悲劇の発動機「誉」 (単行本)2022/11/22 06:25


「誉」は、太平洋戦争の当時に中島飛行機が開発した、航空機用エンジンだ。零戦の「栄」の後継機と目されていた。

本書は、「誉」の設計製造の経緯をつぶさに、かつ広範囲に見ることで、当時の日本の製造現場の本当を活写する好著だ。

著者は、もと石播のジェットエンジン技術者とのことで、技術面での造詣が深そうに思えるだが、どうも、ピストンエンジン(しかも大戦当時の古い)には明るくないようで、技術面に関しては、本書の記述はかなり希薄だ。

本書の内実は、「誉」に関わった人々を追い、インタビューをし、文献をあさり、情報を整理することで、「誉」が失敗した理由を考察するドキュメンタリーである。ドキュメンタリー、つまり、著者編纂による物語なので、本筋に沿った内容を取捨選択する作業が必ず入る。構造的に、偏りや欠落は致し方ない事情はある。

しかし、著者は元・技術者なので、あらゆる情報を網羅し、あまねく考慮するのが善だ、という基本思想でいるようだ。ただ、全ての事象をまとめるというのは並大抵の技量では無理で、結局は、矛盾やすれ違いを残したまま、「後は読者の判断に任せる」的な結論になりがちだ。本書も、話が前後したり、繰り返しが多かったりで、スッキリまとまった感じはあまりない。結構な大著でもあり、終盤は辟易してくる。

ただ、日本のモノづくりの現場で、大戦当時から続いている宿痾について考察を深める材料としては、好適な資料であることは確かだと思う。

折角なので、以下、内容をかいつまんでおく。

大戦前夜、日本の航空機の技術は、敵国からは遅れていた。
軍は、米国を始めとした技術レベルに、一気に追いつくことを熱望していた。外国製の機体を指さして「あれ以上のものを今すぐ作れ」と、メーカーにがなり続けていた。

「誉」は、その目的で、中島飛行機の技術者である中川氏が、新たに設計したエンジンだ。

テストベンチでの試作機が、当初の要求を十分に満たす数値を示したことに気をよくした軍は、即座の大量発注、つまり量産にGoをかける。

しかし、もともと設計がナイーブで、量産への配慮が足りなかったことに加え、その後の戦況の悪化による物資の不足や品質の低下が追い打ちをかけ、歩留りは上がらなかった。

不良品を乱発し、満足な供給ができなかったから、航空機の製造現場では、「誉」の納入を待つ「首なし最新鋭機」がずらりと並ぶ。そんな羽目に陥った。

本書の題名の「悲劇」とは、「誉」が歩んだ、そんな経緯を指している。
(実際は悲劇どころではなく、「亡国のエンジン」とまで言われた、とある。)

なぜそうなったか。

著者は主に、中島飛行機と、軍の体質に焦点を当てて、中島のライバルであった三菱や、米国など諸外国とも比較しながら、多面的に論じている。

中島飛行機は、今で言う一発屋だった。
(中島びいきの皆様には恐縮だが、本書には、そういうニュアンスで書かれている。)

飛躍的な技術の進歩を常に標榜していて、「従来にない新しい発想」を得るという名目で、機械系のいい大学を出た新卒の新人に、いきなり大きなプロジェクトを任せるのを常としていた。

「飛躍的な進歩」という方針は、軍にとって都合がよかったので、中島飛行機は軍の覚えもよく、会社の規模に比べて、多くの仕事を得ていたとある。組織的な関係性も、いわば「ズブズブ」で、ほぼ一心同体だった。

それは、やり手だった中島社長がビルドしたビジネススキームだったし、ライバルであった大手の三菱などに対抗する差別化戦略でもあった。そういう人が作った、そういう会社。「一発屋」とは、そういう意味だ。

ご存じの通り、当時の軍は、発注者能力に欠けていた。思い付きでとんでもない発注を乱発し、仕様変更や後出しじゃんけん、値下げや中止の命令も普通だった。中島飛行機は、その不条理にあえて沿うことで生きながらえる。そういう組織だった(と書いてあるし、妥当な評価にも思える)。

一例として、昭和12年以降に軍が手掛けた試作機のうち、実用に至ったのは「たった6%」というデータがあるそうだ。

軍内部の勢力争いなども反映しているのだろうが、設計製造の仕事の94%は無駄だった、ということになる。それは、現場へ過大な負荷がかかっていたことの証左であり、当時の軍備の品質が悪かったのは、それが一因だった。
「誉」も、その一例だ。

「誉」は、新人だった中川氏の、初めての仕事だった。

設計の手法(計算式など)は大学で習っていたし、会社には既に「栄」の設計資産があったから、それを自分なりのコンセプトでリファインしさえすれば、新しいエンジンの設計自体は可能だった。

ただ、マスプロの経験がない新参技術者ができることは、図面を引いて、試作機を作り、初期トラブルに手当てをして、チューンナップしてスペック上げる所までだ。それを「業」として立ち上げること、何千何万の数量を、安定した品質で供給し続けること=「量産」は、全く別の話だ。

新人だった中川氏に、そのノウハウがなかったことは当然だが、驚いたことに、中島飛行機という組織自体にも、その思想は欠落していた。設計に量産への配慮がないことを諫める思想(今で言う品質管理的な)自体が、大変に希薄どころか、ほとんど存在していなかった。

さらに、社内には軍の監督官が居て、日々声高にプロジェクトの推進を促していたし、それに即して「中島社長がやると言ったらやる」。そういう体質の組織だった。

そこへ、状況の悪化が拍車をかけた。

プロジェクト発足当時、軍は、ハイオクガソリンや高性能鋼材などの継続的な供給を約束していた。しかし、開戦後は当然のように反故にされ、これが「誉」にまつわる事態の悪化の主因となったと、中川氏は、かなり後になってから吐露している。

中川氏は、航空機用エンジンである「誉」の主な課題として空気抵抗の低減を据え、設計の境界条件を「外形の小ささ」に置いた。外径縮小のしわ寄せの一部はクランクピンに及び、ベアリングの容量不足につながった。

いいオイルとガソリンを使い、丁寧にセットアップすれば性能は出せた。しかし、使い方でちょっと無理をしたり、部材や燃料の質が悪かったりすると、エンジンの中心部が真っ先に焼き付く。厄介な持病を持つエンジンだった。

開戦後の燃料不足や材料の劣化なんて、今考えると当たり前のように思うし、当時、軍も工場も、それを予測も前提もしなかったことの是非は、議論があってしかるべきだろうと思う。ただ何となく、当時はそういうものだったし、時代として、そういう雰囲気だったろうことは、想像がつく。

では、主因は「時代の雰囲気」で(今もそう言いたがる人はいっぱいいる)、原因は何もなかったのか?

著者は、主たる責任は軍にあったと書いている。発注者=プロジェクトの推進者であり、事実上の監督者でもあったからだ。

中島飛行機の体質や技術レベル、中川氏の未熟さも、当然、非難を免れない。

個人的に、本書を一読して、ずいぶん昔に勤めていた、半導体製造装置を思い出した。

ライバルが3年かけて作った装置と、同じかそれ以上のものを、3か月で(下手すると3日で)で作れ→作るぞ!と(何故か)なる。

皆で徹夜して、必死に作業して、何とか形だけは整えて、条件出しは後出しで誤魔化しつつ、何とか形だけは整える。そこまで行ければいい方だ。

とはいえ、整ったのは形だけなので、化けの皮はすぐに剥がれる。当然、納入先とはトラブルになるが、言い訳をしている間に、裏で応急処置をしてさらに誤魔化す。

そんなこんなで、事態が偶発的にでも鎮静化するのを、一同、ただひたすら祈りつつ、不眠不休で手を動かし続ける。
(で、メンタルやフィジカルを壊し、ボロボロと脱落して行く。)

平成に入った頃の、現場の風景である。

この業界は、当時も結構な稼ぎ頭だったが、実態は酷いものだった。
儲かるのは会社だけ。ウハウハなのは一発当てたマネージメント層のみ。

オイシイ所だけを頂いて、後は逃げて済ますような、いい加減な奴が得をする。必然的に、上げといて落とす、後ろから刺す、といった卑怯な奴らが跋扈する。嘘つきなんて、かわいい方だ。

そういう奴らが、表面的に仕切るだけで、実質的な管理や、責任体制もなかった。現場では、特定の作業長のマウンティングに引きずられることはあれ、実質的な仕切り役は居なかったから、事態は漂流→悪化するばかり、いつまで経ってもまとまらないのが普通だった。

現場の人間は、ただの消耗品だ。神風が吹いて、事態がいい方に向くのを、ただ祈るくらいしか、できることがない。

日本はかつて、技術立国を自称していたが、内実はこんなものだった。
「誉」の実情も、これに近いものがある。

昨今でも、自動車メーカーのデータ改ざんなど、品質管理の不祥事の報道が絶えないが。現場の技術者に圧力をかけるだけで誤魔化そうとする体質は、今でも連綿と続いていることを伺わせる。

日本は、あの戦争でも変われなかった。
またこれもその一例、ということか。

最後に一つ。
「誉」の関係者のインタビューで、それを「技術的な夢」として語る例があるのが気になった。

エンジンの開発というのは、本来、試行錯誤で仕上げていく泥臭い仕事で、長い時間をかけて熟成して初めて、世に出して、人の役に立つことができる。そういうもののはずなのに、当時は、諸般の事情で、全うすることができなかった。もしもうまくやれていれば、あの素晴らしい技術を世に出せたろうに・・・といった類の「夢」である。

世間的に、今でもよく見られる、「プロジェクトX」的なこのロマンティックな技術観は、この頃の、この人達によって確立されたものなのかな、とふと思った。

エンジニアは、物に相対する業だ。
物は、感情を持たない。
だから、ロマンチストの技術者、つまり、自分の作業に感情的な愛着を持ち込む技術者というのは、ろくな物を作らない。

エンジニアは、徹頭徹尾、リアリストでなければならない。
まず何よりも、自分に冷淡であらねばならない。
私の持論である。

本書の記述が多分にメロウなのは、著者が、ロマンチックな技術者だったからなのだろう。
だから本書は、好著ではあるが、良書ではない。

世間的に、技術的な正当性のアピールとして、「あの中島飛行機の系譜に連なる優れた設計」的な美辞麗句は、今でもそれなりに見られるが。個人的に、そんなものは避けたいなあと思うようになってしまったのは、紛れもなく本書の副作用だ。


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単行本
悲劇の発動機「誉」―天才設計者中川良一の苦闘 単行本 – 2007/7/24

文庫版
文庫 悲劇の発動機「誉」 (草思社文庫) 文庫 – 2015/4/2

余談 スーパーカブの商標登録2014/07/27 16:51


当ブログの本分である「読書」とは、全く関係がない話なのだが。
ちょいと、興味本位で調べてみたので。
一応、ログっておく。

ホンダが、スーパーカブで「バイク初の立体商標を取った」そうだ。
 →ホンダのニュースリリース

取れたのがユネスコの文化遺産あたりなら、ご威光というか、霊験あらたか~かと思うんだけど。
立体商標って、何?。

いわゆる「知的財産」を、ざっくり種類分けすると、
① 特許 実用新案
  技術的なアイデアの独占権。
② 意匠、商標
  独創的な「形」が意匠、メーカーのトレードマークなんかが商標。
③ 著作権
  文章や絵画などの芸術/文芸作品の所有権。

何れも、「権利」、つまり、法的な決まりごと(架空の)なので、実物を見たり、触ったりはできない。
マネしたヤツを訴えて、引きずり降ろせる。そういう大枠としては、共通しているが、どうやったら取れるのか?訴訟で何を要求できるのか?、の辺りは、各々で異なる。

その境目、法的に「マネ」したことになるのかどうかの判断基準は、裁判所的な「お役所ジョブ」であり。「判例を読め」のような、チョーめんどくさい世界なので。割愛する。

さて。
スーパーカブの「形」が、知財になるとすれば。
まずは「意匠」ではなかろうかと思うのだが。

その通り。
ホンダは、スーパーカブの意匠登録を、とっくの昔、昭和34年に取得している。

それでもって、昭和48年にスズキを訴えて、当時の金額で7億円を超える、高額の判決を得ている。
 → 裁判所の資料サイト

当時としても、賠償金額としては破格値という位に高くて、関係者では話題になったとか、ならなかったとか?。
実際は、ホンダは支払いは求めなかった、との情報もあるが。本当かどうかは知らない。(和解を含めて、この辺の、訴訟の「終わり方」というのは、オモテに出さないのが普通なので。一般ピーポーにとっては、知る由もないのだ。)

しかし、意匠の登録期間は、当時は15年?とかそんなもんだったようで。
とっくの昔(昭和49年、1974年)に失効している。

それで?かどうかは知らないが、今回、商標の方にステージを移して、見事、登録と相成ったらしい。
 → ニッケイの記事

「商標」と言われても、ピンと来ないかも知れない。
トレードマーク、と言った方が通りがいいかな。

メーカーって、自社や製品のイメージとして、特定のマークやロゴを使うものだが。それを知財として、お国に登録するのが商標、ということらしい。

古くは、森永~とか、東芝~とか、いろいろあったと思う。
今でも、スターバックス~とか、Apple~とか、いろいろある。

要は、そのブランドを思い起こさせる(そのために繰り返し使って印象付ける)視的情報、ということなのだが。従来、日本の当局は、本当に「マーク」しか受け付けなかったらしい。しかし最近は、音楽(テレビCMで必ず流すフレーズとか)や、デザインイメージ(ウチの商品パッケージは必ず青白の縦縞、とかそんな)、さらには、立体的な「形」なんかも認められるというのが、世界的な方向感だそうで。日本も遅ればせながら、その流れに追従している、ということらしい。

「乗り物」の形を商標登録するのは、ちょっと前にフェラーリが成功しているともあり、今回のスーパーカブは、それに続いて「バイク初」ということになるようだ。

ちなみに、商標の登録期間は10年らしい。でも、何回でも延長が可能とのことで。意匠(今は期間は20年コッキリ)よりは「おいしい」ということなのかも知れない。

さて。
バイクの形を、意匠として登録することの効能(実例)は、上にざっと述べたが。「商標」として登録するというのは、どういう意味があるのか?。

商標は、ブランドを表すものなので、スーパーカブにそっくりなのを「ホンダの」カブですよ、と売ろうとするとアウト。これはわかる。

しかし、そっくりな形とは言え、ホンダではありませんよ、という売り方をされた場合には、「ブランドを損なった」ことになるのかどうか。ニッポンの裁判所の場合、どういう帰結(判決)になるのかは、良く分からない。(ケースバイケースのようにも。)

そうそう。
知財というのは、基本、全て各国の国内法だ。
だから、今回の商標登録が効力を持つのは、日本国内のみである。

つまり、どこぞのメーカーが「ホンダのカブですよ」のような嘘をついて、バイクを「日本で」売ろうとした場合だけしか、対象にならない。

メイトもバーディもなくなった(のかな?)今となっては、この権利の対称になるのは、主に「外国勢」ということになるのだろう。(外国勢排斥のために権利化した。)日本でホンダ相手にタイマン張ろうなんて度胸のある海外メーカーは、いないんじゃないかと思うけど。

どちらかというと、本番は「国外のケース」、例えば、外国のメーカーが、カブにクリソツなバイクを「自国で」売っているような場合じゃなかろうかと思う。でも、その場合は、ホンダが、その国で、意匠なり商標なりの権利を取れているかが、まず問題になるのだろう。(その前に、その国に意匠なり商標なりの法制度があるのか?、もしあったとしても、ちゃんと運用されて機能しているのか?、が問題になる。)

まあ、そんなわけで、
今回の「スーパーカブの商標登録」が、どんな意味(効力)があるのか、やっぱり、私には、ようわからんのでありました。

何でしょね、知財って。
なんか、架空の仕組みで遊んでいるだけ?のような気がしないでもないんだけど。
「電子制御」と同じで。
(最終的に、ユーザーのためになっているのか?という意味で。)


読書ログ 「クルマ 3分間小説×89篇」2013/03/16 16:47



先週、 「バイク」 という読み物を取り上げたが。
「クルマ」という題名の文庫も見つけたので。試しに読んでみた。

女性の作家さんが書く、クルマにまつわる短編小説集だ。週刊誌の連載を、文庫化したものだそうだ。
短編といっても、各話が文庫の2ページ程度なので、かなりの短かさである。

クルマの話ではなくて、クルマにまつわる人の話だ。
作家さんのカラーなのか、都会臭プンプン、かつちょっと、エッチ風味だ。

こんなクルマに乗ってるのはこんな人。
で、きっと、周りに展開されるお話は、こんな感じ。

2005年の刊行だが、まるでバブルの頃の読み物だった。
クルマが、デートの道具なんかとして、光っていた時代。

若い人には分からないかも知れないんだけど、昔々、「どのクルマを買うかで人物を演出する」のような、妙な文化があったのだよ。
今はもう、ほとんど廃れちゃったけどね。

だって、
フェラーリに乗っている人が、クルマのように艶やかかとは、全く関係がない。
86に乗る人が、最新型のスポーツタイプとは限らない。
そんなの、当たり前だ。

むしろ、持ち物で自分を演出なんて、その考え方自体が、カッコ悪い。
今や「合コンでクルマの話なんて。キモすぎよ」、と。

クルマなんて、必要十分の機能があればいい。
だから、軽自動車が売れている。
そういうご時勢だ。

「エッチ風味」の方も同じだ。
うら若き女性が、自分の恥部をあけすけに書くのがイケていた時代は、ボディコンと一緒に、とっくに終わった。
今やそんな話は、オバサンの下衆な井戸端話のように聞こえてしまう。

そう思って、見回してみれば、

日本は既に、プリウスに乗る自称ミドルアッパーなんかが渋滞している、押しなべて、妙に当たり障りの無い国になったようにも思える。

豊かなはず、なんだがなあ・・・。


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クルマ―3分間小説×89篇 (中公文庫)

クルマの本 「福野礼一郎スーパーカーファイル〈2〉」2013/03/16 07:34



先週の本で思い出した。

この人も、鋭いクルマ評を書く人で、私も以前はよく読んだ。

広告とか提灯持ちとか、ありがちなポジショントークからは別の視点で、結構あけすけに、いろいろなことを書いていた。
何となく、突っ込み隊長的なポジショニングで、その時代時代の裏事情を、わが身を呈してよく知っていた。それが、話のリアルさを裏打ちしているのが、当時は新鮮で、面白かったのだ。

でも、だんだん本心を語らなくなってきて、何となく、奥歯にモノ的な話し方も増えた。
そのうちに、何だか仲間内に閉じた感じになって。つまらなくなってきたな~と思ったら、まともな本が減っていった。雑誌の連載の過去ログ集、しかも対談の会話調を活字にしただけの、内容が薄い本が増えた。最近は、妙に物フェチに寄った少数が残るだけだ。途中で挫折した企画も多い。

何となくだが、自分の興味や好きなことを情熱的に語るスタイルと、ジャーナリストとして言うべきことの乖離が、埋められなくなったようにも見えていた。

業界内のポジションというか立ち位置が、そういうものになってしまったのか。
端的に、こういう記事では食えない、ということか。
雇われ教祖の役に、飽きたのか。
・・・歳、取っただけ?。

今回の本は、図書館を探して、この著者の、新しめの本を探して借りた。
2008年の本で、さして新しくは無いのだが。

読んでみて、驚いた。

見覚えがあった。
一度、読んでいる。
でも、忘れていた。 (印象が薄い)

前半は、今のGT-R(R35)のアセンプリ工程を紹介した記事だ。
一生懸命ホメているのだが。どうにも、提灯持ちな臭いがする。

製造工程を追って、その造りの良さをしきりに誉めているのだが。メーカーは、その必要があるから、やっているだけだろう。(でなければ、同じクオリティを作りこまない、それ以外の市販車全てを糾弾すべき、となってしまう。)

本書で直接見たのかは忘れたが、著者は、このR35 GTRを評して、
「これはゼロ戦ですよ」
と言ったと、どこかで読んだ。

この所、ずっと不景気だし、日の丸印の豪奢なGTRに気持ちが沸くのも、わからんではないのだが。

日本人の魂は、あんなにデブで巨大な、電子制御の塊になった、ということだろうか。

(ISBN 88-85386-52-0)

ふん。
案外、そうかもしれない。


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福野礼一郎スーパーカーファイル〈2〉

初めに2011/04/02 11:58



読者の便宜のためにAmazonへのリンクを貼っておきますが、積極的に購入を勧めるものではありませんので。一応。

なお、洋書の場合、為替レートの状況によっては、紀伊国屋あたりから英ポンド建てで買った方が安かったりすることもあるようです。参考にして下さい。