バイクの本 「進駐軍モーターサイクルクラブ」その22015/12/13 12:30





前回 の続き。
著者が取材した日本人の話を続ける。

当時の話をまた繰り返されるのを、当人たちが是認するかはわからないので。本名はもとより、適当にボカして、以下、引用する。

初めの証人:
雑誌「モーターサイクリスト」が、数人の有志による「モーターサイクル普及会」によって創刊したのは、’51年12月。「正しいモーターサイクルのあり方」を標榜した、この小さな雑誌は、当初は書店ではなく、バイク屋に置かれていた。バイク屋とメーカーがほぼ同義語に近い例が多かったこの当時、そのメーカーがページを買い上げることで、この雑誌は成り立っていた。つまり、当初の理念とは少々違って、実際の所は、業界誌の例に漏れない「広告媒体」だったのだ。せめて紙面の1/3くらいは「雑誌屋のおとしまえ」を、と考えていた気骨の編集者が、病気などでいなくなる(追い出される?)ような変遷を経て、しかし、部数は伸び続け、社名を「モーターサイクル出版社」、さらに「八重洲出版」と変えながら発展して、今に至っている。
その追い出された(?)側という証人氏は、年代としては、著者の祖父に当たるという。いわく、カネ出して広告を買って、さらにカネ出してそのバイクを買って。バイクって一体、何なんだろうね。まあ、楽しければいいんだろうけどさ。
本書に書かれる50年代の後、バイクをめぐる世相は、暴走族やカミナリ族に移って行って、バイクは、次第にそのステータスを失って、「いけない物」になっていく。果たしてそれは、「楽しかった」のか。

次の証人:
実家が木材の大商であったことから、働かずとも遊んで暮らせた。実家にしてみても、下手に芸者や博打なんかに入れ込まれるより、バイクにでも乗っていた方がマシに見えていたらしく、生活の全てをバイクで塗りつぶして過ごしていた。当時の輸入商にも顔が利いたし、AJMCにも加わった(一人だけの正会員)。黎明期のレースにも顔を出したから、AJMCの実際だけではなく、この当時のバイク界の世相を、広く語れる人だったらしい。
’53年11月の「都道府県青年団対抗 日本縦断オートバイ耐久継走大会」。日本青年団協議会と朝日新聞の主催、都道府県と本田技研の後援というこのTTレースもどきは、札幌~鹿児島間を、リレー形式で走る「バイクの駅伝」と銘打っていた。名古屋TTや、富士登山レースが行われた同じ年だったこのレースは、表向きには「稀に見る規模のレースで大成功」と自画自賛だったが、しかし実際の所、ホンダの宣伝の全国行脚に、朝日新聞が乗っかった、それだけの企画だった。
業界がそんな具合だったから、当初、一緒にバイクで純粋に遊んでいた友達も、次第に、雑誌やメーカーに絡め取られていって、だんだん遊びじゃなくなってくる。仕事では、つるんで遊ぶわけにいかないから、結局は、また一人に戻ってしまう。
それから30年を経たこの取材の当時、まだバイクには触れ続けているらしいこの証人氏は、高性能なバイクがより安価に売られるようになった反面、さらに多くの規制と商売人に囲まれている状況になってしまって、「あの頃のように熱中できない」と、そんなコメントを残している。

次の語り部:
大正の頃からバイク関連を商う家に生まれ、戦後は、メーカーやバイク屋での武者修行を経て、バイクのレースが次々に開催され始めた頃には、メーカーお抱えの社員ライダーをしていた。
小さなメーカーが林立していたこの当時、レースは、技術と売り上げを両立させる切磋琢磨の場として賑わっていた。しかし世の中的には、技術が向上する一方で、売り上げの方に侵食される度合いが深まって行ったから、例えば、小メーカーのライダーである彼がレースに勝っても、モーターサイクル誌は「おたくが勝っても広告が取れないから、記事は載せない」と、にべもなかった。
第3回富士登山レース。今ほど契約が厳しくなかった当時、何故か(笑)他メーカーのYA-1の開発に携わっていた証人氏は、ホンダとヤマハの、周囲を省みない熾烈な戦いの渦中に居た。本番の1ヶ月も前から毎日、早朝の5時から爆音とともに始まる「練習走行」に周辺住民は辟易し、苦情を入れるも当事者は「無視」。その横暴さ加減に、当初は好意的どころか歓迎さえしてくれていた地元警察も態度を硬化させ、次の年からは数々の規制がされた結果、レースは事実上、骨抜きとなった。レースの本場は浅間の方に移って行ったが、メーカーの開発競争に主導される「雇われレース」は面白くなくて、レーサーは辞めて、地元に店を持った。そこに、ドラッグレースに出るという米兵が現われ、そのトラをいじったら・・・と、やっと話が米兵につながるのだが。
この取材の当時、やはりバイクのレースをしている証人氏のご子息も評して、「今の子は、お金の勝負でレースをするからかわいそう」とコメントしている。

次の語り部は、エンジニアである。
終戦の時に、父親が外地から引き揚げの際に持ち込んだスクーター「ポウエル」を、集金の足に使っていた。これに目をつけ、借り受けた中島飛行機・太田工場が数日でコピーし、ラビットの原型を作り上げたと証言している。(同じ話を、 以前取り上げた。 この逸話は真実だったらしい。) その後、メグロから分派したモナークに、エンジン設計者として参画し、’53年の名古屋TTを初め、黎明期のレースで好成績を残した。
前回、紹介した’49年のレースなどは直に見に行っていて、AJMCの欧州車がカッコよくて印象に残ったとコメントしている。
この戦後しばらくの頃のバイクは、性能そのものが目的で、そのための機能美に満ちていたからカッコよかったし、それを手に入れて実際に乗ることには、夢があった。
性能が当たり前になった、80年代のこの取材の当時、バイクの目的は、金儲けそのものになった。かつて、性能のために、ひたすら切磋琢磨したエンジニアにとって、今(80年代)のバイクは、皆「お金欲しそうな顔をしている」ように見える。技術的に、同じ要因を、同じように計算して追い込んで作るから、皆同じようななりをしていて、おもしろくない。かつてのような夢がないから、購買欲も沸かないと。
またもや同じコメントが出る。
「浅間から以降のレースに出た人というのは、メーカーに乗せられたような一面があるんだよ。」

次の語り部:
戦前からバイク屋をやっていた。戦後も、都内でバイク屋をやっていたが、住居があった立川に貸家を持っていて、当時の調達庁に強制されて米軍将校に貸していたから、基地の情勢にも馴染みはあった。朝鮮特需の時に、基地周辺の方が商売になるかと新たにバイク屋を開いた。駐留米兵でバイクに乗るのを許されていたのは将校以上の紳士が多かったし、戦前から外国製バイクを修理してきた語り部氏にとって、兵隊が持ち込むトラの修理はお手の物だった。店の客によるツーリングに参加するAJMCのメンバーは、陽気で開けっ広げで、ウエアもバイクもかっこよくて、乗り方は紳士で、若いライダーの憧れの的だった。
商売はうまく行っていた。国産バイクは入荷する傍から売れていった。以前は、子供がバイクの選手になると親は嫌がったものだったが、浅間以降は、逆に喜ぶようになった。カネになったからだ。
そして、この人も同じことを言う。
「やはり、浅間以降は、会社のレースだったような気がします。」
55歳の時に、AJMCのドラッグレースに出たんですよ。光電管を初めとする設備もすごかったが、雰囲気が、もっとすごくて。勝ち負けなんかどうでもよくて、愛車の性能をフルに出せれば、それっきりブチ壊れても、それでよしと。とにかく日曜を楽しく過ごすのが主眼だった。基地の食堂で食べたぶ厚いハンバーグはえらく美味かった。でも、米兵はさらに、コーラにビール、ちょっと(?)エッチなステージショーなんかもあって。もっともっと、楽しんでいた。
その後、60年代に入ると、基地周辺は安保がらみで騒々しくなったし、バイク乗りの方も、暴走族なんかに流れてしまって、変な方向に行ってしまったね。

最後の証人氏:
ひょんなことから手に入れたトラで街道を走り回り、米兵ともやりあった。当時の日本の凸凹道では、穴の位置なんかを知っている地元のトンビが有利だったから、その界隈では結構な有名人になった。AJMCのメンバーにも知り合いがいて、さらに仲間もできていって、日本人のバイクのクラブを立ち上げて、レースにものめりこんだ。ドラッグレースにも出たし、浅間にも。でも、レースは、やっと立ち上がったと思ったら、すぐにメーカーの都合に絡み取られて。その都合で、運営されるようになって行った。
それに流されるように、メンバーの雰囲気は、だんだんと勝敗主義に傾き出す。
他方、世の中の雰囲気は、安保に向かって傾いて行く。
その直前に、アメリカかぶれで、バイクにのめりこんだ。
良し悪しはどうでもいい。
それはやはり、彼の、青春時代だったのだ。

(続く)


進駐軍モータサイクル・クラブ―Free wheelin’ in the ’50s

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