RACERS ホンダ NR5002020/07/05 06:30


  


NRだ。
また懲りずに読んだ。

比較的、最近に出た本なので。
ナンボか、新事実のようなもんがあるのかと思ったのだが。
あまりなかった気がする。

そのかわりというか、何だか、気が済んだ。

「素の機械としての、GPレーサーNR」が、これまでになく、よく紹介されていた。

NRを、その始祖から見直す視点を、改めて与えてもらったように思う。

当時は無論、今見ても、GPレーサ―NRは、「斬新の塊」だった。

斬新は、エンジンだけじゃなかった。車体も足回りも、あれもこれもやろうとし過ぎて、当初から、まとまりそうになかった。単純に、それは、膨大な手間がかかるだろうはずのものだった。

「斬新の塊」なだけに、NRが踏み込むのは、未知の領域だ。
そこに分け入らなければ出会わない類の、独自の問題に苛まれた。
無論、解は、どこにもない。
解決には、時間がかかる。

そこへ来てだ。開発陣は若かった。
経験の裏打ちはなかったし、手立ての「引き出し」も少なかった。
模索にも、時間がかかる。

当時のホンダは、大企業化が進み、チャレンジ精神を無くしつつあった。
そこに、「喝を入れる」。
NRプロジェクトには、そういう意図もあった、とある。

しかし、会社は、わかっているようで、わかっていなかった。
大企業ライクな「甘え」、誰かが勝手に何とかしてくれることを自動的に期待する、そんな雰囲気があった感は否めない。
その証拠に、若さを取り戻すはずが、逆に、若さに甘えていた。

そもそも、この仕事の質と量。
若さと気合いで何とかなるものではなかった。
技術的な課題を、徹夜仕事で何とかできた時代は、もうとっくに終わっていた。

初めから、助走も暖気も、無いも同じ。
しかし、世界GPのスケジュールが、待ってくれるわけもない。

過労死ものの労働量。
当時の昭和のサラリーマン、特に技術者は、どこもこんなものだったとはいえ。(私も身に覚えがあるから、想像はつく。)

瀬戸際のすったもんだが、しばらく続いた後。
NRがどんなものか、やっと、何となく、見え始めた頃。

まだ、問題は山積みのままだったが、その向こうに、うっすらと見え始めたもの。当時のNRのメンバーが、全力を賭して目指したもの。

この本にある、当時の機体に残された苦闘の跡が、その一端を、如実に物語っている。

以前、私が書いたものに返答を下さった 当事者の弁 にもある通り、それは、4ストロークガソリンエンジンの、究極の姿の一つでもあったろう。

4ストの設計をパワー優先で絞り込むと、物理的なナンダカンダを吹っ飛ばして結論だけ書けば、回転馬力型、「回してナンボのブンブン丸」になる。

ピストンの形やバルブの数とか、関係ない。
4サイクルガソリンエンジンである限り、パワーを出そうとすれば、粗方そうなる。

現に、SBKもMGPもそうなっていて、電子制御で何とかしつつ、燃費など各種規制でフタをしているだけだ。
その場その時で尖らせたり丸めたりしているだけで、本質は変わらない。

NRも、その範疇を出ない。

かつて、タカズミは言っていた。
「NRは乗りやすかった。パワーがないからね。」
この本でも、同じことを言っている。
「いい経験だったよ。」

ロン・ハスラムは、違う言い方をしている。
「NRはピーキーだった。ピークパワーがないので、ひたすら回すしかなかった。」
「あのまま開発しても、NSには敵わなかったろうね。」

言葉の表面(オモテヅラ)は正反対だが。
意味する所は同じだろう。

先端だったが、新しくはなかった。
だから、アウトブレイクにもならなかった。

仕事はレースだ。
勝てなければ、意味がない。
だが、NRは勝てなかった。
勝てない駄作だったのだ。
だからホンダは、NRを捨て、NSに切り替えた。

当時の、GPレーサ―NRの開発メンバーが、全力を賭して目指したもの。
私はそれを、本書に逐一追い、想像した。

しかしそれは、これまで私が得た知識や経験から予想されたものから、やはり、逸脱するものではなかった。

こんなもんだろうなあ、と思っていた。
多分、ほぼその通りだ。
そんな感じだ。

他方、私が抱き続けた違和感の方、世間的に、かねてNRが語られる際に醸し出される妙な雰囲気だが、こちらの方も、相変わらず感じた。

まず、書き手の側の問題なのだが、「NRをケナしてはいけないという雰囲気」だ。「NRは夢だったという神話」のことでもある。

当時の技術者が、「あの時オレは夢を見た」と、武勇伝ライクに回想するのは勝手だ。しかし、本書でもそうなのだが、NRに携わった当人たちは、本当に、多くを語りたがらない。

彼らはいわば、NRの意味を一番よくご存知の、帰還兵でもある。今頃になって、あれは夢だった、などと半ば美化して語ることを、潔しとしないのではなかろうか。

それをだ。
他人かつ後進である我々が、夢などとあげつらうのは、やはりおかしい。

最もイヤがられる例を挙げる。

先の大戦で、命を賭して戦った英霊たちの行為は、尊かった。
だからと言って、そのために誂えられた桜花や回天が、尊いわけはない。
そもそも、機械そのものを奉ったところで、英霊たちへの手向けになるわけもない。

至らずながら、仕事として、機械に携わる後進として、むしろ、どうしてそんなものを作るに至ったのか、そちらの方を知りたいと思う。今後はそうならないように、何かを未来に伝えたいとも思う。その方が真っ当だろう。

義務感を背負わされ、突っ込んで行ったゼロ。
片道燃料で、出港した大和。

その挙句、戦争には負けたのだ。
何でだ。
何がそうさせた。

我々は、過去の困難に対して、感情的に涙を流したり、弔い合戦には容易に同調する一方で、事に真面目に向き合い、総括して乗り越えることは、あまりに不得手だ。

NRも、ある意味、同じなのだろう。

本書も、なぜNRが潰えたのか、その原因を詳らかにした方が、振り返りの記事としては、価値があったように思う。
(逆に、「夢語り」にこもりたがる姿勢は、何かを忘れようとしているようにさえ見える。)

もう一つ。
これも、大変にイヤがられる話題なのだが。
やはり、触れておく。

市販車の方のNRだ。

レーサーNRと、市販車NRの、決定的な矛盾。
私はこれが、ずっと理解できないでいた。

GPレーサ―NRは、馬力一辺倒に突き詰めた、究極の「ブンブン丸」だった。
扱いにくく、耐久性がなかったから、レースでは勝てなかったし、尚のこと、量産車には向いていなかった。
だからホンダは、この技術を、サーキットに置いてきた。

はずだった。

なのに、ずいぶん後になって、市販した。
何故だ。

今回、改めてレーサーの実車を見て、もう一度考えて、やっと、何となく、合点がいった。

理解できた、のではない。
わからなくて当然と納得した、が近い。

GPレーサーNRと、市販車NRには、脈絡がない。

GPレーサ―NRが目指したものと、市販車NRが提供していたものには、関連がないのだ。

当時、レーサーNRの開発に邁進していた当事者たちが作りたかったのは、市販車NRのようなものでは全くなかった。

無関係なんだから、探してもないし、考えても分かるはずがなかったのだ。
それが、本書ではっきりした。

楕円ピストンは、一般ユーザーの利益にはならない。
だから、外観を始めとした脈絡のない無意味なフィーチャーで擬装した。
そこにかかった無駄なコストは、そのままユーザーにおっ被せた。

「売らんかな」という、社内的な物差しを、判断基準とする。
ホンダという会社の本質は、 ずいぶん前に見てはっきりした が、それと同じ脈絡だ。

当時の、ホンダ社内の景色を想像してみる。

ホンダは既に、大企業だった。

「オヤジ」と慕われ、恐れられた、宗一郎氏が引っ張っていた頃のような、若々しいエネルギーは、失われて久しい。
企業の利益が優先され、新しいリスキーな仕事は忌避され、技術者の仕事は、リピート作業になった。
争うのは数字であり、社内の評価であり、敵は隣の部署だったり、大きな会社にありがちな「開発vs営業」だったりした。
顧客は、製品を買ってくれ、喜んでくれる一人一人ではなく、ナンボ売れたかの数字をもたらす、ボンヤリした統計のイメージになっていた。

そういった状況に危機感を抱き、打開策を講じた入交氏が放った矢の一つが、GPレーサーNRプロジェクトだった、と本書にある。

「困難に果敢に挑む、若々しさを取り戻す。
 ついでに?何かしら技術的なブレークスルーが得られれば、なお良い。」

楕円ピストンは、それを行うに当たり、技術的な手段として、入交氏が発案したもの、ともある。

目的は状況の打破の方であり、楕円ピストンは、単なる思いつきだった。
そういう発端からして、嫌な予感を感じさせるのだが。

案の定、NRプロジェクトは、混迷を極める。
当初の目標をいくつか置いて、とりあえず走ることを優先したと思いきや、また当初の理念に舞い戻ったりと、方針はどこからともなく、二転三転した。

上述のように、果敢に挑むべき技術的な課題は、楕円ピストンだけではなく、車体だの足回りだの、他にまだまだたくさんあった。

ぶっちゃけ、あり過ぎた。

結果、GPレーサ―NRは、潰えた。

その結果が暗示するように、当初の目的であったはずの「状況の打破」にも、さして効果がなかった。

宗一郎氏いわく、モビリティにより人の役に立つのが、ホンダの仕事の目的だと。そうどこかで読んだ。
ユーザーの実質的な利益が、まず眼前にあったのだろう。

この考え方は、形を変えて、大企業ホンダにも残っていた。
沢山売って利益を上げるには、顧客が何を欲しているかを、正確に把握せねばならない。

スーパーカブ に代表される実用車は、それが売れる地域で大量に作ることで、利益を最大化する。

スポーツバイクや大型クルーザーなどの趣味車は、 新しいフィーチャーで飾り立てることで訴求 する。

既に、馬力でもグリップでも、性能は使い切れないほどあったし、ユーザーは、機体の限界よりも遥かに低いレベルで、練り走るのがほとんどだった。それに、実際問題、「買うこと」そのものを目的化している層も、少なくなかった。

「ニーズではなくウォンツ」が、入交氏の信条?口癖?だったと、どこかで読んだ。
ホンダは、ユーザーの利益を、そのように考える企業になっていた。

「乗って楽しい」商品ではなく、「買って嬉しい」商品を提供する。
ホンダがそうなるのは、ある意味、必然でもあったから、その傾向は、先鋭化する一方だった。

そう考えると、NRが、商売のネタとして、社内で企画に上がるのは、ほとんど必然だった気がする。

かつてGPで光った、楕円ピストンの技術。
それを支える、数々のフィーチャー。

そうやって、無駄な艤装でゴテゴテと飾り立てた、あの厚化粧のオバサンのような、市販車NRができあがった。

実車の作りを見てみればわかるが、市販車NRは、特別な作りのバイクではない。ちゃんと手入れをしてもらおうとか、長く大切に乗って欲しいとか、考えられた形跡はほとんどない。実際に、整備なり修理のために手を入れようとすると、ひどくやり難いから、はっきりとわかる。ほぼ使い捨てを想定したと思しき、ホンダのいつもの市販車の作り、そのままだ。

私は、市販車NRを、ホンダが自分で言うような「夢」ではなく、いつものように「ホラよ」とばかりに放って寄こした、ユーザーをなめ切った所業の一つなのだと感じていた。

ユーザーは、こんなものを放られて、喜ぶのではなく、怒るべきだ。これはディグニティの問題だと、そう思っていたし、今も思っている。

だが、おそらく、ホンダ社内から見た風景は、違うのだろう。

それは、仕方のない必然がもたらした、大企業ホンダが見た、無数の小さな夢の一つなのだ。

NRは、楕円ピストンの技術も極められなかったし、大企業体質の打破にも失敗した。2重の意味で失敗したのだから、やっぱり、不憫なバイクなのだ。
そう思うと、レーサーNRの当事者たちが、あまり語りたがらない心境も、何となくわかる気もする。(「あれは何だったんですか」などと今頃問われるのは、随分な迷惑だろうことは、想像に難くない。)

市販車NRを、愛好し、乗り続けている人は、いるのだろうか。
「持っている」人ではなくて、「乗っている」人だ。
「乗って楽しい」バイクでないと、そういうユーザーは、決して現れない。

ホンダは、市販車NRのサポートを、とっくに打ち切っているそうだから、物理的に、維持は相当厳しかろう。
(ホンダのパーツ供給が悪いのはいつものことで、NRだけじゃないけど。)
そのうち、小遣い稼ぎに、リフレッシュプランでもあるかも知れないが。
(新車価格があれだったし、いくらふっかけられるんだろうね・・・。)

本書の編集者にあらせられては、NRの特集は、もうこの2冊で終わらせた方が良かろうと思う。

既に潰えたものだから、興味が尽きないのはわかる。
だが、NRは、このGPレーサ―の次の、耐久レーサーの辺りから、あの腐臭、「コイツでもう一儲け」というあれを、放ち始める。
そしてそれは、量産車NRで、耐え難くなる。
そんな話は、どう紡いだとて、面白い読み物にはなるまい。

私も、もうNRを考えるのは、終わりにしようと思う。


Amazonはこちら
RACERS - レーサーズ - Vol.54 ホンダ NR500 Part.1
RACERS - レーサーズ - Vol.55 ホンダ NR500 Part.2

コメント

_ (未記入) ― 2020/09/27 22:28

なんというか、足りないなぁと思いました。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mcbooks.asablo.jp/blog/2020/07/05/9264944/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。