Beyond Architecture Michael Kenna ― 2022/01/02 07:25
冬になると、よく写真集をめくる。
もっぱら、白黒の写真集だ。
いわゆる、昔の「パリ写真」と言われるジャンルも好きだが、
(これが一番好き ~ 写真集 アッジェのパリ )
特に、風景写真が好きだ。
中でも、Michael Kenna は気に入っていて、何冊か手元に置いて、繰り返し眺めている。
(以前、これを取り上げた ~ 写真集 レトロスペクティヴ2 )
今回のは、比較的最近手に入れた、Kennaの写真集だ。
風景や自然だけではなく、街が題材の新作も多数、収録されている。
洋書なので、紙質はあまり上品ではなく、ペーパーバックに近い、ちょっとそっけない感じ。だが、あまり気を使わずにめくれるし、すごいページ数なのだが、その割には安価だ。
じっくりとめくっていると、半日くらいは過ぎてしまう。
何かと気ぜわしい昨今、こういう、ゆっくりとした時間を過ごせる機会は、貴重だ。
特に、この寒い季節は、時間がしっくりと重く過ぎる感じがして、白黒写真にはうってつけだと感じる。
また、年が明けた。
ああ、よかった。また年を越せた。
そう、実感する。
(正直、この年末を越せるとは、思っていなかった。)
来年はどうだろうか。
皆様には、新年の寿ぎが続きますことを。
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Beyond Architecture Michael Kenna
当ブログのカテゴリ「写真」 もご覧ください。
いろいろあって面白いです。(笑)
MOTO GUZZI 100 YEARS ― 2021/08/15 06:42
表紙
Moto Guzzi は、今年、創業百年を迎える。
というわけで(笑)、親会社であるPiaggioが作った本らしい。
Paggio Japan のオンラインストアで買える。
→リンク
税込み¥8,800と、お高い本だ。
本の中身は、Moto Guzzi Japan のサイトの記事で紹介されている( →リンク )。でも、私だけかも知れないが、いくら読んでも意味が分からないので(笑)。以下、紹介し直してみる。
要するに、Moto Guzzi に何がしかの関連がある有名人にまつわるコラムが10編ほど、その間に、昔の白黒写真を少し挟んで、100年の歴史感を醸し出す…と、そんな感じだ。
コラムの例
目次 (ベースが銀色なので、デジカメではよう写りまへん…)
たぶん、本来はノベルティ(無料の記念品)なんじゃないかと思うのだが、
例えばこんな →リンク
今のPiaggioが作った本なので、取り上げられるのは、新しいモデルの方がメインになる。Carlo Guzzi、Carcano、Tonti 辺りの、会社としての 青春時代 の記述は少ない。この辺は、出版の経緯からして、まあ仕方がないだろう。
ぶ厚いハードカバーの豪華本だが、中身の方は今時のムックに似ていて、パラパラめくりながら美しい写真を眺めつつ、目に留まった記事があれば軽く文字を追う、そんな作りだ。ちなみに、テキストは英語である。
日本人によるコラムもあって、撮影の方は、どうも、私もなじみのMoto Guzzi の整備店でなされたようだ。
(古いのも含めて、Moto Guzziを一通り全うに直せるのは、日本では唯一、この店だけなので。まあ、当然かもしれない。)
ただ、いつも見ているあの店が、プロが撮ると、こうもカッチョよく、なんや意味ありげに見えるのか~と、そんな所に、妙に感心した。
私のバイクも小さく写ってた…
本書だが、Moto Guzziを知りたい!という真面目な読者にはお勧めしない。あくまで「記念グッズ」として捉えるのが妥当かと思う。そういう素性と知った上で、この値段を出せる人だけが、逝っとくべき本だ。
ただ、個人的に、感じることはあった。
Moto Guzzi の独自性だ。
私たち一般ライダーがバイクに乗るのは、端的に、それが楽しいからだ。
私の場合は、さらに端的に、バイクの運転が楽しいからだ。
だから、道具としては「運転が楽しいバイク」が最善になる。
目的が、「楽しさ」という主観なので、判断も主体的になる。
そのバイクで、私が、何をできるか。
(バイクが何をしてくれるか、という他力本願ではなくなる。)
他人との比較、抜いた抜かれた勝った負けたは、関係ない。
(これが目的でバイクに乗っている人は、実際、とても多いのだが。)
基準を他人に置くことになるので、自己本位的な満足には、決して至らないからだ。
ただ乗り易いだけのバイクも、運転を楽しむ要素が少ないのだから、ダメな道具となる。
(国産のバイクは、ほとんどがこのパターン。)
優越感とか、所有感とか、どうでもいい。
ただ、私が楽しく乗れればいい。
本来は、そういうパーソナルな感性に即する乗り物だ。
あくまで個人的に、自分と向き合う。
その道具として、Moto Guzzi は、依然として、独自の地位にあるように見えた。
(そういうストイックなブランドは、 以前はDucatiもそうだった し、他にも幾つかあったのだが。今ではもうスッ飛んでしまって、みんな横並びに俗物化してしまった。)
Moto Guzzi が今でも独自だというのは、たぶん、Carlo Guzzi、Carcano、Tonti らの「青春時代」の遺産の故だと思う。しかし、そのエッセンスは、後のモデルでは薄まり続けていて、もう今では、日本車などとの差異は、ほとんどないように見える。私のような古参からすると、Guzzi の独自性なんて、ただの思い込みなのでは?という位だ。
それでもまだ、ゼロではない。
Moto Guzzi を選ぶ人が、ほんの少数だがまだ居るというのは、そういうことなのだろう。
他方、親会社であるPiaggioの態度は、ビジネス的なスタンスに終始している。端的に、スクーターが売れれば良い。その一点に尽きる。
現在のVespaは、昔とは似ても似つかない、ただの「ちょっと小洒落た、でも壊れやすい日本車みたいな乗り物」に変質してしまった。その経緯は、Piaggio がブランドに敬意を払わず、自己の都合を優先し、いいようにいじくり回すのを何とも思っていないことを、端的に明示している。
同様に、Moto Guzzi も、リスペクトしていない。
ただ親会社として、冷徹に、ビジネスとして使い回すのみ。
ぶっちゃけ、スクーターのついでに売っているようなものだ。
今や、Piaggio の巨大な販売管理システムの端っこに鎮座しているだけの、小さな存在に成り下がってしまっている。
ブランドの価値を使いこなしたり、発展させるつもりも無いようだ。製品としては、アーキは従来のまま、電装辺りを新技術で艤装して、後は色を塗り直す程度。作りやすく、値段も安く(≒利幅を大きく)するに留まっている。
そんな訳なので、Moto Guzzi のバイクは、「昔の味は薄まりつつも、ゼロにはならない」という漸近線を、ずっと辿っている。
だから、ブランドイメージだけで、今のMoto Guzzi を選ぶ人が居たとしても、辛うじて間違ってはいないし、それが、「運転を楽しむ」類の本来の公道バイクの楽しみ方に回帰する素地も、ほんの少しとは言え、まだ残っている…のかも知れないなと。
本書を眺めていて、何となくだが、そんな風に感じた。
ただ、その「新しい満足」も、支払う対価に比較すれば、右肩下がりを続けている。そのブランド価値の毀損は、必ずビジネスに影響する。
一般論として、Piaggioが擁する「ビジネス上の価値」というのは、漸近線は辿らない。ある閾値を切った時点で、価値は一挙にゼロになるという、サドンデス型の帰結を辿る。だから、Moto Guzzi がお取り潰しとなるリスクは、これから先も小さくはないだろう。
Moto Guzzi 本社の100周年記念イベントは、コロナ禍の影響で、大幅に縮小されているようだ。
ネット上などではそれなりに賑わってはいるようだが、実際としては、過去のアニバーサリーイベントに比べて、寂しい限りの静けさだ。
まあそれも、バイク云々以前の、世界レベルの大きな状況変化の流れなので。仕方がない。
Moto Guzzi が人を惹きつける所以は、青春時代の良心の故だ、と いつぞや書いた 。
「良心」ってのは、ちゃんと形にできれば、意外に後世まで残るし、広く伝わるものなのだ。(今、モノ作りに携わっている我々が、忘れて久しい原則、または原点かも知れない。)
その、Moto Guzzi のエッセンスを、今でも感じ続けている同胞が、まだこんなにいるというのを目の当たりにするのは、悪くないものだ。
101周年とか、102周年記念イベントでのリベンジを、期待しておくとしう。
(私も、遠くからでも見られるといいのだが。)
Amazonはこちら
Moto Guzzi 100周年関連の本はいくつか出ている。
どうも、これが同じ本っぽいのだが。確かめてはいない。
Moto Guzzi: 100 Years
こちらは、 以前取り上げたIan Falloon氏による著書 のアップデート版。こちらも未チェックだが、評判はいいようだ。
The Complete Book of Moto Guzzi: 100th Anniversary Edition Every Model Since 1921 (Complete Book Series)
バイクの本 LE MOTO DA CORSA ― 2017/03/25 10:16
LE MOTO DA CORSA
al Circuito del Lario 1920-1939,
Sandro Colombo,
EDISPORT
MOTOCICLISMO, 1991
ISBN N.A.
ページをめくりながら、ふと、過去の記憶をたぐる。
「思い通りにならない」の類のグチを言わなくなったのは、いつ頃だっただろうか。
ずいぶん昔、まだ若かった中学~高校の頃は、確か、周りにも、たくさんいた。
今や歳を取り、丸くなった(活動レベルが下がった)のは、間違いなく効いている。
しかし今は、「思い通りにならないのが当たり前」という感覚でいるのが、大きいように思う。
まあ、同じ事かもしれないが。(笑)
もう少し正確に言うと、「幸せや満足というのは内発的なもので、外からもたらされるものではない」と納得していると、そういうことだ。
同じような考え方は、世間一般、哲学や宗教にも、よく示唆されているようだ。
とある西洋の「成功の心得」は、内なる欲望は宇宙の原理に則っており常に正しい、(瞑想などで)正しくあるよう保ちつつ、その声に従って集中・精進すれば、必然的に成功する、と言う。
極東の宗教観にも、悟り無きを悟り、自らの愚を覚え、あるがままに悩み、本願に念を唱えれば、如である世界が自ずと来る(如来)、煩悩と叡智は裏表だ、とそんな考えがあるらしい。
当てになるかは分からない。
読み方の問題もあるだろう。
だが、みな同じ事を言っているようにも思える。
望むものの粗方は、実は、自分の中に在る。
外から貰えるものではないのだ。
見回すと、外からの情報というのは、一見有益なだけのノイズの方が、遥かに多い。
それに、他人と争うことで得られるものには、実際のところ、ロクなものがない。
普段、我々が欲しがっているものは、ずっと前からたくさんあるのに、ただ「いいもの」と喧伝されているだけのもの、だったりする。
そもそも、そうやって「思い込まされた結果」でもなければ、知りもしないものを、皆が一斉に欲しがったりする訳が無い。
この辺の事情は、バイクも同じだ。
最新型を買ったり、すごいね、上手いねとホメて貰ったり、大きいバイクで遅いヤツを抜き去ったりした時の喜び(優越感)は、どうにも、一瞬で消え去ってしまう。
外因性の優越感は、長続きしない。
だから、繰り返し求めることになる。
メーカーは、これを製品戦略に織り込んでいて、今のバイクは、いかに短期間で買い換えてもらえるか、よく考えて作られているし、そのように売られてもいる。
技術は、進化していると、よく言われる。だが、そのほとんどは無目的化していて、何のためにあるのか分からないか、あるのに使いようがないかの、どちらかだ。
ありすぎる馬力。出すぎるスピード。(一度も使い切れなかったり?)
転ぶ気がしない程の安定感。(いや、転ぶから。)
新開発のエンジン制御技術は、もっぱら、次の規制への対応を目的にしていて、つまりは、お役所に向けに作られたものだ。それが、ユーザーの側の利益に貢献することは、ほぼ、何もなかったりする。単なる法制度上の話をしているだけで、ユーザーに対し、どれだけ貢献するものか、試算や、検証がされることも、全くない。
まともなバイク乗りなら、こんな「従順なお散歩犬」のような機械は、欲しがらないだろう。
(いや、この技術の目的はバイクではないことは承知しているので。そちらのツッコミは無用である。ちなみにこれ、「キャスターを変えている」旨の技術解説を見かけるが、変っているのは、トレールだ。)
「乗って楽しいバイク」とは、こんなものではない。
ちゃんと、人の感性に添うものだ。
人が乗り、操作し、内外からの入力に反応することで、「結果」として、返して来る。
その大きさや周期、遅れなど(私はいっぺんに「波長」と例えている)が、人にとって楽しいと感じられる、そういう姿をしているもの。
everlasting(持続的)なもの。
飽きないもの、普遍性があるもの。
長く愛され、長く使われるから、耐久性は不可欠だ。
どうやれば、そうなるのか。
どう作れば、そうできるか。
過去、そういうバイクをいくつか取り上げてきたが。それらが全て、そうなるべく、意図的に作られていたとは言わない。ぶっちゃけ、たまたまそうなっただけ、としか思えないものも少なくなかったが、何れにせよ、それを「楽しくしよう」と、日に影に奮闘した人々がいたおかげで、それが実際に「楽しく」なったろう事だけは、妙にリアルに想像がついたものだった。
上に挙げた写真に写る人々は、ほんとうに満遍なく、楽しそうに見えるのだが。それは、「思い通りにしよう」と奮闘していたり、その結果「思い通りになった」瞬間であったりするわけで。楽しそうなのは、当たり前なのだ。
思うに。
技術的に、「楽しいバイク」の何たるかというのは、ほぼ、この頃にはもう、分かっていた。
(個人的な見解だが、具体的には、1950年代頃までかと思う。)
バイクにとって、「楽しい」というフィーチャーは、その時代で終わっていた。
それ以降、成長とか、進化とか言われ、我々がそう思い込んでいたものは、ただの贅肉のようなものだった。
実際のところ、踊り場で、同じ所をくるくる回っていたようなものだ。
先日、読者の方から、文章より写真の方がよいと言われ、愕然とした。
いや、私もそう思ったのだ。(笑) だから、余計に驚いた。
自分のグチにも、そろ飽きてきた、というのもある。
ただ、私が求めていたのは、ああバイクって楽しそうだな、乗りたいなと。そう思う、根本の部分の、「共感」だったのだなと。
「ああ、バイクって楽しい。」
そしてそれが、この時代の写真で、既に如実に伝わってしまったということに、今更ながらに、驚いたのだ。
技術的には、今の何万画素のカラー写真とは比べるべくも無い、古い、銀塩の、白黒写真だ。
それでも、彼らの心情を、如実に伝えてしまう。
まるで、50年代の、古い、隠れ名車のように。
それがまるで、技術の「進化」と言われるものの空回り加減を示しているようでもあり。二重の意味で、ガックリ来たのだ。
「何だ。終わってたのか。」
そんなわけで。
当ブログの更新は、当面、休ませて頂こうかと思う。
これまでご覧いただいた読者の皆様には、長い間のご愛顧に、心からのお礼を申し上げたい。
また何かあったら、再開することもありうるかとは思うが。
このまま消滅と相成っても、ご容赦願いたい。
皆様のバイクライフの、より一層の充実を祈りつつ。
以上
真ん中の不審者はカルカーノです。
al Circuito del Lario 1920-1939,
Sandro Colombo,
EDISPORT
MOTOCICLISMO, 1991
ISBN N.A.
ページをめくりながら、ふと、過去の記憶をたぐる。
「思い通りにならない」の類のグチを言わなくなったのは、いつ頃だっただろうか。
ずいぶん昔、まだ若かった中学~高校の頃は、確か、周りにも、たくさんいた。
今や歳を取り、丸くなった(活動レベルが下がった)のは、間違いなく効いている。
しかし今は、「思い通りにならないのが当たり前」という感覚でいるのが、大きいように思う。
まあ、同じ事かもしれないが。(笑)
もう少し正確に言うと、「幸せや満足というのは内発的なもので、外からもたらされるものではない」と納得していると、そういうことだ。
同じような考え方は、世間一般、哲学や宗教にも、よく示唆されているようだ。
とある西洋の「成功の心得」は、内なる欲望は宇宙の原理に則っており常に正しい、(瞑想などで)正しくあるよう保ちつつ、その声に従って集中・精進すれば、必然的に成功する、と言う。
極東の宗教観にも、悟り無きを悟り、自らの愚を覚え、あるがままに悩み、本願に念を唱えれば、如である世界が自ずと来る(如来)、煩悩と叡智は裏表だ、とそんな考えがあるらしい。
当てになるかは分からない。
読み方の問題もあるだろう。
だが、みな同じ事を言っているようにも思える。
望むものの粗方は、実は、自分の中に在る。
外から貰えるものではないのだ。
見回すと、外からの情報というのは、一見有益なだけのノイズの方が、遥かに多い。
それに、他人と争うことで得られるものには、実際のところ、ロクなものがない。
普段、我々が欲しがっているものは、ずっと前からたくさんあるのに、ただ「いいもの」と喧伝されているだけのもの、だったりする。
そもそも、そうやって「思い込まされた結果」でもなければ、知りもしないものを、皆が一斉に欲しがったりする訳が無い。
この辺の事情は、バイクも同じだ。
最新型を買ったり、すごいね、上手いねとホメて貰ったり、大きいバイクで遅いヤツを抜き去ったりした時の喜び(優越感)は、どうにも、一瞬で消え去ってしまう。
外因性の優越感は、長続きしない。
だから、繰り返し求めることになる。
メーカーは、これを製品戦略に織り込んでいて、今のバイクは、いかに短期間で買い換えてもらえるか、よく考えて作られているし、そのように売られてもいる。
技術は、進化していると、よく言われる。だが、そのほとんどは無目的化していて、何のためにあるのか分からないか、あるのに使いようがないかの、どちらかだ。
ありすぎる馬力。出すぎるスピード。(一度も使い切れなかったり?)
転ぶ気がしない程の安定感。(いや、転ぶから。)
新開発のエンジン制御技術は、もっぱら、次の規制への対応を目的にしていて、つまりは、お役所に向けに作られたものだ。それが、ユーザーの側の利益に貢献することは、ほぼ、何もなかったりする。単なる法制度上の話をしているだけで、ユーザーに対し、どれだけ貢献するものか、試算や、検証がされることも、全くない。
まともなバイク乗りなら、こんな「従順なお散歩犬」のような機械は、欲しがらないだろう。
(いや、この技術の目的はバイクではないことは承知しているので。そちらのツッコミは無用である。ちなみにこれ、「キャスターを変えている」旨の技術解説を見かけるが、変っているのは、トレールだ。)
「乗って楽しいバイク」とは、こんなものではない。
ちゃんと、人の感性に添うものだ。
人が乗り、操作し、内外からの入力に反応することで、「結果」として、返して来る。
その大きさや周期、遅れなど(私はいっぺんに「波長」と例えている)が、人にとって楽しいと感じられる、そういう姿をしているもの。
everlasting(持続的)なもの。
飽きないもの、普遍性があるもの。
長く愛され、長く使われるから、耐久性は不可欠だ。
どうやれば、そうなるのか。
どう作れば、そうできるか。
過去、そういうバイクをいくつか取り上げてきたが。それらが全て、そうなるべく、意図的に作られていたとは言わない。ぶっちゃけ、たまたまそうなっただけ、としか思えないものも少なくなかったが、何れにせよ、それを「楽しくしよう」と、日に影に奮闘した人々がいたおかげで、それが実際に「楽しく」なったろう事だけは、妙にリアルに想像がついたものだった。
上に挙げた写真に写る人々は、ほんとうに満遍なく、楽しそうに見えるのだが。それは、「思い通りにしよう」と奮闘していたり、その結果「思い通りになった」瞬間であったりするわけで。楽しそうなのは、当たり前なのだ。
思うに。
技術的に、「楽しいバイク」の何たるかというのは、ほぼ、この頃にはもう、分かっていた。
(個人的な見解だが、具体的には、1950年代頃までかと思う。)
バイクにとって、「楽しい」というフィーチャーは、その時代で終わっていた。
それ以降、成長とか、進化とか言われ、我々がそう思い込んでいたものは、ただの贅肉のようなものだった。
実際のところ、踊り場で、同じ所をくるくる回っていたようなものだ。
先日、読者の方から、文章より写真の方がよいと言われ、愕然とした。
いや、私もそう思ったのだ。(笑) だから、余計に驚いた。
自分のグチにも、そろ飽きてきた、というのもある。
ただ、私が求めていたのは、ああバイクって楽しそうだな、乗りたいなと。そう思う、根本の部分の、「共感」だったのだなと。
「ああ、バイクって楽しい。」
そしてそれが、この時代の写真で、既に如実に伝わってしまったということに、今更ながらに、驚いたのだ。
技術的には、今の何万画素のカラー写真とは比べるべくも無い、古い、銀塩の、白黒写真だ。
それでも、彼らの心情を、如実に伝えてしまう。
まるで、50年代の、古い、隠れ名車のように。
それがまるで、技術の「進化」と言われるものの空回り加減を示しているようでもあり。二重の意味で、ガックリ来たのだ。
「何だ。終わってたのか。」
そんなわけで。
当ブログの更新は、当面、休ませて頂こうかと思う。
これまでご覧いただいた読者の皆様には、長い間のご愛顧に、心からのお礼を申し上げたい。
また何かあったら、再開することもありうるかとは思うが。
このまま消滅と相成っても、ご容赦願いたい。
皆様のバイクライフの、より一層の充実を祈りつつ。
以上
真ん中の不審者はカルカーノです。
ベスパの本 Sei Giorni ― 2017/03/19 09:20
ISBN 88-87748-37-3
先週に続き、文章でなく写真でまとめる。
これまた前回と同じく、イタリア語のVespaの本だが。
今回は、レーシングベスパ、Sei Giorni を扱った本だ。
以前、他の本を取上げている時に、何回か写真のみ 引用した が。
単独で取り上げるのは今回が初めて・・・だったと思う。
(よく憶えていない…。)
当然、美しいメカの大写し写真なんかが続くんだが。
これはこれで、じっくり取上げたい気はするが。
人の画像に移ろう。
時代は、日本で言えば昭和なんですけどね。カッコイイなあ・・・
並びます。
スタートですね。
人が多いなあ。
自然体でカッコイイです。
いや、無論、走り出せば本気ですよ。
街並みがまた。
日本でも、京都あたりを走らせたら意外と似合うのかな。
うーん、やっぱり自然体。
スーパーカブでは、こうはならない。何ででしょうね。
いい表情です。
どうでしょう。
旅に出たくなりました? (笑)
同じレースの写真でも、最近のは「すっげえなあ」とは思うものの。
こんな風に、「いいなあ」と感じるものは、見なくなった。
何ででしょうね…。
※ 本書のご購入をお考えの方、上記のISBNからお調べ下さい。
先週に続き、文章でなく写真でまとめる。
これまた前回と同じく、イタリア語のVespaの本だが。
今回は、レーシングベスパ、Sei Giorni を扱った本だ。
以前、他の本を取上げている時に、何回か写真のみ 引用した が。
単独で取り上げるのは今回が初めて・・・だったと思う。
(よく憶えていない…。)
当然、美しいメカの大写し写真なんかが続くんだが。
これはこれで、じっくり取上げたい気はするが。
人の画像に移ろう。
時代は、日本で言えば昭和なんですけどね。カッコイイなあ・・・
並びます。
スタートですね。
人が多いなあ。
自然体でカッコイイです。
いや、無論、走り出せば本気ですよ。
街並みがまた。
日本でも、京都あたりを走らせたら意外と似合うのかな。
うーん、やっぱり自然体。
スーパーカブでは、こうはならない。何ででしょうね。
いい表情です。
どうでしょう。
旅に出たくなりました? (笑)
同じレースの写真でも、最近のは「すっげえなあ」とは思うものの。
こんな風に、「いいなあ」と感じるものは、見なくなった。
何ででしょうね…。
※ 本書のご購入をお考えの方、上記のISBNからお調べ下さい。
ベスパの本 CHI VESPA MANGIA LE MELE ― 2017/03/12 09:48
今日は文章を書く気がしないので。
ビジュアルに行こうと思う。
本書は、私がイタリアに初めて遊びに行った時(無論、20世紀)、現地の本屋で買ってきたベスパの本・・・のつもりだったが、いま見ると、背表紙に、今は無き銀座の洋書やさんの値札が貼ってある。記憶違いか?別の本の値札がくっついたのか・・・
・・・とにかく、イタリア語のベスパの本である。
当然、古い本で、1993年 Giorgio nada editore 刊。
まず、ベスパの始まりの話から。
先輩
立役者
設計
この辺りの細かい話は いつかした のでやめて、
やっぱり人ですね。
ベスパは、スケール感が人間によく合っている。
お子さんの表情が微妙。(笑)
ベスパは広告がキレイ。
「お買い物はいつもベスパ」
人以外もね。
海とか。(笑)
タミヤです。
メンテの話も一応。
SSTですな。これじゃ、まだタンク外せないけど。
これもお約束。8人乗っても壊れない!?
ですが、やっぱり旅。
ベスパは旅バイクでもある。
コミューターのスタディ。
今、トヨタがやってるのなんかより、よほどカッコよい。
できるならこっちに乗りたい。
もうすぐ春ですな。
のんびり近場のツーリングに行きたい。
Amazonですが。 日本には、当然ありません。
本家 Giorgio nada にもなし。(送料高いのであっても買えないけど。)
Amazonイタリアと、Amazon USAにはあったので、一応リンクを貼っておきます。
Amazon.it chi vespa mangia le mele
Amazon.com chi vespa mangia le mele
古本探してまで買うほどのもんではありませんけどね。
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