カニバリスムの秩序―生とは何か・死とは何か ― 2020/10/10 07:28
ジャック・アタリによる、ぶ厚い本である。
刊行は少々昔だ。細かい活字で400頁近い。
カニバリズムとは、「共食い」のことである。
私がこの用語を知ったのは、マーケティングの仕事をしていた時だ。
バブル後とはいえ、まだ今よりは世の中に余裕があった頃。一つの会社の中に、似たような部門を、複数併存させるケースが結構あり、社内で競争させたりしていた。当然のごとく、似たような製品がラインナップに重なる結果となり、市場で食い合う。そういった状態を称して、「カニバッてんな~(笑)」などと使うのである。
その後、いよいよ景気が悪くなり、市場の縮小が進むと、同じような別会社が合併して、生き残りを図る例が相次いだ。結果としては「カニバった」だけで、図体ばかり大きい割に儲からない会社と化す例が多かった。(で、リストラすると。)
本書に戻ると、そういう比喩(揶揄?)ではなくて、人間による物理的な共食いと、それが精神面や考え方に及ぼす影響とその変遷を、主にヨーロッパの歴史に沿って展開したものだ。
ややこしくてクソ長い本だが、出版当初は本国フランスでは結構売れたらしい。あっちの人は、長い歴史の積み重ねとか、その結果の文化の深みみたいなのを、掘り返して並べてつなげることで「理解」と称するスタイルが、大好きなのだ。(「知識人っぽい」と感じるらしい。)
私は、ヨーロッパ人の死生観の歴史などには興味がないので、結構読み飛ばした。だから、下記の私の要約や理解には、齟齬があるかもしれない。
動物は、共食いをする種としない種に、割とはっきり分かれる、とどこかで読んだ。本当かどうかは知らないが。
ただ、人間はと言えば、無論、する方だ。
古代アステカでは、生きた捕虜の心臓を抉り出して神に捧げた後、残りはバラして食べたらしい。
ギリシャの神々は、近親相姦と食い合いを繰り返しているが、これは当時の人々の世相や意識の反映かもしれない。
中国では、敵、例えば政敵などを倒した際、その相手の体を食うことで「してやったり」となる風習があり、比較的最近まで(今でも?)続いていた。
日本でも、先の大戦で、兵隊が南方戦線に放置されて飢えた結果、一部が共食いに及んだ。(旧日本軍は、何と兵站を放棄するという、極めて杜撰な軍隊だった。)
中南米の未開種族の中には、人を殺して食う風習がいまだに見られる。
キリスト教徒は、今でも、神の体と血(の象徴)を食う儀式を続けている。
以上のような、物理的に「食う」ことにとどまらず、その意味を「相手の体の一部を取り込むこと」に拡張すると、例えば、近年の臓器移植や輸血なども、共食いの亜種と言えるかもしれない。
そんな風に、「共食い」は人間の歴史と共に、様々に変化しながら、今も我々と共にある。
著者は、その変遷を、神、体、機械、コードの4つのキーワードを当てはめて追っている。
古代の共食いは、克服の意味があったとある。例えば、病気で死んだ人間の体を食うことで、自分はその病を克服できると、そういう考え方だ。無論、タンパク源として優秀であったこともあるだろうが、まじない的な一種宗教じみた考え方、いわば死生観が、その根底にあったろうと。ただ、食いすぎるとかえって変な病気になるとった経験則も踏まえていたようで、近親者は食わない/しか食わないなど、一定の制限を設けたケースもあったようだと。
「共食いに意味や許しを与えたのは宗教(観)」という事情は、キリスト教が勃興した後のヨーロッパでも同じだった。特に、今でいう病院の役割を宗教が担っていて、ライ病患者の隔離なども教会が主体的に行っていた。当時の病人は「けがれたもの」つまり悪で、これを克服したり分離したりするのは、神に仕える人々の仕事だった。同時に、病死した未婚の女の体のどこそこは何の病に効く、のような迷信も生きていて、体の一部が薬のように流通していたともある。(日本でも、粉砕ミイラが薬として売られていたとか、似たようなことがつい最近まであった。)
ヨーロッパで、神の次に権力の座に就いたのは、例えばルイ14世みたいな王様だ。彼らは、世の中を統治する権力を持っていて、従来、教会が担っていた機能は、新たに設立された病院や警察などに移って行った。考え方としては従前の、悪の分離や成敗の意味合いを引き継いでいるものの、人間同士がより主体的に死に関わるようになったとして、著者はこれを「体の時代」と表現している。(ピンと来ないが。)
次は「機械の時代」である。産業革命を経て、マシンが身近になるにつれ、人々は、物事の理解を、機械が備える機構に類して行う傾向が出てくる。人体についても同じで、それを、メカニズムとして理解しようという、まあ良く言えば科学的な方向性が、医療を脱皮させた。化学に基づいた薬学や、外科手術による治療も進展した。「悪しきもの」としての癌は、摘出することで克服する。そういう思想と手段の両方が発達した。病人と貧困は、隔離で克服する(ことにする)ものではなく、救うものになった。
同様の変化は、体の外側、精神面でも進行する。ナチズムは、(劣等人種に)食われるかもしれないという恐怖が、相手を食いつくす大量殺人という現れ方をしたものだ。
その後、資本主義の勃興に従い、さらに「翻訳」は進む。人肉は資本に、殺し合いは戦争に、養分は貨幣に、摂取は消費に。食われるものは生産者、食う者は消費者、と翻訳された。この生産と消費の循環が、人々の欲望を掻き立て、かつ、その仕組み自体を支える。そうやって、社会の仕組みとしての資本主義は。その重い歯車を、回り続けることができている。
最後に「コード」。上記の変化は、我々が自ら生み出したものではなく、自然発生したものを半ば強いられてきた。それは、権力者には都合がよかったし、世相が安定すれば、一般市民の安心にもつながるから、双方にとって都合がよかった。結果として、「良いもの」として類型化され、数値化され、統計化されて、概念化された。挙句、一般人が進んでそれを実践するようになるに至り、自ら概念化を取り込に、同一化した。
死は、保険に掛けられ金額化され、忌むべきものとして、視界の外に置かれることになった。生命は、DNAの記号論、特定の意味を持つ文字列に還元され、文字通り「コード化」された。
コード化は、進行の最中だ。これからも、どこかへ向かって進んでいくだろう。
・・・と、本書の内容は以上のような感じなのだが、これら全てを「カニバリズム」というキーワードで一本刺しにするには少々無理があるように、個人的には感じた。死生観の変遷という視点で括れば、それなりの説得力はあるかも知れないが。
これを読んで、ああそうだったんだ、そうなんだ!とやっているフランス人は、目に浮かぶような気がするけど。
信憑性とか諸々…それでいいのかなあ…?と。
それに、東洋の島国に住まう一般民間人の娯楽としては、多少、大盛が過ぎるだろう。
これ、消化してもなあ…。
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カニバリスムの秩序―生とは何か・死とは何か
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