読書ログ 小さなリズム: 人類学者による「隈研吾」論 ― 2017/01/28 06:46
隈研吾氏の名前は、最近の国立競技場のデザインコンペの騒動なんかで、よく目にするようになった。
本書は、その隈氏の建築論に、人類学的な手法でアプローチした、学者さんによる著作である。
人類学的な建築論。
なんじゃそりゃ?
図書館で本書を手に取って、当初、私もそう思った。
「誰それの建築家の手による建造物」から見て取れる特長は、建築家が発案したものだから、その思想を表している。だから、それを評価する我々は、その建造物はある意味「建築家である」と思っている。
しかし、その建物が建築家の哲学を正しく表しているのか、評価者が建築家の意図を正しく認識できているのか、あらゆる曖昧さは介在し、かつ検証は難しいから、それが「建築家ではない」可能性は、必ず残る。
そういった状況にあって、建築論、つまり、建築家が何を考え、作ろうとしたのかを、より正確につかむための実験として、フランス人の人類学者(日本研究が専門の女性)は、フィールドワーク方式、つまり、群れに近づき、外側から観察し、解釈し、理解する方法論の、適用を試みた。
主な題材として取上げられるのは、2007年の六本木「東京ミッドタウン計画」の推移である。(原著の刊行は2009年。)それが計画され、設計され、施工に移されるプロセス、つまり、隈研吾のようなアーキテクトと、コンストラクター、プロバイダー、コーディネーター、エンジニアといった関係者によるあらゆるミーティングに臨席し、そこで何が話し合われ、何がどう進んで、実際の建築に至るのかを追った。
建築、特にビルが群を為すような大型案件は、その物理的な規模、かかる金額、関係者の人数は膨大で、建築家は、そのほんの一部を担うに過ぎない。また、工程に従い仕切り役も変って行くが、そのほとんどで、建築家は主導的な立場にない。
建築家は、自分が考えるものを実現すべく、オーナーやスポンサー、公の案件では仕切り役の「ナントカ委員会」に対し、自分の有用性をアピールし、関係者の目を同じ方向に向け、プロジェクトをドライブせねばならない。そのレベルは、「コミュニケーション」という単語では生半可で、「説明」は無論、説得、時には翻訳の色彩さえ帯びる。一連の工程を一気通貫して「建築家の意図」を反映させるというのは、とてつもないスキルとエネルギー、つまり、根性が要る。
「何を作るか」が形を帯びた後も、作業は続く。例えば、コンストラクターに、なぜ「木」を使うのか、どういう考えで、何を表したいから「木」なのか、従ってそれはどんな「木」で、どう配置するべきなのか、逐一を伝えねばならない。そして、コーディネーターやエンジニアには、その作業が、物理的に、技術的に、金銭的に可能なのかを打ち合わせる。どう作れば効率のよい施工が可能で、部材が安定して調達でき、完成後もカビや変形といったような問題を招かず、時を経た後もメンテが可能で、長期間の維持ができるか。無論、その各々の段階で、ネガティブ方向の要素、つまり「何を避けねばならないか」についても、漏れなく認識を共有せねばならない。
今や大型案件ともなれば、全ての工程が日本の中で閉じることはまずないから、関係者には当然、外国人も含まれる。従って、コミュニケーションのお作法もグローバル化しているのだが、会話の細部から、完成した建築群のニュアンスに至るまで、日本的な曖昧さや阿吽の呼吸は息づいていて、またそこが、日本らしさ、つまり、本書の目的でもある「隈研吾らしさ」の要でもあったりする。著者は、日本的なものに通じたフランス人でもあるから、そういった言葉が飛び交う現場の喧騒の只中にあって、その合間で光る隈研吾的なもののニュアンスを取り出す作業に、興味が尽きなかったようだ。
フィールドワークなのだから、観察者が関わることでフィールドを乱してしまっては元も子もない。この著者も、当初は観察者のポジションを想定していたようで、それはある程度は成功したようだ。しかし、著者が関わったフィールドというのは、上でカタカナで書いた職業名を漢字に直せば、「土木家と不動産屋、技術屋に職人、官僚や政治家まで関わる魑魅魍魎の現場」であり、端っこに鎮座ましましてご覧遊ばして済ませられるわけもなく。端目には「巻き込まれた」に見えるその状況、その小さな化学変化(「あいつ、やるな」扱いされるようになるとか)を含めて、この著者は楽しみ、かつ研究に生かした、ということらしい。
著者が追っていたのは、「コンセプトを具現化する際の日本的な手法」だ。しかし、私のように、日本に居て何かを作る業に携わる者にとって、それは、見慣れた風景である。本書に著わされる建築の分野に関わらず、例えば、クルマとか、家電なんかの小物でも、同じような帰結を辿っているだろう。
「これから作りたいもの」は、まだ具現化していないから、それがどんなものかを、伝えるのは難しい。そこでのコミュニケーションには、必然的に、ある種の前提や共有などが必要になるのだが、かつては、日本的な曖昧さや以心伝心が、その役に立ち、潤滑油になることで、もの造りのアドバンテージとして、日本の産業の振興に一役買っていた。
しかし、時が経るにつれ、その「前提や共有」は個人化され、内在化し、次第に、各々個別の前提や共有をなすり合ったり、階級に沿って上から下に投げ渡す度合いが、増えていった。
今、会社で企画を通そうとすると、まるでゲームの各ステージのラスボスように交互に現れる「本当に大丈夫なのかオジサン」と「次はどうするんだオジサン」は、オレの不安を共有して癒せ、という役員の側の前提の強要でもある。
例えば、昨今のオリンピックの予算のなすり合いなどを見ていても、そのスキルに長ける森会長のごり押しに都側が対抗するという図式に見えて久しいが、要は双方とも「互いの組織の枠で内戦」という小役人根性から出ておらず、どうも、この所の度重なる震災でも一枚岩になれなかった、我が国のやるせない事情の、根本原因の一端を見せてくれているようで。うまく行かなかいのも宜なるかなと、つい思ってしまう。
そんな感じなので、日本のお家芸であるはずのもの造りの現場でも、その基本たる「コンセプトを作り、浸透させ、維持すること」の重要性は低下する一方で、既にアリバイとして「ハイハイ、やりました」扱いで処理されてしまうことも多い。それは例えば、モーターショーのコンセプトモデルの「刺さらない度」の辺りにも、端的に見て取れるように思う。
建築に限らず、あらゆる業界に共通して、もういい加減、次の食いぶち(かっこつけるとイノベーション)を見つけないと、行けないはずではあるのだが。上記の「ナントカ委員会」ように、官僚機構はそれを食い物にして延命するものだから、「官民一体でイノベーション」なんてのはただの矛盾で無理筋だし、片や、本書のような「隈研吾的なエネルギー」に頼ろうというのも、ご都合主義の無いものねだりだ。
そんなわけで、「コンセプトの日本的な具現化」を小さく解体し、その面白いエレメントを選び、愛でて喜ぶ著者と視線を共有するのは、確かに楽しく、斬新な発見に満ちたものではあるのだが。何となく、罪悪感にも似た嫌悪感のようなものが始終抜けなかった、曖昧な日本人の私なのであった。
単純に、隈研吾論として読みたい人が、本書を楽しめるのかは、微妙そうに思う。例えば、本書の表題の「小さなリズム」だが、それは、建築のコンセプトを、それを伝えるエレメント、土地のあり方や部材の特性など、小さい要素に分解して、その波長に立ち戻ってから再構成する、そんなような意味らしい。(巻末で隈研吾氏は、膨大で無意味な官僚機構的な「ナントカ委員会」を対置して、それとは反対側にあるニュアンスとしても位置づけている。)その「小さなリズム」が現場でうごめく様相を、これだけリアルに描くというのは、当然、隈研吾ご本人の著作でも難しくて、当たり前だが、たぶん本書が最右翼だろう。ただ、それが「隈研吾の建築(哲学、コンセプト)」の理解に役立つのかは、場合に依るだろう。
著者(の人類学)や、隈研吾氏(の建築)を含む、「物ごとの捉え方、考え方の系譜」については豊富に触れられているから、「リズム」だけではなく、「流れ」も理解したい人には、有用な本かもしれない。
Amazonはこちら
小さなリズム: 人類学者による「隈研吾」論
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://mcbooks.asablo.jp/blog/2017/01/28/8337827/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。