気ままに、デジタルモノクロ写真入門(単行本) ― 2022/06/26 03:48
白黒写真が好きである。
虚飾を廃した、エッセンス、本質、qualityだけを端的に抜き出す、その潔さがどうにも魅力だ。
凡そ、物事には、二つのタイプがある。
「シンプルで、本質的だが、たおやかで、手がかかるもの」
「気軽で、便利だが、複雑で、使い捨ての消耗品」
実際に手にできる「モノ」も、
思想や芸術、経験のような「コト」も、
世にある物事は、この二つの間にある。
本当は、「シンプルで本質的で、それ故に盤石なもの」が理想だし、それこそが真実だと、思い込んでいるものなのだが。
そうは行かない。
理想は、我々の創造物であって、実在しない。
だから、いくら追い求めても、まみえることは決してない。
人間という動物の限界でもある。
人は、自分が何を考えているかをわきまえないと(哲学とも云う所作だ)、自分が何と相まみえているのか、分からなくなる。
白黒写真は、自分が見ているものから、何を見て取っているのかを、端的に写し返す。
その思考のキャッチボールが、時に、とても心地よく感じる。
そんな次第なので。
自分が何を見ているのかを端的に写し返す、優れた白黒写真を撮るというのは、ひどく難しい。
その技術は、かつて我々が昭和と呼んでいた頃に、職人的な技術として発達した。いわゆる「銀板」、フィルムの時代だ。
それは、シンプルで本質的だったが、たおやかで、手がかかった。
その後、カメラは、半ば強制的に、デジタル化された。
他のものと同様、簡単、便利になるかと思いきや、そうは行かなかった。
裏で進むのは、複雑なセンサーで大量に取り込んだデータをプロセッサで処理してやっと画像を得られるという、めちゃくちゃ入り組んだ工程だ。
ただ、機械が勝手にやってくれるから、手はかからない。
逆に、手をかけて工夫する余地も、小さくなった。
一般に、デジタルを担う半導体回路は、修理が効かない。
基板ごと、Assy交換するしか手がない。
だから、LSIがディスコンになった時点で、製品のライフは尽きてしまう。
いわば、初めから、使い捨てを想定した代物だ。
それに、普通のデジカメは、そもそもがカラーを撮るための機械だ。白黒を撮るには、一旦カラーで撮ったものを、白黒に逆変換するという「行って来い」の工程となる。それは無駄だし、何よりも、そこで発生する断絶が、結果に偽りを含む契機にもなる。
シンプルさを信条としていたはずなのに。
この体たらくは何だろうか。
(光学的なウエットな思想と、デジタルのドライな思想の、相性が悪いのだが。)
しかし、せっかくの技術の進歩だ。
何とかして、デジカメで白黒写真を楽しみたいし、楽しめるはずだ。
その根本的な方法論は如何。
ずっと、思っていた。
本書は、そういった動機で、参考にできるかと思い、手に取ったのだが。
まあ、予想通り、全く違った。
内容は、基本的な用語の説明から始まって、フィルムとデジタルの双方の技術的な概観と、著者の白黒写真に対する思いと、そのノウハウの一端をご開陳したものだ。
この本にしかない情報というのは皆無で、写真が好きで少しかじった人ならば、ほとんど新鮮味はないだろう。
著者は、元は銀塩の専門家で、そちら方面の著書も多数ある。写真に対する考え方とか、実際の撮り方、何を撮ってきたかなど、既に書き尽くした人でもある。
本書は2019年の出版だが、その時、著者は75歳。お話の重心が、フィルムの方に偏るのは仕方ないし、そもそも「そろデジタルも書いておこうかね」といったノリなので、お話に要領を得ないのも仕方がないだろう。
フィルム時代を知らない若い人には新鮮だったりするのかもしれないし、そんな感じで読み飛ばされるべき本だろう。
なぜか今、世間では、若い人を中心に、フィルムカメラが流行らしい。
古くさい中古カメラが、高値で良く売れているそうだ。
片や、フィルムの値段は、下手をするとかつての10倍という勢いで値上がっている。
フィルムの現像・プリントを扱う店(昔はDPEとかラボとか言った)も、もうとっくに淘汰されていて、巷にはほとんど存在しない。あったとしても、やはり値段は爆上がだ。
一枚当たりのコストを考えると、昔の感覚に馴染んでしまった古参としては、気軽にシャッターを押す気分には全くなれない。
逆に、手持ちのフィルムカメラを処分する最後のチャンスでもあるわけだが、後戻りはできないし、変な愛着もあるしで、なかなか踏ん切りがつかない。
結果、古いカメラを携えたまま、ルビコンの上の思案橋をうろつき続けるという、体たらくを演じている。(老人の所作、そのものだ。)
きっと私は、ここで終わるのだろう。
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気ままに、デジタルモノクロ写真入門 単行本(ソフトカバー) – 2019/5/16
写真論――距離・他者・歴史 (中公選書 123) ― 2022/02/12 11:05
写真の発明から現在まで200年。その歴史を50年ごとに区切り、「距離感」に注目しながら総括する。そういう意図で書いた本だと、序章にある。
ただ、読んだ限り、その構成は、あまり重要ではないようだ。
もっぱら、写真の時系列のトピックや、著名な写真名の活動のうちで、著者が特に感じている事柄について、つらつらと書いている。世間で一般的かつ正式な写真史(←そんなものがあるのかは存じないが)ではなくて、著者の個人的な印象論に見えた。
まあそれだけに、新しい発見、「あの有名な写真家はそんなだったのか」や、「そんな写真家が居て、そんな影響があったのか」といった、学びにはなる。
ただ、その普遍性、仮にあなたが同じ写真集なり写真論を見たとして、同じように感じるかや、当時の人々が感じていたのかといった辺りは、事が印象論だけに、定かではない。いち読者として、ああ、そういう見方もあるかもなあと、やはり印象として、思うだけだ。
つい先月に出たばかりの新しい本だ。
私は、図書館の新刊コーナーでたまたま見つけて、手に取った。
著者が、このタイミングでこの本を著したのは、コロナ禍の影響が大きいようだ。
多くの人が、半ば強制により引きこもり、PCなりスマホなりの液晶画面を眺める時間が増えた。その結果、ネットに流れる映像の量も、また激増した。
写真家であり、印象論についての著書を多数持つ著者は、コロナがもたらした、そういった世の変化にインスパイアされ、写真が世に生まれてから、こうなるに至るまでの流れを、写真史としてまとめるに至った。どうも、そういうことらしい。それを感じさせる、ある種のうろたえというか、ためらいのようなものを、背後に感じさせる文章だった。
私は、フィルムカメラの世代であり、今でもそれを使い続ける、古い人間だ。世の中でフィルムが廃れて、デジカメに移り、さらにスマホに淘汰されるまでの流れを、ずっと横から見てきた。
そして今、静止画・動画を問わず、デジタル画像が氾濫する世にあって、それが当然あるべきものとなって久しい世の感覚、著者の言う「ポスト・フォトグラフィー」にどっぷりと浸かる世の中を、後ろから眺めている。
かつ、仕事でイメージセンサーを扱うので、最先端にも居るという、股裂き状態でもある。(笑)
かつて、写真は「記録」だった。今は「情報」つまり「相手を想定して何かを伝える手段」として、普通に使われるに至っている。
写真は今や、自分が得た印象を、ある意図をもって、他人に伝えるための道具なのだ。切り抜きや強調、行き過ぎれば改ざんも、当然あり得る。
撮影だけでなく、発信のインフラも整備され、簡単に、コストもかからなくなった。
そこにはもう、かつて写真が持っていたリアリティ、現実性、写実性へのこだわりは、見られない。
私はといえば、相変わらず、古いカメラの巻き上げレバーを手繰りながら、みんなして、何か大切なものを失くしたような気がしていたのだが。本書で、そんな感覚を思い出した。
写真家である著者にとって、写真は、記録ではなく表現なのだろう。かつて、そこはプロの独壇場だったが、今や、無遠慮な素人に席巻されてしまっている。その危機感なり恐怖感が、本書の背景にあるのだろうと感じられた。
本書の終章に近くに、 アジェ についての記述がある。アジェは、記録のために写真を撮り、それが後世になって表現として評価された写真家だ。いわば、記録と表現の間にある人なのだが、それを、他人の著作で語る辺り、著者が、自分の立ち位置に感じている、微妙な感情を表しているようだった。
しかし私は、ただの素人カメラ愛好家だ。今でも、何か真実っぽいものが写せたという自己満足を求めて、うろつくだけの老人だ。
そんな私にとって、本書が伝える印象論は独特だったが、相対的な視点に違いがあるだけで、優劣や、深度の差は感じなかった。
さすがに本を出すことはある、こんなに考え抜いているのか、こんなことまだ考えているのか、 そういった稀有な印象 は、得られなかった。
情報の量や質は、自分が持っているものと、あまり違わない。
ただ、アスペクトが違うだけ。
そんな印象だった。
古い金属カメラは、真冬はえらく冷たくて、触る気になれない。
だが、また、春が来る。
新しい季節を迎えられるのが、素直に、嬉しい。
また、桜が撮れるのだ。
その前に、梅も撮っておこうか。
手持ちのフイルムの使用期限が、過ぎていなければいいのだが。
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写真論――距離・他者・歴史 (中公選書 123) 単行本 – 2022/1/7
Beyond Architecture Michael Kenna ― 2022/01/02 07:25
冬になると、よく写真集をめくる。
もっぱら、白黒の写真集だ。
いわゆる、昔の「パリ写真」と言われるジャンルも好きだが、
(これが一番好き ~ 写真集 アッジェのパリ )
特に、風景写真が好きだ。
中でも、Michael Kenna は気に入っていて、何冊か手元に置いて、繰り返し眺めている。
(以前、これを取り上げた ~ 写真集 レトロスペクティヴ2 )
今回のは、比較的最近手に入れた、Kennaの写真集だ。
風景や自然だけではなく、街が題材の新作も多数、収録されている。
洋書なので、紙質はあまり上品ではなく、ペーパーバックに近い、ちょっとそっけない感じ。だが、あまり気を使わずにめくれるし、すごいページ数なのだが、その割には安価だ。
じっくりとめくっていると、半日くらいは過ぎてしまう。
何かと気ぜわしい昨今、こういう、ゆっくりとした時間を過ごせる機会は、貴重だ。
特に、この寒い季節は、時間がしっくりと重く過ぎる感じがして、白黒写真にはうってつけだと感じる。
また、年が明けた。
ああ、よかった。また年を越せた。
そう、実感する。
(正直、この年末を越せるとは、思っていなかった。)
来年はどうだろうか。
皆様には、新年の寿ぎが続きますことを。
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Beyond Architecture Michael Kenna
当ブログのカテゴリ「写真」 もご覧ください。
いろいろあって面白いです。(笑)
国宝ロストワールド ― 2020/08/16 06:42
また例のように、どこかの書評で見かけたのだが。もっと大きい本かと思っていた。実物はA5判の小さな本だった。
内容も、題名と違っていた。
要約すると、「国宝を撮った写真の歴史」を紹介した本だ。
写真の技術が確立されたのは、19世紀後半。ほどなく日本にも伝来したが、その当時の、明治の日本は、西洋に追い付け追い越せの真っただ中。古い伝統は捨て去るのがナウいということで、貴重な仏像なども、壊されたり捨てられたりが多かったらしい。
当時の新進の写真家の中に、そういった状況に危機感を持った一群があり、せめて写真だけでも残そうと、寺を回って、撮影をした。
「国宝」といった概念が制度として整備され、仏像が文化財として保護や修復がなされるようになったのは、その後のことだ。
結果として、その当時の写真は、「国宝が修復される前の貴重なオリジナルのお姿」となった。(表題のロストワールドとは、多分そのことだろう。)
今や、これらの写真そのものも貴重ということで、同様に文化財として保護されているものも多いとのことだ。
明治の日本に話を戻すが、その後、写真業は、リッチな外国人観光客向けや、二次大戦中のプロパガンダに駆り出されたり、様々な変遷を経る。戦後になってやっと、本来の芸術性、つまり、自分が何を感じているかに立脚し、それを伝えようとする視点に立ち戻れた。さらに、それを掘り下げる余裕を得るに至った結果、今、我々が「写真史」としてなじみのある世界に至る。
土門拳その他の「古寺巡礼」など、仏像の写真は、今に至るまで数多くが撮られている。それは、仏像が持つ芸術性に写真家が感銘・共感し、それを写し取らんとした、表現者としての生業だ。
そして、今、明治期から続く、これらの古い仏像の写真を改めて眺めると、当時の写真家の意図として、記録であったり、義務感であったりは無論のこと、現代の写真家と同じような、表現者としての眼差しを、やはり感じる。
その流れを一望にする。
なかなか得難い読後感だった。
写真技術の変遷を追えるという、副教材的な読み方もできる。これが、さらに一興だ。
仏像写真の精緻さを読み取るには、少々、小さ過ぎる本なのだが。写真好き、特に「白黒写真をじっくり見る」型の好事家には、ご一読をお勧めできる内容だった。
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国宝ロストワールド: 写真家たちがとらえた文化財の記録
写真集 宮本常一が撮った昭和の情景 ― 2016/05/21 13:21
こちらも一応ログだけしておく。
私が借りて見たのは、上巻だけだ。
当時の普段着の昭和が見られる、貴重な記録ではある。
ただ、写真集ではなく、記録である。
そう思って見た方がいいだろう。
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宮本常一が撮った昭和の情景 上巻
宮本常一が撮った昭和の情景 下巻
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