バイクの上半分 172013/11/17 06:00



潜在意識の動作プログラムに対し、意識は、その実行を邪魔するだけでなく、時に破壊に至ることもある。

潜在意識への深化が進んだプログラムの場合、本当に簡単なモニタだけでも邪魔になりうる。スポーツなどで、「誉めるとしくじる」のはこの類だ。だから、よく抽象化できている(訓練を積んだ)アスリートやパフォーマーは、応援で強くなる。自信が無いほど、オーディエンスでしくじりがちだ。

「言葉にすると出来なくなる」事例もある。ゴルファーは、打つ時は黙る。(音そのものが邪魔と感じる。) 話をしながら打てるゴルファー、例えばインストラクターも居るのだが、彼は、自分の動作を分解して、その逐一を言葉で表す「訓練」を、別途、行っている。そして、その意識化は、彼のスイングの動作プロに、破壊的な影響を与えることがある。「昔はもっと打てた」と言うインストラクターが多いのは、このためだ。

優れた芸術家が、先生になって教え始めるとダメになる、といった辺りも同じだそうだ。潜在意識からなる「創造のプロセス」が、言語化という詳細な意識化で破壊されるからだと。

意識せずに動け、という話なわけだが、個人的には、弓道を思い起こしていた。「的を考えずに打て」というアレだ。
本書にも、やっぱり出てくる。
この辺りは、禅と同様、彼の地でも流行した時期があるようで、ヘタすると日本人よりも詳しかったりする。一連の動作を、完全に無心で行う、「悟り」めいた状態とも解されるわけだが、分析的には、上記と同じ理解となるようだ。

ちょっとの力みでさえ、台無しになりうる。
脱力(リラックス)は重要だ。
浅い意味の「悟り」とは、「気にしない」スキルなのかもしれない。

もっと極端な事例もある。
著者は、「せり上がる平均台」の例を挙げて、説明している。

平均台が、床面とツライチのとき、それはただの地面に描かれた黒い帯だ。人はその上を、踏み外さずに自由に歩ける。走ったりもできるだろう。
これが、1.5cmせり上がると、少し緊張する。
15cmせり上がると、もう少し緊張する。
1.5mせり上がると、かなり緊張する。
15mなら?。足がすくんで、進むのもままならない。
(バイク乗り流に言うと、「一本橋の原理」?。)

無論、体操選手のように、高い平均台の上を走れる人というのも居るのだが、彼はそのための訓練を別途積んでいる。でも、いくら訓練を重ねたとて、ツライチの黒線の上を走る時ほど、スムーズに動けるようには決してならない。

言っておくが、動作そのものは、高さに関係なく、全て同じだ。なのに、簡単に出来たり(動作プロを自動実行できる)、できなかったりが、かなり明確に分かれる。

何で足がすくむのか。
「怖い」からだ。
意識が、「リスクの可能性」を認識すると、「恐怖」が立ち上がってくる。
恐怖は、極端な意識の集中と、極度の緊張を引き起こし、動作そのものを、ままならなくしてしまう。あらゆる動作を、レベルにかかわらず、完全にシャットダウンしてしまうのだ。

それが、ライディングの最中だったら?。
変な言い方だが、「恐怖は怖い」のだ。

また話が散らかってきたので。
復習がてら、まとめてみる。

意識は、自動動作プログラムには、直接はアクセスできない。「ブレーキはどちらの手ですか?」と突然訊かれると、頭の中で一旦ブレーキを握ってみて、「右ですね」となる。一旦、自動プロのメモリ領域にアクセスしないと、確実に「わかった感じ」がしない。そして、その照会のプロセスは、実際にブレーキを握る時間より、はるかに長い時間がかかる。

脳から身体を動かすパス、動作プロのありかは、脳の古い部位に属する。そのメモリエリアは広大で、一連の動作の詳細と、その実行プロセスの全てを包含している。読み出しも速くて、大量のデータを、同時に、確実に、取り出せる能力を持つ。

一方で、意識をもたらす部位は、アフターマーケットパーツのように、後から付け加わった部分だ。自動プロのメモリエリアには、直接のアクセス権を持たない。だから、実際に「動こう」とするとき、意識は、自動プロに訊かねばならない。意識ができるのは、イニシャライズと、自動プロの開始の手助けだけだ。実行の最中の観察だけはできるから、それを後付で解釈はできる。そうやって、経験や思い出として蓄える能力、変幻自在に適応していく能力は優れるのだが、そのメモリエリアは、潜在意識のレベルとは別の所にあって、容量はあまり大きくない。その上、動作は遅くて、不確実だ。

危険性の増大が認識されると、意識の介入が増す。極端な緊張は、動作そのもののシャットダウンを伴う。(足が震える、めまいがして進めない、云々。) これは、身を守るため、リスクに乗り出すのを防ぐメカニズムだ(自己防衛本能)といった説明もされたのだが、それが及ぼすリスクの方が、防げるリスクより大きいという研究結果が得られるにつれ、否定されつつあるそうだ。何らかの古びた仕組むが残っているというよりも、大脳が、後から付け加わったことによる「副作用」、代償みたいなものらしい。それも、意識(大脳)システムの利便性から見れば、ちっぽけなものだと。

ライディングに際し、我々がマネージすべき状況は、こんな構造をしているわけだ。


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