バイク読書中 「Vespa style in motion」 #07 ― 2012/09/30 06:11
Vespa: Style in Motion
PD3のエンジンの横にて。
左がEnrico Piaggio、右がD'Ascanio。
Corradino D'Ascanio (1891-1981)
(リンクは、本国イタリアのWikipedia。)
Carlo Guzzi (1889-1964)
のほぼ同期。
本田宗一郎 (1906-1991)
や、
Giulio Cesare Carcano (1910-2005)
の一世代 先輩にあたる。
この Vespaの本 にある彼の経歴は、 上記のWikipedia とも、ほぼ一致している。
時系列に、項目をざっと拾うと、
1916年 Guilio Pomilio社(Torino)の当時、inclinometer(航空機の計器、傾斜計?)の特許を取得。
(1918年 第一次大戦 終結)
1925年 ヘリの同軸2ローターの特許を取得。
この頃、Pietro Trojani男爵と組んで、ヘリの試作を開始。
そのプロトタイプの一号機、DAT1 (D'Ascanio & Trojani numero 1) は、稼動はしたものの、飛ばずに破損。
1926年 プロタイプ二号機、DAT2が破損。Trojani 男爵が負傷する。
1930年 DAT3が、3度目のテストで飛行に成功、飛行時間と距離で、ワールドレコードを樹立。(飛んだはいいが、相当に「使いにくい」代物だった、とも。)
1932年 Trojani 男爵と破談。ついで、Piaggio社に加わる。
何でも、この当時は貧乏をしていたとかで(事業が潰れてすぐなので当然…)、彼が持つプロペラのパテントのロイヤルティについて交渉したとか何とか。
1934年 Piaggio社でも、ヘリの仕事を試みていたようだが。実現には至らず。
(1939年 第二次大戦 勃発)
1942年 最新型のPD3(Piaggio D'Ascanio numero 3)試作機、処女飛行。しかし、戦争の影響か、開発は進まず。(そうこうしているうちに、シコルスキーあたりが新記録を作ったりで、技術的に追い抜かれる。)
(終戦間際 Pontederaの爆撃にともない、工場はBiellaに疎開。間もなくそこを、見慣れない小さな二輪車が走り始める。)
(1945年 第二次大戦 終結)
1949年 PD3新型機。しかし二年後の1951年に、事故で喪失。
1952年 さらに新型の、前後2ローターのPD4、飛行に成功。
この頃には、VespaやApeの量産が本格的に立ち上がって、だいぶ実入りもよくなった、とか。だから、ヘリの方はもうよくなった・・・というわけはなく。リタイア後に、新型機を考案したりしていたようだ。
「Vespaのように、気軽に空を飛べる乗り物」が念頭にあったとも。
先のWikibediaには、1964年にAgusta(あのMVの、でもヘリの方)と交渉を持った、とある。
齢73にして…。
やっぱり、この人は、ヘリの人だったのだと思う。
PD4開発当時の写真
「Enrico Piaggio にBiella (Pontederaの疎開先、かつMP5の開発地)に呼ばれた時、私は、何のことか分らなかった。Biella には、飛行機やヘリの仕事は何もないんだ。Piaggioが、ナベカマの生産から脱却しようとしていたのは知っていたが、私にはNo Idea だった。Biellaで、私を出迎えてくれたEnrico は言ったんだ。」
二輪車を作って欲しいのだ。
でも、その辺のモーターバイクじゃないよ。
この瞬間に、Vespaの快進撃が実質的にスタートするわけだが、それは今風に言うと、シナジーであり、イノベーションだった。
この、稀有な「不連続な発展」がどうやって起きたのか。
次回は、その背景を、ちょいと深堀りしてみたい。
PD3のエンジンの横にて。
左がEnrico Piaggio、右がD'Ascanio。
Corradino D'Ascanio (1891-1981)
(リンクは、本国イタリアのWikipedia。)
Carlo Guzzi (1889-1964)
のほぼ同期。
本田宗一郎 (1906-1991)
や、
Giulio Cesare Carcano (1910-2005)
の一世代 先輩にあたる。
この Vespaの本 にある彼の経歴は、 上記のWikipedia とも、ほぼ一致している。
時系列に、項目をざっと拾うと、
1916年 Guilio Pomilio社(Torino)の当時、inclinometer(航空機の計器、傾斜計?)の特許を取得。
(1918年 第一次大戦 終結)
1925年 ヘリの同軸2ローターの特許を取得。
この頃、Pietro Trojani男爵と組んで、ヘリの試作を開始。
そのプロトタイプの一号機、DAT1 (D'Ascanio & Trojani numero 1) は、稼動はしたものの、飛ばずに破損。
1926年 プロタイプ二号機、DAT2が破損。Trojani 男爵が負傷する。
1930年 DAT3が、3度目のテストで飛行に成功、飛行時間と距離で、ワールドレコードを樹立。(飛んだはいいが、相当に「使いにくい」代物だった、とも。)
1932年 Trojani 男爵と破談。ついで、Piaggio社に加わる。
何でも、この当時は貧乏をしていたとかで(事業が潰れてすぐなので当然…)、彼が持つプロペラのパテントのロイヤルティについて交渉したとか何とか。
1934年 Piaggio社でも、ヘリの仕事を試みていたようだが。実現には至らず。
(1939年 第二次大戦 勃発)
1942年 最新型のPD3(Piaggio D'Ascanio numero 3)試作機、処女飛行。しかし、戦争の影響か、開発は進まず。(そうこうしているうちに、シコルスキーあたりが新記録を作ったりで、技術的に追い抜かれる。)
(終戦間際 Pontederaの爆撃にともない、工場はBiellaに疎開。間もなくそこを、見慣れない小さな二輪車が走り始める。)
(1945年 第二次大戦 終結)
1949年 PD3新型機。しかし二年後の1951年に、事故で喪失。
1952年 さらに新型の、前後2ローターのPD4、飛行に成功。
この頃には、VespaやApeの量産が本格的に立ち上がって、だいぶ実入りもよくなった、とか。だから、ヘリの方はもうよくなった・・・というわけはなく。リタイア後に、新型機を考案したりしていたようだ。
「Vespaのように、気軽に空を飛べる乗り物」が念頭にあったとも。
先のWikibediaには、1964年にAgusta(あのMVの、でもヘリの方)と交渉を持った、とある。
齢73にして…。
やっぱり、この人は、ヘリの人だったのだと思う。
PD4開発当時の写真
「Enrico Piaggio にBiella (Pontederaの疎開先、かつMP5の開発地)に呼ばれた時、私は、何のことか分らなかった。Biella には、飛行機やヘリの仕事は何もないんだ。Piaggioが、ナベカマの生産から脱却しようとしていたのは知っていたが、私にはNo Idea だった。Biellaで、私を出迎えてくれたEnrico は言ったんだ。」
二輪車を作って欲しいのだ。
でも、その辺のモーターバイクじゃないよ。
この瞬間に、Vespaの快進撃が実質的にスタートするわけだが、それは今風に言うと、シナジーであり、イノベーションだった。
この、稀有な「不連続な発展」がどうやって起きたのか。
次回は、その背景を、ちょいと深堀りしてみたい。
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