読書ログ ローマ人の物語 (14) キリストの勝利 ― 2016/04/17 09:34
高校生の頃だったと思う。
何かの自由課題で、「聖書」をあてがわれた事があった。
当然、熱心な教徒のように熟読したわけではなく、要所要所を飛ばし読みで、やり過ごしたのだが。頭が悪い私は、もう、旧約聖書の一番最初で引っかかってしまったのを憶えている。
「初めに言葉ありき。」
?
何が言いたい?
これは多分、理屈を通すための一文だったのだろう。つまり、世界の始まりを言葉が表しているのだから、世界の始まりの前に言葉がないとおかしい。そういう、「つじつま合わせ」のために入れた文なのかな?と。(または、宗教的にもっと深い意味とか、突拍子もない誤訳、なんてのもありうるが。今は突っ込まない。)
話が一旦それるのだが。
昔々のプログラムの言語、Fortranなんかの時代だが、変数の定義を一番最初にしておかないといけないものだった。(プログラムが走ってから、変数を格納するメモリ領域を仕切り直すのが難しかったので、必要量を初めに確保しておく必要があった。)
この旧約聖書の冒頭の一文でケつまづいた若かりし頃の私は、最初の変数の定義で悩んでしまったようなものだったのだ。
というのは、「プログラムの冒頭で全ての変数を定義する」ためには、プログラム全体を通して必要とされる変数を、前もって把握していないといけない。つまり、「何を書くのかはもう決まっていて、それへの対処を冒頭で行う」と、そういう構造になっている。
そして、旧約聖書が、それと同じ構造を持つということは、それが、実際にあった、または、あったと思われる事象を、時系列に、ありのままに記述したもの、というその体裁とは実体が異なっていて、何らかの意図を伝えるために、内容があらかじめ決められた物語である、ということを端的に示している。
神の仕業ではない。
人の仕事なのだ。
冒頭の一文から、私は、そんな臭いを感じたようだ。
そして同時に、憂鬱になった。
物語というのは、つまり、体よくまとまったウソのことだ。なのに、それを「信じている」と公言してはばからない人々が世界中にあふれていて、お前も信じろと盛んに薦める、のみならず、信じないのは悪いことだ、とも言っている。
当時の日本は、今よりも西洋コンプレックスが普遍的に強かったし、こういう不条理に不満を感じつつも、あからさまには反論しない雰囲気圧力が強かった。むしろ、この課題自体、「反論ではなく理解をしろ」と言いたげなニュアンスが、初めからあった。
でも、新約聖書を含めて、一見して矛盾した、筋の通らない物語が延々と続くそれを、ただひたすら「正しいもの」として読み込み、そこから、キリスト、つまり神の何たるかをすくい取ろうとする行為を、私は、理解できなかった。
(聖書のそういう読み方は、比較的近年のもので、時代によっては異端扱いだったと知るのは、もう少し後のことになるのだが。)
「聖書はキリストの愛に溢れている」
マジかょ・・・ ← 高校生の私
宗教というのは、単なる信心、どんな教義を信じるか、という話ではない。
ものの感じ方、対処の仕方、倫理や正義の規範、価値観、暮らし方の作法、そんなものまで含めた、「思想」と「文化」の間くらいの大きさの、考え方の体系のことだ。
だから、教義(聖典)の表面だけを眺めていても、分かることはわずかだ。その証拠に、同じ聖典から派生した宗派同士なのに、血を流して争うこともよくあるようだ。
私も、大人になってから、実際にイタリアに行ってバチカンを見たり、本場(?)イタリアのキリスト教徒の情報にも接するようになるのだが、どうも、キリスト教の真髄というのは、聖書に書いてあることではなさそうだ、とは察しがついたし、世界中を見回すと、一口にキリスト教といっても様々だから、一筋縄では行かない。
ただ、その根源的な所、キリスト教を初めとした、一神教的な考え方、特にその「悪い面」は、世界中にあまねく普遍的になっているように思うし、それは、私自身の中にもあると感じる。
真理は一つである。
それは、自分が考える真理である。
それ以外は間違っていて、悪である。
真理を神と言いかえれば、まんま一神教的な考え方、そのものとなる。
要は、自分が一番で、それ以外は受け入れないという、唯我独尊で排他的で、硬直していて融通が利かない、とても厄介な考え方だ。私という正(優れているもの)と、それ以外の悪(劣っているもの)を分ける、優越主義にも、簡単に転化しうる。
この無邪気な優越主義が、イスラムを含めた一神教のみならず、世界中にあまねく拡散し、かつ、根付いているように見える。
中東で続きっ放しの宗教系のモメ事なんかにも、この色彩は濃厚だし、お隣の大国の最近の横暴も、あれは共産主義ではなくて共産一党の独裁主義と考えれば、一神教的な意味合いを帯びるのも、無理がないのかもしれない。どこかの国の総理大臣の、国民を小馬鹿にしたような政局運営にも、排他的優越主義を感じることがよくある昨今だ。
これは、どういうことなのだろうか。
一神教的な考え方が、世界規模で拡散している、今はそういう局面だと、そういうことか。
(なら、今後は変わっていく可能性がある。)
それとも、人間というのは本来、中二的な考え方から抜けきれない、そういう生き物だということか。
(なら、今後も変わらずこのままだ。)
選民思想や、排他的教理は、最後の一人として残るべく、敵を倒し、その数を減らす方向で先鋭化せざるを得ないから、誰かが最後に一人残るその一瞬まで、全体の繁栄には寄与しない。にもかかわらず、それが、群れ(教団)を保つ方法論として正当化されるというのは、どうしてなのか。
和解ではなく、服従を求める教理は、戦いを呼び、その結果の淘汰でしか収束し得ない。これは、人間は、互いに争い奪い合うのが本来の姿、つまり、自主独立して自活はできない生き物だと、そういうことを示しているのだろうか。
そんな、次々に湧いてくる疑問の手がかりとして、人類史上、キリスト教がブレークした最初の瞬間、それが人々の間にどのように認められ、拡散して行ったのか、その詳細を追うことが、有効な手立てとなりそうな気が、ずっとしていた。
歴史的には、キリスト教のブレークは、古代ローマの滅亡と重なる。
だが、世にあるローマ史というのは、粗方が西欧の歴史に拠っている。彼らは、キリスト教世界の人でもあるので、キリスト教はいわば「与件」で、あって当たり前、あるのが正しい姿だから、どうしてそうなったのか、という観点で書かれることは、ほとんど無いようだった。
そこで、本書である。
ラテンの歴史を自在に書きこなす日本人著者による、ローマ史の一冊だ。
2005年に出た本である。
実は、買っただけで、読んでいなかった。
本棚で10年以上、熟成していたのだ。(笑)
(つづく)
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ローマ人の物語 (14) キリストの勝利
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