バイクの工学書 バイクに乗るためのABC ― 2017/03/05 07:18

本書は、工学的アプローチによる二輪車の動作原理の研究について、一般向けに平易にまとめた本だ。当ブログの読者の方に教えていただいた。
日大の機械工学系の先生で、かつ、ナントカ安全協会のような公の要職を歴任された、偉い先生方による共著である。月刊自動車学校という雑誌の、ちょっと古めの連載をおまとめして、現状に合わせて加筆したものだそうだ。平成27年の刊である。
二輪車の挙動というのは、「断面が丸いタイヤが斜めに傾きながら回る」みたいな、回るものの組み合わせの世界なので、数式で表すと、回る系、つまり三角関数の塊になって、チョー面倒くさい。丸ごと一式を完全に数式化できているわけでもなく、大概は、見たい部分のみを抽出してモデル化したり、それでも非線形だから解析的には解けなくて、適当に数値解で済ませたりする。(カッコよく、シミュレーションと言っておこう。あっ、お好みの結果が作れますので。笑) そんな具合で、直接・理論的に取り組もうとすると、えらくややこしい世界なのだ。
二輪の挙動を数式で表す系の書籍は、過去にいくつか紹介しているが。
これ はかなりベーシックで入門ちっく、 こっち は本格的過ぎてようわからん、 これ は少々変り種と、いろいろと極端で。でも、他に選択肢は大して無い。
そんな中でも、本書のアプローチは変っていて、なかなかに工学的だ。バイクのハンドルの回転角や、人間がハンドルを押さえる力なんかを測定する機械をバイクに取り付けて、重心の位置をわざとずらすための重りをくくりつけて実際に走らせたりといった「実験」を行い、得られたデータを解析・解釈することで、バイクの挙動の原理的な部分を抽出しようとしている。「まず実験ありき」で理屈は後から考える本書は、この手の本にありがちな理論から入るタイプとは違った、別の世界を見せてくれる。
だが、方法論としては、「まず乗ってみて体で覚えてきた」我々ユーザーと同じエンピリカルな手法であり、そのせいか、ある程度のバイク乗りなら、言われなくても知っているタイプのお話が、並んでしまっているように思えた。結果が実際に数値化されているのは、面白いかな、とは思ったが。
いくつか例を挙げてみる。
○ 力学的なバンク角は、車体のバンク角ほど寝ていない。その差は、普通のバイクで1.1倍程度、スクーターなどタイヤが太く重心が低いバイクは、1.3倍に及ぶ。ちなみに、乗り手がリーンウィズで脱力して乗れている時、人間の上半身の角度は力学的バンク角に近いから、外見は「微妙なリーンアウト」となる。(車体のバンク角と力学的バンク角の差が、端的に目視できるわけだ。今度やってみよう。)
○ 回転慣性(エンジンの中身などで高速に回っている部品の勢いが作る力)を重量相当で換算すると、当然の事ながら大排気量車ほど大きく、ローギヤでエンジンが回っている時は、車重の10%を超える大きさになる。単純に車重が増えたのに近いので、ハンドリングを初め、車体のあらゆる挙動に影響する。(エンジン回すと何かにつけ重く感じる気がしていたが、気のせいじゃなかったんだ・・・。)
○ 同じスピードで曲がっていても、エンジンの回転が高いと、ジャイロの影響で、オーバーステア傾向が強まる。シャフト車(縦置きクランクのエンジンのこと)はこの影響がないので、変化が一定のリニアなステア特性になる。(私が Guzzi を乗り易い、向き変えがラクだ、と感じる所以かも。)
○ 二輪車は四輪車と比べて、低速では制動が、高速ではレーンチェンジが速いので、回避行動はその方向で行うのが効率がよい。ただ、中速域ではその中間の特性となり止まるのも避けるのも四輪社より遅くなる。一般に、二輪車は避ける動作がたやすいと言われるが間違いであり、二輪車、四輪車ユーザー共に認識を改めるべきである。(バイクの側が勝手に逃げてくれるから、多少はおイタをしても大丈夫、と勝手に思い込んでいる四輪ドライバーもいるからね。気をつけよう。)
○ 一般に、重心が高い方が安定性が良い。挙動の開始もゆっくりなので、走っている分には扱いやすい。(停車時の取りまわしは、反対に重くなる。) 無論、重心が高ければいいというものではなく、適正な範囲は存在する。一般に、重心が低いほど安定が良いと言われるが、これも誤りである。(重心が低いから優れている、と勘違いしている(主に)BMWユーザーは、悔い改めるべきだ。同じことを言い続けているジャーナリストも。)
○ 二輪車のブレーキは四輪車よりも良く効く。路面が許せば、荷重が乗る前輪を強めにかけるのが正しい。後ろをメインにかけさせる従来の教習方針は間違い。(これ、ずいぶん昔の教え方のような気が。)
○ タイヤの面圧は、走行中は路面の凸凹を拾って常に変動しているが、速度を上げると変化の度合いを増して、倍半分程度も変動する。車体の動きがはるかに遅く追従しないので普段は表面化しないが、ブレーキやコーナリングなど路面のグリップが厳しい状況では影響される場合があるので、乗り手は注意が必要である。(路面の状態は常にモニタしているつもりだったが。倍半分は意外。)
といった感じで、粗方は、感覚的にも納得できるものだったが。
妙な所や、気になる所も、結構あった。
まず、データの取り方が通り一遍で、実験条件の影響範囲を考慮に入れないきらいがあるように感じられた。このバイクに、この乗り手、この状況(気温、路面、速度などの設定や環境)だったから、そうなる・そう見える・そう言える「だけ」という場合が、少なくないように思ったのだ。
例えば、ハンドルを保持する力なんて乗り手次第でえらく変わるし、素人と玄人を比較しましたといった所で、ひょっとしたら、技量ではなく、性格とか、別のものを見ている可能性もありうる。(素人さんの場合は特に。いいとこ見せようとして頑張っちゃったりするからね。) 例えば、実験結果として「だから大型バイクはこんな特性」とされていても、「大型だけ、そう計れる実験をしていただけ」と区別がつかない場合が散見された。
これは、本書を一般ユーザーが読むことを考えると、非常に残念なポイントでもある。例えば、「750ccクラスはこんな特性」とひとまとめに片付けられてしまうと、このナナハンと、あっちのナナハンの差は、全く分からないことになる。手がかりさえ一切得られない、完全な空振りだ。ホントは、そこが一番知りたくて、こんな本を読んでいるようなものなのに。
また、機械工学の先生であるせいか、お考えになるのはそっち方面がほとんどで、その他の、例えば人間工学なんかは、まるで無視しているようなのも、古さを感じさせるポイントのように感じた。
その辺りが一番顕著なのが、先生が、ハンドルは操作するものだ、とお考えになっている節が、あちこちに見られたことだ。「この場合はハンドルがこう振れるから、例えば逆方向に回すのが正しい」のようなお話が、随所に出てくる。
確かに、極低速時や、横風や路面のギャップなど外乱に対する時には、回したり抑えたりはありうるのだが。私の世代が教えられたのは、原理的に、バイクのハンドルは、フロントタイヤの負担が最も少ない切れ角に勝手に収束するものなので、基本、ハンドルは回さずに放っておく、または、ハンドルが素直に出口を向くように車体の側をコントロールする、その方が、(特に公道では)安全マージンが稼げる。私のこれまでのエンピリカルな結論からしても、これは妥当な線だと思うのだが。
なるべくニーグリップなど下半身でバイクにつかまって、肩や腕は脱力し、前輪の様子を感じ取る。股ぐらでバイクを締め付けて、そこだけで何とかしろ、ということではない。上半身の柔軟性を確保しておかないと、前輪の押され具合、それを車体が押す具合、つまり、ステアリングヘッドの状態が、読み取れない。
だが、本書の先生いわく、ニーグリップせずに乗れるのが一番の名人、なのだそうで。その理屈で行くと、スクーターで脚をひし形に横開きして、クルマの間で爽やかにロールを切っている茶髪のアンチャンは、かなりのエキスパートということになるが。いや、そうかもしれないけど。(笑)
また、先生いわく、コーナーの入り口で車体を倒すきっかけを作るため上半身を内側に入れる際、外側のステップを踏みつけるのが正しい、のようなことも仰っているのだが。これは、昔懐かしい「外足加重」なのだろうか。(実際にやってみれば分かるが、そうはならないのだが。)
これまた別件だが、用語がおかしいのも気になった。車重をkgf(重さではなく力の単位)で書いていたり、加速度のGを小文字でgと書いたりして(「グラム」かと思った)、読んでいてチョコチョコ引っかかる。
と、細かいことを言い出すと切りがないのだが。著者である先生方は、二輪の挙動に関する基礎理論の確立に多大な貢献をされ、かつ、教習所を始めとする公の安全教育の方針立案に関しても、権威で在らせられるとのことなので。大間違い!では無いのだろうとは思うのだが。かよう左様に、ちょいと素っとん狂な記述も少なくないのは、著者の先生がいにしえ過ぎて、お話が少々古いのか。または、私のようなおバカさんにもわかるようにと、お話を噛み砕き、あるいは端折り過ぎたせいなのか。よくわからなかった。
どちらにしろ、本書を著された先生方は、バイクにはお乗りにならないと拝察した。本の題名からして、バイクのユーザーが対象読者と思しき本書なのだが。我々のような古参が探しあぐねてきた、コアな情報を求めるのは、ちょっと筋が違うようだ。あまり系統だって書かれてもいないので、一般的なバイク乗りが読んでも「いきなり開眼」とはならなそうだが。断片的には参考になることは多いから、一読の価値はあるということで。お勧めはしておこうと思う。
唯一、巻末近くにあるシミュレータの話には興味が惹かれた。実寸大のバイクの模型に跨って、面前に据えられた画面の表示に従って、実際に操作をさせる類のシミュレータだ。本書には、教習所の初めの段階で、ごく基本的な操作方法を学ばせたりしている、とあるのだが。今は、何らかのフィードバックを乗り手に返したり、ソフトは無論、ハードの方も進歩しているだろうから、いろいろ使いようがありそうに思った。
例えば、免停講習に活用して、
・貴様の違反で起こりがちな事故を疑似体験させる
・その場合の賠償金額をシミュレートする
・過去、同じような轍を踏んだ連中の、その後の惨状をレポートする
血みどろの事故映像による嫌がらせなんかよりは、よほど辛らつで効き目があるように思うのだが。(笑)
個人的には、モトGPのバイクでハイサイドする疑似体験とかしてみたい。
いや、プレステなんかに、そんなゲームがあるのは知っているが。実際にバイクに跨ってGを感じながら、しくじっても放り出されない程度に衝撃を丸めてくれるシミュレータなんかがあったら、面白いなと。(ゲームがもうあるんだから、データもソフトも既にある。後はハードだけ、だと思うのだけど。) いや、実際にリスクを冒さずにバイクの楽しみが享受できるとなると・・・なおのことバイクが売れなくなるかな。(笑)
そういえば、昔、そんなアーケードゲームがあったよねえ。
バイクのオモチャに跨って、画面に従ってコーナーで倒しこむ。失敗すると「ガガガ~」みたいな。
もう全然見ないなあ。バイクはゲームにあつらえても、お客があんまりつかないのかな。
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長江啓泰のバイクに乗るためのABC
追記
表題になっている先生について、ネットで見つけた資料を少し挙げる。
著者略歴
やはり、大きく2点、二輪の運動特性に関する基礎理論の確立と、安全運転の普及に関する活動が挙がっている。
ホンダの基金から研究資金が出ていたという資料
お役所関連の要職もされているのに、基本、バイクに好意的な側だったようなのだが。このせいなのかな。
警視庁委託 二人乗り二輪車の運転特性に関する報告書 平成15年
高速道路のタンデム解禁のあたりにも、ご貢献いただいていたようだ。
やはり、ご自信でバイクに乗られる、または愛好者であるといった記録は見つからなかった。どなたかお詳しい方、いらしたら教えて欲しい。
読書ログ ゴジラのなかみ ― 2017/02/26 05:59

「中の人」とは、近ごろは、企業のSNS担当者を指すようだが。
こちとら、そんなに甘くない。
ホンモノの「中の人」のお話である。
本書は、ゴジラのぬいぐるみの中で、それを動かしていた役者さんによる手記だ。
白黒のゴジラからを演じられた初代に続く二代目さんで、昔の方のヘドラの辺りから、かなり最近までの期間を演じられていたとのこと。
私のようなオッサンがガチにお世話になった世代でもあり、本書でふんだんに語られる裏話は、ある程度聞いたことがあったり、想像がついたりもするのだが。本書で詳らかになる撮影現場のリアルは、「中の人」が直接語るお話であるからして、臨場感が違う。
その「演技」の様相に、妙に感心した。ゴジラ(のぬいぐるみ)という、障壁かつ足かせのようなものがまずあり、その上で、人に何かを伝えるというのはどういうことか、イチから取り組む。全くもって、大変な仕事なのだ。
考えてみれば、奇妙な世界である。
「作り話なのに、実物」なのだ。
映画自体は、架空の世界を描いている。しかし、現実にセットはあって、着ぐるみから街中のミニチュアまで、実物が存在する。爆発シーンは本当に炸裂するし、火だって本当に燃え上がる。
空想の物語とはいえ、実物を使うからこそ、伝えられる手触りなり世界観があったし、それを濃厚に伝えようと、撮影現場で仕事に打ち込む、職人や、役者さんたちが居た。
ぬいぐるみである。普通に表情から撮ってもらえる役者さんとは、状況が全く違う。バカ重くてろくに動けない。中はクソ暑くて体力が要る。「演技」といっても、これで何をどう伝えられるのか。体力以上に、頭も使わねばならない。
我々が今、映画のシーンとして見られるのは、その仕事の、ほんの一部分だけなのだが。本書では、ぬいぐるみの覗き穴から見続けた、撮影現場の努力や才能の輝きが、伝えられている。
実は1993年の刊と少々古いので、映像のCG化の影響には触れていない。今や特撮映像もデジタル化され、それを作る作業は、作製(実物を作ること)から、作成(文書:プログラムを作ること)に様変わりしつつある。きっと、本書にあるような、作製に関する能力は、ニーズが減る一方だろう。
今でもTVで、たまに初代ウルトラマンなんかを再放送で見かけることがあるが。やはり、世界観は独特だ。恐怖や刺激を押しつけず、一種の空気感(あの、ちょっと霞がかったような)の向こうから、逃げようが無い現実感をもってかもし出す。この味は今は無いよなあ、と妙に納得しながら、また面白く見てしまう。これは、ガキの頃から見ているという馴染みや、懐かしむ意味でのノスタルジーなどではなく、この映像そのものが持つ、普遍的な魅力なのだろうと、改めて感じ入る。
昨年に話題になった新しいゴジラなどは、私は見ていないのだが。今っぽいニュアンス、刺激を前面に押し出したドライな味付けに見えて、興味が湧かなかった。個人的には、もうちょっと、しっとりしたものが好きである。(この嗜好、趣味のバイクには如実に表れているが。笑)
円谷系のマニアや信者のみならず、特撮に馴染みがある/あったと自覚するオジサマは、読むべき一冊ではなかろうかと、思料する次第であった。
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ゴジラのなかみ
読書ログ 本当の夜をさがして ― 2017/02/19 06:54

我々は闇を知らない。忘れたことも忘れている。
何と、星を知らない人すらいるのだと。(米国の話。)
人類は、電気の明かりが普及するまでずっと、星明りで生きてきた。
夜が明るくなったのは、つい最近のことだ。
だから、それがもたらす影響、我々人間の変化だけでなく、自然界のあまたの動物への影響も、顕在化するのは、これからだ。
その昔。米国の片田舎に、初めて電気が通ったときの話が出てくる。
「家中の電気をつけて、クルマに乗り込んでしばらく走って、遠くから、白く光る家を眺めた。」
その光景は、豊かさの象徴だったのだと。
(私は、電気より先にクルマが普及していたということの方に、驚いたのだが。)
人間の眼球は、明視と暗視で使う網膜細胞が違うのだが、最近の人間は、明るい所ばかりにいるので、暗視細胞の発達が未熟だ。現代人は、夜目が利かない。
昔の人は、もっと闇が見えた。
例えば、ゴッホの「星月夜」の夜空は、誇張ではなく、実際にああ見えていた可能性がある。
現代人は、夜目が利かないから、夜が怖い。
女性は特に。「常識」に脅かされてもいる。
我々は、闇を知らない。知らないから、闇を恐れている。
だから、明かりで照らす。
その明るさに慣れて、さらに、明るさを求めるようになる。
我々が光害にどれだけ犯されているのかを図る目安として、 ボートルスケール があるのだが、著者は本書で、その9つの段階になぞらえた章立てで、明るい方から暗い方に、話を進めている。
いや、話が暗くなるわけではなくて。
暗さの話を進めるだけだ。
都市部で、道をこうこうと照らしている街灯は、一般に、安全と治安のため、と言われて久しい。光は善で、闇は悪だと、聖書にも書いてある。
しかし、統計を見れば明らかなのだが、街の明かりは、犯罪を減らさない。犯罪は、暗がりでは行われない。レイプは草むらではなく、もっぱら室内で行われている。
街の明かりで、レイプ犯はターゲットを物色し、泥棒は侵入のための道具を選び、放火犯は燃えそうな物に目を付ける。反対に、明かりを消せば、犯罪者はやりにくくなるし、端的に人は出歩かなくなるから、単純に犯罪も減るのだと。
余分な明かりがなくなったら、どうなるか。
端的に、星が見える。
「星が見えること」が、人間に及ぼす影響は、小さくない。
「降るような星空」の経験者は、分かると思うのだが。
見上げていると、まるで飲み込まれるような、吸い込まれる、または落ちて行くような感覚を覚える。
人は、その光景から、空の向こうは宇宙であること、我々は、宇宙に浮かぶ小さな星のひとつにいる、さらに小さな生き物であることを、端的に理解する。
星の上で暮らす動物として、当たり前の(当たり前だった)感覚。
昔の人々は、皆で夜空を見上げながら、暗闇の中で得たその感情を、共有していた。
闇は不安ではあるようだが、実は、安心でもある。
我々の感覚を、鋭く磨くものでもある。
その感覚を、我々は失って久しい。
そして、失ったものを想起するのは、難しい。
400年前、誰でも星を見られたが、望遠鏡は、ガリレオしか持っていなかった。今は、誰でも望遠鏡を持てるが、誰も星を見ることができない。
そういった状況に気付き、危機感を持つ人々は増えていて、夜空を守るための各種の団体や共同体が立ち上がっており、効果が出つつある。
・ダークスカイ保護団体
・ナイトスカイ・プログラム@国立公園 (羨ましい。日本にありや?)
・政府のダークスカイキャンペーン
など。
闇の重要性に気付き、それを守るための取り組みが始まり、次第に実を結んでおり、闇が戻りつつある、という明るい話で、本書は終りに向かう。
最後の章では、世界で最も美しい(本来の)星空を見られるのはどこか、それがどんなものか、が語られる。それは、本書の闇の旅路を、最後まで踏破した人だけが垣間見る、お楽しみだ。
著者は、田舎育ちのせいか、星空には馴染みがあるようで、「闇」に関して人が感じるはずのものを、辛うじてにしろ、想起できる能力があった。それが、本書の執筆には大いに役立ったようだ。著者はジャーナリストで、科学者ではない。だから本書は、いわゆる科学読み物ではないのだが、理屈ではなく、ある程度情緒的な筆致だから、かえって伝わるものがあるし、馴染みやすい読み口だった。
空は、ずっと前からそこにあった。
今でもあるはずなのだ。
その「本来の姿」があるとして、それが何なのか、私にもわからないが。
(よくある自然保護論と同じで、人間がいなかった頃が「本来」で、それを取り戻す、または守るべき、という理屈になると、まず、人間の活動を制限すべき、最終的には、人間の数を減らべき、といった刹那的な色彩を帯びかねないが。)
少なくとも、闇や星が、人間の根源に近い感覚につながるという論は、新鮮に感じた。
いや、個人的には、朝焼けや夕焼けも好きなんだが。
闇が昇る刹那の色。
闇と光の境目。
(冬は、いつもそれを見上げながら通勤している。)
ちなみに、私は「寝床は真っ暗派」である。
明かりが漏れていると、うっとおしいと感じる。
子供達も同じなのだが、普段は、暗闇は怖がる。
不思議なものである。
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本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか
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