バイクの本 「Moto Morini 3 1/2 & 500 Performance Portfolio 1974-1984」 おしまい2013/04/07 03:49



軽いバイクが欲しい、と言った時、まあ単純に押し引きが軽いのというのもあるのだが、やはり本質的には、乗った時に軽々と操れる、自由度の方を期待しているのだろうと思う。

通常、排気量が大きくなれば、エンジンのパワーと共に、車重も増える。車重/パワー比は小さくなるので、パワーで操るのはラクになる。例えばコーナーで少々失敗しても、右手イッパツでリカバーできたりするわけだ。

しかし、たとえパワー/重量比が同じでも、重いバイクを大パワーで動かしているのと、軽いバイクが少ないパワーで動いているのでは、物理的に、ラクさ加減が全然違う。
例えば、「アッ!」というその刹那、何ができるかを考えると、心理的に、相当な差があると思う。(車重が重けりゃ、抵抗むなしくブッ飛んでオワリ、という確率は低くない。)

反対に、軽いバイクは、エンジンのパワーを期待できない。自然、コーナーに闇雲に突っ込んで、タイヤのグリップとトラクションで何とか収めるような無茶は避けて、両輪のポテンシャルをバランスさせる、ライディングのまとまりを意識するようになる。

そこでエンジンに期待するのは、ギクシャクした断絶感のないトルクの出方と、スムーズなトラクションが息長く続く、吹け上がりに余力を持った出力マナーだ。

★ 高圧縮比、ショートストロークの350cc Vツインは、これにマッチしそう

アスペクト(視点)を変えてみる。
タイヤである。

太いタイヤは、荷重の容量が大きい。
単純に、踏ん張りが効く。

「路面がよければ」

でも、公道の路面は、大体はそんなに良くないし、コンディションは常に変わる。タイヤがいくら良くっても、低μ路に足をすくわれる確率は、さして変わらない。

軽いバイクはタイヤの面圧も少ないので、太いタイヤのポテンシャルを引き出しにくい。高荷重域(コーナーにしゃにむに突っ込むこと)なら話は別だが、公道ではその機会はめったにないし、そんなリスクをあえて冒す理由もない。

大体、軽いバイクに太いタイヤを履かせても、ドタバタと重いだけだ。ちょっと考えてみただけでも、細めのタイヤの方が相性がよさそうに思えるだろう。

細いタイヤは、リーン時の接地点の移動距離も小さくて、ハンドリングも素直だ。タイヤのグリップを当てにせず、リア周りを基準にフロント周りを追従させる方向で、スローイン、ファーストアウト。そんな、クラシカルな走りの組み立てでもって、ライディングの楽しさと、マージンの高さを両立できる。

入り口では、ムリせずゆっくり、 コーナー中は、軽やかさでもって、ヒラヒラと余裕でいなし、 後は、立ち上がりに向かって、軽やかに伸びていく・・・。
★ リア重視のアライメントに、バランスが良さげなエンジン位置

理想の「軽い遊びバイク」を希求していた私が、トレメッツォに「おやっ?」となった、その心は。

上の2つの★でもって、カユイ所の交点を、突いているように見えたのだ。

#####

バイクの乗りこなしは、適応のプロセスでもある。

バイクは機械なので、持てる性能以上のものは、出してくれない。
だから、
 ・本来の性能を発揮できるよう、機械を維持管理すること。
 ・その性能を発揮すべく、操縦する術をわきまえること。
この二つの「掛け算」で、何ができるのか、カッコよく言うと、ライディングのクオリティが決まる。(掛け算なので、どちらかがゼロなら、答えもゼロだ。)

その「操縦」だが、アタマよりカラダで覚えるものなので(知っていても、できなきゃイミない)、自然、「会得した型」のような表象を醸す。

体で覚えるものなので、新しい機体に触れた時に、違和感があるのは当然だ。

玄人と素人は、ここで分かれる。

「違うからダメ、イヤ」の類で終わってしまうと、結局は、同じような機体を入れ替えるだけ、になってしまう。自然、だんだんと飽きて来て、仕舞には「降りる」パターンが大勢となる。

これは、実は日本車のお得意様のパターンで、時に従い顧客が入れ替わることを、新陳代謝と称して奨励して来た。古来、雑誌の情報も、それをサポートするのを旨としていた。業界上げて「永遠の素人さんループ構造」だったのだ。新人(若人)が減ったことで、近年はビジネスモデルが破綻しているが。

玄人は、そこでは終わらない。
自分が、それに適応した先を、予測する。
予測した上で、その価値を判断する。

全く未知のもの、予想外のものに触れた時にも、うろたえない。
その機体と、自分を「掛け算」した時の様相を、冷静に突き止めようとする。
まるで、カメラのピントを合わせるように。
立体パズルでも解くような、手つきでもって。

そのプロセスを裏で駆動しているのは、興味や期待といった類の、ポジティブな感情だ。見栄や打算なんかいう、矮小な根性では長続きしない。(判断が鈍る)

一番重いのはカネの問題だが・・・、
まあ、今はちょっと、置いとくとして。(笑)

製品(バイク)の送り手と、使い手の意図が織り合うことで、新しいフェーズが作り出される。この一連のプロセスが、バイク選びの嗜み(心得と楽しみ)でもあった。

優れたプロの送り手は、そのためのアピールを明確に行っていた。
と同時に、実際に乗った際の結果を保証する、安心感の意味での「ブランド」を両立させるべく、努力を惜しまなかった。

そして、優れた受け手は、拙い送り手の嘘や悪意、間違いなどを的確に見抜き、排除しつつ、本物を選び、愛でるために、感性を磨き、対価を払い、その能力を発揮し、維持することを、無上の喜びとしてきたのだ。

(バイクだけじゃなくて。高級品って、そういうことだった。)

そんな、幸せだった時代の、残り香。

###

単なる、私の勝手な妄想である。

何せ、過去の遺物である。
現物が無いんだから、存分に理想化できる。

でも、それじゃ無責任なので。
ちゃんと夢をブチこわしておくと (笑)、

よしんば、私の妄想が当たっていたとしても、「70年代では」という但し書きが付くだろう。
仮に今、現物にお目にかかれたとしても、ヨレヨレのお爺ちゃんである確率が高い。(そうでないピン物は、手放されない。)
事情に通じた整備士も日本には居ないだろうから、本来の乗り味に触れられる確率は、極小だろう。

ただ、彼の地では、今でもこれを愛好する(できている)連中がいるようなのは救いだ。

前回、比較対照されていたGL500の辺りといえば、当初の評価は高かったようだが、今でもそれを愛好するオーナー(愛される機体)は、壊滅状態に見えるのとは対照的だ。(ややこしい部品が多い上に、メーカーにサポートする気がないので。物理的に如何ともしがたいのだが。)

機体が愛されるのは、愛される価値がある故か。
たまたま、偏屈なオーナーに恵まれただけか。

まあ私の場合、根が偏屈なので。どっちでも同じなんだけど。(笑)

皆様も、ご自身で判断されたい。



ハハ。
おっさんばっかりで。
いい感じだ。

※ この手の旧車で一儲け、という悪徳業者も、依然として多いので。
  引き続き、お気を付け頂きたく候。
  (私もね、言うほど玄人ではないので。今でもよく騙されそうになる。笑)

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コメント

_ moped ― 2013/04/07 17:19

まいどです。

モリーニも、優れた公道バイクであることが、判りました。
ありがとうございます。
だとしても、いま手に入れたり、維持するのは、日本では困難で、
いまはニホンカワウソ状態なのが、残念です。

大人の乗り物としての公道バイクの復活を、強く望みたいです。
待ってるより、創った方が早いですかね(笑)

_ ombra ― 2013/04/07 21:21

毎度どうもです。

ホントにニホンカワウソだったのかは、わからないんですけどね。
ただ、実際に飼うのは難しい。それだけは、はっきりしてますね〜。

> 待ってるより、創った方が早いですかね(笑)

おー。造りますか。
イチから作るとなると、素材すら難渋しそうな昨今ですが。
ゼロから作るとなると・・・、メカCADの再勉強から始めないと・・・。(汗)

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