◆ (新書) 楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」 ― 2023/12/31 06:47
「人が音をどう捉えているのか」を主に記述し、「それに楽器がどう配慮しているか」を知識ベースで、その下層に配置する。そういう構成の本だ。
基本、人が耳で感じているものの正体、例えば、倍音とは何か、音色は倍音の組み合わせで造られる、といったお話だ。
楽器は、それを実現するための道具だから、それに配慮された構造を持つ。本書の題名からして、その詳細を期待してしまうが、そちらは補助的に語られるに留まる。世界中のありとあらゆるタイプの楽器を同列に扱うので、ここの記述が限定的になるのは仕方ない。
なので、本書を理解したとしても、よい楽器が作れるようになるわけではない。
ただ、知識ベースでは知っておいて損はないし、プロレベルなら必須の知識だ。
ルシアーやビルダーのみならず、音楽家と、音楽愛好家にとって、広く読まれるべき本だろう。
基本的な科学的な知識を、広く浅くお安く提供してくれるという意味で、本書は、由緒正しいブルーバックスだ。
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楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」 (ブルーバックス) 新書 – 2022/4/14
基本、人が耳で感じているものの正体、例えば、倍音とは何か、音色は倍音の組み合わせで造られる、といったお話だ。
楽器は、それを実現するための道具だから、それに配慮された構造を持つ。本書の題名からして、その詳細を期待してしまうが、そちらは補助的に語られるに留まる。世界中のありとあらゆるタイプの楽器を同列に扱うので、ここの記述が限定的になるのは仕方ない。
なので、本書を理解したとしても、よい楽器が作れるようになるわけではない。
ただ、知識ベースでは知っておいて損はないし、プロレベルなら必須の知識だ。
ルシアーやビルダーのみならず、音楽家と、音楽愛好家にとって、広く読まれるべき本だろう。
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読書ログ ピアニストは語る ― 2016/10/15 07:01
本屋の店頭で見かけて。ふと読んでみた。
著者とされているのは、ピアニストであり、文筆家でもあるアーティストで、彼をインタビューした様子を、活字に起こした本である。
この著者の著作は、以前に一回、取り上げている。
「ピアニストのノート」 2013/10/13
本書の内容だが、彼の生い立ちや、音楽性に関するもので構成されていて、上の本と同様、心理の内面に落ち込むような重いものではあるのだが、今回のは口述文で密度が薄い分、ずいぶんとラクに読めた気がする。
その特殊な音楽性故か、最近、通好みとして(?)日本では人気が上がったようなこの著者なのだが、ここ数年、日本でのライブ公演やCDの発売などが相次いでいる。そういったニーズに応える意図なのか、本書は、上記の本の続編として、この音楽家に、その音楽性の形成に寄与したと思しき要因を掘り下げて語ってもらうという作りになっている。
まず、自身の生い立ち、つまり、旧ソ連で生まれ、ピアノを学び、コンテストに勝ち、亡命するまでの成り行きを。次に、音楽性そのものについて、彼が考えていること、求めてきたことを語らせている。(後述するが、これが、最近発売になったCDのプロモーションになっているのが、本書のもう一つのミソである。)
旧・共産圏には、既に伝説級のラフマニノフを始め、著名なピアニストは数多い。きっとかの国には、その秘訣のようなものがあって、その片鱗が彼の言葉から察せられるかも?と期待する向きもありそうだが、その望みはしかし、あまり満たされそうにない。
どうも、かの国独特の厳しさが、彼らの音楽性を鍛えるのに貢献したらしいとは思われるものの、旧ソ連の厳しさは、我々が普段聞き及んでいることと、多少は違うだけで、粗方は変らない。さらに、彼が実際に渡ってみて初めてわかった西側の実像が、彼が東側にいた頃に想像していた「理想化された姿」とは全く違っていて、東側とは異なる種類の艱難辛苦が待ち受ける、「苦労は違うが、苦しいことは同じ」世界だった、という下りなどは、ちと苦笑ものでナンである。ああ、やっぱそうですよね、と。(笑)
そうやって、あらゆる困難の波状攻撃に、負けずに立ち向かってきた彼の努力(苦労か)が、彼が芸術性の基盤として強調する「自分が自分であること」の確立に役立ったことは、確かなのだろうとは思われた。
次のお題の、音楽性の方だが、これは、相変わらず、観念的で難しい。そもそも、音楽とは何であるのか、その捉え方からして、私のような一般民間人とは全く異なる。
この著者は、元々からして、その辺の底の浅い芸術家のように、耽溺して流される類の人ではない。埋没し、深く沈みこむことで、普通なら到達できない類の、深みに至るタイプだ。
その彼が語る音楽は、我々の表層的な理解とは違っていて、どうやら、「本物」らしい。
「それを知りたい」と欲する一般人の劣情に、彼は、真摯に答えようとする。
音楽とは、調和と時間を操ることで伝える、感覚そのものだ。表現や技巧、感情や精神とも異なる。最近やっと、ハーモニー、つまり、多くの要素が一体になって全体を作り出すことを、捉えられるようになったと感じている。それは、正確に、静寂と共に、平穏に伝えられる。そう思う境地に、最近、至った、と。
音楽は、作るものではなく、既にあるものだ。クラッシクの古典は、作曲家が、自分を通して感じえた音楽を、全身全霊でもって、しかし、そのほんの一部だけを記しえたものに過ぎず(楽譜という手法の限界、音楽の全てを伝達できない)、音楽家は、かつての作曲家が生涯を賭して描き続けた音楽のありのままを、感性と想像力を総動員して現すべく、その瞬間を待つ。(その瞬間は待てば来る、と言っている。)
何となくだが、クラシック音楽というのは、「古典文学を、当時の感覚で読む」に近い作業なのかも知れない。もしそうなら、精神性が近代化に毒されずに保たれている方がいいわけで、その意味で、旧東側の方が有利、とは言えるのかもしれない。(音楽以外の所までひっくるめて、変らないのがいいことなのかどうかは、これまた微妙なのだろうけど。)
無論、それを可能にしているのは、彼が重ね続けてきた不断の努力と思索の故だし、その積み重ねの厚さが、彼に、自信と予感をもたらしているのだろう。
「本物の音楽はすぐそこにある。仕事に出かける農夫の鼻歌は、本物の音楽だ」といったことを、どこかの著名な識者が言っていたと、読んだ気がするが。著者の説明は、どこか、それとも通じるように思われる。
音の間(あいだ)の間(ま)も含めて音楽と捉える所など、何となく、和の精神とも通じるものがあるようだが。確かに、彼が奏でる、ゆっくりした(やたら遅い)ピアノの調べは、お小唄や琴など、日本の古い音楽とも相通じるようにも感じられる。ひょっとすると、既に潰えてしまった田植え歌やごぜ歌などは、日本固有の、本物の音楽だったのかもしれない。
本書に戻る。
その終章近くは、音楽家が最近達するに至ったという境地と、その演奏や録音の説明に費やされている。私はかつて誰それに師事し、こんな録音(レコード)から学んできた、そのことで、今のように弾けるようになったし、上に述べた境地に至ることができたのです。その集大成は、先ごろ発売になったこの録音ですね。ええ、そうです・・・。
全く、要はCDの宣伝で、最後は音楽愛好家の劣情をそそるポルノになってしまうというのは、ちょっと残念なコーダではあった。
彼のピアノを愛する人が増えたというのは、良いことなのだと思うのだが。彼を知りたいと願う愛好家に、この本が応えられるのかは、私にはわからない。
いや、個人的には、メジャー化したおかげでCDの値段が跳ね上がったことの方が痛いのだが・・・。(昔は、妙に安い輸入CDがたくさん出ていて助かった。最近は、国産正規品の値段、つまり3倍近くになってしまった。その差が、彼の実入りにダイレクトに反映されているわけではないのだろうし。)
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ピアニストは語る
ちなみに、本書で売らんかなリストに挙がってるCDはこの辺り。
トルコ行進曲(初回生産限定盤)
トルコ行進曲
ベートーヴェン:悲愴・月光・熱情(初回生産限定盤)(DVD付)
ベートーヴェン:悲愴・月光・熱情 SACD
東京ライヴ2014 ベートーヴェン&シューベルト
私が好きでよく聞いていたCDは、この辺り。安いでしょ?
ブラームス:後期ピアノ作品集
ブラームス-後期ピアノ作品集2
オマージュ&エクスタシー
読書ログ 音楽の進化史 ― 2015/01/25 07:11
カラバッジオの絵表紙に、この題名。
少し期待したんだが。大した本ではなかった。
ほぼ、西洋音楽の「モデルヒストリー」だ。
こんな曲が出て、こんなスペックで、こんな評判で。
次に、こんなのが出て、以下同文。
それらのつながりは、大体こんな。(←著者の思いつき、もとい研究成果)
真新しいことはほとんど無くて、どちらかというとサマリーに近い。でも文章量は多い(活字が小さく密度も高く、500ページに及ばんとする大著)から、一字一句を追うような読み方は似合わない。
読み物としてフフンと読んで、ちょっとレアな知識を仕入れて満足。
そんな本。
以下、私の見解を(たくさん)交えつつ、簡単に骨だけ記録して終りにする。
音楽とは、基本、一過性のものだ。
聞こえている最中だけ。鳴り終れば消えてしまう。
「今」だけのもの。
題名のように、音楽が「進化」するものなのかは知らない。
せいぜい、「進歩」するだけだとは思うのだが。
(ちなみに、原題は Story of Music 、ただの「音楽の物語」。)
でも、歴史のお話なので。
通例として、古い方から始まる。
最も古い手がかりは、数万年前の壁画にある楽器と思しき絵や、遺跡から出土した笛のような加工が施されている骨なんかだ。しかし、その当時、どんな音楽が奏でられていたのかは、知る由もない。ただ、ずいぶん昔から、人間は音楽を嗜んでいた「らしい」ことがわかるだけだ。
そんな古い洞窟の、音響効果を解析したところ、演奏場所とされる位置は、最も音響効果がよい場所だということがわかった。これは、暗くて長い洞窟内で、自分がどこにいるかの位置特定に役立っていたのではないか、といった「最新の研究成果」の話も紹介されている。(他方、位置特定のために出す音が、音楽と言えるのか?についての考察は、全くされていないが。)
音楽を「記録」する手段がなかったから、その伝承は、もっぱら「記憶」によっていた。たぶん、凝り性というのは当時もいて、新しい曲を作るような試みもされていたと思われるが、その発表は、「他人に教える→さらに拡散」のクチコミしか手段が無かったろう。その過程で、変質してしまうこともありうるし、曲が拡散するエリアというのは、限られていただろう。
なにせ「記憶」しか手段がないから、長い間残る音楽というのは、「憶えろ」と強制する、何らかの力を後ろ盾にしていることが多い。その代表格が宗教で、例えば、ユダヤ教の何とか言う聖歌は、紀元前何年頃から変わらずに(変えることを許されずに)伝わっている(という記録が残っている)、といった例がまず出てくる。そこから、当時の音楽はどんな構造をしていたか、和音の数は乏しかったが、神の権威を象徴する正しい和音はコレだと思われていたとか、そんなことが分かると。
ハードの側面もある。楽器のことだ。教会にはパイプオルガン(技術的には「笛のバケモノ」)は古くからあったが、歴史的に、イスラムとの侵略⇔奪還の繰り返しで、技術や文化のやり取りがあった副産物で、新しい楽器、特に弦楽器が伝わったりしたと。出せる音のバリエーションが増えたから、音楽の造りにも影響してくる。
この辺りまでの音楽の「進歩」は、すごく、ゆったりしたものだった・・
・・・のでスっ飛ばしましてですね。
初めのブレークスルーは、ルネッサンスと共にやって来た。
楽譜の発明と、印刷の普及が、ほぼ必然的に、重なった。
譜面という、音以外の手段でも伝えることが可能になった結果、音楽は、「記憶で伝える、その場限りのパフォーマンス」から脱却した。
音楽が、教会(宗教)や宴会(フォークロア)といった、従来のフィールドを越え始める。
需要が増えれば、供給も増える。
宮廷音楽家から庶民向けの演劇まで、作曲家のイスも増えたし、和音やリズムの研究開発も進んだ。
音楽は、初めの開花の時期を迎えた。
とはいえ、何せあの頃の宗教は政治と表裏一体だから、宗教改革なんかの時代の行きつ戻りつは、音楽の方にも影響する。(正しい和音を使わなかった異端の罪で処刑、みたいな。)その裏で、新しい曲「こんなのどう?」→「その手があったか!」もっと新しい曲、のような切った張ったがあったことは、楽譜を解析すれば今でもわかる。(ついでに、現代の我々が音楽に使っているピースのほとんどが、この時代に出尽くしていた、ということも。)
その後も、人が大陸に拡散するのに伴って、音楽も一緒に流出する。さらに、世界中から奴隷たちが連れて来られていたから、彼らが持ち寄ったピースが、その辛く悲しく、苦しくて鬱屈した感情の表現方法として重なり合い、交じり合う。(フォークロアが変化する。)
他方、音楽家の方も、従来のタブーやマナー、ルールなんかにも挑戦していて、汚い和音や、目茶苦茶なテンポ、その時限りの即興なんかも取り入れられる。それが許される時代のひだがあったし、音楽が変われる余地としても、もうその辺りしか残っていなかった、と言えるかも知れない。
その次のブレークスルーは、「放送」と「録音」がもたらした。
ラジオにより、音楽は、演奏の場に行かないと聴けないものではなくなった・・・どころか、なんと、「ほとんどタダ」になった。さらに、レコードの普及で、音楽は、やる方、聴く方の双方にとって、「その場限りの一発勝負」から、何度でも気軽に繰り返す代物に変わった。
音楽は、かつてのように、舞台に出向いて聴いたものの全体感を、経験として語るものではなくなって、繰り返して聞かれては、より細部を云々される傾向が強まった。結果、クラシックの音楽家は、原曲の再現という一種の原理主義を経た後に、古い楽譜を繰り返し引っ張り出しては、その微妙な解釈で勝負するという、小さなフィールドに活躍の場を限られるようになった(この本の著者も、このフィールドに居る)。当時の原曲を直接は聞けない以上、古の作曲家の意図など、確かめようもないにかかわらず、だ。
他方、クラシック以外の音楽は、より庶民的な側に寄る傾向を強めて行って、ジャズやタンゴなんかの土着風味がブレークした後、その決定版(?)として、あの圧倒的だったビートルズを経て「ロケンロール」が底辺として定着した。
そして今、ギターとドラムなんかの数人のバンドスタイルで、3分くらいの曲を演るという「商業音楽としてのポップス」に収斂するに至った。
音楽は、百花繚乱でございます・・・。
とまあ、早口で言うと、こんな感じだろう。
今、我々が聞いている「音楽」(商業音楽だが)のスタイルができたのは、ほんの、ここ数十年のことだ。
時系列に見ると、今の音楽は、連綿たる進歩の過程で発見されたピースの再発見と集大成だ、つまり「由緒正しい」と、この著者は言いたかったようにも見えるのだが。音楽の血統に何か意味があるのか、私にはわからない。
朝、仕事に出る農夫の鼻歌は、紛れもない音楽だ。
でも、カラヤンの録音は音楽ではない。
どこかで読んだ、偉い音楽家のセリフなのだが、これが示唆するものが、引っかかり続けている。(私もどこかで、そう思っている。)
「いい音楽」は、物理的な尺度として、一律に決まるものではない。
実際、ただ、アナタがその時にそう思った、というだけのものなのだ。
法則とか原理的なものでは全く無い。
多分、私たちが「いい音楽だ」と思っているものの正体は、「これがいい音楽なんですよ」という評価と共に他人から提供されたものを、丸呑みした結果、またはその重ね合わせだ。
過去にウケたもの、のようなもの。
その、いいとこ取り。順列組合せ。亜種。
作り手の「個性」なんて、その狭いフィールドの中で使われる、「さして致命的ではない武器アイテム」のようなものだ。(ひとつがヘタっても次があると。そういうふうにできている。業界が。)
そこへ来てだ。
最も進化したパッケージであるiPod、「いつでも気軽に再生できる電子プレーヤーの何千曲」というのは、どんな価値を加えたというのか。
ほんの100年も遡れば、音楽は、もっと現実的だった。
街角で三味線の音が聞こえたら、それは、誰かが三味線を弾いている、紛れもない証だった。
今は違う。
無意味な音が、その辺に溢れていて、我々は普段、そのほとんどを、ろくすっぽ聞いていない。
あの、朝の鼻歌にはあったはずの、現実としての感情、「本当の音楽」とは。
音楽の、魂とは。
もともとなかったのか、忘れたことも忘れたのか、その区別すら、もう、おぼつかない。
個人的な観測だが、それと同じことが今、写真にも起っているし、次はたぶん、自動車辺りでも起こるんだろう。(バイクはもうダメかも知れない。)
もう一つ。
ハード技術のこともある。
ギターを例に話す。
楽器としてのギター類は、大昔、琵琶やリュートでシンプルに音を刻んでいた、あの優雅な時代から、いろんなものと戦ってきた。
ギター類は、その動作原理を、弦の自由運動に依っている。自由振動はエネルギーが小さいから、音量も小さい。音量を増やすには、重い弦を強く張ればいい。(何なら2本張ってもいい。マンドリン。) だが、それに耐える「弦の製造技術」はもとより、楽器の方にも問題が出て来る。弦をたくさん強く張れば、ネックやボディは反りかねないので、楽器自体を強く作らねばいけない。しかし、強く作った楽器というのは、おしなべて鳴りが悪い。結局、思ったほどはよく鳴らない、というパラドックスに陥ってしまう。
音質にも、問題がある。ギター類は、原理的に、音が減衰してしまう。こればかりは、どうしようもない。だから、長々と続く音がメロディをつむぐ曲(G線アリアのような)は、弦を擦る方の弦楽器(バイオリン、強制振動だからエネルギー:音量もでかい)か、リード類(ラッパやハーモニカなんか)に任さざるを得ない。ギターは後ろで伴奏係だ。
一旦、脱却しかけたこともあったのだ。
ギターの長所は、たくさん(ても6コだが)の音が、同時に出せることだ。(対して、擦弦楽器やリード類は、和音が苦手だ。)だから、短い音でメロディーを刻みながら、伴奏もいっぺんに自分でやる。(クラシックギター)
独りでやるんだから、大変な仕事だ。
やれることは限られるのに、えらい練習量が要る。
そして、事前に作ったものを、時間をかけて練習し、本番でそれを披露する。そういう仕事のスタイルになる。
そこに、あの「鼻歌的な真の音楽」はありや?。
ギターが次にブレークしたのは、エレキだった。
緩く張った弦は、しばらく震えている。
ギターの天敵、あの「減衰」が少ないのだ。
音量はさっぱり出ないんだが、そこは電気的に増幅しちまえばいい。
これは、技術的には、本格的な脱却だった。
エレキは、長い間、ギターをつないでいたくび木から開放した。
ギターが始めて、ステージの一番前でメロディーを奏でられるチャンスがやってきたのだ。
一部の人々はそれを正確に見抜いて、何人かは実際にトライした。
でも、伝説で終わってしまった。
(伝説というのは、跡継ぎが居ないやつのことらしい。)
後は、文句ばっかりだ。
「バックバンドぐらいつけてくれよ。やってらんねえよ。」
以下同文。
ギターを弾くこと。音楽をやること。
その間で、ギターという道具が提供していた(するはずだった)価値とは。
そこで奏でられる音楽が、つむぐ(はずだった)価値とは。
いや、
そもそも、その「価値」とは。
「価値って何?」
また、いつもの問いに戻ってしまうのだ。
・・・ふん。
今や、どんなに難解な曲とて、初音さんが、息継ぎもせず、いとも簡単に歌ってくれるご時勢だ。
私の問いなど、もう価値はないのだろう。
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音楽の進化史
読書ログ 「ピアノと日本人」 ― 2014/04/19 06:08
図書館で見かけて、ふと借りてみた。
調律師さんが書いた、ピアノの本である。
題名のように、日本人とピアノのかかわりについて書いているのだが、著者が長い間、ピアノと、ピアノを弾く人に接してきた経験から、その「いけないところ」を、あれこれと書いている。
題名にある「歩き方」云々もその一つで、日本人は外国人に比べて歩き方が醜い、だからテンポが悪くて、それが演奏にも出てしまう、とか。その他にも、日本人の音感が~とか、教育が~とか、文句だか薀蓄のようなことが、いろいろと書いてある。
うーん。
どうですかねえ。
西洋のマネが悪いといっているのか、マネが足りないと言っているのか、よくわからない。
これが、一般に知られていない本質をズバリ突いた革新的な論なのか、ただの年取ったオジサマの素っ頓狂な飲み屋のグチなのか、私には区別が付かなかった。
ただ、これを読んだからとて、日本人が劇的にピアノを楽しめるようになるとは思えない。
かつて、日本人がピアノに対して抱いていた、憧れだかステータスだかはすっかり廃れて、決して出来の悪くないピアノという道具が、その能力を十分に生かす場を与えられないまま、うち捨てられ続けている。その現実に「納得が行かない」、そこは共感する。
また、それは、日本人がピアノという楽器の楽しみ方を知らないからだ、というのも、その通りだと思う。
個人的には、ピアノを楽しんで弾く「弾き方」というのもあるのだろうと思うのだが、それを日本人に求めるのは、次の二つの点で、無理なんじゃないかと思っている。
まず、我々の「音楽」自体が、廃れてしまっているということ。
そして、ピアノという楽器が、本来的に持つ「難しさ」。
そも、我々日本人は、音楽を失って久しい。
ここで言う「音楽」とは、文化として根付いた音楽、我々にしかない音楽のことだ。
それを聞けば、ああ日本の歌だ、と世界中の人がわかるような、そういう音楽。集まったとき、嬉しいときや悲しいとき、酔ったときなんかに、誰ともなく、自然に弾かれ、歌われる「うた」。
きっと、日本にも昔はあったのだろうと思うのだけれど、現代の我々は、それを、とうの昔に忘れ去った。
今、音楽といえば、大体は時間にして3分半くらいの、商業音楽だけだ。
我々は、音楽を、ただ消費するだけで、大切にしてこなかった。
だから、残っていない。
残っていないから、楽器を渡されて、何か楽しいのを弾いてごらん?などと問われても、何も浮かんでこないのだ。
そんななので、やるとしても「ただ、お手本をなぞるだけ」になる。
譜面とか画面とか、そんなものを、なぞるだけの、音楽。
飽きるんだわ。これが。
楽器の、能力やポテンシャルとは、別の話だ。
ピアノが優れた楽器だとか、日本のピアノは優れているとか、
まだ使えるのにとか。
そういうのとは、別の話。
歩く姿とも。(笑)
次に、ピアノの「難しさ」の方だが。
音と人間のインターフェースとしては、やたらシンプルな造りのくせに、楽器としての構造は複雑で大柄という、妙に極端な楽器だと思う。
音の高低の順に鍵盤を並べただけの、シンプルな造り。
(ラッパだってギターだって、入力インタフェースは、こんなに単純ではない。)
指一本の一押し(シングルアクション)で、正確に音が出る。
(指を抑えてから「吹く」とか「はじく」とか、2つ以上のアクションを要求する楽器が多い。)
10個まで音が同時に出せる。
(バイオリンやラッパ類など、基本、音が一つしか出せないものも多いし、和音が可能でも、10コ重ねられるのは珍しい。)
音域も広い。
(何オクターブあるんだっけな・・・。)
悪い方もある。
音が、勝手に減衰して、なくなってしまう。
(ピアノ線の自由振動による弦楽器である由。バイオリンやラッパ類は、演奏法にもよるが、ずっと音を出し続けることが可能だ。)
クレッシェンドなんか、死んでも出来ない。
だから、メロディーを朗々と歌い上げるような曲には向かない。
(G線上のアリアとか。弾けなくはないが、メロディー無しの伴奏だけの時間が長くて、いまいち間が抜けてしまう。)
だから、聞かせる演奏をしようとすると、たくさんの音を重ねて絡めて、メロディーと伴奏をいっぺんに弾くことで、勝負せざるをえない。
必然的に、譜面には、えらい数のおたまじゃくしが、のたくることになる。
縦にたくさん重なったりも。(和音)
そんなわけで、上手く弾くには、えらく難しい楽器なのだ。
(バイオリンのように、メロディー一本の「感情」で勝負する世界というのも、また別の意味で厳しいのだが。)
別に、メロディーだけをシンプルに弾いたって、OKなのだが。
何となく、寂しい演奏になってしまう。
「それでもいい。これを弾きたい。」
そう言うメロディーを、我々は持っていない。
弾きたい、と思う曲があれば、みんな、勝手に弾くようになるし、それは、受け継がれて行くはず、でもあるのだが。
そういうわけで、「ステータス」としての二次的な意味合いさえ失った日本のピアノは、どんどん弾かれなくなっている。
どうだろうか。
音楽的な素養が全く無い、凡人の意見なのだが。
一応、私もギターは弾く。
作曲はおろか、耳コピーすらままならない、「凡中の凡」だが。
ただ、昔ながらに、譜面をなぞるだけの演奏でもいいかな、とこの所、諦めがついて。
それ以来、中学の時に買った、古びて表板が割れたギターは、また少し、よく鳴っているような気がしている。
そんな風に「許して」もらって、楽しげに鳴るピアノが、日本でも増えたらいいな、と。
私も、少しだけだが、願っている。
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ピアノと日本人 歩き方ひとつで日本人の弾き方が劇的に変わる!!
読書ログ 「こんとらばすのとらの巻」 ― 2014/04/05 06:59
一身上の理由で、コンバスの本を探していて。
図書館で、題名借りした。
でも、コントラバスの話ではなかった。
コントラバス奏者による「悪魔の辞典」だ。
あいうえお順に、適当なトピックについて、解説のような、冗句のようなものを並べている。
そういう造りなので、パラッとめくったそのページから、適宜、読んでしまえる。
多少の暴露を含む、ブラックジョークだ。
コンバス奏者ならではの、楽屋裏のカミングアウトを少々含んでいるのが「味」か。
著者は、愉快な人のようだ。
文章も面白い。
借りた時は「ありゃ?違った・・・」だったのだが。
一通り、読んでしまった。
しかし、コンバスは、マイナーだ。
ためしに、Amazonで「コントラバス ミュージック」で引いてみよう。
コンバスのCDなんて、ほとんど無い・・・あれ、結構あるな。(笑)
何故か、オーケストラの弦楽器は、待遇が「一個おき」だ。
バイオリンとチェロは、ハレの楽器だ。
ソロもあって、見てくれがいい。
行けてる譜面も結構あるし、教則本なんかもたくさんある。
恵まれた子なんである。
うちの子はバイオリンやってますの → 上品、金持ちそう
私、チェロを嗜んでいまして → ハイソ、セレブ、ステータス
ビオラとコンバスは、影の楽器だ。
誉めて言っても「支え役」、ぶっちゃけ「地味」だ。
譜面もないから、ソロで何かやろうったって厳しいし、教則本も、ほとんどない。
不遇の楽器である。
うちの子は、ビオラですの → 何でしたっけそれ
オレ、コンバス弾くんです → ・・・それで?
しかも、コンバスはでかい。
でか過ぎる。
持ち運びはもちろん、気軽に部屋に置いておくこともはばかられる。
弦を押さえる位置も高いから、弾く時だって、立ったまま弾くのだ。
言っておくが、ジャズで使う、指ではじいて弾くウッドベースとは違うのだよ。
などと、明後日を向いて偉ぶってみても始まらない。
あの、ゴーと響き渡る低音は(特に私のような年かさのオッサンには)魅力で、やってみたいなあ、とは思うのだが。
そういった苦労や労力、まとわり付いてくる矛盾や不遇などを、ウイットと虚勢でもって、楽しくやり過ごす。
そういう体力と能力がないと、できない楽器なのだろうなあ。
と、本書を読んで、そう思った。
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2004年刊 定価\1700
こんとらばすのとらの巻―音楽とコントラバスを愛する人のための事典
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