞のAV 」と、にべもない。)

どうしてそうなるのか。
今流行のバズワードであるIoTを例にとって、その裏側を描いてみよう。

IoTなどと、もっともらしくアブリビエーションで書いてみた所で、センサが勝手につながって、機械が人間のために、いいように動いてくれるわけもない。それらを繋げてどう動かすか、その絵を誰かが描いた上で、実際にシステムとして組み上げなければ、モノとしては現出しない。

しかし、現状を見回すと、その役目にあるはずのシステム屋は、もう完全にぶっ弛んでいて既にその実力がなく、企画も含めてICチップ屋に丸投げだ。チップ屋も、初期投資が大きくてリスクが高いビジネスモデルだから、わざわざ自分から投資はしない。基本、売れるものしか作らない人たちだ。この辺りの断絶は如何ともしがたいのだが、技術とビジネスのマッチングを取るのは、本来なら経営層の仕事のはずなのだが、ここも「伸びていない」どころか劣化が進んでいるのが現実で、状況はいわば「3すくみ」だ。

とりあえずビジネスは無視して、技術面だけを考えても、状況はあまり芳しくない。

IoTでもクルマの制御でも、その真髄は、センサの情報をどう繋いで、何をさせるのか、そこにどんな理念を描けるかにある。具体的な作業としては、要するにプログラミングで、仮想空間に、目に見えない構造を構築する作業である。だが、これが少々特殊な能力を必要とするお仕事で、実際の所、そんな絵を上手くコードで描ける人間なんて、ほとんどいないのが実情だ。最近はAI が流行りだそうだが、たとえAI を使おうにも、どういうAI をどう繋ぐのか、最低限の仕様は、人間が切らねばならない。なのに、どこをどう見回しても、そういう人材が育っていない。なんだか、経験がない「口だけコンサル」のような人間だけは、その辺を闊歩しているのを無闇に見かけるのだが(こいつらの方をAI で代替してほしい)。物を良くしようと、実際に手を動かす人が、本当に少ないのだ。

余談だが、ちょっと前までは、そういった仕事はユダヤ人やインド人が上手かったようだ。キリスト教とイスラム系は大した事ないのは、世俗化しすぎたせいなのだろうか。ちなみに、日本人は初めっから全然ダメだ。相変わらず、誰か仕切ってくれ~と互いに言い合っていて、それを「リーダー論」と称して投げ合っているという。なかなかの体たらくだ。(笑)

そんなわけで、電制を、商品企画として使おうという無邪気な試みは、粗方はウダウダになってしまう。結果、出てきた製品は、「目的感が希薄な、よくわからないシステム」に成り果てる確率が実に高い。

事情はスマホと良く似ている。たくさんあるアプリは、実際に使ってみると、どれもイマイチだ。仕様の範囲が狭いのに、少しでも違ったことをやろううとすると、全く使い物にならないか、ひどくやり難いかのどちらかだ。「こうしたい」に応えるはずのものなのに、実際には無視している。人間の基本的な感覚を、逆なでするものも少なくない。

デジタル機器は、プログラムされたことしか出来ない。基本的に、単能機なのである。だから、アプリをたくさん詰め込んで、単能機を集積しても、それはただの組合せ、寄せ集めであって、粗い網のように、あちこちに穴が開いたままだ。複雑な事情をあまねくカバーするようには、決してならない。詰め込む量を増やせば、見た目はそれに近くなるかも知れないが、量は常に増え続けるから、どんどん手に負えなくなる。「粗いか、過大か」、それは、デジタルの限界でもある。

その証拠に、「何もしなくていい」と、「何もできない」の違いを、デジタルは、プログラムできない。

そうやって、利便性のために、人間を疎外し続けるという逆説を犯し続けていると、いずれ、「人間様はめでたくご退場」とならざるを得ないだろう。

話をバイクに戻すと、スポーツを標榜するバイクというのは、この趨勢で行くと、いずれついえてしまうことになるのだろう。

多分、嗜好品としてのバイクが生き残るとすれば、それは、かなり違ったニュアンスのものにならざるを得ないだろう。

それが、どんなものになるのか?。個人的には、先週書いた、オッサンや「今っぽさ」が、逆説的に教えてくれているように思う。それらの共通項から、動機というか目的を考えると、「優越感」ではなかろうか。

優越感は、「他人」を基準にしている。
「他人より」カッコよかったり、速かったり。
より一般化すると、「他人より秀でていることを常に意識していたい」と、そんな欲望のことだ。

世情を見回して思うのは、それが最近は、「自分を伸ばす」方向ではなく、「他人を弱める」方向に働くことが、とみに多いように見える。
他人の不幸は蜜の味。
落ちた犬は打て。

必要以上に、優越観に固執する。
自分より力や立場が弱くて、虐げやすい他人を探す。
そのために便利なポジションを得るために、常に機会をうかがっている。
そしてそれを見つけたら、なるべく長く続くよう、状況を固定したがる。

目を凝らすと、こういった「誰か他人を踏みつけていないと安心できない型」の心情というのは、バイクに限らず、あらゆる場面で増えているように感じる。個人的な感想なのだが、いじめ、ストーカー、子供の虐待や虐殺、「誰でも良かった」型の猟奇殺人など、最近よく見るようになった、これらのやるせない型の事件の多くが、この感情を原因の一つにしているようにも思える。

しかし、この優越感に依りたがる考え方には、克服できない欠点がある。
上述のように、考え方の基準が他人にあるので、決して自分では満足できないのだ。
基準が他人にあって、自分では決められない。つまり、相手に依存している。だから、どこまで行っても安心できず、不安や不満が残り続ける。

「他人の不幸は蜜の味」なんて、本当は全くの嘘っぱちだ。他人が不幸になったって、その分をいただけるわけでも何でもないから、何一つ自分の得になっていない。不幸な他人に比較して、自分が上になったように、錯覚しているだけだ。

どうも、バイクも、この文脈で使われているようだ。型遅れになって見栄えがしなくなったり、抜かれた挙句にどうしても追いつけなかったりを、「新規お買い上げ」に結び付けようという意図を感じる。逆に、無理がたたって怪我でもすれば、(優越感には)バイクはペイしない、「バイクなんて」とこうなる。ずっと、こんな辺りをウロウロと繰り返しているように見える。

どちらにしてもだ。バイクに楽しく乗れるようにはならない。

だから、捨てる。

私は、「優越感」を捨てる。

そうして、その間逆にあるものに、目を凝らす。

「優越感」の反対語は、たぶん、「自己満足」だ。
本当の満足かどうかなんて、自分でしか決められない。
つまり、全ての満足とは本来、自己満足なのだ。

無論、満足を測る尺度として、美学なり、信念なり、矜持なりがないと、ただの独りよがりで終わってしまう。みすぼらしい、お粗末なものに落ちる可能性は常にあるので、自分で尺度を磨き続けること、更新を忌避しないこと、その微妙な刃面の上でバランスを維持し続ける覚悟は、基本条件である。
(いや、私自身、もう、人目を気にしない自己満足でもいいか、と思える歳になった、ということでもある。)

私は、ルマンに乗っていて「すっごい」と驚愕することが今でもあって、それが好きでもあり、憎んでもいる。そこで感じる「快」が、優越感に直結しかねないのを、経験として知っているからだ。

もっと「すっごい」バイクがいくらでもあって、現に簡単に抜き去られたりもするのだけれど、それでもやっぱり、ルマンで飛ばすと「すっごい」と感じる。この、ルマンがもたらす類の優越感は、抜きがたいことも知っている。

そして、事の本当のクオリティは、実は、全く逆の側にある。

コーナーで、自分が上手く曲がれた、きれいなバランスを作れたと思えれば嬉しいし、次もきれいに曲がりたいと気をつけたり、努力するようになる。それは、ルマンというバイクが、「うまくできた」ことを如実に教えてくれる特性であり、かつ、「できなかった」時も大体はカバーしてくれる、懐の深さを持っているからでもある。そういう「対話が楽しい」と感じさせるクオリティが本質なのであって、今っぽいバイクのような、「もっと行け」にどこまで耐えられたか、というガマン祭りとは、真逆の方向性なのだ。

要は、自分が満足できればいいので、スピードも馬力も必要ない。もっと淡々とした走り方でも、飽きもせず楽しく乗れて、もっと乗りたい、遠くへ行きたいと思わせる設定というのも、現にある。

そういう「楽しい旅心」は、ルマンにも当然あって、私はそれを愛している。
他には、私の経験の範囲内では、古めのベスパや、(四輪だが)古いシトロエンなんかには、濃厚にあったように思う。

あの感覚が、デジタルで表現可能なのかは、正直、私にはわからない。
ただ、残り少ない私の持ち時間の粗方は、そっち方面に浪費したいなあと、思っている。

「次のそれ」に、巡り会えるのか、間に合うのかは、わからない。

無論、「あっさり降りる」も、視野に入ってはいる。
(公道に、チェッカーはない。それは、私の中にある。)

そうこうしている間に。

今年もまた、春が、来たようだ。


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コメント

_ リターンしたヒト ― 2016/04/29 11:22

バイクに乗りたいのに欲しくなる新車が無いジレンマを抱えながら、無為にネットを徘徊していてたどり着きました。悶々として言葉にならなかった不満をズバリ書いてくださっていて、あー、こういうことなのか、と一人ひざを叩いています(笑)
ホームページのNinja250SLの記事を読んで、コレだ!と思い速攻でレンタルバイク試乗、翌日にはお買い上げです。
非力だしチャチで所有欲も満たされないのですが、軽くて細いこの単車は、 在りし日の単気筒スポーツの再来のようで本当に楽しいです。ありがとうございました。

この先どのような考慮で次の愛車を選ばれるのか、或いはルマンに乗り続けるのか、チェッカーを切るのか、他人様の事ながら、ドキドキしています。野次馬でスミマセン(笑)

_ ombra ― 2016/05/04 11:37

いらっしゃいませ。 <(_ _*)>

(元?)ベテランさんのようにお見受けいたしますが。私のつたない文章がご参考いただけたようでしたら良かったです。「楽しく乗れる」のが何よりです。

私の方は、まだ先が見えません。最近の製品は、何を売りたいのかよく分からないことが多いです。(変な例えですが、無理やり書かされた反省文みたいだな、と。提案の皮を被った言い訳?) 選ぶだけでエネルギーを吸われ、決める前にゲンナリしてしまい・・・。チェッカーまで行き着けず、ピットインしてそのままリタイア、というのもありえそうです。

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