無着成恭の昭和教育論 ― 2020/12/05 07:13
前回の本 に続き、無着氏の著作だ。
氏は、長い間、教育の現場で奮闘されて来た。教育論に「王道」などまだなかった戦後の創成期から、手探りから始めて、ずっと汗をかいてこられた。当然、その論には説得力がある。
氏の思考は、問題の背景で直接・間接を問わず影響を及ぼしている、時間的、環境的な物事にも、広く及ぶ。例えば、問題が、昭和で新たに発現したものであれば、視点を広く取り、昭和で何が変わったのか、そこから考えを巡らせる。必然的に、その思考は、歴史的な観点を含んだ、独特な深みを併せ持つことになる。
氏は、寺に生まれた仏教者である。仏教に根差した教養が、その思考の太い幹を成している。
本書の発刊は、時代が平成に移る辺りだ。昭和の終わりに、昭和を総括する。そういう本である。
そして今、あの、自堕落に堕ちるだけだった平成を過ぎた令和の世にあって、氏の嘆きは、まだ、そのまま有効だ。
以下は、その「嘆き」の、私流の翻訳だ。
私見なので、誤差も偏見も含んでいる。
(それに、以前にも同じことを書いた気がする。)
どうか、ご容赦願いたい。
どんな場面でも、人間は必ず、2種類に分かれる。
何かを「する方」と、「される方」だ。
大人と子供と言っても良い。
場面場面で入れ替わることはあるが、本人の志向がどちら側であるかは、意外と固定している。
人の生は、単独ではさして意味をなさない。
人は、群れで暮らす動物だ。
社会的な相対性で、自己認識、つまり、自己と、行動の、価値を計る。
言い換えれば、人は、他人に対して何かを行うことで、生きている。
広義で「仕事」と言われるものだ。
対価を受け取るかは関係しない。例えば、「寝るのは子供の仕事」などと言われる類のものも包含している。
他人に何ができるのか、そこで何を思いつくかで、その人間の価値は決まる。
そして、何かを思いつき、実行し、成し遂げることは、その能力の証となる。
だから、そこで、幸せを感じるのだ。(自己実現とも呼ばれる。)
ところがだ。
近頃は、人に何かをするのが「損」で、してもらう方が「得」だ。
そういう考え方が「王道」になっている。
年かさのいい大人や、いい地位にある人間までが、いや、年かさやいい地位の人間の方がかえって、「オレに何をしてくれるのか」と、厚顔に、周囲に問い続けて恥じない。
以前は、年配の説教で「結婚し子を成して一人前」という言い方をよく聞いたものだが、これも、端的に、子を持って親になることが、「される方からする方への(半ば強制的な)脱皮」を意味したからだ。
近年は、そんな基本原理すらも機能しなくなっており、まだ小さな子供に、何かをしてくれと求め続ける不埒な親もよく見かけるし、あまつさえ、いびり殺してしまう例すらあることは、ご存知の通りだ。
皆、自らが率先して、子供で居ようとする。
歳はとっても子供っぽいままの、未熟な人間が多いのは、そのためだ。
社会の構成員たる人間がそのザマなので、人間が成す社会そのものも、未熟性を深め続けている。
そこから脱する策を捻出するはずの思考力も、脱せんと駆け、飛び出すための筋力も、衰え続けている。
何故か。
自らの成したこと、つまり過去に、真面目に向き合わなかったからだ。
なぜ戦争に至り、こっぴどく負けたのか、その総括から逃げた。
古い不都合は黒塗りで隠し、表面だけ民主主義に着替えて済ませた。
物欲を最善の価値とし、皆で盲目的に追従した。
新たな問題や課題は、ただ先延ばしにして「済んだ」ことにした。
そうやって、「今もらえるものの最大化」を主眼にする、偏狭な子供っぽい行き方が「王道」になった。
それが発生し、定着し、当たり前になったのが、つまり、昭和だったのだ。
そして、21世紀の今。
経済や技術の成長の天井が迫るにつれ、世相は、「自分が上を目指す」より、「他を蹴落とす」ことで差分を得ようとする、いやらしい方向にシフトを深めているように見える。
職場や学校でのいじめがなくならないどころか陰湿化の一途であることや、「あおり」や「マウンティング」なんて言葉が聞かれるようになったのは、その小さな証左だろうし、どうも、昨今のコロナ禍のストレスで加速すらしたようで、ナンバー狩りや自粛警察といった、新たな形で表出もしている。
他人の不幸は蜜の味、とは昔からある言い方だが、実際はただの錯覚だ。なめてみれば、さして甘くない、どころか大変に苦いことも多い。それに、いくら舐めても、実際に自分の腹が膨れることは、決してない。
出現の多様化だけでなく、空間的な広がりもある。
してもらうことをまず考える(のみならず強いる)志向は、日本に限らず、世界規模で見られる。
(私見だが、中国の台頭の影響が大きいように思う。いちゃもん強制型の志向。)
また、個々の人間のみならず、社会構造にも影響が及んでいて、多種多様な方向に、同種の浸食が見られる。
例えば、産業界で、作り手と買い手の両方の志向が反映される「商品」が、同様の原理で変質している情景を、先日、自動車業界を題材に 書いたばかり だ。
そういった諸相を見るにつけ、平成、令和と時を経て、世にいう進歩や、あまつさえ進化などとは迷い事で、ただの「昭和の成れの果て」が、継続・堕落しただけだと、断じざるを得ない。
既に死病を得て、余命短く、ただ現状維持だけで精一杯の私は、それを、ため息交じりに、横から眺めるのみだ。
本書と共有したのは、この、遅きに失した無念の感だ。
甚だ残念である。
本書に戻るが、昭和の総括としてはもとより、題目が教育論なので、子育てや、部下育成にも参考にできそうだ。(無論、相応の応用力は要る。) 古い本でもあり、内容としては隔世の感が強いので、受け止めることができる向きも限られると思う。しかし、あの、こども電話相談室の「むちゃく先生」が、ひょうきんな語り口の向こうで何をお考えだったか、ご興味を持たれるようなら、一読をお勧めしたい。
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無着成恭の昭和教育論―仏教徒として昭和を検証する
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