バイクの上半分 番外編2014/03/23 06:32



本書の内容を、ハードウエアの面から見たら、どうなるだろうか。
ずっと、そういう「横から目線」でも、考えていたのだが。
私見を簡単にまとめておく。

本書には、バイクと人間は一体として動作する、といった文言が繰り返し出てきた。それは、日々バイクに乗っていて実感することであり、バイクを楽しむ上で大切なもの、安全に乗るために最低限必要なものとして、自身の経験に照らしても、納得できることだった。

もし、「一体化」が必須なのだとすると、「一体として動作できたのか」の判断を直感的に下せることが、欠かせない要素のはずだ。道具として、複雑すぎて理解が難しかったり、特性がリニアでないものは適さない。

(ここで言う「リニア」とは、原意の通り「特性が直線的で変曲点が無いこと」は無論、巷の誤用である「直接的で妙な間がないこと」の両方を指す。)

バイクは、シンプルに理解しやすい特性であることが、大切なはずだ。

例えば、アクセルをポンと捻った瞬間や、車体をヒラリと翻した瞬間に、人間が入力する、その力加減とスピードに応じて、バイクの側が、適度な間で、ちょうどいい量の反応を、返してくること。

これは、意外と理解するのが難しい。

反応が遅くてイライラする、反応が少なくてガッカリする。
これはよくあるし、わかりやすい。

逆に、反応が早いこと、レスポンスの良さは、美点として語られることが多いが、実はそうとも限らない。

例えば、アクセルをピクリと動かしただけでカクカクしゃくるほど神経質な特性だと、疲れてしまってまともに走れない。レスポンスは、早ければいいというものではない。

反応の量が多すぎて、微妙な加減ができないようでは、運転は「やってられない」し、時に、悲しくもある。(300km/h出るバイクの100km/hは、パワーの1割程度しか使えないストレスフルな状態なはずだが、法律上はそれが上限だ。)

人間という動物にとって受け入れやすい、間と量。(私は、まとめて簡単に「波長」と言い表しているが。)
それは、老若男女にかかわらず、ある程度共通の「範囲」がある。

プロの作り手による優れた道具は、その「範囲」を意識して作られている。

皆が適度だと思える「間と量」を具体化しているからこそ、幅広いユーザーが、自分の感性でもって一体化し、機能と快感を、両立させることができる。そのフィッティングの特性、感覚性能とでも言えるだろうか、そこが優れているのだ。

ということは、プロが作る良くできたバイクと言うのは、スポーツバイクなりツアラーなり、そういう目的を据えた上で、それを欲するような人々がヒットする「間と量」を、上手いこと当てているバイク、と想像される。

例えば、スポーツバイクが欲しかった人が、ある程度の発見や試練や慣れなどを経て、バイクの特性に納得し「一体となる」。その後に、ああよかった、これに乗ってよかった、楽しい、うれしい、面白い、そう思える、バイクの「波長」。

バイクは複雑な道具だ。本書で述べられていたように、たくさんの動作プロを習得し、習得した後も、ブラッシュアップをし続けないといけない。一体化できるまでには、結構な時間がかかる。

それだけの時間を経て、ユーザーがバイクと一体になった後の姿を見据えて、それを当てこんだ特性を、予め作りこんでおくこと。
それが、バイクの作り手のプロの仕事だったはずだ。

人間の本質に添う、普遍的な「芯」。

本書を読み、考えながら、私はふと、腑に落ちた。

これは、「伝統」のことだ。

人は、自分の感性に沿うものを知っている。
それが、便利なだけではなく、心地よいものであれば、ずっと使い続けたいと望むようになる。
そうやって、残ってきたもの。
歴史として連なり、伝統として残るもの。

それを、備えているかどうか。
(メーカーとして、それを意識し、守る姿勢を固持していればなお良い。)

しかし、現状は、悲しいかな、外見のスタイルとしてのトラッドや、市場価値としてのビンテージなんかにすり替わってしまっている。
本来、全く質が違うもののはずなのに。
既に、見分けすら付けにくい。

残っているのは、形が似ているだけで、質は全く異なるものが実に多い。

乗りやすくてスムーズな(だけの)ハーレー。
名前だけはRだが、尻の軽いBMW。
うら寂しいだけでなく、妙に物欲しげなGuzzi。
ホンダの、スムーズだが「切ない」ネイキッド4発・・・は昔からか。(笑)

例えば、あの昔のWが、何らかの本質を突いていた、として。
だからこそ、こだわり続けた使い手たちが居たのだとして。
その再来が、今の、あのWなのか?。
「W」を「Z」や「CB」に置き換えても同じだろう。

世界的に、バイクの市場を伸してきた、または支えてきたのは、日本車だ。
だからこそ、その「負の功績」も見逃せない。
古びた名車と、陳腐な新車で、市場を伸したのは、日本人だ。

技術的な側面にフォーカスすると、個人的には、新車を陳腐にしている一因は、間違いなく電子化だと思っている。

身近な例では、大昔のSONYの家電、アナログ時代のビデオでも何でもいいんだが、その操作感は秀逸だった。本当に、カキコキと小気味良く動いてくれていたと思う。(だからコアなファンが多かった。)

それがいつしかボヤけてきて、SONYに限らず、今やデジタル家電と言えば、操作感が、えらくかったるいものが多い。

仕組みを見れば、明らかなのだ。
デジタルで物を動かしているのは、人間ではなく、プロセッサやマイコンなんかだ。

プロセッサは、間断なくやってくるセンサからの入力と、メモリの内容を照合しながら、最適と思われる判断を、都度、行う責務を果たすべく、働き続けている。

そこでは、人間からの入力とて、他にも多数ある入力のうちの一つに過ぎない。その重要度や、必要性、効果などは、プロセッサが判断する。

だから、プロセッサが対応できない、必要でない、優先度が低い等と判断すれば、後回しにされたり、適当に丸められたり、無視されたりする。

「busyです」

それってつまり、
「あ、オレ、今、忙しいから」、と機械に無視されると。
そういう仕組みなのだ。

操作感がかったるいのなんて、当たり前だ。

プロセッサは、基本、上述のように、その場その場の判断を行う回路なので、ありうる限りの全てのケースを、予め検証しておくというのは、物理的にムリに近い。だから、その「動作検証」は、適当なやり方を決めて、誤魔化すしかない。
(例えば、クルマのマイコンでは、V字モデルに26262で「やったこと」にしている。)

プリウスのブレーキがたまに効かなくなるなんて、まあ、ありうるだろうなあと、現場でコードを書いている連中は、本音では思っているはずだ。

そんななので、電子化で、手触りが悪くなるのは、いわば当たり前なのだ。(電子化を、「制御」と言い換えても同じである。)

今、クルマやバイクは、「喜んで」電子化の真っ最中だ。
だって、設計ラクだし、安く作れる。
(それに、法規制との縛り合いで、もう身動きが取れない。)

まあ、だいぶ譲って、モノがクルマなら、それでもいいんだろうと思う。
実際、道具として、人間の感性に一体化する必要なんかはほとんどなくて、なるべく手をかけずに用が足せればいいという、所謂「仕事グルマ」のニーズの方が、ほとんどなのだ。

だから、作り手は、適当なフィーチャーを見つけ出しては、買い替えの動機や価値として訴求してきたし、そんなんで、市場は機能してきた。

ここ10年くらいで見ても、衝突安全→環境性能(燃費)→自動運転(直近は自動ブレーキ)と流行を挿げ替えていて、その度に、買い換えるのがカッコよかったり、おトクだったりと思わせることに成功してきた。「鉄の箱にイスを据えて、タイヤ4つで移動したり運んだりする道具」という本質そのものには、全く変化がないのにもかかわらず、だ。

バイクは、そうは行かなかった。
ここでの「バイク」は、カブからGPレーサーまでの「仕事グルマ」の意味ではなくて、操作そのものを楽しむ、「趣味のバイク」を言っている。

上述のように、バイクの本質が「伝統」なのだとしたら、(商売的に使える意味での)「フィーチャー」というのは、根本から矛盾してしまう。
バイクには、クルマのような流行やフィーチャーの創出は向かないし、できないのだ。

だからだろう。
ブームがあっただけで、ブレークスルーはなかった。
それが、近年のバイク市場の低迷に貢献していた。

そこで、「伝統」を、「伝説」に挿げ替えた。
「名車」 ってやつである。
クルマ業界の使い古し「いつかはクラウン」を、いまだに使い回している。

そんな策に引っかかるのは、古い「伝説」の棺桶に片足を突っ込んでいるオッサン世代だけだ。

で挙句、族車が高騰したりしていると。(←笑うとこ)

その傍らで、形が古っぽいだけでいい値段がする新車を、誰かがぽそぽそと買っている。
コスプレ目当てに。
(例:ハーレーに乗ってワイルドになった「つもり」。)

劣化のフェーズはとうに過ぎて、末期症状に見えている。

しかし、答えは過去に、ちゃんとあったのだ。
個人的には、あれだけいろいろ乗りまくったが、感覚性能はルマン1000がずば抜けていて、その結論は今でも変わっていない。
無論、それは私が触れた範囲で、という話で、他にも一杯あったはずなのだ。立ち位置がへんぴで誰も気付いていなかったり、登るのに高すぎる頂点だったり、日本車のゴミに埋もれていて見えなかったりしているんだと思う。

もし、「伝統」がこのまま潰えるなら、我々は、その香りを知っている、最後の世代となるだろう。

そして、万が一、これが打開されるとしたら。
個人的な考えだが、「都合の良い偶然」しかないような気もしている。

例えば、動力がモーターになって低速トルクが厚くなって良くなったねーとか、制御チップのコストダウンでシーケンスがシンプルになって、かえって分かりやすくなったねーとか、そんな偶然だ。

そんなものを、ただ呆けて、待つしかないのかな、と。

乗れば楽しいのに、性能はどんどん怖くなっていく、愛車の傍らに佇みながら。(衰えの結果だ。)
ただ呆けて、そんなことを考え続けている。

こいつの感覚性能は、職人技(誰かが明確に意図した結果)なのか。
だとしたら、それは誰か。(設計か、実験部隊か。)
それとも、ただの偶然だったのか。
考えただけでは、わからないのだが。
(全部なんだけどね。多分。)

でも、もうしばらく、考え続けるのだろうと思う。
呆けつつも。

また、何かわかったら、報告したいと思うし、
それが、何か皆様のお役に立てるのなら、僥倖なのだが。


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コメント

_ moped ― 2014/03/23 19:15

まいどです。
ご無沙汰してます。

ライダーとオートバイのインターフェースが、メカだけだったときは、調整は比較的シンプルだったと思います。しかし、電子化されてからは、ソフトウェアが介在しますから、少々ややこしくなりました。

ライダーとオートバイに介在するソフトウェア、つまり制御というものは、想定した範囲、条件での最適解なので、それを外れると、最適な状態とは限りません。(Out of scopeなので)

しかし、ソフトが介在しないときは、たいてい物理法則のみに支配され、程度の差はあれど、比較的予想しやすいです。

なので、このソフトウェアを何とかしなくてはなりません。

_ ombra ― 2014/03/23 20:22

いつもありがとうございます。

日本語より英語の方が言いやすいことがあるのと同じように、
各ソフトの言語による縛りのようなものがあるように思います。
これが一番下位。

次に、プラットフォーム。
ツールの出来不出来と、その組合せによる能力。
Flex云々もこの辺。

最後に、ハード。
「このハードにそんなこと言っても」なコードを、
いくら上手に組んだとて、ムダなので。

一見、上から下まで、いろんな問題が複雑に入り組んでいて、
一筋縄では行かないようにも見えるのですが。

問題の本質は、そこには無いように思うのです。

だって、物理の本質から、逃げようとしているように、
(または、誰かに騙されているように、)
見えるので。

機械を、チップで制御するための方法論、
その良し悪しを測る尺度として、ここで言う「感覚性能」を使うことが、
ブレークスルーになるような気がしています。
「ものづくり」を、西欧的なしょうもない合理主義から開放し、
日本的な「粋」の世界に取り戻せるようにも。
(その方法論は既に長い「伝統」があり、妥当性、普遍性、
信頼性が、揃っているはずなので。)

ま、単細胞な自分が、直感的に理解しやすい、ってだけなのかも
知れませんけどね。(笑)

ただ、それを具現化するには、かなり根本的にやり直さねば
行けなくて。
それをどうしたもんかなあ、とずっと考え続けています。

もし、それができなければ、バイクを含むマシンは、アートや
トラディションにはなりえず、潰えてしまうかもしれない。
それって、悔しいですしね。

多分、私の実力と残り時間では、そこまでは行けないのだろう
なあ、とも。

_ 煙 ― 2014/03/23 21:23

はじめまして(__)

つたない経験値ですが
1+1=2 を“いい按配”で返してくれるバイク・・・意外と無いような、あるような・・・
今回のモーターサイクルショーをフラリ見して・・・
万人に対する100点満点の回答はもとより求むべくもないかもしれませんが・・・日本メイカーの地力に期待したくなりました

_ ombra ― 2014/03/24 21:36

煙さん。
いらっしゃいまし。<(_ _*)>

大阪の方でいらっしゃいますか。
いい感じのハンドルネームですね。
ワタクシombraは、イタリア語で「影」の意味ですが。
それ、ハゲの間違いじゃね?と最近、仲間に言われ始めておりまして。(沈)

地力ですか…。
確かに、日本のメーカーが厳然と主導しているというのはあるわけで。
でも、そっちに主導するんかい?(ナンダカナ)的な方向性も見受けられ。
あまり、期待もし難いように感じます。

まあ、海外メーカーの地力の落ち方も、また切ないので。
無邪気に期待もできません。

それよりも、
多分、既存の大メーカーではない、
サードパーティといいますか、新参者の「そう来たか!」な一手、
ナンダコレ?のようなのが、一番、面白そうにも思えて。

そんな感じのは、ありませんでしたか?。

あったら私も見に行きたいです!。

東京のは次の週末ですね・・・。

_ 煙 ― 2014/03/26 23:54

ありがとうございます(__)

大阪SHOW、“ナンダコレ?” は無かったんです実は・・・
サードパーティー??ほど目を引くモノが無く・・・同行の連れ合い様にも「カメラ持ってきてないってことは特に見たいの無いんじゃないの」と云われる始末で・・・

ただ、カタチになったプロダクトではなく、その一部というか、空気というか、触感した髄に、
“こりゃひょっとしたらひょっとするんじゃないのか!?”という期待感を持たせてくれるモノがあったんです・・・
残念、というか絶句、或いは脱力モノ噴飯モノがあったのも事実ではありますが・・・

今次モーターサイクルショー、期待はせずにちょっと行ってみるのも一興やもしれません・・・

_ ombra ― 2014/03/29 07:23

情報ありがとうございます。<(_ _*)>

へええ、そうでしたか!。

> 触感した髄に、
そりゃエエ感じですね。(笑)

私も、ちょっと行ってみようかなあ…。

おさわりコーナーで跨れて、前後左右に揺すれたりすると、大体どんなもんか見当つくんですけどね…。

(その姿、ツレには、スーパーの店先で100円入れてユサユサ揺れる子供の乗り物みたい、って笑われますが。)

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