午前零時の自動車評論 16 ― 2020/10/11 08:30
クルマ評論の配信記事を、まとめた本だ。
以前、1冊目が出た時に 取り上げている 。
それから7年。現時点で 既に17巻目も出ている が、何だかんだで購入、通読している。
今回取り上げるのは、その16巻目の巻末の記事である。
題名は、”唄う挽歌は滅びゆく民のために”。
ちょっとポエミーだ。(笑)
本書だが、発刊の当初から比べると、内容は少々変遷があるようだ。
何となく、言いよどみがちな感じが増えたような。
著者は、真面目な努力家だ。
その帰結として、かなりの自信家でもある。
だが、最近は、加齢のせいか、知り過ぎたのか(同じことかも)、思考に硬直の兆しが感じられる。
環境の変化の影響も大きい。
何せ、クルマ業界は、自動車評論家という概念を消失させる方向に進んでいる。
その環境下で、著者は、自分の仕事の意味を、見失い始めた。
何でも、「書けなくなった」のだそうだ。
それはそうだ。
巷で騒がれるように、自動運転が実現したら、人間は「ドライブ」しなくなるから、「ドライビングフィール」という概念からして、成り立たなくなる。
現状でも、電制があちこちにはびこって、ドライバーから、運転の手段を取り上げて行っている。
そうした状況を踏まえ、著者は、暫く考えた。
そして、ある境地に至ったと。
かつては、乗って楽しいクルマ、人間にどう感じてもらうかに焦点を置き、人間が操作した時にどう反応するかを突き詰めたクルマ達が、確かにあった。
著者はそんなクルマが好きだったし、それを探し当て、その良さを言葉で伝えることに生きがいを感じ、生業としてきた。
今や絶滅危惧種であるそれらの人々、クルマを駆り、自由に操ることに無上の愉悦を感じていた同種の人々を、まるで遠くに懐かしむように、著者は、騎馬民族と称している。
そして、それ向けの記事を書き続けることを再確認することで、アイデンティティの継続に至ったようだ。
(笑) 少し笑ってしまった。
やっとここまで、お出で頂けたかと。
バイク乗りは、乗り物界が、あらぬ方向に向かっていることに、とっくの昔に気付いていた。
かつて、人馬一体の、半人半馬の別の生き物と化して、野や峠を生き生きと走り回っていたバイク乗りが居た。
ここはイタリア語風に、チェンタウリ、と言っておこう。
(直に英語で言うと、どこぞの伝説のグループみたいになるのでね。)
チェンタウリにとって、バイクの上は、彼らが持つ特殊で原始的な能力を解き放てる唯一のフィールドだった。そのための道具、意のままに操られることを旨とする名馬(名機)も、少数だが存在した。それらと共に、彼らが自由に舞えるフィールドを、辛うじて維持していた。
だが、彼らは、もういない。
奇跡的に旧型機を維持できている古参兵が、ごく少数、残るのみだ。
この、チェンタウリしか持たない能力を、その他大勢は、理解できない。
自由は、シェアできない。
どころか、この狭い島国では、代償を伴うことも多い。
しばしば、架空の「大多数」への自発的な迎合を、表に裏に強いられる。
少数派の特殊な能力が理解される余地が、もともと小さいのだ。
洞察力のない人、肝心な現実を隠さんと垂れ込める、濃い霧の向こう側に目を凝らしたことがない人というのは、他人から得た情報や知識に埋もれ、自らそれに拘泥するようになる。モノや情報が豊かになるにつれ、そういう人は、増え続けた。
バイク乗りで言えば、新参者(老若両方いる)は特に、乗って楽しいか、どう操れるかの現実よりも、外見やブランド、優越感なんかのイメージを、手っ取り早く得たい層が大多数になった。
購買で満足し、知識で武装する人は、上達しない。
ただ「次を買う」だけで、自らに向かうことがない。
反省も練習もないから、上達もしないのだ。
もともと、我が国では、バイクは、若い時に乗るだけの、一過性の嗜好品だ。ぶっちゃけ、乗り手はビギナーばかりなのだ。
メーカーにしてみれば、もう買ってくれちゃった人よりも、これから買ってくれる人の方が遥かに大切だから、その視線は「新参者の素人」に、常に向けられていた。
もっとパワーを、グリップを。
(他人を出し抜きたい。安心感と優越感の両方を、ラクに欲しい。)
著名なレーサーが乗っているような、カッコイイのを。
(いつまでも大人になれない男の子。染まりやすいのだよね。)
作り手も、それに迎合した。
そうして、ユーザーと一緒に、劣化して行った。
少なくない時間と金額を賭して蓄積した虎の子の技術は、手っ取り早く儲ける手段に堕とされた。
ユーザーが望む通り、パワーやグリップは増えて行ったが、公道では、使い切れない余剰が増えただけだった。
全開カマせば、即免停。
しくじればただでは済まない速度まで、一瞬だ。
結局、我慢を強いられる度合いが増えただけなのだ。
そもそも、方法論から間違っていた。
レースでの性能は、サーキットという理想状態での、局所最適化に近い。
対して、公道での性能は、あらゆる場面に臨機応変に対応できる柔軟性、今風に言えば、多様性だ。
本質的に、全く別のことなのだ。
だが、そんなことはお構いなしだ。
地上(公道)を徘徊し続けるユーザーの頭上で、メーカーは、空中戦(サーキット)を見せつけ続けた。
無垢な男の子の「憧れ」という燃料を、キープするため。
それを「進化」と言い換えて、擬装することも忘れない。
「進化」は、どんどん続けられた。
しかし、バイクに合わせて、公道のペースが上がるわけもない。
ユーザーは、どんどん置いて行かれた。
残念なことに、そういった本質を見据えて、それがもたらす乖離の意味を真面目に考えるユーザーは、ほとんどいなかった。
その脇で、道具は「進化」を続けたから、乖離は広がる一方だ。
よそよそしい手触りを、更に増して行った。
それが決定的になったのは、「電子制御」が前面に出てきた辺りだ。
もし、バイクがスポーツなら、常用域、限界域を問わず、自らの技量と判断で操ることが必要だ。そこでの上達が、乗ることの目的でもある。道具は、そのための「備え」でなければならない。
しかし、電スロ、トラコン、ABSなどの電制は、裏返すと、乗り手から、操縦の最後の手段を奪ってしまう。
道具が、「乗り手の意図」を脇に置いて、制御コードに込められた「作り手の企図」で、動くようになるからだ。
とはいえ、「進化」は、唯一の商売のタネだ。
メーカーも、自力では止めることができない。
もう近頃では、乗り手の希望や感情の粗方を、排斥するに至っている。
当の、レースの現場を見てみれば、よくわかる。
乗り方は、一部のトップライダーを模して均一化の一途。
差をもたらすのは、ほとんどバイクの性能だ。
「ライダーの技量はセッティング能力」とよく言われるのが、それを裏書きしている。
人間はともかく、ハードで勝負する。
無論、メーカーは、初めからそのつもりだ。
結果、 どう乗るのか。
どう乗ってもらうか。
真面目に考える者は、いなくなった。
バイクはもはや、スポーツの道具ではなく、肝試しライクなイベントで使う、ガジェットに成り果てた。
チェンタウリが生き残る術は、もうどこにも見当たらない。
さて。
本書の主題である、四輪のクルマの方ではどうだったか。
クルマでも、趨勢はバイクとほぼ同じなのだが、様相は少々異なっていた。
クルマには、実用という側面が欠かせない。
それが、事態の変化を隠した。
クルマの市場は、乗って楽しむ遊びグルマというのはほんの少数で、日常の足や運搬などの、仕事グルマがほとんどだ。
そこでは、ラクに便利にという省力化の方法論は正しかったし、ニーズとしても高かった。
ただ、電制を始めとした「便利機能」が、操縦を楽しみたいコアな乗り手の意思を遮断することは、バイクと同じだ。
かつ、クルマの場合は、バイクより広範囲に電制が及んでいて、断絶の幅も大きかった。
一見、好ましい事象だが、裏で、悪化が進行する。
悪化に気づき難いから、気づいた時には進行していて、既に取り返しがつかない。
そして、自動運転である。
個人的には、自動運転をけん引しているのは、中国(のニーズ)だと思っている。
かつて、改革開放政策で開かれたのは、表向きは「市場」だったが、実際は、市民の「欲望」でもあった。
「もっともっと」と欲張りになる一方の彼ら(元々その素質は高かった)は、次の最先端のネタとして、自動運転を志向した。
当局側にしても、市民を制御する意味で、都合が良かったこともあろう。
AIは数値処理なので、データ数(人口に比例する)が多い方が有利だし、開発者に野放図な実験を許せる社会制度といった地の利も、功を奏している。
現に今、最もその開発が進んでいるのは、中国だ。
自動車メーカーとしては、将来的に最も有望視され続ける中国市場での情勢に、従わざるを得ない。
ドイツを始めたとした主要自動車生産国は、中国に軸足を移して久しい。この所ずっと、まず中国向けのクルマを開発して、それを他の国に横流しする、というのが実情だった。
近年、ドイツ高級車の顔つきが、威圧感を更に増したのは、かの国の好みに合わせているからだそうだ。日本でも好きな人が多そうだが。
かつて、著者の言う、騎馬民族的なクルマ造りをけん引してきたのは、やはり、西欧なのだと思う。
しかし、彼らは、自身の判断で、それを捨て去った。
騎馬民族の担い手は、次を生きるために新天地に去り、居なくなった。
片や、将来的には、当面の米中経済戦争やコロナ禍のみならず、温暖化やエネルギー効率(現状、使い過ぎ)など、のっぴきならない問題が続いている。自動運転や電動化だけでは、解決には程遠い。
それでも、食うためには、次を探さねばならない。
右往左往は続くだろう。
個人的な見解だが、クルマやバイクに限らす、近年のマーケットイン型の製品を見るにつけ、それが、見てくれ表面だけはとても洗練されているのに対して、品質の方は、かなり手を抜いた、コストダウンにも抜かりなく取り組んである、大変にあざとい代物であると感じることが増えた。(SONYタイマーみたいなね。もう死語か。笑)
表向きは真摯で売り込んだ裏で、踵を返した瞬間に、舌を出している。
こんなの買うんだよね、バカだよね。
お前たちには、この程度。
いわば、顧客がバカだということを前提にする所から、真の顧客対応が始まる、顧客をリスペクト(尊重)するのは表面だけでOKと、そんな下卑た認識が共有されているように見える(実際、透けて見える)事が、昨今の製品をつまらなくさせている、大きな要因であるように感じている。
そういった趣向で作られている製品は、すぐに分かる。
ユーザーの実際を考えもしなかったろう、よそよそしい手触り。
本書の著者流に言えば、「童貞作のAV」。
そういった状況を、打破したい。
何か手はないものか。
そう思う。
…のだが。
「次の一手」を考える上では、欧米と中国の双方から距離を置ける日本は、いいポジションにあるはずだ。
妙手を打てる、ポテンシャルもある。
だが、日本は、歴史的にも、国内では、助け合いよりも、足の引っ張り合いを是としてきたし、今でも、その傾向は続いている(増えている?)ように見える。
それに、前述の「下卑た認識」を、率先してもいる。
だから私は、日本にも期待できないでいる。
多分、騎馬民族もチェンタウリも、成す術もなく、滅亡するだろう。
私も、もう歳だ。
体も壊れてきた。
引退も、近いだろう。
だが、私の後に、 このルマン に乗る者は、居ないだろう。
本書も、あとどの位、読めるだろうか。
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午前零時の自動車評論16
コメント
_ 煙 ― 2020/10/17 13:38
_ ombra ― 2020/10/24 07:28
お久しぶりです。
ご指摘の記事は、残念ながら拝見できていませんが。ジムニーですよね。何となく、想像は付きます。
記事に書いた、ドライバー排斥の方向は、高級車・高性能車の方が顕著なようですね。高級車なら、高価な電制を数ブチ込んでもペイしますし、高性能車は、そのまま素人に渡しちゃ危ねえし、おイタできねえよう作り込んどこうとか、そんな単純な理由のようですが。
無論、軽自動車を含むボトムレンジでも、同じ傾向はあるわけですが。それから漏れる機体、「ドライバーを排斥しない素直なお動きの機体」が残る可能性は、高まるのでしょうかね。電制の技術が弱いスズキなら尚更(?)、ジムニーや、アルトの特定のグレードなどが、一部で喝采を浴びている光景を、よく見るような気がします。(笑)
私はオフローダーではありませんが、日本の山間部のような自然味あふれる真のガレ場を愛する四駆愛好家にとって、ジムニーは、最後の、かつ、奇跡的な選択肢なんでしょう。
私も、現行ジムニーに試乗はしています。軽のマニュアルで、街中を軽く走っただけですが。確かに、昨今当然の「激しい違和感」は、ありませんでしたね。ただ、納車待ちの列が長くて、私の寿命に間に合いそうもないので。注文には至りませんでしたが。(笑)
そういった「蜘蛛の糸」は、探せばまだあるようですが。糸は細る一方なのは、確かなように感じます。
ご指摘の記事は、残念ながら拝見できていませんが。ジムニーですよね。何となく、想像は付きます。
記事に書いた、ドライバー排斥の方向は、高級車・高性能車の方が顕著なようですね。高級車なら、高価な電制を数ブチ込んでもペイしますし、高性能車は、そのまま素人に渡しちゃ危ねえし、おイタできねえよう作り込んどこうとか、そんな単純な理由のようですが。
無論、軽自動車を含むボトムレンジでも、同じ傾向はあるわけですが。それから漏れる機体、「ドライバーを排斥しない素直なお動きの機体」が残る可能性は、高まるのでしょうかね。電制の技術が弱いスズキなら尚更(?)、ジムニーや、アルトの特定のグレードなどが、一部で喝采を浴びている光景を、よく見るような気がします。(笑)
私はオフローダーではありませんが、日本の山間部のような自然味あふれる真のガレ場を愛する四駆愛好家にとって、ジムニーは、最後の、かつ、奇跡的な選択肢なんでしょう。
私も、現行ジムニーに試乗はしています。軽のマニュアルで、街中を軽く走っただけですが。確かに、昨今当然の「激しい違和感」は、ありませんでしたね。ただ、納車待ちの列が長くて、私の寿命に間に合いそうもないので。注文には至りませんでしたが。(笑)
そういった「蜘蛛の糸」は、探せばまだあるようですが。糸は細る一方なのは、確かなように感じます。
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多少畑違い?のジジイの妄言になりますが…
たとえばスロットルパイプが「吸気経路上のスロットルバルブを物理的に操作して吸気量を直接制御する」モノから「ECUに乗り手の意思を伝達する」モノになりかわったとて、
電子制御のプログラミングと機械づくりにヒトが咬む限り、クモの糸はあるかも?
と思わせてくれた記事をご紹介します。
四駆道楽専門誌CURIOUS【キュリアス】vol.14 p.66-77
スズキジムニーJB64Wのインプレですが、既に読まれていたらスミマセンデス