保育士という生き方 ― 2020/06/06 06:37
今はもう引退された、ベテラン保育士さんの経験談である。
前回の本の巻末の一覧で、たまたま目についたので。読んでみた。
内容は、ちょっと時代が古すぎて、今に応用できるかは微妙な感じだった。
私は、子供が好きだ。
自分の子供が小さい頃から、公園で遊ばせたり、図書館で紙芝居の読み聞かせなどは、周りの子供たちも一緒くたにやっていた。
子供好きは今でも同じだ。近所の保育園児のお散歩を見かけるのは楽しみだし、おとなしい子、いたずら坊主、みんな含めて、ほほえましく眺めている。
そんな塩梅で、好々爺になりかけている、と(自分では)思っていて。定年後は、保育関係の仕事を手伝えないかなあ等と、漠然と思っていた。
小さな子供たちの活力には、本当に元気づけられる。
まるで、蛇口が壊れているかのように迸るエネルギー。
存分にやらせてあげたいと思う。
彼ら彼女らが駆け上がる、成長の坂道を整えてやるのは、とてもやりがいのある仕事だ。
世間では、保育士が足りないとずっと言われているし、じいちゃん保育士なんてのも面白いかな?と。
調べると、そういう方も現に居られるようだ。
まあ実際は「資格モノ」なので、そう簡単には行かない。時間もカネも要る。
それ以前に、当の定年の方が逃げる一方で、いつまでも捕まえられそうにないのも痛い。
実際の保育の現場も、この本の時代からは様変わりしている。
なにせ、子供たちよりも、親の方に手がかかったりする。
(モンスター何とかいうやつとか。私が、子育て現役の時代にもいた。)
環境も悪い。
例えば、近所に保育園ができるのに反対している老人の話などが報道されている。
ここで、話を少しずらす。
人間は、大きく二つに分かれる、と思っている。
何かを「する側」と、「してもらう側」だ。
大人と子供と言い換えてもいい。
国や民族、性別など、関係ない。
例外なしに、だ。
人間は、生まれてからしばらくは、自力では、ほぼ何もできない。
他人に(主に親だが)世話をしてもらうことで、生きながらえ、成長する。
そうして、何かをする能力を備え、他人に何かを施せるようになる。
社会に貢献することで社会人になり(主に仕事を得るということ)、子供を育てることで親になる。
何かをする側にいられるというのは、何かができる能力の証でもある。
それは、幸せなことなのだ。
だが、最近は特にだが、そうは考えない人が多い。
上で挙げたモンスター何とかにしても、保育園の新設に反対する老人にしても、常に何かをしてもらうつもりで、あたかもそれが当たり前のように、要求だけをし続ける。そういう人が増えた。
ずっと「してもらう側」にいて、それを疑問にも思わない。
逆に、自分に何ができるのか、しているのかは、考えもしない。
年齢を重ねたり、子を持って物理的に親になったとて、大人になるとは限らない。(子供にも、オレに何かをしてくれ式の物言いをするので、すぐにわかる。)
何故か。
「ならなくてもいい」からだ。
「ずっと、子供のままでいようよ」
我々が棲む世界は、いつからだろう、幸せのネバーランドになっている。
どういうことか。
社会の仕組みが一役買っている。
いい例が、資本主義ってヤツだ。
我々は、賢くモノを消費することに価値を置くコンシュマーとして、自我を打ち立てることになっている。
「ボクは、こういうものを買う人。」
消費を通じて、自分の何たるかを形作り、アピールする。
そういう方法論が「正しい」と思われているし、皆その道を邁進している。
次の良いものを、人より安く早く手に入れることに価値を置いていて、それが得だ、とも思っている。
そのために、モノを供給する側に、もっと良いものを、もっと安く早く寄こせと、文句を言い続ける。そういうことになっている。
しかし、その欲望が満たされることは決してない。
それが達成されるかは、ひとえに供給側という他人の意向次第なので、自助努力では完遂しないからだ。(消費者の一部が、卑屈と高圧の両端の態度を取りがちなのは、そのせいだ。親の注意を引こうとしている幼子と同じ。)
さらに最近は、マーケティングとして、コンシュマーを統計で扱うので。一人一人の顧客は、統計上の膨大なデータの1つでしかなくなっている。個々の人格が無視されて、「アナタも他と一緒でしょ」扱いをされる分、満足からは余計遠ざかっている。
そもそも、ただ文句を言うだけの身分で、満足などできるわけもない。
それすら自覚できないから、またひたすら言い続ける。
「もっとオレにアタシに、何かをしてくれ!」
クレクレタコラさんばっかりなのである。(笑)
話を、保育の仕事に戻す。
環境の方がそんな具合なので、保育(たぶん、教育も)の現場でも、顧客はむしろ「保護者」の方で、しかも、件の「コンシュマー臭」を、強く放っている。
昔のように、保護者も一緒に育てればいいとか、そういう時代ではないのだ。当の本人が望んでいない。
そういった諸々に囲まれて、保育の仕事はもう、子供に対する愛情や情熱だけでは、如何ともし難いように思える。
問題が新しいから、それに対する解は、ベテランからはかえって得にくい。
今の若い人が厳しいのは、そのためだ。
(さらに給料が安いと来ている。全く、救いようがない。)
そんな、今に特有の風景が、保育の分野では、余計に濃いように見えている。
だから、この本が、私のような、著者と同じ半・年寄りに読まれたというのは、まあ、ムベなるかなと。
そんな読後感になってしまうのだ。
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保育士という生き方
社会はヒトの感情で進化する ― 2020/06/13 10:41
「感情」と「進化」を一度に論じるという視点に惹かれて読んでみた。
世間一般、「進化」という言葉は、「不連続な進歩」の意味で使われている。
例えば、クルマの広告「新型車は進化した」という物言いは、「旧型とは違うのだよ」という、有無を言わさぬ差別(化)の主張を込められている。それが、消費者に、購入後の優越感を想起させる点で、売り文句として効果を奏す。そういう仕組みになっている。
歴史的に、例えば、民族的な優位性を主張する根拠として使われたりもしてきたので(ナントカ人は何とか民より進化しているから征服とか抹殺していい、のような)、その誤用の流れが、今でも続いている。
ところが、「進化」の本来の意味、ダーウィンが進化論で書いたのは、ただの「適応」で、新しい環境における有利な特性、端的にそれだけの意味合いだったりする。
単純に、「その時に便利」というだけなので、進化の結果、能力が落ちる、ということもありうる。例えば、進化して固い鎧を獲得した結果、捕食数が減って個体数は増えた、だが、動きが遅くなったので生息域が減り、エネルギー消費量が増えたので寿命も短くなった、のような帰結だ。進化は、進歩ではないのである。
で、社会心理学とか行動経済学のようなイマドキの学術分野では、その本来の意味合いの方の「進化」を、集団に対しても応用するのだそうで、例えば、「昔と違って、今は人々がこう考えるようになったのは、生存競争で有利だからで、それは進化の結果である」と、そういう言い方をするのだそうだ。
著者は、人々の考え方や感じ方をまとめて「感情」と言っているのだが、それが、統計的に優位な方向に変化するのを「進化」になぞらえ、道徳や民主主義なんかの枠組みが、進化に該当するあらたかな例であると、そう言っている。
なのだが、その実例が、どう見ても歪曲というか、間違いもアラタカだったりするので。まあ、お話のスジとしては、オハナシ半分に面白がるのがせいぜいかなと。
そんな読後感だった。
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社会はヒトの感情で進化する
新たなルネサンス時代をどう生きるか:開花する天才と増大する危険 ― 2020/06/20 08:54
どこかの書評で見かけて、でも図書館にはなくて。そのうち立ち読みでもしてやろうと、リストアップはしていたのだが。Amazonで安い新古本があったので、買って読んでみた。
内容としてはほぼ題名の通りで、ルネサンスをメインに、歴史上の転換点を振り返って分析し、そのエッセンスを今に生かすにはどうしたらよいかの提言をまとめている。
知識の羅列としては結構な量で、知らない人には真新しいとは思うのだが、私の場合は見覚えのあることが多くて、あまり面白くなかった。
「提言」の方も、変化を認めろとか、実直にとか、具体性に欠けるものばかりで、あまり面白くないのであった。
残念。
もし事前に立ち読みしてたら、買わなかったかも知れない。
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新たなルネサンス時代をどう生きるか:開花する天才と増大する危険
この国の不寛容の果てに ― 2020/06/27 05:46
相模原の養護施設の大量殺人事件について、各界や関係者の意見を集めた書籍だ。総じて、国レベルでの柔軟性・寛容性の喪失を語る論調になっている。
それぞれの意見は、「まあそういうこともあるかな」程度の納得感・・・というか、既視感があった。
総論としての不寛容化については、私のような一般人が日々感じているレベルよりも考察が浅くて、ぶっちゃけ「ツッコミが足りない」印象だ。
この著者は、社会の傾向を問う系の、同類の書籍を多数出しているようだが、このような総論併記がジャーナリズムと言えるのか、個人的には疑問に感じた。(ジャーナリズムで書かれた本ではなかったのかも。)
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この国の不寛容の果てに
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