読書ログ ゼロ・トゥ・ワン ― 2016/04/03 08:36
ちょっと前に、あちこちの書評で取り上げられていて、著名文化人なんかが「何度も読んだ」などと褒め称えていた本だ。それに煽られて興味を持って、地元の図書館を覗いたら蔵書があったので予約したのだが、長蛇の列の一番後ろで、番が回ってきた頃にはもうすっかり古びていて。今さら感にたっぷり浸りながら、読んだ次第にて候。
真新しい内容や、改めて見直すべき内容はほとんどなかった。どうも、当時の書評なんかの情報で、内容の粗方はネタバレしてしまっていたらしい。
スタートアップ、つまり起業についての本で、その心得や方法なんかが、雑感的に描いてある。
主題は、近年の合衆国の新興企業、それも最近のIT企業系だ。USで新しく伸して来る企業というのも、時代と共にスタイルは移り変わっていて、実際に物を作って売る企業であるAppleやマイクロソフト(昔はパッケージを売っていた)から、ほとんど物は扱わないGoogleやAmazon(初めは在庫を置かないブローカーだった)を経て、近年はFacebookなどのITアプリ系に移って久しい。
IT系のビジネスは、実際に何かが動くのはクラウドサーバーの中だけ、外から見えるのはアプリの小さい画面だけで、それ以前のモノ造り系とは全くスタイルが異なる。モノ造り企業が10k個の製品を売ろうと思ったら、実際に10k個作って、流通(在庫も)させて、販売(金額を回収)しなければならない。IT系は、雛形をサーバに置いておいて、ダウンロード(つまりコピー)してもらえばいいだけだ。ほとんどが仮想空間で済んでしまい、物が動く量が圧倒的に少ないから、製品は簡単に、しかも爆発的に流通しうる。必然的に、営業の方法論も従来とは異なるものとなり、旧来の「対面の一対一セールス」ではなく、広く周知させる型のマーケティングと、流行を仕掛ける型の両極端な方法論になる。投資スタイルが異なるのもポイントだ。(モノではなく人、それも開発者への投資が大部分を占める。言い換えると「チームの作り方が大切」となって、最近良く見る言い口となる。) そして、起業家の能力で一番のポイントは、ここでもやはり「仮想空間での構想力」だ。
しかし、それだけ異質なIT系でも、ビジネスの方法論(特に会計面)は、旧来のモノ造り系を相変わらず流用しているだけの場合がほとんどで、その辺を鋭く突いた「違うんじゃね?」系の逆張り議論が、いろいろとなされている。いわく、市場をちゃんと見ろ(もともとビジネスの基盤が仮想世界なので、市場をどう区切るかはどうにでもなる)、差と比の違いに気をつけろ(変化が比で起こる系は差が指数的に広がる、借金とか)、隠れた真実を探せとか、事を起こすタイミングが大切だとか(要は運・・・ではないそうだが、よくわからん)などと書かれている。
こういう逆張り系の議論は、新興系の企業家により、繰り返し語られてきたのだが、不思議なもので、その時は一瞬、真新しいような感じがするものの、すぐさま「当たり前」になってしまって、もうずっと前から皆で同じ事を言っていたかのように、普通に語られるようになってしまう。鮮度が失われるのが早い。寿命が短いのだ。
どうしてそうなのか、内容が軽いからなのか(軽いけどインパクトがある話題って、ずいぶん器用だ)、ビジネスと同じように仮想的な話なので実はみんなピンと来ていなかっただけなのか、出版業界のご都合で、次の話題が来ればそっちを売るから、読者の興味も移ってしまうのか。よくわからない。
どちらにしても、今頃読んでも、真新しくもなく、インパクトもないお話だった。(ちなみに、出版は1年半前。本当に寿命が短い。)
びっくり箱は、二度目は驚かないと、誰かが言っていたが。
きっと、そういうことだし、そういうものなのだろう。
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ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか
読書ログ ローマ人の物語 (14) キリストの勝利 ― 2016/04/17 09:34
高校生の頃だったと思う。
何かの自由課題で、「聖書」をあてがわれた事があった。
当然、熱心な教徒のように熟読したわけではなく、要所要所を飛ばし読みで、やり過ごしたのだが。頭が悪い私は、もう、旧約聖書の一番最初で引っかかってしまったのを憶えている。
「初めに言葉ありき。」
?
何が言いたい?
これは多分、理屈を通すための一文だったのだろう。つまり、世界の始まりを言葉が表しているのだから、世界の始まりの前に言葉がないとおかしい。そういう、「つじつま合わせ」のために入れた文なのかな?と。(または、宗教的にもっと深い意味とか、突拍子もない誤訳、なんてのもありうるが。今は突っ込まない。)
話が一旦それるのだが。
昔々のプログラムの言語、Fortranなんかの時代だが、変数の定義を一番最初にしておかないといけないものだった。(プログラムが走ってから、変数を格納するメモリ領域を仕切り直すのが難しかったので、必要量を初めに確保しておく必要があった。)
この旧約聖書の冒頭の一文でケつまづいた若かりし頃の私は、最初の変数の定義で悩んでしまったようなものだったのだ。
というのは、「プログラムの冒頭で全ての変数を定義する」ためには、プログラム全体を通して必要とされる変数を、前もって把握していないといけない。つまり、「何を書くのかはもう決まっていて、それへの対処を冒頭で行う」と、そういう構造になっている。
そして、旧約聖書が、それと同じ構造を持つということは、それが、実際にあった、または、あったと思われる事象を、時系列に、ありのままに記述したもの、というその体裁とは実体が異なっていて、何らかの意図を伝えるために、内容があらかじめ決められた物語である、ということを端的に示している。
神の仕業ではない。
人の仕事なのだ。
冒頭の一文から、私は、そんな臭いを感じたようだ。
そして同時に、憂鬱になった。
物語というのは、つまり、体よくまとまったウソのことだ。なのに、それを「信じている」と公言してはばからない人々が世界中にあふれていて、お前も信じろと盛んに薦める、のみならず、信じないのは悪いことだ、とも言っている。
当時の日本は、今よりも西洋コンプレックスが普遍的に強かったし、こういう不条理に不満を感じつつも、あからさまには反論しない雰囲気圧力が強かった。むしろ、この課題自体、「反論ではなく理解をしろ」と言いたげなニュアンスが、初めからあった。
でも、新約聖書を含めて、一見して矛盾した、筋の通らない物語が延々と続くそれを、ただひたすら「正しいもの」として読み込み、そこから、キリスト、つまり神の何たるかをすくい取ろうとする行為を、私は、理解できなかった。
(聖書のそういう読み方は、比較的近年のもので、時代によっては異端扱いだったと知るのは、もう少し後のことになるのだが。)
「聖書はキリストの愛に溢れている」
マジかょ・・・ ← 高校生の私
宗教というのは、単なる信心、どんな教義を信じるか、という話ではない。
ものの感じ方、対処の仕方、倫理や正義の規範、価値観、暮らし方の作法、そんなものまで含めた、「思想」と「文化」の間くらいの大きさの、考え方の体系のことだ。
だから、教義(聖典)の表面だけを眺めていても、分かることはわずかだ。その証拠に、同じ聖典から派生した宗派同士なのに、血を流して争うこともよくあるようだ。
私も、大人になってから、実際にイタリアに行ってバチカンを見たり、本場(?)イタリアのキリスト教徒の情報にも接するようになるのだが、どうも、キリスト教の真髄というのは、聖書に書いてあることではなさそうだ、とは察しがついたし、世界中を見回すと、一口にキリスト教といっても様々だから、一筋縄では行かない。
ただ、その根源的な所、キリスト教を初めとした、一神教的な考え方、特にその「悪い面」は、世界中にあまねく普遍的になっているように思うし、それは、私自身の中にもあると感じる。
真理は一つである。
それは、自分が考える真理である。
それ以外は間違っていて、悪である。
真理を神と言いかえれば、まんま一神教的な考え方、そのものとなる。
要は、自分が一番で、それ以外は受け入れないという、唯我独尊で排他的で、硬直していて融通が利かない、とても厄介な考え方だ。私という正(優れているもの)と、それ以外の悪(劣っているもの)を分ける、優越主義にも、簡単に転化しうる。
この無邪気な優越主義が、イスラムを含めた一神教のみならず、世界中にあまねく拡散し、かつ、根付いているように見える。
中東で続きっ放しの宗教系のモメ事なんかにも、この色彩は濃厚だし、お隣の大国の最近の横暴も、あれは共産主義ではなくて共産一党の独裁主義と考えれば、一神教的な意味合いを帯びるのも、無理がないのかもしれない。どこかの国の総理大臣の、国民を小馬鹿にしたような政局運営にも、排他的優越主義を感じることがよくある昨今だ。
これは、どういうことなのだろうか。
一神教的な考え方が、世界規模で拡散している、今はそういう局面だと、そういうことか。
(なら、今後は変わっていく可能性がある。)
それとも、人間というのは本来、中二的な考え方から抜けきれない、そういう生き物だということか。
(なら、今後も変わらずこのままだ。)
選民思想や、排他的教理は、最後の一人として残るべく、敵を倒し、その数を減らす方向で先鋭化せざるを得ないから、誰かが最後に一人残るその一瞬まで、全体の繁栄には寄与しない。にもかかわらず、それが、群れ(教団)を保つ方法論として正当化されるというのは、どうしてなのか。
和解ではなく、服従を求める教理は、戦いを呼び、その結果の淘汰でしか収束し得ない。これは、人間は、互いに争い奪い合うのが本来の姿、つまり、自主独立して自活はできない生き物だと、そういうことを示しているのだろうか。
そんな、次々に湧いてくる疑問の手がかりとして、人類史上、キリスト教がブレークした最初の瞬間、それが人々の間にどのように認められ、拡散して行ったのか、その詳細を追うことが、有効な手立てとなりそうな気が、ずっとしていた。
歴史的には、キリスト教のブレークは、古代ローマの滅亡と重なる。
だが、世にあるローマ史というのは、粗方が西欧の歴史に拠っている。彼らは、キリスト教世界の人でもあるので、キリスト教はいわば「与件」で、あって当たり前、あるのが正しい姿だから、どうしてそうなったのか、という観点で書かれることは、ほとんど無いようだった。
そこで、本書である。
ラテンの歴史を自在に書きこなす日本人著者による、ローマ史の一冊だ。
2005年に出た本である。
実は、買っただけで、読んでいなかった。
本棚で10年以上、熟成していたのだ。(笑)
(つづく)
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ローマ人の物語 (14) キリストの勝利
読書ログ ローマ人の物語 (14) キリストの勝利 (その2) ― 2016/04/24 08:08
私は、塩野先生がマキャベリやベネツィアを書いていた頃からのファンで、このローマのシリーズも、初めっから初版で買って読んでいた。
(インパクトの強いイタリア車である)ルマンに乗り始めてからこっち、イタリア的な楽しさ面白さの何たるかを探求するのは、ほとんどライフワークになっていた。塩野先生の著書は、その貴重な情報源の一つだったのだ。
で、その「何たるか」の根源は、やはりローマにあると感じていて、塩野先生がローマを書き始めた時は、「やっぱりココですか?」てな感じで。(何せ、古代ローマには「いい男」が多いですしね。笑)
通読すると、「いい男」の筆頭であるカエサルの辺りは、筆致も非常にノッていらして、それはそれは楽しく読ませていただいたのだが。
この辺りですね。
ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前
ローマ人の物語 (5) ユリウス・カエサル-ルビコン以後
その後、ローマ帝国が衰退の下り坂に差し掛かると共に、著者のノリも下降線を辿ってしまい、あまり楽しく読めるものではなくなっていた。
そして、その先には、前述の、私がずっと気になっていた問題がある。
キリスト教だ。
古代ローマ帝国が、キリスト教に飲み込まれる瞬間。
それは、どういうものだったか。
ローマを書き始めたが最後、それは、避けて通れない終着点だ。
この人は何れ、キリスト教を書かざるを得ない。
具体的にはこの辺、シリーズの最後の3冊になる。
ローマ人の物語 (13) 最後の努力
ローマ人の物語 (14) キリストの勝利
ローマ人の物語 (15) ローマ世界の終焉
でも、読めずにいた。
ずっと通読はしていたから、面白くはなさそうだ、という予感はあったが。
それだけではない。
何となく、まだ、消化不良を起こしそうに思ったのだ。
結果として、私の方が相応な歳になるまで、待ったような感じになった。
いや、折角なので、カッコよく言っておこう。
「期は熟した。」 (笑)
国の一生も、人の一生も、「旅客機の飛び方」に似ているように思う。
離陸すると、まず、一気に高度を取る。
高度は、何かあった際に落ちるまでの時間、つまり、マージンでもある。
それを確保するためだ。
勢いや能力や、運なんかは、できる時にやらなければ、つかめない。
若い時、成長期は、一瞬だ。
後は、その高度を保って、できるだけ遠くに飛ぶことになる。
風に乗れれば、もっとよい。
ただ、だいたい風なんてのは目には見えないし、いつも通りに吹いてくれるとも限らない。風に乗れた人はラッキーだが、乗るには揚力や推力、つまり実力も要る。そして、風に乗り続けるには、実力を維持するための努力(コスト)も必要になる。
人や国の一生は、飛行機のフライトとは違って、大小のアクシデントが付き物だが、それが実力を上げ下げして、高度や航路に影響もする。
そうして、そのうち、だんだんと、降下し始める。
着地点に向けて、ゆっくり、ゆっくり、高度を下げてゆく。
高度を下げるスピードは、本当にゆっくりだ。
じっくりと、時間をかけて、アプローチする。
降下にかける時間は、時に、全フライトの半分を超える。
この下降線は、辛い時期でもある。
力を抜いたわけではない(つもり)なのに、落ちていく。
(意図せず、実力が落ちている。)
もがいても、あがいても、地面が次第に近づいてくるのが見える。
ここから先は、飛行機とは事情が決定的に違ってくる。
人や国の場合、大概は、着陸と墜落は、区別がつかない。
そして、そういう状況を認識した時、人は、何かにすがりたくなる。
すがる先が、「単純で絶対的」なら分かりやすいし、実利が伴えば誘惑も強い。(教会は、貧民対策や病院のような活動もやっていた。)
為政者にとっても、都合がよかった。それが、「神の思し召し」だとなれば、下々に四の五の言わさずに済むからだ。(初めから、政教一致が原則だった。)
ローマが本来持っていたバイタリティは、多神教に基づく、多様な価値観の共存がその礎だったから、一神教の台頭で、止めを刺された格好になった。
ローマは、「崩壊」などしていなかった。
ただ、砂の船のように、沈んで溶けた。
あるいは、流れ星のように、燃えて尽きた。
そうやって、ただ、「いなくなった」。
もし、「信じても救われない」ことを、西欧人が公に認めてよいことになったのが近代だとすれば、それまでに、実に1500年の時間がかかったことになる。
(まあそれとて、ローマが1200年以上続いたことを考えると、大した時間ではないのかも知れないが。)
事の成り行きの構造を、シンプルに考えてみる。
★
「他人の価値観を認める」グループと、「認めない」グループがあった場合、
「認める」方が、「認めない」方に転化することはありうるが、
「認めない」方が、「認める」方に転化することは、原理的にありえない。
だから、時が経つにつれ、「認めない」方が優位になる。
最後には、一つの「認めない」グループが覇権を握ることになるはずだが、実際は、そうはならない。
何かの原因で、グループの利点が失われたり、機能しなくなったり、愛想を尽かされたりすれば、自壊に向かう。その過程で、実に頻繁に見られるのが、「内輪もめ」を始めるケースだ。
新しいグループは、それまでの失敗を踏まえたり、または忘れようとして、新しい価値観を打ち立てる。それは、よりもっともらしかったり、さらに便利だったりするだろうから、分派に向かう流れは大概、御し難いものとなる。
そして、内輪もめ、つまり「異端」との戦いは、それ以外、「異教」との戦いより、激烈に、いや、「えげつなく」なるものなのである。
(ローマ終期でカトリックが覇権を握ったのは、「異教」であるローマ宗教のみならず、他のキリスト教の宗派を「異端」として糾弾する排他性を、容赦なく発揮したからだった。えげつないものが残る、ということらしい。)
そうしてまた、★に戻る。
そうしてまた、同じような帰結を、繰り返す。
そうしてまた、・・・
○ 多様性の、カラフルな世界
複雑、混沌、曖昧、臨機応変、即応、両立、
創造と競争
○ 絶対性の、モノトーンの世界
優越、勝利、唯一、絶対、真理、王、神、
服従と救済
カラフルは楽しいが、モノトーンは迫力がある。
その二つの魅力の間を、人は、行き来する。
どちらにしろ、繁栄や長生きは、保証の限りではない。
歴史は繰り返す(ように見える)というのは、つまり、そういうことかもしれないし、それは、人間は進歩などしていない(手持ちの道具を増やしただけ)、という証拠かも知れない。
私はと言えば、
特に、救ってもらいたいとは思わないので。
専ら、許す方に、回ろうかと思っている。
「キサマの横暴を許そう」 (笑)
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ローマ人の物語 (14) キリストの勝利
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