あの戦争と日本人 ― 2021/04/11 07:18
少し前に、昭和について 書いた が、それからずっと、気になっていた。
私はまだ、昭和をちゃんと把握していない。
先の記事で、私は昭和を良く書かなかったが、それは、結果としてそうなったということで、どうやって昭和がそこに至ったのか、その道筋までは、ちゃんと把握していない。
学校の歴史の授業でも習わなかった。昭和に至る近代史は、当然、教科書の最後であり、授業の進捗が遅れたために学年の最後に間に合わず、省略されてしまった。
では、ちゃんと学ぼうかと、今、昭和史に関する書籍を眺めてみたのだが。ただ出来事を並べただけの年表もどき(つながりや流れがわからない)から、都合よくピックアップしたイベントを主観や希望で補填した物語(反自虐史観とかいうヒステリー)など、浅はかなもの、偏ったものが目立っている。(売れているらしい。)
それとは別種の、真面目な書籍も少ないながら出されていて、その中で、特に目についたのが本書だった。
同じ著者の類書に「昭和史」があるが、上下巻でかなりの量がある。
対して本書は、明治維新から記述があって守備範囲が広いのに、文章量はほどほどで、全体感を概観するという今回のお題には、都合がよかった。
実は「昭和史」の方も読んでいるのだが、今回は、本書の方を紹介したい。
私は、半藤さんの本は、読んだことがなかった。
いずれ読もうと思ってはいたのだが、手が付かずにいた。
何故だろうか、覚悟のようなものが要りそうに感じていたのだ。
生前の半藤さんは、テレビのインタビュー番組などで、何度かお見かけした。とつとつと、しかし、芯のある話し方から、広範囲の博識と、深い見識を併せ持った方なのだろうとお見受けした。一見、お優しい感じなのだが、何となく、自分にも他人にも、厳しい人なのだろうと、そんな感想を抱いたのが思い出される。
本書は、その半藤さんによる、先の大戦の総括である。
半藤さんは、太平洋戦争と呼んでいるが、「自虐史観」といった無用な批判を避けるため、あえて「あの戦争」としたとある。
そのように、現代の些末にも一応の配慮はしつつ、しかし、広範な知識と知見を総動員して、日本人が、どう先の大戦に突入し、壊滅に至ったのかを、丁寧に追っている。
本書の記述は、講演を書き取ったと思しき、口述筆記によっている。とはいえ、話し言葉をそのまま文字に起こしただけの文章( くどくて薄い )ではない。その、とつとつとした口調の感触は残しつつ、話の内容を適宜に凝集した、しかしテンポは抜群の、読みやすい文章になっている。内容の濃いお話を気楽に読める、稀有な成果になっている。(「昭和史」も同じだ。)
歴史を、公平な視点で書くのは難しい。
私も以前、世間で誤解されている、とあるバイクメーカーの歴史を、文献を洗い直して描き直す作業をして、身に染みて 経験した 。
歴史を書くには、まず、事実を把握せねばならない。
事実は、証拠から認定する。
歴史の場合、証拠の多くは、文字に書かれた文献だ。
それを書いた者の信条や背景は元より、当時の時代背景や文化なども把握した上で、適切に解釈せねばならない。
次に、流れを把握する。
事実の相関を紡ぐのだ。
個別の事実がどう連鎖していったのかは、普通は、文献には示されない。
多くは、それを読む者の推測による。
ここに、主観や希望が付け入る隙が生まれる。
歴史家の多くが、ここで誤まる。
現代の感覚や基準による「後付けの判断」は論外だ。
反面、現代の人々にも理解できるよう、配慮は要る。
本来的に矛盾を内包した作業だから、卓越したバランス感覚が必要だ。
斯様次第に、歴史の記述は難しい。
正確に語ろうとすると、多くのディテールを、あまねく連ねることになる。
どうしても、文字数が増えてしまう。
反面、文字数が多くなると、そこに描かれる光景は、輪郭がぼやける。
ディテールの中に、本質的なもの、大切なものが埋もれていく。
そうやって、ある種の「ズレ」ができていく。
その「ズレ」が歴史の故なのか、著者の力量故なのかは、読者が判断せねばならない。
やはり最後は、読者の力量に依るのだ。
その難しい仕事にあって、半藤さんの力量は、半端ではなかった。
大変な説得力がある。
その要因は、3つある。
まず、ご本人が、戦争の当時に物心がついた少年であり、その雰囲気を実地に経験し、かつ記憶していることがある。その後の昭和の時代感覚も、実地で身についたものだ。現代との比較も容易だし、今の感覚に由る「後付けの判断」を、無意識に混在させる誤謬を避けることができている。
次に、当たった証拠の数が半端ではない。膨大な文献を当たることは無論のこと、戦後すぐ、まだ当事者が多くご存命の頃に、実際に当人に会い、インタビューで話を聞いている。言葉による表層的な情報のみならず、その人となりや、立場、背景までを含めた認識には、他にはない深さがある。
最後に、推測の卓越さだ。上で、事実のつながりを見出すのは、著者の推測によると書いた。その辺は半藤さんも認識していらして、たびたび自分のことを「歴史探偵」と称されている。情報と推測の境界をキッチリと区別されていて、本の中でも「ここからは私の推測ですが」と断りが入っている。判断の根拠もちゃんと示されているので、公平性(都合がよいものに偏っていない)がしっかりと保たれていることがわかる。
莫大な情報と、それらを紡ぐ深い考察の共存による、信頼感の醸造。
実に豊かな説得力なのだ。
本書は、文章の量からして、半藤さんの戦争観を、表層的に舐めただけのものだと思う。
読者の側が、そのさらに表層だけをなめて批判するようだと、齟齬が拡大し過ぎて、意味を成さないだろう。(現に、そういう向きも多いようだ。)
同様に、昭和がどうしてああなったのか、という今回のお題も、私がホイと要約するのは無理がある。詳しくは本書をご覧下さいとならざるを得ないのだが、無理くり簡単に述べてしまうと、私が先に書いた内容で、さして間違っていないように思う。
明治の頃、日本は大きなバージョンアップを果たしたが、当時の日本には、未経験の課題に立ち向かえる突破力があった。(江戸から続く基礎体力が、良い方に効いたのかも知れない。)
だが、その継承には失敗した。日本は強い、世界は配慮すべきだ、そんな子供じみた感情が、雰囲気として残った。子供というのは、自分に甘い。都合が悪いことは、見なかったこと、無かったことにして済ませた(ちっとも済んでないんだが)。そういう、変な癖がついてしまった。
それが根付いて、行き過ぎて、破滅に至ったのが、あの戦争の骨子だったのだと思う。
でも、その変な癖は、(主に地政学的な)諸般の理由もあって、戦後での改善には至らず、そのまま、今でも残っている。
上で、歴史の読み解きは、最後は読者の力量に依る、と書いた。
だとすると、今、浅はかな歴史物語の方が良く売れるということは、読者層の劣化を、端的に示しているのだろう。
突破力をなくした日本は、問題を解決できない。
今も、コロナ禍を始めとした諸々の問題を前に、右往左往したり、互いに足を引っ張り合ったりするだけで、真面目に取り組もうとする人は稀だ。
自虐史観だなどと、過去を無暗に否定したり、マチズムやドラミングに励んだ所で、この惨状は変わらない。実質、自分より弱いものを探すことで、自分の弱さから逃げ回っているだけだ。
皆、弱りゆく日本が、本当は好きなのだろうか。
違うと言うなら、自分の足で踏みだすしかない。
せめて、踏み出さんとしている人の足を引っ張ることは、恥だと思った方がいい。
認識や判断を、広範囲に、公平に保ち続けるのは、辛いし、難しい。
だからといって、ただ逃げるだけでは能がない。
所詮、逃げ切れるものでもない。
もう古い、ということもない。
今も続いているのだ。
冒頭に挙げた記事で、私は、人間は「される側=子供」と、「する側=大人」に分かれる、と書いた。
もういい加減、大人になろう。
私はもう、とうに大人を通り越して、ただの「する側の人間の成長を寿ぐだけの老人」なのだが。
する側への応援や援助は、出来る限り、死ぬまで、続けたいと思っている。
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半藤さんと宮崎監督の「分野別オタク」の交錯が笑かします。
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コメント
_ 煙 ― 2021/04/15 00:11
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良く言ったものです
※フェミニストの言うHerstoryの対義としてではなく、です