バイクの本 LE MOTO DA CORSA2017/03/25 10:16

LE MOTO DA CORSA
al Circuito del Lario 1920-1939,
Sandro Colombo,
EDISPORT
MOTOCICLISMO, 1991
ISBN N.A.






















ページをめくりながら、ふと、過去の記憶をたぐる。

「思い通りにならない」の類のグチを言わなくなったのは、いつ頃だっただろうか。
ずいぶん昔、まだ若かった中学~高校の頃は、確か、周りにも、たくさんいた。

今や歳を取り、丸くなった(活動レベルが下がった)のは、間違いなく効いている。
しかし今は、「思い通りにならないのが当たり前」という感覚でいるのが、大きいように思う。
まあ、同じ事かもしれないが。(笑)

もう少し正確に言うと、「幸せや満足というのは内発的なもので、外からもたらされるものではない」と納得していると、そういうことだ。

同じような考え方は、世間一般、哲学や宗教にも、よく示唆されているようだ。

とある西洋の「成功の心得」は、内なる欲望は宇宙の原理に則っており常に正しい、(瞑想などで)正しくあるよう保ちつつ、その声に従って集中・精進すれば、必然的に成功する、と言う。

極東の宗教観にも、悟り無きを悟り、自らの愚を覚え、あるがままに悩み、本願に念を唱えれば、如である世界が自ずと来る(如来)、煩悩と叡智は裏表だ、とそんな考えがあるらしい。

当てになるかは分からない。
読み方の問題もあるだろう。
だが、みな同じ事を言っているようにも思える。

望むものの粗方は、実は、自分の中に在る。
外から貰えるものではないのだ。

見回すと、外からの情報というのは、一見有益なだけのノイズの方が、遥かに多い。

それに、他人と争うことで得られるものには、実際のところ、ロクなものがない。

普段、我々が欲しがっているものは、ずっと前からたくさんあるのに、ただ「いいもの」と喧伝されているだけのもの、だったりする。

そもそも、そうやって「思い込まされた結果」でもなければ、知りもしないものを、皆が一斉に欲しがったりする訳が無い。

この辺の事情は、バイクも同じだ。

最新型を買ったり、すごいね、上手いねとホメて貰ったり、大きいバイクで遅いヤツを抜き去ったりした時の喜び(優越感)は、どうにも、一瞬で消え去ってしまう。

外因性の優越感は、長続きしない。
だから、繰り返し求めることになる。

メーカーは、これを製品戦略に織り込んでいて、今のバイクは、いかに短期間で買い換えてもらえるか、よく考えて作られているし、そのように売られてもいる。

技術は、進化していると、よく言われる。だが、そのほとんどは無目的化していて、何のためにあるのか分からないか、あるのに使いようがないかの、どちらかだ。

ありすぎる馬力。出すぎるスピード。(一度も使い切れなかったり?)
転ぶ気がしない程の安定感。(いや、転ぶから。)

新開発のエンジン制御技術は、もっぱら、次の規制への対応を目的にしていて、つまりは、お役所に向けに作られたものだ。それが、ユーザーの側の利益に貢献することは、ほぼ、何もなかったりする。単なる法制度上の話をしているだけで、ユーザーに対し、どれだけ貢献するものか、試算や、検証がされることも、全くない。



まともなバイク乗りなら、こんな「従順なお散歩犬」のような機械は、欲しがらないだろう。

(いや、この技術の目的はバイクではないことは承知しているので。そちらのツッコミは無用である。ちなみにこれ、「キャスターを変えている」旨の技術解説を見かけるが、変っているのは、トレールだ。)

「乗って楽しいバイク」とは、こんなものではない。
ちゃんと、人の感性に添うものだ。

人が乗り、操作し、内外からの入力に反応することで、「結果」として、返して来る。
その大きさや周期、遅れなど(私はいっぺんに「波長」と例えている)が、人にとって楽しいと感じられる、そういう姿をしているもの。

everlasting(持続的)なもの。
飽きないもの、普遍性があるもの。
長く愛され、長く使われるから、耐久性は不可欠だ。

どうやれば、そうなるのか。
どう作れば、そうできるか。

過去、そういうバイクをいくつか取り上げてきたが。それらが全て、そうなるべく、意図的に作られていたとは言わない。ぶっちゃけ、たまたまそうなっただけ、としか思えないものも少なくなかったが、何れにせよ、それを「楽しくしよう」と、日に影に奮闘した人々がいたおかげで、それが実際に「楽しく」なったろう事だけは、妙にリアルに想像がついたものだった。

上に挙げた写真に写る人々は、ほんとうに満遍なく、楽しそうに見えるのだが。それは、「思い通りにしよう」と奮闘していたり、その結果「思い通りになった」瞬間であったりするわけで。楽しそうなのは、当たり前なのだ。

思うに。

技術的に、「楽しいバイク」の何たるかというのは、ほぼ、この頃にはもう、分かっていた。
(個人的な見解だが、具体的には、1950年代頃までかと思う。)

バイクにとって、「楽しい」というフィーチャーは、その時代で終わっていた。

それ以降、成長とか、進化とか言われ、我々がそう思い込んでいたものは、ただの贅肉のようなものだった。
実際のところ、踊り場で、同じ所をくるくる回っていたようなものだ。

先日、読者の方から、文章より写真の方がよいと言われ、愕然とした。
いや、私もそう思ったのだ。(笑) だから、余計に驚いた。

自分のグチにも、そろ飽きてきた、というのもある。

ただ、私が求めていたのは、ああバイクって楽しそうだな、乗りたいなと。そう思う、根本の部分の、「共感」だったのだなと。

「ああ、バイクって楽しい。」

そしてそれが、この時代の写真で、既に如実に伝わってしまったということに、今更ながらに、驚いたのだ。

技術的には、今の何万画素のカラー写真とは比べるべくも無い、古い、銀塩の、白黒写真だ。
それでも、彼らの心情を、如実に伝えてしまう。
まるで、50年代の、古い、隠れ名車のように。

それがまるで、技術の「進化」と言われるものの空回り加減を示しているようでもあり。二重の意味で、ガックリ来たのだ。

「何だ。終わってたのか。」

そんなわけで。
当ブログの更新は、当面、休ませて頂こうかと思う。

これまでご覧いただいた読者の皆様には、長い間のご愛顧に、心からのお礼を申し上げたい。

また何かあったら、再開することもありうるかとは思うが。
このまま消滅と相成っても、ご容赦願いたい。


皆様のバイクライフの、より一層の充実を祈りつつ。


以上


真ん中の不審者はカルカーノです。


コメント

_ (未記入) ― 2017/03/28 21:56

4年と少しの間、楽しく拝見させていただきました。
非常にしみじみとする内容ばかりで他人とは思えません。

教習所に通っている時期にOHVのフラットツインとは何者だろう?と本家のページに辿り着いたのがきっかけでした。

以後、人生初バイクがアガリバイクと笑われながら乗り続け、現在はOHVが2台とカブが1台で落ち着いています。
“一体となった生き物”になるのはいつのことやら…という有様ですが、バイクを楽しむ道としては間違いではなかったと思います。

仕事では四輪業界にいますが、人間の感性に合った気持ちのいい乗り物というものは、こちらでも望めません。
おそらく、私が業界に入る前に種が死滅したのでしょう。
(電気仕掛けの自動車は楽を通り越して眠くなってしまいます)

今は僅かに残った“対話できるモノ”のコンディション維持がせめてもの抵抗だと思っています。
願わくば私の寿命を超えて愛され、種となってほしいものですが、規制で一掃されるのが先かもしれませんね。

誰も振り向かなくても。
気持ちよさを感じられるだけ。
もう少しだけ。
私は走り続けたいと思います。

駄文失礼しました。

ありがとうございました。

_ ombra ― 2017/04/01 08:46

コメントをいただき、ありがとうございます。

OHVフラットとスーパーカブですか。
これまた究極の組合せですね。
車種の趣味としては、私と正反対のようですが。(笑)
私の記事が、何かご参考いただけたようでしたら僥倖です。

そうですね、クルマの方は、ある意味バイクより先を行ってますね。
もうすぐ、運転自体が要らなくなる勢いですし。
寝てても呑んでてもOKとなれば、それは進歩かも知れませんが。

先日、A112ジュニアの中古車を見かけまして。
(とにかく遅いけど、運転だけは楽しいと聞いていた車種です。)
しばし立ちすくんでしまいました。(笑)

バイクの方は、私ももう少し、もがきながら乗るつもりです。
当ブログと同様、いつまで続くか・・・ですが。

ホムペは、もうしばらくは置いておきます。
また記事を追記してみたので、よろしければご覧になってみて下さい。

では。

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