読書ログ GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 ― 2016/08/06 05:46
題名から、「情けは人のためならず」という諺を想起される方も少なくなさそうだが、あながち外していない。
無論、巷の誤用である「そいつの為にならないから情けなんかかけない方がいいよ」の意味ではなくて、本来の意味である「人にかけた情けは回りまわって自分に返るものだから、他人の為という訳でもないんだよ」の方である。(同じ考え方は合衆国にもあって、本書では、恩送り、pay forward と言っている。)
とはいえ、アメリカ人の著者が書いているので、回るのは「情」だけではなくて「カネ」も、つまり、ビジネスのお話でもある。また、社会科学的な研究結果なので、データを量的に評価して、統計的に解析した結果を、冷徹に論じている。
著者は、人間を、次の3種類に分類する。
まずギバー(giver)だが、見返りを求めずに与える人、いわば「いい人」のことだ。助けを請われると放っておけない、どころか、自分が持つ体力、時間、知識の全てを、相手の欲求や必要性に応じて、無償で与える。目的は相手の満足であり、単純に、相手が満足すれば、自分も満足する。
次に、テイカー(taker)とは、常に与える以上に貰おうとする人、要は「ヤなヤツ」のことだ。一般には自信家で、優越感を(時には隠し)持っており、独りよがりで臆病で、自分中心の価値観に閉じこもることで自分を守ろうとする。狂信的な言動で、強烈なパワーを発揮することもありうる。(前回取り上げた本の題材は、このタイプだったかもしれない。)
最後にマッチャー(matcher)だが、与えるものと受け取るもののバランスを考えて行動する人、つまり、普通の人のことだ。私も含めて、ほとんどの一般民間人は、このタイプだろう。
この本の主役は、無論、ギバーである。
ギバーは、同僚に感謝されたり、頼りにされる度合いは高いのだが、助けてばかりで自分の仕事は後回しのことが多いから、上司の評価は低い場合が多いのだそうだ。しかし、その利点は、実は、見た目以上に多方面に渡っていると。
相手のニーズを的確に見分けるということは、相手の視点に立って、複眼視で物事を見極める能力が高いということでもある。つまり、相手の能力を引き出す力が強い。
相手が満足することに価値を見出すということは、新たな価値を見出すということでもあるから、価値創出能力にも優れる。(著者は、自信を与えて価値を作る、と表現している。)
実は頼りにされていて、皆からいろんな話を聞いているので、情報収集も広範かつ最新で、次の段階へ至る判断、スキルアップにも近道だ。
物腰が柔らかく、(一部のテイカーのような)強烈なパワーを使わないのに、物事をドライブする能力がとても高い。効率が良いから疲弊も少ないし、同じポジションで長続きできるので、例えば、技術者が専門を深堀りする場合などにも有利となる。
こういった、さまざまな正の影響が、彼を含むグループ全体に波及して回り始めると、プロジェクトそのものを成功に導く、大きな力になることがままあると。
ただ、想像される通り、人の良いギバーは、狡猾なテイカーにやられ続けると、消耗し、バーンアウト(燃え尽き)してしまう。(滅私奉公はギバーのアリ地獄だ、とある。日本はこのパターンが多いか。)それを避けるコツとしては、相手より優位に立つこと、自己利益の追求も同時に配慮することなど、幾つかが挙がっている。
他方、テイカーは、処世術に長けていて、第一印象はいいものの、しばらく行動を共にすれば、どんなヤツかは分かってしまう。本性がバレれば距離を置かれてしまうので、一般に、テイカーは長続きしない。例外の一つは、組織で権限を与えられた場合で、それを上に対しては傘として、下に対しては権力として用いるので、ポジションが持続すると。(会社の嫌な上司を思い出したアナタ!正解です。笑)
統計的には、最も評価が良かったり、クリエイティブだったりするのはマッチャーだそうだ。バランス感覚、ということだろうか。(自分に利益をもたらさない人の扱いで、その人となりがわかる、ともある。)
以上、著者が用いているデータは、ほぼ合衆国で採取されたもののようで、「ギバーがギブする」というのは、例えば、西海岸のエンジニアがSNSの緩いつながりを使って、こういうことで困っているんだけど誰か助けて、のような問いに対し、専門知識を駆使した回答を寄こしたり、適任と思われる知人を紹介したりと、そんなことも言っているらしい。ネットの台頭からこっち、情報の流通が爆発的に増えたことの影響は小さくなさそうだ。(裏返すと、合衆国はもともとテイカーが多くて、そっちが得、というか本流だという考え方が根強かったのに、いざ解析してみたら全然違った!驚いた!!というのが、本書の元々のモチベーションの一つなのだと思う。)
我々日本人の感覚からすると、伝統的に、情けは人の為ではなかったし、カネは天下の回り物で、お客様は神様だった。自己犠牲型のギバーが、理想的人間像の雛型として、学校の先生から(世のためになれ)、子供向けのアニメのヒーローまで(仲間のために全てを賭けろ!ワンピース的人間観)、啓蒙や教育に余念がない。世間様や会社、仲間や家族のことを慮り、持てる技を全て駆使して応対するのは、いわば常識の範疇のようだ。だから、本書にあらためてこんなことを教えていただいても、何を今更というか、今ごろ気付いたのかオマエは!と、そんな感想も湧く。
一点おもしろいなと思ったのは、日本では、「自由な」ネットが普及して、それが何故か無礼講の場と化し、皆が抑えていたダークサイドがかえって表にあふれ出た結果、ネットの掲示板なんかが、鉄面皮のテイカーが足の引っ張りあいを展開するという、救いようの無い「不自由な」場になってしまうという、上記の合衆国とは真逆の効果を奏したことだ。これは、社会学的に何かの示唆にはならないのか、本書の著者にぜひ解析してもらいたい所だ。
また、本書の議論の前提として、誰かに助けてもらったことを恩義に感じたり、借りは返すことを当然と思う、最低限のマナーがあることは、強く留意すべきだろう。著者もその辺りはわきまえていて、例えば、誠意がチームを回すかどうかは、メンバーが誠実かどうかにかかっている、とも書いている。その前提をすっ飛ばして、結果だけを理想的に読んでしまい、普遍的なものとして理解するのは危険だろう。例えば、大陸の大国のように、価値観やメンタリティが全く異なる枠組みに対しては、本書の議論は、全く適用できないだろう。
著者の考えでは、本書に書かれるギバーやテイカーなどの属性は、各人が先天的に、または変えがたいほど強固に持っているものではなく、「人が変わる」こともありうるし、時と場合によって、使い分けたりもするものらしい。だから、状況に応じて自分がギバーに変貌したり、イヤな相手にギバーとして振舞ってもらうようなことも可能で、その条件やコツのようなものも、終章近くにいくつか出てくる。(最悪のテイカーに対してはマッチャーになれ、など。)
外資系の会社で、身の処し方に悩んでいるような人は無論、テイカー的な西欧の価値観に圧されて、古来のギバー的な美徳を忘れかけた日本人が、本来の価値観を想起しなおすような場面でも、良い示唆を与えてくれるように思った。
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GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)
バイクのDVD ロード/デスティニー・オブ・TTライダー ― 2016/08/07 07:20
昔、マン島TTを初めとした公道レースで強かった Joey Dunlop 。
彼の弟である Robert もまたレーサーであり、その息子である William とMichael は、今でも公道レースを走っている。
その Dunlop Family を追ったドキュメンタリーだ。
GPを扱ったドキュメンタリーは、 FASTER や FASTEST なんかがあるが、それら「頂上をネアカに賞賛しちゃう」味付けとは正反対に、公道レースを取り扱ったこちらは、妙におどろおどろしい演出がなされている。
アナウンスによる解説を背景に、ダンロップファミリーを時系列に追う映像が続き、合間合間に親戚や知人(識者?)によるインタビュー形式のコメントが挟まる。そんな造りだ。
私は、ジョイの走りの本当を、全く知らなかった。
マン島TTで勝った回数が並み外れのTTマイスター。
その程度の知識しかなかったのだが。
全然違った。
ジョイは、公道レースをこよなく愛していて、ほとんど知られていないようなマイナーな週末レースにまで、マメに出続けていた。文字通り、
「年を取って、寿命で死ぬまで。」
レースは、彼の生活であり、人生だった。
1970年代。サーキットは、今では想像しにくいほど、未整備で危険な状況だった。だから、公道レースと言っても、危険度はさして変わらない。ちょっと余計に危ないだけだ。
その「ちょっとの差」のニュアンスは、たぶん、我々一般ライダーが、雨の日でもバイクに乗るのと、さして変わらなかったように思う。
彼らの社会的な立場は、私には理解できていない。もともと、レースへの理解が深いお国柄だ。社会の許容度と言うか、抱擁度というか。走り手の立ち位置も違ってくる。そういった文化を背景にした差は、この東洋の島国で腐っている私なぞの理解が及ぶ範囲ではない。
でも、何だろうか、彼らは皆、すごく静かで、真面目そうで、優しい。
反面、自分にはとても厳しい。
自分でマシンを整備する背中なんかが、そういうオーラを出している。
そんな辺りは、いつも見ている「バイク乗り」そのものに見える。
バイクに触れていない時、彼らは、さほど強烈な印象を与えない。ぼんやりとした、優しい目をしているのだが、その、遠くを見つめる視線の奥に、強固な芯のようなものが見えるようだ。
「死んでも続ける。」
彼らの目線は、静かに、そう語っている。
彼らは、いつも、死を見つめていた。
だから、死の臭いに敏感なのは、当たり前だ。
ボスニアが紛争で揺れていた当時、ジョイは、一人バンに救援物資を積み込んで、彼の地に向かった。きっと、そこに渦巻いていた死の臭いに、何かをせずには居れなかったのだろう。
走っていないと、生きた気がしなかった。
だから、レースをした。
それは、生きるのに、必要なもの。
息のようなもの。
ジョイの弟のロバートは、初めは少しオチャラケていたが、次第に、レースの本質に呑みこまれる。そして、ジョイと同じ、静かな目をするようになる。
でも、レースは甘くない。
その負荷は、彼らの肉体と精神の両方に、数々の傷を刻んで行く。
ジョイが最後にTTで勝ったのは2000年、48歳の時だったが、その時の映像で、彼は、実際の年齢よりも、ずいぶん老けて見える。
でも、別のクラスのレースで、ロバートと一緒にポディウムに乗った彼は本当に嬉しそうで、何だか、純真さのようなものを感じさせる。
彼は、ずっとピュアだった。
中身は、若いままだった。
きっと、レースがそうさせた。
ジョイはその後、レースでのアクシデントで、命を落とすことになるのだが。
その様子は、まるで「天寿を全うした」ように、私には見えた。
「いくら慎重で素晴らしい能力の持ち主でも、ワンミスで死ぬ。」
コメントはそう語る。
しかし、状況からすれば、あれは「ミス」ではなくて「無理」だ。
あんな雨では、私なら走らない。
当然、彼なら知っていたはずだ。
知っていて、走ったのだ。
(いつものことだ。)
ロバートは、ジョイよりも、(ある意味、ずっと)厳しい時間を生き抜いていたが、兄の死後も、レースを続けていた。彼にとって、「勝ちを目指す」のはやはり、息をするようなものだったのだろう。
その、同じ空気を吸っていたロバートの息子たちが、同じように、レースを走るようになるのは、だから、必然のようなものだ。
(それが、良いことなのかどうかは、別にして。)
息子達の目の前で、ロバートがクラッシュして死んだのは、ジョイが死んだのと同じような年齢で、見た目はやっぱり、ずいぶんと老け込んでいた。
その時の映像も映し出される。
ロバートのバイクは、飛び抜けて速かった。
レースは普通、同じカテゴリーにクラス分けされているから、最高速は、さほど変わらない。なのに、彼のバイクは、ライバル達を、ごぼう抜きしていく。
・・・・・おかしい、速すぎる。
映像を見つめる私がそう思うのは、きっと、暗すぎる演出(オバケが出る寸前のヒュードロドロ、来るぞ来るぞ・・・のような)の影響でもある。
彼のバイクは、高速走行時にエンジンが焼き付いて後輪がロック、転倒し放り出され、そのアクシデントに巻き込まれて制御を失った後続車に轢かれてしまう。
昔から、辛いクラッシュを、長い時間をかけて乗り越えて来た。
不屈の精神で、レースを続けて来た。
その「なれの果て」が、これだった。
レースの主催者は、死んでしまった父と一緒にエントリーしていた息子達が、走れる精神状態にないだろうと判断。一方的にエントリーを取り消したのだが、彼らは、出場を強行する。
そして、勝ってしまう。
この辺りをクライマックスに、全体をドラマチックに構成する。
このソフトは、そういう物語として作られている。
ずいぶんと「死」を強調した仕立てで、それをドラマの調味料に使おうという意図が見え見えだ。かつてのNHKプロXのような、「泣けるだろ?感動しろ!」風味が強すぎる。
アナウンスは、彼らを「死で結ばれたファミリー」と評しているが、外している。死は、人をつながない。断ち切るのみだ。
アナウンスはまた、「彼らはスリルを求めて走っている」とも言っているが。「スリル」と言ってしまうと、単なる怖さ、お化け屋敷やオカルト映画のような感じにもなりかねず、これも全く違ってしまう。
そもそも、この「ほら、死ぬんだぞ」風味は、今この瞬間に、その辺のバイク乗りが置かれている状況と、実は、さして変わらない。だから、こんなにドラマ仕立てにしなくとも、バイク乗りには十分伝わる。
私も、一バイク乗りとして、そこは理解できるような気がした。
彼らが求めるのは、死を前にした緊張感と、それ故の充実感だ。
彼らは、「勝つこと」に人一倍こだわってはいるが、目的はたぶん、走ること、そのものだった。でなければ、誰も見ていないような田舎レースにも出続けるようなことはしないだろうし、見るからに歳を取って辛くなってからも、ずっと続けるようなこともなかったろう。
走ることが、生きること、そのものだという感覚。
「自分はもはや、バイクに乗る動物である」という自覚。
彼らは、緊張感を呼吸している。
「バイクに乗る動物」は、これが足りないと、息苦しくなる。
ただ、普通はここまではしない。
親戚や知人らが、彼らがこっぴどいアクシデントに遭った際に「普通ならこの時点で止めている」といったコメントを発するが、的を得ている。程度問題とも言えるのだが、彼らは、図抜けている。
ただ、私には、かつてのジョイが、美しく整備された、たおやかなバイクで、確実に走ることに全神経を集中していたことと、今、若い甥たちが、最新型の猛烈な機体で果敢に挑み続けることが、同じ行為なのかどうか、最後まで、よく分からなかった。
画面は不必要なくらいに暗いし(編集者は、そんなにアイルランド(人)が嫌いなのか?という感じ)、編集もいい加減だ。例えば、お決まりの排気音を適当に重ねて済ませていて、バイクの車種と音が明らかに違っているような場面も散見される。そんな具合なので、あまり後味はよくないソフトだ。
もし、レースの本質について真摯に考えたいなら、いつぞや取り上げた こちら の方が、好適、というか「正直」のように思われた。
(「暗すぎる」演出は同じなのだが。今回のほどは、わざとらしくない。)
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読書ログ パブリックライフ学入門 ― 2016/08/28 18:10
題名の「パブリックライフ」だが、「公の場での、人々の活動のあらまし」、都市部で、人間(主に歩行者)が、どのような振る舞いをしているのか、といったような意味合いらしい。
街の中で、人は、街に従って歩み、動いている。その様子は、必然的に街の構造に律束されるが、「人の動き」を解析することで、街の造りが「パブリックライフ」にどんな影響を与えているかを理解し、どうすれば街が良くあり得るのかを見つけ出そうとか、そんな試みのことのようだ。広くは都市政策から、狭義では広告などの分野でも応用されうるのだろう。
人は、ただ何もない空間に放たれても、戸惑うばかりで効率的には動けない。人の大きさ、速さ、視界の広さ、体力の及ぶ範囲、そういったものを考慮し、それに合わせて造られた街なり建物は心地よいし、物事がはかどり、人が集まる。
いや、出来が悪くて流れがよくないから混雑するのに、雑踏が雑踏を呼んでよけい混む、という不思議な例もあるとは思うのだが(渋谷とか)、本書は洋書の翻訳なので、そういった東洋的なお話は範疇になく、西欧の古い都市、旅番組でも度々取り上げられるような、歩いて楽しい古い街並みなんかの方を、主に扱っている。
建築に関しては、同じような論は結構あった気がするが(建築における空間設計、のようなお話)、もっと大規模な、都市の造りについては、まとまった論は私は見たことがなかった。あの街はこんなにキレイで良くできている、といった個人的な感想や伝聞、ありきたりの「街づくり論」、あの時代の偉人はこんなことを考えて街を設計したんですねえ(えらいですねえ)のような伝記や歴史解釈なんかは、読んだ気がするが。データを元に一本筋を通した研究というのは、私はお目にかかったことがない。いや、世の中にはあったのだろうけど、普通に世間で役に立つ程度にブレークした例を、寡聞にして知らない。(特に日本では、理屈やセンスよりも、お役所やゼネコンなんかの都合の方が優先されてきたから、余計そうなんだろう。)
本書は、その「パブリックライフ」のあらましや歴史、現状などの概論から、実際の解析手法の概要と結果の例までをまとめており、まさに入門書として、よくまとまっている印象だ。
「パブリックライフ」の解析は難しい。本書によると、その手法のほとんどは「街中で人の動きを観察し、測定し、解析する」という手作業が王道らしい。(方法論としては、いつぞや読んだ ミツバチ なんかと変らないのだが、両方とも、社会生理学の一種と考えれば妥当か。) しかし、観察者が街の流れに同化して、一緒に流れてしまったのでは、その辺の一ユーザーと同じだから、知りたいことは何も分からない。やはり、それなりのコツはあるわけで、本書では、その辺も解説している。
無論、最近流行りのGPSなどによる(スマホからかっぱらった?)データ収集&ビッグデータ解析といったデジタル的な手法についても触れられてはいるが、現状、人の観察眼に依るデータと比べて、センサによる無機質なデータは「(抜け)落ちる」ものがあり、これが無視できない影響を及ぼすとして、主に上述の王道の方に重きを置いている。
とはいえ、この7月に刊行されたばかりの新しい本であり、これを必要としているのは、デジタルの方を志す人が大半だろう。たぶん、実際に手を動かす技術者にとっては、自分の解析で何が落ちうるのか、落とさずに済むにはどうしたら良いかを考えるのに有益な示唆となりうるだろうし、この世界で業を営まんとする経営層やマーケターにとっても、業界の趨勢のような話も含まれるので、ライバルは誰か、このマーケットでは今まで誰がどんな話をしていて、自分が世に出そうとしているものが、どういったコンテキストで理解(または消費)されうるのかを判断する一助にもなるだろう。そういった意味では、なかなか有益な情報のように思われた。
ただ、限界と言うか、境界条件のようなものも当然あって、例えば、クルマや電車など、歩行者とは全くモビリティが異なるものとの融合は課題のようだ。そっちはそっちで、例えば渋滞論のような、「トラックからスポーツカーまで、全くモビリティが異なる要素が混在した流れを、いかに効率よく流すか」といったお話は、今回の枠組みとは全く別口で進んでいるし、本書のような歩行者側の視点からすると、クルマは「20世紀になってからパブリックスペースに侵入してきた敵」として捉えられることもあるようで、融合と言っても、なかなかに厄介そうだ。
でも、面白そうな分野だと思う。社会ナントカ学の、人間をマスで扱う学問領域というのは、解析方法がイマイチ間接的な傾向が強くて、何となくピンと来ないものが多かった。そんな壁をブチ破る、なにかしら新しい手法が作れたら、新境地は大きそうだ。
反面、ものが「隣接データの時系列処理」なだけに、例えば画像処理のような、小手先の手腕(特徴量から方向性を加味して補完すると絵がキレイ~みたいなミクロな論)に留まってしまう可能性も小さくはないから、扱う人間の側、担い手の研究者と、受け手の一般人の双方にも、ブレークスルーは必要かもしれない。
個人的には、ビッグデータ解析が有益かどうかは、解析の質よりも解釈(または解析と解釈の掛け算:相乗効果)によると思っていて(つまり、「現状、何とでも作れる」)、それを鑑みつつ事を進めるには、過去の研究結果の中の「卓見」を幾つか掘り返し、吟味する必要がある。ちょっと面白そうではあるので、気が向いたら深堀りしたいなと思っている。
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