◆ (単行本) 「価値」こそがすべて! ― 2023/10/20 10:29
図書館で、題名借りしたのだが。
完全に外した。
個人的に、「価値」の本質の解明は、ずっと課題だった。
(「価値」って何なんだろうと、ずーっと考えている。)
本書を、「価値」の何たるかを論じた本と勝手に思いこみ、ときめいてしまった。
「違う」のは、副題を見れば明らかだった。
「ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義」
本書は、ハーバードの教授が、長年熟成してきたMBOの講義におけるバリュー戦略理論を、ご開陳あそばした本である。
ビジネスの話なので、本書における「価値」は、つまりは「値段」のことだ。
そして、その最大化を行う際の考え方、方法論、事例などをまとめている。
個人的に、この手のMBO的な議論は、あまり好きではない。華やかさ、説得力は認めるのだが、どこまで行っても「つまり何なの?」と同じ問いを繰り返してしまう類の、実態のない、上滑りの議論のように見えるものが多いのだ。
本書も、(興味がないながらも)一応通読はしたのだが、同類のビジネス書に違わず、USのWASPの成金層によく見られる類の概念論(しかも著者が考案した新奇な概念ということで端的に理解し難い)が、入り組み、積み重なっている。
お話の骨子としては、仕入れ値(本書ではWTSと呼称)と売値(同WTP)の差(=「価値」)をどう拡大するか、その方法論に尽きる。それを、いろんなアスペクトから分解分類し構造化して解説した後に、「結局、戦略はシンプルが一番」てな所にオチたりするので。これまた、ナンダカナーだったりする。
とはいえ、WWなビジネスを志し、最先端の経営論理に興味をお持ちの、前途洋々な方々には有用な本であることは間違いなかろう。本書の知識は、知っていて損はないことは無論、応用力次第ではあるものの実地の役にも立つだろう。働き盛りの皆様には、一読をお勧めできる。
ワタクシ的には、ビジネスからは当の昔に引退した、病に伏せる老人が読むものではなかったなあと。そんな所だ。
Amazonはこちら
「価値」こそがすべて!: ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義 単行本 – 2023/4/7
完全に外した。
個人的に、「価値」の本質の解明は、ずっと課題だった。
(「価値」って何なんだろうと、ずーっと考えている。)
本書を、「価値」の何たるかを論じた本と勝手に思いこみ、ときめいてしまった。
「違う」のは、副題を見れば明らかだった。
「ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義」
本書は、ハーバードの教授が、長年熟成してきたMBOの講義におけるバリュー戦略理論を、ご開陳あそばした本である。
ビジネスの話なので、本書における「価値」は、つまりは「値段」のことだ。
そして、その最大化を行う際の考え方、方法論、事例などをまとめている。
個人的に、この手のMBO的な議論は、あまり好きではない。華やかさ、説得力は認めるのだが、どこまで行っても「つまり何なの?」と同じ問いを繰り返してしまう類の、実態のない、上滑りの議論のように見えるものが多いのだ。
本書も、(興味がないながらも)一応通読はしたのだが、同類のビジネス書に違わず、USのWASPの成金層によく見られる類の概念論(しかも著者が考案した新奇な概念ということで端的に理解し難い)が、入り組み、積み重なっている。
お話の骨子としては、仕入れ値(本書ではWTSと呼称)と売値(同WTP)の差(=「価値」)をどう拡大するか、その方法論に尽きる。それを、いろんなアスペクトから分解分類し構造化して解説した後に、「結局、戦略はシンプルが一番」てな所にオチたりするので。これまた、ナンダカナーだったりする。
とはいえ、WWなビジネスを志し、最先端の経営論理に興味をお持ちの、前途洋々な方々には有用な本であることは間違いなかろう。本書の知識は、知っていて損はないことは無論、応用力次第ではあるものの実地の役にも立つだろう。働き盛りの皆様には、一読をお勧めできる。
ワタクシ的には、ビジネスからは当の昔に引退した、病に伏せる老人が読むものではなかったなあと。そんな所だ。
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「価値」こそがすべて!: ハーバード・ビジネス・スクール教授の戦略講義 単行本 – 2023/4/7
◆ (単行本) 失われゆく我々の内なる地図 空間認知の隠れた役割 ― 2023/10/22 05:47
表題には空間認識とあるが、本書で扱われるのは、3次元的な空間認識ではなく、2次元の地図的な空間の認知だ。
人類は古来、大陸間をまたぐような、とてつもない長距離を移動することで生息地を広げ、繁栄してきた。その根本には、人類が持つ、地図のイメージを脳内に構築する優れた能力がある。それがどういったもので、どう成されるものなのか。ごく一般的な経験論から、各種の統計、心理学、生物学、社会学、そして最新の脳科学までを網羅して説明している。
脳内マップ作成のプロセスは、自分が小さい頃を思い出してみれば、ある程度は察しが付く。小さい頃は徒歩のお散歩で、もう少し大きくなれば自転車で、知らない所へ行くのは、わくわくする「冒険」だった。今日は引き返したあの向こう、もう少し遠くに、明日は行ってみよう… 一回も行ったことのない、今日とは別の方向に、次は行ってみよう…。こういった、小さな冒険の繰り返すことで、人は、脳内マップ、つまり、ランドマークの配置と、それらをつなぐストリートの二次元イメージを構築していく。
そこで使われる能力は、脚による移動は無論、方向感覚(体勢の自覚や、自分の体がどちらに向いているかの認知)や、認識能力(見えているものが何なのか、動かないものならそれがランドマークに伝えるかの判断)等々、実に様々な能力が関わっている。
実際、脳内の反応をMRIで確認すると、ナントカ細胞とカントカ細胞が発火し・・・といった話の細部は、是非とも本書をご覧いただくとして。本書には、マウスによる実験で脳内にマップがどう構築されるかの最新の結果が網羅されているが、事が「数年前の結果」を含むような最新成果であり、まだ研究者達によるアップデートが進行中なので、結論をお急ぎの皆様のご期待に沿えるのは難しそうだ。
例えば、渡り鳥や回遊魚などは先天的にマップ(のうなもの?)を持っている可能性があるし、自然界に類例は珍しくないようにも思われるが、人の二次元マップは主に個人個人の経験に依っており、例えば男女性差のような遺伝の影響は、多少はあるものの、巷で言われるほどは大きくないらしい。
脳内地図は経験に因るものなので、各人によって異なるし、脳内イメージである以上、厳密を期したものでもない。誰もが皆、自分流にデフォルメされた脳内マップを、自分用に持っている。そう思うと、なんだか楽しい。広義には、「個性」と言えるかも知れない。
思い出してみると、私も子供の頃は、自転車で、今では到底無理なほど、とんでもなく遠くまで普通に行っていた。また、子供がまだよちよち歩きの頃、お散歩で、どこまで遠くで行けるものか、止めることを一切せずに試してみたことが幾度かあるが、これまたとんでもなく遠くまで行けてしまうもので、驚いたものだった。無論、子供が「今日はここまで」と判断するわけではなく、力尽きて眠くなり、グズリ出して終了となる。復路は、抱っこで歩きになる。これまだ大変な負荷だったのだが、今は楽しい思い出だ。
本書には、「子供は思ったより遠くへ行くもの」という研究結果も引かれており、それを踏まえることで、行方不明の小児の探索に成功した例も紹介されている。こういった知見はバカにできない、どころか結構有用でもある。
また、生物学的な例として、統計的にマップの性質には男女差が見られ、男性は「道筋」、女性は「置き場所」を憶えるのが得意な傾向がある、これは、男性が屋外で、女性は屋内で暮らすことが多い(あくまで文化的な一般論として)ことが影響しているという論がある、と紹介されている。しかし、上記の私の実験では、どこまでも行きたがる欲求に、男女差はなかった(サンプルが各1のみなので信憑性はアレだが)し、本書には、マッピング能力は訓練次第で向上可能ともあるから、性差というのは特段取り上げるトピックではない(都市伝説レベル?)のかもしれない。
そんな具合で、議論は必ずしも簡単ではないが、本書では、逆の状況、つまり「道に迷った」状況とはどういったものかまで、例えば認知症なども含めたりして、広範に議論されている。
その中には、我が身に思い当たる節もたくさんあって、例えば、あの子供の頃の自転車遠征の日々が、後のクルマ・バイクの乗り物趣味への移行・発展に至る素地を作ったことは否めない。機械を操る楽しみは無論なのだが、やはり「移動」というのは、人間の根本的な欲求なのだと思う。
どこかのネット記事で、フィットネスバイクより屋外で自転車をこぎなさいとあったが、これと同じニュアンスかもしれない。
人間、行き詰った時にはどこかに行きたくなるし(何かを探しに行くのか、単に逃げたいだけかは置いて)、行き先を見失うと、意味もなくうろついてしまうものだが、要するに、同じことなのかも知れない。
知らないことは常にあるし、そこへ行ってみることには価値がある。そう思えることは、各種のバイタリティの元にもなっているように感じる。
本書では、人が持つ2次元マップ構築能力の拡張として、エピソードの構築能力が挙がっている。「出来事の連鎖をつないで、ストーリーとして紡ぐ能力」は、「見たものを連鎖的につないで、地図を作る能力」と、よく似ている。この考え方は面白く思った。
本書の論を、VRなどバーチャル面に展開するのも面白そうだ。いわゆる視覚情報としてのバーチャル画像だけではなく、例えば、アプリ内の階層認識などの話だ。
Web上のHPや、スマホで使うアプリは、どんなに簡単なものでも、複数のレイヤによる階層構造を持つ場合が多い。
このボタンを押すと何モード、こっちは別モード。そして、それぞれの下に、こっちを押すと何、こっちなら何…という枝分かれが複数、重なっていく。(こっちは商品検索の層、その下にはカテゴリに分けの層、お支払い手続きは、また別の枝の下… といった具合。)
それぞれの層で行える機能があって、ずいぶん前に枝分かれした別の層との関係があったり、まるで無かったりする。(カートから、お支払いの層にはすぐに移動できるが、返品手続きなどトラブル対応の層には全然つながっていない、とか。)
こういったイメージ上の階層構造の把握が、アプリを使う上で前提になっている。若い人は慣れていて、皆まで言うな状態なのだが、年かさやお年寄りは、そうは行かない。お年寄りは、現実世界のリアルなマップの構築には慣れているが、こうったバーチャルイメージの構築には慣れていない。お年寄りにアプリの使い方を説明してみれば分かる。まるっきり基礎から説明せねばならないし、それでもなかなか達成に至らないのは、その辺りが一因のように思う。
その辺りをラクにできるアプリ(の構造)ができたら便利だろう。見回せば、デジタルなアプリケーションの構造というのは、上記のアプリに代表されるような、「何となくこう作るもの」という暗黙の決まりに仕切られ過ぎていると感じることが多い。(それに従っていないと使ってもらえないので仕方がないのだが。) しかし、それを上手いこと打破・脱却出来たら、デジタルデバイスは次の段階へ移行できるのではないか。
今風にゲスに言えば、「イノベーションで大儲け」のネタに使えないかなと、そんなことを妄想した。
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失われゆく我々の内なる地図 空間認知の隠れた役割 単行本 – 2022/4/11
人類は古来、大陸間をまたぐような、とてつもない長距離を移動することで生息地を広げ、繁栄してきた。その根本には、人類が持つ、地図のイメージを脳内に構築する優れた能力がある。それがどういったもので、どう成されるものなのか。ごく一般的な経験論から、各種の統計、心理学、生物学、社会学、そして最新の脳科学までを網羅して説明している。
脳内マップ作成のプロセスは、自分が小さい頃を思い出してみれば、ある程度は察しが付く。小さい頃は徒歩のお散歩で、もう少し大きくなれば自転車で、知らない所へ行くのは、わくわくする「冒険」だった。今日は引き返したあの向こう、もう少し遠くに、明日は行ってみよう… 一回も行ったことのない、今日とは別の方向に、次は行ってみよう…。こういった、小さな冒険の繰り返すことで、人は、脳内マップ、つまり、ランドマークの配置と、それらをつなぐストリートの二次元イメージを構築していく。
そこで使われる能力は、脚による移動は無論、方向感覚(体勢の自覚や、自分の体がどちらに向いているかの認知)や、認識能力(見えているものが何なのか、動かないものならそれがランドマークに伝えるかの判断)等々、実に様々な能力が関わっている。
実際、脳内の反応をMRIで確認すると、ナントカ細胞とカントカ細胞が発火し・・・といった話の細部は、是非とも本書をご覧いただくとして。本書には、マウスによる実験で脳内にマップがどう構築されるかの最新の結果が網羅されているが、事が「数年前の結果」を含むような最新成果であり、まだ研究者達によるアップデートが進行中なので、結論をお急ぎの皆様のご期待に沿えるのは難しそうだ。
例えば、渡り鳥や回遊魚などは先天的にマップ(のうなもの?)を持っている可能性があるし、自然界に類例は珍しくないようにも思われるが、人の二次元マップは主に個人個人の経験に依っており、例えば男女性差のような遺伝の影響は、多少はあるものの、巷で言われるほどは大きくないらしい。
脳内地図は経験に因るものなので、各人によって異なるし、脳内イメージである以上、厳密を期したものでもない。誰もが皆、自分流にデフォルメされた脳内マップを、自分用に持っている。そう思うと、なんだか楽しい。広義には、「個性」と言えるかも知れない。
思い出してみると、私も子供の頃は、自転車で、今では到底無理なほど、とんでもなく遠くまで普通に行っていた。また、子供がまだよちよち歩きの頃、お散歩で、どこまで遠くで行けるものか、止めることを一切せずに試してみたことが幾度かあるが、これまたとんでもなく遠くまで行けてしまうもので、驚いたものだった。無論、子供が「今日はここまで」と判断するわけではなく、力尽きて眠くなり、グズリ出して終了となる。復路は、抱っこで歩きになる。これまだ大変な負荷だったのだが、今は楽しい思い出だ。
本書には、「子供は思ったより遠くへ行くもの」という研究結果も引かれており、それを踏まえることで、行方不明の小児の探索に成功した例も紹介されている。こういった知見はバカにできない、どころか結構有用でもある。
また、生物学的な例として、統計的にマップの性質には男女差が見られ、男性は「道筋」、女性は「置き場所」を憶えるのが得意な傾向がある、これは、男性が屋外で、女性は屋内で暮らすことが多い(あくまで文化的な一般論として)ことが影響しているという論がある、と紹介されている。しかし、上記の私の実験では、どこまでも行きたがる欲求に、男女差はなかった(サンプルが各1のみなので信憑性はアレだが)し、本書には、マッピング能力は訓練次第で向上可能ともあるから、性差というのは特段取り上げるトピックではない(都市伝説レベル?)のかもしれない。
そんな具合で、議論は必ずしも簡単ではないが、本書では、逆の状況、つまり「道に迷った」状況とはどういったものかまで、例えば認知症なども含めたりして、広範に議論されている。
その中には、我が身に思い当たる節もたくさんあって、例えば、あの子供の頃の自転車遠征の日々が、後のクルマ・バイクの乗り物趣味への移行・発展に至る素地を作ったことは否めない。機械を操る楽しみは無論なのだが、やはり「移動」というのは、人間の根本的な欲求なのだと思う。
どこかのネット記事で、フィットネスバイクより屋外で自転車をこぎなさいとあったが、これと同じニュアンスかもしれない。
人間、行き詰った時にはどこかに行きたくなるし(何かを探しに行くのか、単に逃げたいだけかは置いて)、行き先を見失うと、意味もなくうろついてしまうものだが、要するに、同じことなのかも知れない。
知らないことは常にあるし、そこへ行ってみることには価値がある。そう思えることは、各種のバイタリティの元にもなっているように感じる。
本書では、人が持つ2次元マップ構築能力の拡張として、エピソードの構築能力が挙がっている。「出来事の連鎖をつないで、ストーリーとして紡ぐ能力」は、「見たものを連鎖的につないで、地図を作る能力」と、よく似ている。この考え方は面白く思った。
本書の論を、VRなどバーチャル面に展開するのも面白そうだ。いわゆる視覚情報としてのバーチャル画像だけではなく、例えば、アプリ内の階層認識などの話だ。
Web上のHPや、スマホで使うアプリは、どんなに簡単なものでも、複数のレイヤによる階層構造を持つ場合が多い。
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それぞれの層で行える機能があって、ずいぶん前に枝分かれした別の層との関係があったり、まるで無かったりする。(カートから、お支払いの層にはすぐに移動できるが、返品手続きなどトラブル対応の層には全然つながっていない、とか。)
こういったイメージ上の階層構造の把握が、アプリを使う上で前提になっている。若い人は慣れていて、皆まで言うな状態なのだが、年かさやお年寄りは、そうは行かない。お年寄りは、現実世界のリアルなマップの構築には慣れているが、こうったバーチャルイメージの構築には慣れていない。お年寄りにアプリの使い方を説明してみれば分かる。まるっきり基礎から説明せねばならないし、それでもなかなか達成に至らないのは、その辺りが一因のように思う。
その辺りをラクにできるアプリ(の構造)ができたら便利だろう。見回せば、デジタルなアプリケーションの構造というのは、上記のアプリに代表されるような、「何となくこう作るもの」という暗黙の決まりに仕切られ過ぎていると感じることが多い。(それに従っていないと使ってもらえないので仕方がないのだが。) しかし、それを上手いこと打破・脱却出来たら、デジタルデバイスは次の段階へ移行できるのではないか。
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◆ (単行本) 感情の民俗学 泣くことと笑うことの正体を求めて ― 2023/10/24 13:44
題名から、感情について、民俗学という断面で、いくらかでも学術的に論じた本かと思ったのだが。
感情にまつわる言葉について、語源とか、使われ方の経時変化などをつらつらと綴った、随筆に近い内容だった。
ここに記したいものはなかったが、一応読んだのでLog だけしておく。
Amazonはこちら
感情の民俗学 泣くことと笑うことの正体を求めて 単行本(ソフトカバー) – 2023/9/26
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◆ (新書) 欧米人とはこんなに違った 日本人の「体質」 ― 2023/10/24 16:24
世に健康法のネタは尽きない。
書店やネット記事には、健康法に関するものが引きも切らないし、逆に、
「間違いだらけの○×健康法!」
といった体の、流行の健康法に対する警鐘系も、これまた多い。
本書も、題名からはその類型に見えるが。多少の独自性が見られたので、試しに読んでみた。
要するに、世間でもっともらしく語られている栄養学的な知見、糖質制限ダイエット、ヨーグルト体質改善、地中海料理で長生き、ポリフェノール云々の類だが、それらはもっぱら欧米で取られたデータに基づいており、日本人には当てはまらないものが多い。ちゃんとデータに基づけば、日本人の体質はかなり異なっており、従って、健康法も独自なものになる・・・といった感じで、データドリブンな展開でお話が進む。
いろいろと理屈はこねてあって、眉唾やツッコミ所も少なくない気もするが、少々古い本でもあるし、今回はスルーする。端的に結論の辺りをネタバレしてしまうと、要は、伝統の日本食が一番合っている、もう少し運動をせよ、とそんなことに尽きるようだ。
遺伝子的に、かつ環境的に、日本人の体は、日本食に合っている。日本食は、日本人が、自分の体に合うものを、長い時間をかけて選別してきた結果でもあるからだ。日本食の特徴である、コメ、魚、大豆、野菜や海草を中心とした食生活に戻り、コメで摂取する糖質カロリーを増やして、その分運動せよと。まあ、言われれば当たり前だし、何となくだが体感にも合っている。
日本人は、遺伝子的に酒に弱いし、がん発生の仕組みも状況も違っているから、巷の言説を頭から信じずに、データに基づいた独自の具体策をちゃんと立てるべきだと。それもその通りだ。
まあ、既に死病で病室にある私にとっては「時既に遅し」なのだが。「退院できたら食べたいものリスト」は、意外と派手なものは少なくて、湯豆腐とか汁物のような、地味なものが多い。それは、私がベタな下層庶民の育ちだからというのも大きいとは思うが、それだけではない、示唆的なものかも知れないなと、勝手に想像した。
Amazonはこちら
欧米人とはこんなに違った 日本人の「体質」 科学的事実が教える正しいがん・生活習慣病予防 (ブルーバックス) 新書 – 2016/12/14
書店やネット記事には、健康法に関するものが引きも切らないし、逆に、
「間違いだらけの○×健康法!」
といった体の、流行の健康法に対する警鐘系も、これまた多い。
本書も、題名からはその類型に見えるが。多少の独自性が見られたので、試しに読んでみた。
要するに、世間でもっともらしく語られている栄養学的な知見、糖質制限ダイエット、ヨーグルト体質改善、地中海料理で長生き、ポリフェノール云々の類だが、それらはもっぱら欧米で取られたデータに基づいており、日本人には当てはまらないものが多い。ちゃんとデータに基づけば、日本人の体質はかなり異なっており、従って、健康法も独自なものになる・・・といった感じで、データドリブンな展開でお話が進む。
いろいろと理屈はこねてあって、眉唾やツッコミ所も少なくない気もするが、少々古い本でもあるし、今回はスルーする。端的に結論の辺りをネタバレしてしまうと、要は、伝統の日本食が一番合っている、もう少し運動をせよ、とそんなことに尽きるようだ。
遺伝子的に、かつ環境的に、日本人の体は、日本食に合っている。日本食は、日本人が、自分の体に合うものを、長い時間をかけて選別してきた結果でもあるからだ。日本食の特徴である、コメ、魚、大豆、野菜や海草を中心とした食生活に戻り、コメで摂取する糖質カロリーを増やして、その分運動せよと。まあ、言われれば当たり前だし、何となくだが体感にも合っている。
日本人は、遺伝子的に酒に弱いし、がん発生の仕組みも状況も違っているから、巷の言説を頭から信じずに、データに基づいた独自の具体策をちゃんと立てるべきだと。それもその通りだ。
まあ、既に死病で病室にある私にとっては「時既に遅し」なのだが。「退院できたら食べたいものリスト」は、意外と派手なものは少なくて、湯豆腐とか汁物のような、地味なものが多い。それは、私がベタな下層庶民の育ちだからというのも大きいとは思うが、それだけではない、示唆的なものかも知れないなと、勝手に想像した。
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◆ (単行本) 宗教の起源―私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか ― 2023/10/25 10:08
原題は、How Religion Evolved
「宗教はどう進化したか」
オックスフォードの著名な進化心理学者による著書である。
その通り、進化論的な観点から宗教を論じた本だ。
題名にある「起源」を辿ることは意図していない。
宗教が進化しているとして、その筋道を逆にたどれば起源に辿り着くはず、という考え方も成り立つが。本書では、その方向の議論はされていない。
本書の論旨は、宗教とはどんなものか、まずエレメントに分解し、それらが成す構造と関係性を解釈し、各々の特徴(どう表れるか)を詳細に、豊富な文献により、特に進化論的な観点から論じたものだ。
引用される学術分野は多岐に渡る。心理学、哲学、言語学、社会学、生物学、脳科学、人類学…。
本書での「進化」は、学術的な意味、「個体の生き残り・集団の繁栄に適う環境適応」の意味だ。巷の誤用である「一足飛びの発達・発展」とは異なるので注意が要る。
人間と動物を分けるのは、コミュニケーションの深度にあると言われる。言語による意思伝達と、相手の心理に同調する共感力などにより、複雑な社会性を獲得した人類は、群れを大規模かつ高機能に発展できた。今のような繁栄に至れた所以だ。
その初期段階には、抽象思考の能力、概念の獲得があり、それは、言葉、想定、推論、共感、創発といった脳内活動を可能にし、群れの特色としての文化的なものの基礎にもなった。
それら能力の発展は、群れの在り方にも影響し、組織化から分担、生産能力から経済的な発展に寄与し、群れの規模の拡大=人口増大を可能にした(端的に大人数を養えるようになった)。
群れが拡大した結果、集団心理や帰属意識といった群れと個人の関係性も複雑化すると共に、その整理・統治の手段として、法概念の発展と整備をもたらしたり、論理的・科学的な思考にも発展、結実するに至った。
これら一連の変化は、種としての適応力の向上の歴史、つまり「進化」と見ることができる。
宗教の「進化」は、群れの変化と共にあった。
宗教の発生は、群れの発生とほぼ共にあった。ネアンデルタール人の頃から既に、儀式じみたものを行っていたことを語る遺跡がある。
集団で共有する「概念」は、実体のない空想であり、スピリチュアルなものであった可能性は低くない。スピリチュアルやオカルトが宗教と言えるのかは微妙だが、古代人が想定していたものが、アニミズム(自然崇拝、日本の八百万神のような)によく見られる型の、「自分たちより上位の何かを想定し、その支配を受け入れる」型のものであった可能性は高いだろう。それは立派な宗教と言えるだろうし、「神」自体が想定の産物であることから、「死後の世界」など他の概念世界との親和性は、初めから高かった。
農耕文化の浸透と発達は、集団の大人数化を可能にしたが、飢饉などリスクも相変わらず大きかったし、大人数の群れを統率するための締め付けも多かった。その手段としての決まりや掟が、宗教じみていることも普通だった。他方、皆で同じことに一斉に取り組むことで醸造される一体感は快感でもあり、そのいくつかは祭りや儀式として制度化された。その過程で、これまた宗教的な価値観と結びつくことも多かった。
(宗教は、筋を通さずに理由を据えるツールとしては便利?なのかも知れない。)
以上が、本書を一読して得た私の個人的な解釈だ。
私見をないまぜにしているので、本書の趣旨とはかなり違っていると思う。
そんな具合で、我々のものの考え方、感じ方の表に裏に、宗教は張り付いて来たし、今でも大きな影響を持ち続けている・・・わけだが、どうも、著者自身が、その影響を分離できていないように、私には思えた。
著者はアメリカ人なので、その価値観や道徳観、判断基準は、キリスト教由来の規範の影響下にある。無論、著者自身、そのことも踏まえた上で、学術的に議論を進めるべく努力はしているのだが、常日頃に何となく行っている無意識レベルでの思考というのは、そう簡単に分離できるものではない。本書の論が、どちらかというと各論併記で、従前の論からの脱皮というか脱却というか、新規点が今一つ明確になっていない中途半端な印象を受けたのは、そのせいではなかろうか。
上手く説明できないのだが、下手な例えを挙げると、髭剃り後の自分の顔を鏡で眺めて、剃り残しを見つけつつも、剃り直しも面倒なのでそのままで済ませてしまう・・・と、そんな感じだ。
物理的にお話を進めれば論旨としてはシュアになる、という意向の表れなのか、例えば「この儀式はエンドルフィンの分泌量を増やすことが分かっており、脳内幸福感の向上に寄与するので、宗教活動の一環である…」などとやられると、少々力業(ちからわざ)が過ぎるようにも感じる。
私見に戻って、宗教を、思想のレベルで考え直してみる。
思想を語り出すと、議論がたゆたってしまってまとまらない、というのはあると思うが、本来、宗教とはそういうものであるようにも思う。絶対的な神や、それを頂点としたヒエラルキーの設定は必ずしも必要ではなく、よりフラットで広範囲な形もありうるし、宗教がこれからも生きながらえる方向性としても、ありではないかと思う。
ただ、そうなると、宗教というより主義に近いものになり、一体感の醸造よりも、我彼の差別化に使われる可能性の方が高そうにも思う。現に、主義の違いに起因すると思しき不毛な議論でネット空間は溢れかえっているし、自己本位な隣国への侵攻による紛争が立て続けに起きている現実を見るにつけ、事を収束方向に向ける困難さを痛感する。
本書でも、終盤に近くに、宗教が暴力をけん引する現状を指摘しつつ、対策は明示できていない。息詰まったまま終わる感じは、私と同じということか。
残念ながら、妙に救われない読後感となった。
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宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか 単行本 – 2023/10/3
「宗教はどう進化したか」
オックスフォードの著名な進化心理学者による著書である。
その通り、進化論的な観点から宗教を論じた本だ。
題名にある「起源」を辿ることは意図していない。
宗教が進化しているとして、その筋道を逆にたどれば起源に辿り着くはず、という考え方も成り立つが。本書では、その方向の議論はされていない。
本書の論旨は、宗教とはどんなものか、まずエレメントに分解し、それらが成す構造と関係性を解釈し、各々の特徴(どう表れるか)を詳細に、豊富な文献により、特に進化論的な観点から論じたものだ。
引用される学術分野は多岐に渡る。心理学、哲学、言語学、社会学、生物学、脳科学、人類学…。
本書での「進化」は、学術的な意味、「個体の生き残り・集団の繁栄に適う環境適応」の意味だ。巷の誤用である「一足飛びの発達・発展」とは異なるので注意が要る。
人間と動物を分けるのは、コミュニケーションの深度にあると言われる。言語による意思伝達と、相手の心理に同調する共感力などにより、複雑な社会性を獲得した人類は、群れを大規模かつ高機能に発展できた。今のような繁栄に至れた所以だ。
その初期段階には、抽象思考の能力、概念の獲得があり、それは、言葉、想定、推論、共感、創発といった脳内活動を可能にし、群れの特色としての文化的なものの基礎にもなった。
それら能力の発展は、群れの在り方にも影響し、組織化から分担、生産能力から経済的な発展に寄与し、群れの規模の拡大=人口増大を可能にした(端的に大人数を養えるようになった)。
群れが拡大した結果、集団心理や帰属意識といった群れと個人の関係性も複雑化すると共に、その整理・統治の手段として、法概念の発展と整備をもたらしたり、論理的・科学的な思考にも発展、結実するに至った。
これら一連の変化は、種としての適応力の向上の歴史、つまり「進化」と見ることができる。
宗教の「進化」は、群れの変化と共にあった。
宗教の発生は、群れの発生とほぼ共にあった。ネアンデルタール人の頃から既に、儀式じみたものを行っていたことを語る遺跡がある。
集団で共有する「概念」は、実体のない空想であり、スピリチュアルなものであった可能性は低くない。スピリチュアルやオカルトが宗教と言えるのかは微妙だが、古代人が想定していたものが、アニミズム(自然崇拝、日本の八百万神のような)によく見られる型の、「自分たちより上位の何かを想定し、その支配を受け入れる」型のものであった可能性は高いだろう。それは立派な宗教と言えるだろうし、「神」自体が想定の産物であることから、「死後の世界」など他の概念世界との親和性は、初めから高かった。
農耕文化の浸透と発達は、集団の大人数化を可能にしたが、飢饉などリスクも相変わらず大きかったし、大人数の群れを統率するための締め付けも多かった。その手段としての決まりや掟が、宗教じみていることも普通だった。他方、皆で同じことに一斉に取り組むことで醸造される一体感は快感でもあり、そのいくつかは祭りや儀式として制度化された。その過程で、これまた宗教的な価値観と結びつくことも多かった。
(宗教は、筋を通さずに理由を据えるツールとしては便利?なのかも知れない。)
以上が、本書を一読して得た私の個人的な解釈だ。
私見をないまぜにしているので、本書の趣旨とはかなり違っていると思う。
そんな具合で、我々のものの考え方、感じ方の表に裏に、宗教は張り付いて来たし、今でも大きな影響を持ち続けている・・・わけだが、どうも、著者自身が、その影響を分離できていないように、私には思えた。
著者はアメリカ人なので、その価値観や道徳観、判断基準は、キリスト教由来の規範の影響下にある。無論、著者自身、そのことも踏まえた上で、学術的に議論を進めるべく努力はしているのだが、常日頃に何となく行っている無意識レベルでの思考というのは、そう簡単に分離できるものではない。本書の論が、どちらかというと各論併記で、従前の論からの脱皮というか脱却というか、新規点が今一つ明確になっていない中途半端な印象を受けたのは、そのせいではなかろうか。
上手く説明できないのだが、下手な例えを挙げると、髭剃り後の自分の顔を鏡で眺めて、剃り残しを見つけつつも、剃り直しも面倒なのでそのままで済ませてしまう・・・と、そんな感じだ。
物理的にお話を進めれば論旨としてはシュアになる、という意向の表れなのか、例えば「この儀式はエンドルフィンの分泌量を増やすことが分かっており、脳内幸福感の向上に寄与するので、宗教活動の一環である…」などとやられると、少々力業(ちからわざ)が過ぎるようにも感じる。
私見に戻って、宗教を、思想のレベルで考え直してみる。
思想を語り出すと、議論がたゆたってしまってまとまらない、というのはあると思うが、本来、宗教とはそういうものであるようにも思う。絶対的な神や、それを頂点としたヒエラルキーの設定は必ずしも必要ではなく、よりフラットで広範囲な形もありうるし、宗教がこれからも生きながらえる方向性としても、ありではないかと思う。
ただ、そうなると、宗教というより主義に近いものになり、一体感の醸造よりも、我彼の差別化に使われる可能性の方が高そうにも思う。現に、主義の違いに起因すると思しき不毛な議論でネット空間は溢れかえっているし、自己本位な隣国への侵攻による紛争が立て続けに起きている現実を見るにつけ、事を収束方向に向ける困難さを痛感する。
本書でも、終盤に近くに、宗教が暴力をけん引する現状を指摘しつつ、対策は明示できていない。息詰まったまま終わる感じは、私と同じということか。
残念ながら、妙に救われない読後感となった。
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宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか 単行本 – 2023/10/3
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