◆ (単行本) 欲望の見つけ方 ― 2023/10/03 06:47
表紙カバーに大きく、
「人は皆、誰かの欲望を模倣する。」
まさにその通りの内容の本だ。
ルネ・ジラール という学者に師事した著者が、その思想を実際に即して解説している。
その骨子だが、
我々は普段、自分の意思で物事を決定していると考えており、当然、次に何を欲するかも、同様に考えている。
だが実際は、自分が属する群れの意図や、そのモデルとなっている特定の個人などの影響を大きく受けており、実質的に「ほぼ模倣」と言える行動を取っている。
それがどのようなメカニズムで発現し、どのような副次効果をもたらすのか、実際に即して考察する。
・・・といった感じだ。
そのメカニズムの詳細だが、理屈としては、あまり複雑なものではない。
齟齬を承知でかみ砕くと、
まず、隣人と比較して、自分には無いものを「ボクも」とばかりに欲しがるケースがある。これは、人間が持つ根元的な欲望の在り方であり、古代から繰り返し発現しているメカニズムだ。このタイプの欲望は、スムーズに達成できるとは限らない(例えば、欲しいものが「組織上のポスト」のような有限の物だったり、上司など第三者の評価が介在する場合は尚更)。また、上手くいかなかった場合は「争い」に簡単に転化してしまう危険なものでもある。
また、別の形態として「理想的なモデルとして想定されたものの模倣」もある(セレブの持ち物を欲しがる、など)。こちらは、(第三者の)誘導などの意図が介在している場合がほとんどであり(メーカーのステマや、権力者による強制や誘導など)、その管理の実力次第で功罪両面がありうる。(イノベーションになる場合もあれば、民衆圧迫・人権蹂躙になったり。)
グループの理想からの乖離や、事態を収めるための人柱といった意味で、「罪」や「スケープゴート」といった行動も、同じ文脈から説明できる。
外部からの影響による欲望の操作から脱却するには、欲望を操作するメカニズムの種類を意識し、自分がどのメカニズムで欲望を操作されているのかを自覚することで、今の自分の欲望の真偽や、重要度を冷静に判断することが肝要となる。
また、同じことを集団に対して働きかける(あなたが管理職だったら、上記に従った正しいフィードバックをチームに与える、といったような)ことで、グループ内での無用な争いを避け、グループ全体のポテンシャルを底上げしたり、より目的に適う形で、結果に貢献できる。
本書では、古今東西の文献を駆使して、それぞれの模倣の形態の具体的な事例が列挙・説明されている。
(本書のボリュームは、主にこの著者による例示と解説のクドさで造られている。)
また、そこからの脱却の方法も、具体的にケース分けして説明されている。(少々説得力に欠けるようで、あまり納得感は得られなかったが。)
・・・と、本書に倣って、小難しい説明をしてきたが。
自分の事を考えても、朝の通勤時に見かけた中華料理屋のメニューが気になって昼飯をラーメンにしたり、街中やテレビで見かけたカッコいいクルマに似た形や色のを自分でも欲しがったりとか、意図的に、または単に結果として、外部の情報に流されて次の行動を決めていることに関しては、身に覚えがある。
皆様にも、同じような「身に覚え」は、おありだろうと思う。
自分が、何を欲しているか。
それは、どうもたらされたのか。
例えば、次に買うクルマを、どう決めているか。
試乗して見積り取って・・・は無論として。
まず最初の選択として、試乗しに行くクルマは、どう選んだろうか?
たぶん、雑誌やネット記事、メーカーのホムペなどの、情報で決めたろう。
見たことも触れたこともない新型のクルマに興味を持ち、欲しくなる。
それって、どういう仕組みなのか?
個人的に、昔から、不思議で仕方がなかったのだ。
変わり者である私は、「誰も乗っていないレア車だが、乗ってみると面白い」クルマやバイクが大好きで、そんなものを探すのを得意だと自認してきた。
しかし、買うものと言えば他と同じ量産車であることには変わりはないし、決して私のオリジナルというわけではなく、同じクルマに乗っている人も多数いる。当然、私と同じような評価をしている人も、たくさんいる訳である。
そんな、ただ少し微妙なだけと思しき私の価値観はしかし、それでも普通の人には通じないことが多い。
普通の人は、自動的に、大メーカーが推す最新モデル、大概は皆が欲しがっているものだが、それを同様に欲しがるようにできている。
そして、どうにもそれ以外の価値観を、頑なに認めなかったりする。
どうしてそうなるのか、いくら話を聞いてもわからない。
もう「そうなっている」としか言いようがない。
「HONDAのバイクは最高、スーパーカブは名車、CBRは最強…」
でも、傍から見ている分には、その本人はちっとも楽しそうに見えなかったりする。顔は笑顔だけど作り笑い(苦笑い?)だったり、挙句、意外と短期間で降りたり、買い替えたりする。満足できないのだ。
次に何を欲しがるか。
自分が欲するほどの価値は、どこからどうやって来るのか。
そのほとんどは、他人からもたらされる情報に影響されることで始まり、それに心情をクリエイトされることで成立する。
(なので、しばしば、ほぼ「受け売り」または「Copy」となる。)
他人に依存しているから、いつまでも満足できない。
などと言われると、納得できない、時には怒り出す人も居そうだが。
そういう方は、是非本書を読んでいただきたい。
真摯に文を追い、我が身のふるまいを冷静に評価する能力があれば、目鱗は請け合う。
何せ、スマホやSNSで「カスタマイズ」された情報に浸る機会が多い昨今だ。欲望を操作する側に、有利な環境は強化され続けている。気を付けるに越したことはない。
ただ本書、あまり読みやすい本ではない。
「哲学とは、自分が何を考えているか、考えることだ」
という私の個人的な定義に依れば、
「自分が欲するものの出処はどこか、よく考えてみよう」
という本書の題目は、哲学そのものだ。
そのせいかは分からないが、本書の言い回しは、どことなく哲学チックだ。
いちいち回りくどくて、分かりにくい。
また、下記に挙げたAmazonのリンクでも、レビューで多数の指摘が出ているが、とにかく翻訳が下手だ。
思い出すと、高校生の頃、英語のリーダーの授業で、「センテンスの意味がよく分からないので、直訳でお茶を濁してまえ」のようなことを、よくやっていたが。あれと同じような文体が、結構な割合で並んでいる。「小難しい言い回しで誤魔化しただけと思しき、ちっとも意味が伝わってこない、下手くそな日本語」だ。
文章の構成も下手くそで、「ここから先が結論/秘訣/コツ」のような予告の後が、大した話じゃなかったりするので、ガッカリ感も一入(ひとしお)だったりする。
読み初めは、論としてま新しく感じられることもあり、じっくり楽しんで読むのだが、同じような話が続くし、訳が下手で読みにくいしで、だんだん嫌気がさしてきて、後半は速読化してしまった。
終章に近くは、いわゆる対処法についても整理されているのだが、総じて「すぐに信じたり流されたりせずに自力で踏みとどまって考えましょう」的なお話にも感じられ、ということは、理屈としては「本書の内容をそのまま鵜呑みにしてもいけない」ことになるわけで、根本的な矛盾を孕んでいるようにも感じられる。
そんなわけで、読書体験としては、いまいちモヤモヤだったのだが。無論、得るものもあった。考え方としてはま新しく、話としては面白いので、参考程度と割り切れば、面白くも読めるだろう。
また、本書の論は、「自分が」無為な他人のコントロールを避けるにはどうしたらいいか、という方向の作文がほとんどだが、「他人の」欲望をどう上手く/効果的にコントロールするか、の方向での転用(悪用?)も可能なように書かれている。いわゆるリーダーシップ論のような読み方もできる作りになっているので、そちらの意図で読みたい人にも便利だろう。
論理の本質をダイレクトに知りたい向きは、師匠であるルネ・ジラールの原著を直接当たった方がいいだろう。
Amazonはこちら
欲望の見つけ方: お金・恋愛・キャリア 単行本 – 2023/2/21
「人は皆、誰かの欲望を模倣する。」
まさにその通りの内容の本だ。
ルネ・ジラール という学者に師事した著者が、その思想を実際に即して解説している。
その骨子だが、
我々は普段、自分の意思で物事を決定していると考えており、当然、次に何を欲するかも、同様に考えている。
だが実際は、自分が属する群れの意図や、そのモデルとなっている特定の個人などの影響を大きく受けており、実質的に「ほぼ模倣」と言える行動を取っている。
それがどのようなメカニズムで発現し、どのような副次効果をもたらすのか、実際に即して考察する。
・・・といった感じだ。
そのメカニズムの詳細だが、理屈としては、あまり複雑なものではない。
齟齬を承知でかみ砕くと、
まず、隣人と比較して、自分には無いものを「ボクも」とばかりに欲しがるケースがある。これは、人間が持つ根元的な欲望の在り方であり、古代から繰り返し発現しているメカニズムだ。このタイプの欲望は、スムーズに達成できるとは限らない(例えば、欲しいものが「組織上のポスト」のような有限の物だったり、上司など第三者の評価が介在する場合は尚更)。また、上手くいかなかった場合は「争い」に簡単に転化してしまう危険なものでもある。
また、別の形態として「理想的なモデルとして想定されたものの模倣」もある(セレブの持ち物を欲しがる、など)。こちらは、(第三者の)誘導などの意図が介在している場合がほとんどであり(メーカーのステマや、権力者による強制や誘導など)、その管理の実力次第で功罪両面がありうる。(イノベーションになる場合もあれば、民衆圧迫・人権蹂躙になったり。)
グループの理想からの乖離や、事態を収めるための人柱といった意味で、「罪」や「スケープゴート」といった行動も、同じ文脈から説明できる。
外部からの影響による欲望の操作から脱却するには、欲望を操作するメカニズムの種類を意識し、自分がどのメカニズムで欲望を操作されているのかを自覚することで、今の自分の欲望の真偽や、重要度を冷静に判断することが肝要となる。
また、同じことを集団に対して働きかける(あなたが管理職だったら、上記に従った正しいフィードバックをチームに与える、といったような)ことで、グループ内での無用な争いを避け、グループ全体のポテンシャルを底上げしたり、より目的に適う形で、結果に貢献できる。
本書では、古今東西の文献を駆使して、それぞれの模倣の形態の具体的な事例が列挙・説明されている。
(本書のボリュームは、主にこの著者による例示と解説のクドさで造られている。)
また、そこからの脱却の方法も、具体的にケース分けして説明されている。(少々説得力に欠けるようで、あまり納得感は得られなかったが。)
・・・と、本書に倣って、小難しい説明をしてきたが。
自分の事を考えても、朝の通勤時に見かけた中華料理屋のメニューが気になって昼飯をラーメンにしたり、街中やテレビで見かけたカッコいいクルマに似た形や色のを自分でも欲しがったりとか、意図的に、または単に結果として、外部の情報に流されて次の行動を決めていることに関しては、身に覚えがある。
皆様にも、同じような「身に覚え」は、おありだろうと思う。
自分が、何を欲しているか。
それは、どうもたらされたのか。
例えば、次に買うクルマを、どう決めているか。
試乗して見積り取って・・・は無論として。
まず最初の選択として、試乗しに行くクルマは、どう選んだろうか?
たぶん、雑誌やネット記事、メーカーのホムペなどの、情報で決めたろう。
見たことも触れたこともない新型のクルマに興味を持ち、欲しくなる。
それって、どういう仕組みなのか?
個人的に、昔から、不思議で仕方がなかったのだ。
変わり者である私は、「誰も乗っていないレア車だが、乗ってみると面白い」クルマやバイクが大好きで、そんなものを探すのを得意だと自認してきた。
しかし、買うものと言えば他と同じ量産車であることには変わりはないし、決して私のオリジナルというわけではなく、同じクルマに乗っている人も多数いる。当然、私と同じような評価をしている人も、たくさんいる訳である。
そんな、ただ少し微妙なだけと思しき私の価値観はしかし、それでも普通の人には通じないことが多い。
普通の人は、自動的に、大メーカーが推す最新モデル、大概は皆が欲しがっているものだが、それを同様に欲しがるようにできている。
そして、どうにもそれ以外の価値観を、頑なに認めなかったりする。
どうしてそうなるのか、いくら話を聞いてもわからない。
もう「そうなっている」としか言いようがない。
「HONDAのバイクは最高、スーパーカブは名車、CBRは最強…」
でも、傍から見ている分には、その本人はちっとも楽しそうに見えなかったりする。顔は笑顔だけど作り笑い(苦笑い?)だったり、挙句、意外と短期間で降りたり、買い替えたりする。満足できないのだ。
次に何を欲しがるか。
自分が欲するほどの価値は、どこからどうやって来るのか。
そのほとんどは、他人からもたらされる情報に影響されることで始まり、それに心情をクリエイトされることで成立する。
(なので、しばしば、ほぼ「受け売り」または「Copy」となる。)
他人に依存しているから、いつまでも満足できない。
などと言われると、納得できない、時には怒り出す人も居そうだが。
そういう方は、是非本書を読んでいただきたい。
真摯に文を追い、我が身のふるまいを冷静に評価する能力があれば、目鱗は請け合う。
何せ、スマホやSNSで「カスタマイズ」された情報に浸る機会が多い昨今だ。欲望を操作する側に、有利な環境は強化され続けている。気を付けるに越したことはない。
ただ本書、あまり読みやすい本ではない。
「哲学とは、自分が何を考えているか、考えることだ」
という私の個人的な定義に依れば、
「自分が欲するものの出処はどこか、よく考えてみよう」
という本書の題目は、哲学そのものだ。
そのせいかは分からないが、本書の言い回しは、どことなく哲学チックだ。
いちいち回りくどくて、分かりにくい。
また、下記に挙げたAmazonのリンクでも、レビューで多数の指摘が出ているが、とにかく翻訳が下手だ。
思い出すと、高校生の頃、英語のリーダーの授業で、「センテンスの意味がよく分からないので、直訳でお茶を濁してまえ」のようなことを、よくやっていたが。あれと同じような文体が、結構な割合で並んでいる。「小難しい言い回しで誤魔化しただけと思しき、ちっとも意味が伝わってこない、下手くそな日本語」だ。
文章の構成も下手くそで、「ここから先が結論/秘訣/コツ」のような予告の後が、大した話じゃなかったりするので、ガッカリ感も一入(ひとしお)だったりする。
読み初めは、論としてま新しく感じられることもあり、じっくり楽しんで読むのだが、同じような話が続くし、訳が下手で読みにくいしで、だんだん嫌気がさしてきて、後半は速読化してしまった。
終章に近くは、いわゆる対処法についても整理されているのだが、総じて「すぐに信じたり流されたりせずに自力で踏みとどまって考えましょう」的なお話にも感じられ、ということは、理屈としては「本書の内容をそのまま鵜呑みにしてもいけない」ことになるわけで、根本的な矛盾を孕んでいるようにも感じられる。
そんなわけで、読書体験としては、いまいちモヤモヤだったのだが。無論、得るものもあった。考え方としてはま新しく、話としては面白いので、参考程度と割り切れば、面白くも読めるだろう。
また、本書の論は、「自分が」無為な他人のコントロールを避けるにはどうしたらいいか、という方向の作文がほとんどだが、「他人の」欲望をどう上手く/効果的にコントロールするか、の方向での転用(悪用?)も可能なように書かれている。いわゆるリーダーシップ論のような読み方もできる作りになっているので、そちらの意図で読みたい人にも便利だろう。
論理の本質をダイレクトに知りたい向きは、師匠であるルネ・ジラールの原著を直接当たった方がいいだろう。
Amazonはこちら
欲望の見つけ方: お金・恋愛・キャリア 単行本 – 2023/2/21
◆ (単行本) 悪意の科学 ― 2023/10/11 05:47
なかなかキャッチーナ題名だ。
やはりと言うか、近場の図書館では、予約が長蛇の列だった。
特にWebなどのフィールドで、他人の悪意(とそのレベル上げ)を日々意識させられている向きは少なくないだろう。
まさに、そこにアピールしたかのような題名。
副題として、表紙に
「意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」
とあるが、本書の内容が、端的に要約されている。
ちなみに、原題は、
Spite: and the Upside of Your Dark Side
spite を辞書で引くと、悪意や恨み、と出て来るので、訳としては、
悪意:あなたの暗黒面の利点
といった辺りか。
本書が、悪意の「利点」へ言及した内容であることの示唆と取れる。
実際は、どちらかと言うと学術的なアスペクトで書かれた書籍で、同様の書名でありがちな、差別やヘイト辺りにフォーカスした、パヨ系の書物ではない。
本書で扱う「悪意」だが、少々注意が必要だ。
本書の「悪意」は、他人と自分の損得の組み合わせの容態の一つとして定義されている。
他人に得であり、自分にも得な行為(協力)
他人に得であり、自分には得な行為(利己)
他人に損であり、自分には損な行為(利他)
他人に損であり、自分にも損な行為(悪意) ←本書における悪意の定義
日本語的には、これには少々違和感がある。
我々が「悪意」と言う時、単純に「他人を貶める、損をさせる」イメージで、自分が損をするか(コスとをかけるか)は、普通は考慮していないと思う。
ただ、本書では「コストをかけるか」は、一貫して重要な指針を成している。
なので、その辺りは前提として、想定しながら読んでやる必要がある。
この差だが、たぶん、言語に因っている。
原著での「spite」と、日本語の「悪意」の、ニュアンスに差がある、ということなのだろう。
本書は、心理学から社会科学、脳科学や遺伝に係わる研究論文、果ては文学作品に至るまで、膨大な資料を題材として引き、著者の見識を交えながら「悪意」を分類し、解釈し、再構成することで、その何たるかの像を結ぶ。そういう作りになっている。
著者は、アメリカ人だ。引かれる文献も西欧由来がほとんどなので、言葉の定義にしても、必然的に原語のものを踏襲する。
また、本書は、心理学の准教授による半・学術的な考察でもあるので、言葉の意味する所も、曖昧さを避け、なるべき厳密を期しておきたいのは当然だ。
日本語で「悪意」と言った場合、副題にある「意地悪」レベルも含むように、日本語的な曖昧さは避けられないので、あらかじめ定義を明確化することは、妥当な措置と思える。
さて。
「たとえ自分が損をしても、相手に害を及ぼす。」
そこまで思い詰めた行動が、そんなにあるものか?とも思うのだが。
本書には、その実例が、これでもかと出てくる。
著者の興味の一つは、悪意がなぜ、今も残っているかだ。
悪意は、上述の定義の通り、自他共に害を及ぼすものなので、端的に、誰のためにもならない。
群れを全滅させかねないそれは、敗者の論理のはずなのだ。
それが、勝者の歴史であるはずの進化の過程で淘汰されずに、まだ残っているのはなぜか。
進化論の解釈に従うと、進化の過程を経て今に残る我々は、勝者の子孫である(はずだ)。
(と言っても、その時々の環境に適応できる素質を「たまたま」持っていた、というだけなのだが。)
勝者の子孫なので、勝者ならしめた素質を受け継いでおり、それを優先的に使うし、そうすることを半ば運命的に強いられてもいる。
しかし、環境の方は勝手に変わる。変わった後の環境で、勝者の素質が役に立つとは限らない。
その乖離が明確化した時、勝者は滅ぶ。
そして往々にして、墜ちる勝者は、道連れを欲する。
別の観点から、平等主義の裏返しのコンテキストによる解釈も示されている。
群れの成果は、ある程度は確率で決まるものなので、結果は平等に分配するのが、群れの維持としては妥当だ。
故に、平等を超えて不当に多くの(と思しき)成果を望む者は、罰せられる。
罰すべきだ、罰していい、そういう力が、群れの知恵として備わっている。
そういう仕組み論である。
そんな感じで、悪意の背景を成す思想、それを正当化したり抜け道となる概念、発動のトリガー等々、実に多様なアスペクトから、悪意の理解が試みられている。
正義、罪、罰という概念
怒りという感情
共感力の欠如や不足
共感しない相手の選別
欲望
不平等、既得権益、エリート
嫉妬
善人ぶるものへの蔑視
悪意による共感と、そのネットワーク化
シャーテンフロイデ
支配欲
理性と自由
正義という概念は、罰を正当化する。その執行には、往々にして大きな代償を伴うが、脳科学的に中毒性が見られるほど魅力的かつ依存的であるらしい。
怒りという感情で自分に火が付くと、人にも火をつける行為が、即時かつ一時的な判断力の低下・短絡の結果として現れる。心理学的には、それが理性の裏返しである場合もあるそうで、これまたややこしい。
共感力の欠如や不足は、先・後天的の両パターンがある。(確かに、生まれつきの共感力の多寡は散見される。)また、共感をすべき相手かどうかのフィルタリングは、どの文化圏でも普通に見られる。例えば、人種を含むあらゆる差別や、異教徒迫害などがその実例であり、と言うことはつまり、宗教までが「悪意」の規範を成す場合がある。
無論、これらの全てが、「悪意」に直接、影響しているわけではない。タイプ分けは可能だし、本書はその作業に膨大な手間を割いている。様々な角度から光を当てて、ディティールも漏らさず描くべく、緻密な(≒しつこい、くどい)作業をしているのだが、それが事の輪郭を明確化するよりも、複雑化が勝ることにより、かえってボヤけてしまうのは、この手の書物でありがちな帰結だ。
人間の考え方なんて、「こうすべき」という基礎・基盤と、「実際にやること」の間には差があるし、その差分にも、いちいち理由がある。
その入り組み方は、人間というものをよく表しているので、単純に人間ドラマ的に読めば面白いし、「人間がよく書けているなあ」のような解釈も可能だ。
それが本書の価値でもあるのだが、肝心なところで釈然としない印象が、最後に残ってしまう。
悪意を把握し、対処する。
本書には、その手がかりを期待するだろうと思う。
ただ、その「対処」は、一向に明らかにならない。
終章に近く、民主主義の効能に絡んで、少々光が差す様が描かれる程度に留まる。(構成員のリテラシーの向上に期待、のような帰結。そんなのは誰でも書けるだろう。)
つまり、本書は「著者が考えた悪意の解説本」と言えると思う。
個人的に、本書の内容は、人間の認識の相対性で説明できると考える。
人間は、絶対評価が苦手だ。
特に、自分自身の絶対評価ができない。
どうしても、相対評価に陥ってしまい、かつ、それに依存する。
例えば、身長が何センチ、給料の額面よりも、自分より背が高い奴、自分より貰っているヤツが気になる。
比較対象は、兄弟やクラスメート、同僚、同期など具体的な場合もあれ、平均点などの統計値や、評判、噂、世論など、ただの概念の場合も多い。
たとえ絶対値が足りていても、差が大きいと許せないし、それを解消しようと画策する。
よく言えば平等主義が浸透している。
悪く言えば、我々はひがみ根性で動いている。
自分を客観評価できて、それに即して納得して動けるのであれば、悪意など必要なくなる。
比較対象が「概念」というのも曲者だ。概念は、実物を伴わない、ただの脳内イメージだ。実際には無いものと比較しても、埒が明かない。
概念を駆使し、かつ他人と共有できるのは、言語と共感力を持つ人間だけだ。だから、悪意も人間だけで、動物には無い。
また、概念は移ろう。だから、その量や有り方は、地域や人種、文化で異なる。認識が移ろうので、その発露の一端である悪意も、移ろって当然だ。
本書だが、前回取り上げた 欲望を取り上げた本 に比較して、訳はこなれていて読みやすい。
たぶんこれは、原文がドラマチックに、面白おかしさにも考慮して書かれている故だろう。
ただ、後半になると、論理は入り組む一方だし、引用も繰り返されるしで(前々章で定義したコレと比較するとああだこうだ、のような)、ややこしさは増加の一途、かつ、一向に整理されてスッキリしては来ないので、読むのがだんだん辛くなる。端的に、やや膨らまし過ぎの印象もあり、読後の爽快感は期待薄だ。
ただ、純粋に心理学的に悪意を考えるというアプローチはあまり見られないので、知的な興味は引かれるし、知識としても有用と思う。
本書の読者は、そういう人なのだろうと思う。
Amazonはこちら
悪意の科学: 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか? 単行本 – 2023/1/24
やはりと言うか、近場の図書館では、予約が長蛇の列だった。
特にWebなどのフィールドで、他人の悪意(とそのレベル上げ)を日々意識させられている向きは少なくないだろう。
まさに、そこにアピールしたかのような題名。
副題として、表紙に
「意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」
とあるが、本書の内容が、端的に要約されている。
ちなみに、原題は、
Spite: and the Upside of Your Dark Side
spite を辞書で引くと、悪意や恨み、と出て来るので、訳としては、
悪意:あなたの暗黒面の利点
といった辺りか。
本書が、悪意の「利点」へ言及した内容であることの示唆と取れる。
実際は、どちらかと言うと学術的なアスペクトで書かれた書籍で、同様の書名でありがちな、差別やヘイト辺りにフォーカスした、パヨ系の書物ではない。
本書で扱う「悪意」だが、少々注意が必要だ。
本書の「悪意」は、他人と自分の損得の組み合わせの容態の一つとして定義されている。
他人に得であり、自分にも得な行為(協力)
他人に得であり、自分には得な行為(利己)
他人に損であり、自分には損な行為(利他)
他人に損であり、自分にも損な行為(悪意) ←本書における悪意の定義
日本語的には、これには少々違和感がある。
我々が「悪意」と言う時、単純に「他人を貶める、損をさせる」イメージで、自分が損をするか(コスとをかけるか)は、普通は考慮していないと思う。
ただ、本書では「コストをかけるか」は、一貫して重要な指針を成している。
なので、その辺りは前提として、想定しながら読んでやる必要がある。
この差だが、たぶん、言語に因っている。
原著での「spite」と、日本語の「悪意」の、ニュアンスに差がある、ということなのだろう。
本書は、心理学から社会科学、脳科学や遺伝に係わる研究論文、果ては文学作品に至るまで、膨大な資料を題材として引き、著者の見識を交えながら「悪意」を分類し、解釈し、再構成することで、その何たるかの像を結ぶ。そういう作りになっている。
著者は、アメリカ人だ。引かれる文献も西欧由来がほとんどなので、言葉の定義にしても、必然的に原語のものを踏襲する。
また、本書は、心理学の准教授による半・学術的な考察でもあるので、言葉の意味する所も、曖昧さを避け、なるべき厳密を期しておきたいのは当然だ。
日本語で「悪意」と言った場合、副題にある「意地悪」レベルも含むように、日本語的な曖昧さは避けられないので、あらかじめ定義を明確化することは、妥当な措置と思える。
さて。
「たとえ自分が損をしても、相手に害を及ぼす。」
そこまで思い詰めた行動が、そんなにあるものか?とも思うのだが。
本書には、その実例が、これでもかと出てくる。
著者の興味の一つは、悪意がなぜ、今も残っているかだ。
悪意は、上述の定義の通り、自他共に害を及ぼすものなので、端的に、誰のためにもならない。
群れを全滅させかねないそれは、敗者の論理のはずなのだ。
それが、勝者の歴史であるはずの進化の過程で淘汰されずに、まだ残っているのはなぜか。
進化論の解釈に従うと、進化の過程を経て今に残る我々は、勝者の子孫である(はずだ)。
(と言っても、その時々の環境に適応できる素質を「たまたま」持っていた、というだけなのだが。)
勝者の子孫なので、勝者ならしめた素質を受け継いでおり、それを優先的に使うし、そうすることを半ば運命的に強いられてもいる。
しかし、環境の方は勝手に変わる。変わった後の環境で、勝者の素質が役に立つとは限らない。
その乖離が明確化した時、勝者は滅ぶ。
そして往々にして、墜ちる勝者は、道連れを欲する。
別の観点から、平等主義の裏返しのコンテキストによる解釈も示されている。
群れの成果は、ある程度は確率で決まるものなので、結果は平等に分配するのが、群れの維持としては妥当だ。
故に、平等を超えて不当に多くの(と思しき)成果を望む者は、罰せられる。
罰すべきだ、罰していい、そういう力が、群れの知恵として備わっている。
そういう仕組み論である。
そんな感じで、悪意の背景を成す思想、それを正当化したり抜け道となる概念、発動のトリガー等々、実に多様なアスペクトから、悪意の理解が試みられている。
正義、罪、罰という概念
怒りという感情
共感力の欠如や不足
共感しない相手の選別
欲望
不平等、既得権益、エリート
嫉妬
善人ぶるものへの蔑視
悪意による共感と、そのネットワーク化
シャーテンフロイデ
支配欲
理性と自由
正義という概念は、罰を正当化する。その執行には、往々にして大きな代償を伴うが、脳科学的に中毒性が見られるほど魅力的かつ依存的であるらしい。
怒りという感情で自分に火が付くと、人にも火をつける行為が、即時かつ一時的な判断力の低下・短絡の結果として現れる。心理学的には、それが理性の裏返しである場合もあるそうで、これまたややこしい。
共感力の欠如や不足は、先・後天的の両パターンがある。(確かに、生まれつきの共感力の多寡は散見される。)また、共感をすべき相手かどうかのフィルタリングは、どの文化圏でも普通に見られる。例えば、人種を含むあらゆる差別や、異教徒迫害などがその実例であり、と言うことはつまり、宗教までが「悪意」の規範を成す場合がある。
無論、これらの全てが、「悪意」に直接、影響しているわけではない。タイプ分けは可能だし、本書はその作業に膨大な手間を割いている。様々な角度から光を当てて、ディティールも漏らさず描くべく、緻密な(≒しつこい、くどい)作業をしているのだが、それが事の輪郭を明確化するよりも、複雑化が勝ることにより、かえってボヤけてしまうのは、この手の書物でありがちな帰結だ。
人間の考え方なんて、「こうすべき」という基礎・基盤と、「実際にやること」の間には差があるし、その差分にも、いちいち理由がある。
その入り組み方は、人間というものをよく表しているので、単純に人間ドラマ的に読めば面白いし、「人間がよく書けているなあ」のような解釈も可能だ。
それが本書の価値でもあるのだが、肝心なところで釈然としない印象が、最後に残ってしまう。
悪意を把握し、対処する。
本書には、その手がかりを期待するだろうと思う。
ただ、その「対処」は、一向に明らかにならない。
終章に近く、民主主義の効能に絡んで、少々光が差す様が描かれる程度に留まる。(構成員のリテラシーの向上に期待、のような帰結。そんなのは誰でも書けるだろう。)
つまり、本書は「著者が考えた悪意の解説本」と言えると思う。
個人的に、本書の内容は、人間の認識の相対性で説明できると考える。
人間は、絶対評価が苦手だ。
特に、自分自身の絶対評価ができない。
どうしても、相対評価に陥ってしまい、かつ、それに依存する。
例えば、身長が何センチ、給料の額面よりも、自分より背が高い奴、自分より貰っているヤツが気になる。
比較対象は、兄弟やクラスメート、同僚、同期など具体的な場合もあれ、平均点などの統計値や、評判、噂、世論など、ただの概念の場合も多い。
たとえ絶対値が足りていても、差が大きいと許せないし、それを解消しようと画策する。
よく言えば平等主義が浸透している。
悪く言えば、我々はひがみ根性で動いている。
自分を客観評価できて、それに即して納得して動けるのであれば、悪意など必要なくなる。
比較対象が「概念」というのも曲者だ。概念は、実物を伴わない、ただの脳内イメージだ。実際には無いものと比較しても、埒が明かない。
概念を駆使し、かつ他人と共有できるのは、言語と共感力を持つ人間だけだ。だから、悪意も人間だけで、動物には無い。
また、概念は移ろう。だから、その量や有り方は、地域や人種、文化で異なる。認識が移ろうので、その発露の一端である悪意も、移ろって当然だ。
本書だが、前回取り上げた 欲望を取り上げた本 に比較して、訳はこなれていて読みやすい。
たぶんこれは、原文がドラマチックに、面白おかしさにも考慮して書かれている故だろう。
ただ、後半になると、論理は入り組む一方だし、引用も繰り返されるしで(前々章で定義したコレと比較するとああだこうだ、のような)、ややこしさは増加の一途、かつ、一向に整理されてスッキリしては来ないので、読むのがだんだん辛くなる。端的に、やや膨らまし過ぎの印象もあり、読後の爽快感は期待薄だ。
ただ、純粋に心理学的に悪意を考えるというアプローチはあまり見られないので、知的な興味は引かれるし、知識としても有用と思う。
本書の読者は、そういう人なのだろうと思う。
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悪意の科学: 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか? 単行本 – 2023/1/24
◆ (単行本) カリキュラマシーン大解剖 ― 2023/10/12 04:19
「カリキュラマシーン」とは、私のような昭和の世代が幼少の時分にTV放送されていた教育番組(?)だ。
国語と算数のごく基礎を、小さな子供に分かりやすく伝えるべく企画された(はずの)民法の番組だった。
ところが実際は、画面の演技も、流れる歌も、やたらにスラップなギャグが満載で、子供にとってはかなりのインパクトで。そりゃもう、毎朝テレビにかじりつくように見ていた。
教育番組として、勉強の役に立ったのかは、とりあえず置いて。(笑)
とにかく、面白かった。
その印象はかなり深くて、ン十年を経た今でも、断片的に記憶に残っていて。何かの拍子で当時の歌を思い出し、何気に口ずさんだりしている。
当時の映像をまた見たいなあ、とも思うのだが。さすがにもう再放送もなく、諦めていた。
今は便利な世の中で、YouTube辺りを検索すると、断片的なクリップが上がっていて、懐かしく眺めている。
本書だが、私のようにカリキュラマシーンに影響されたと思しき人々が、放映当時に制作に携わっていた関係者へのインタビューを慣行、内容をまとめたものだ。(インタビューの実施時期は、大体10年前の前後。)
この番組に、どういう人が、どんなつもりで、どう関わっていたのか。思い出ベースで語られている。
今は還暦世代の皆様が、当時を語る。
理念や信念、背景や目的、才能とその発露、守った一線や、それとは無関係なワルノリ・・・
それはいわば、優れた才能が、ワーカホリックでもって、手作りで作り上げる、日常的なイノベーションだ。
その雰囲気は、同時代を生きた我々なら辛うじて共有できそうだが。きっと、若い皆様には、想像もつかないものだったろう。
そんな感じなので。
本書は、カリキュラマシーンの裏側まで知りたい!というディープなファンに、アピールする内容だ。
私のような一般視聴者にとっては、まあ真新しくて面白くはあったのだが、「へー、そうだったんだ」レベルの共感が精々で、少々追いつけなかった感はある。
しかし、野放図でいい加減だったが、自由で伸び放題だった「昭和のワルノリ」の雰囲気を、笑いながら(苦笑いも含めて)ここまで読める本は珍しい。
そこに共感できるかは、人を選びそうに思われるが。だからこそ、我こそはと思われる向きは、是非お手に取っていただきたい本である。
Amazonはこちら
カリキュラマシーン大解剖 単行本(ソフトカバー) – 2022/6/17
国語と算数のごく基礎を、小さな子供に分かりやすく伝えるべく企画された(はずの)民法の番組だった。
ところが実際は、画面の演技も、流れる歌も、やたらにスラップなギャグが満載で、子供にとってはかなりのインパクトで。そりゃもう、毎朝テレビにかじりつくように見ていた。
教育番組として、勉強の役に立ったのかは、とりあえず置いて。(笑)
とにかく、面白かった。
その印象はかなり深くて、ン十年を経た今でも、断片的に記憶に残っていて。何かの拍子で当時の歌を思い出し、何気に口ずさんだりしている。
当時の映像をまた見たいなあ、とも思うのだが。さすがにもう再放送もなく、諦めていた。
今は便利な世の中で、YouTube辺りを検索すると、断片的なクリップが上がっていて、懐かしく眺めている。
本書だが、私のようにカリキュラマシーンに影響されたと思しき人々が、放映当時に制作に携わっていた関係者へのインタビューを慣行、内容をまとめたものだ。(インタビューの実施時期は、大体10年前の前後。)
この番組に、どういう人が、どんなつもりで、どう関わっていたのか。思い出ベースで語られている。
今は還暦世代の皆様が、当時を語る。
理念や信念、背景や目的、才能とその発露、守った一線や、それとは無関係なワルノリ・・・
それはいわば、優れた才能が、ワーカホリックでもって、手作りで作り上げる、日常的なイノベーションだ。
その雰囲気は、同時代を生きた我々なら辛うじて共有できそうだが。きっと、若い皆様には、想像もつかないものだったろう。
そんな感じなので。
本書は、カリキュラマシーンの裏側まで知りたい!というディープなファンに、アピールする内容だ。
私のような一般視聴者にとっては、まあ真新しくて面白くはあったのだが、「へー、そうだったんだ」レベルの共感が精々で、少々追いつけなかった感はある。
しかし、野放図でいい加減だったが、自由で伸び放題だった「昭和のワルノリ」の雰囲気を、笑いながら(苦笑いも含めて)ここまで読める本は珍しい。
そこに共感できるかは、人を選びそうに思われるが。だからこそ、我こそはと思われる向きは、是非お手に取っていただきたい本である。
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カリキュラマシーン大解剖 単行本(ソフトカバー) – 2022/6/17
◆ (単行本) 不穏な熱帯: 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学 ― 2023/10/17 10:49
個人的に、ずっと疑問に思っていた。
最近の「自然」の捉え方だ。
自然環境に対して人間が与える影響は「悪」で、それを取り除いた状態が「理想」であり、それを目指すことが「善」である。そういう考え方のことだ。
例えば、昨今の温暖化の議論など、最も先進的と自認される皆様の思考は、こんな尺度に拠っているように感じられる。
しかし、そうなると、目指すべきは「人間のいない世界」、つまりは「人類絶滅」ということになる。どうにもおかしな論と思う。
本書の副題を見た時、この疑問に応えてくれる可能性を感じて、手に取ったのだが。
完全に空振った。
著者は、文化人類学の学者さんだ。
本書は、社会学や人類学といった研究学会の最新の動向に沿った形で、南西諸島での自らのフィールドワークの経過を、学術的に論じたものだ。
何でも、それら研究学会では、これまでの動向を批判的に捉え、脱却を模索する動きが台頭~定着して久しいのだそうだ。
例えば、社会人類学的なフィールドワークのよくあるパターンとして、中南米の未開民族の辺りに密着して、その文化を詳らかにし、自らが属する西洋型の先進社会構造と対比させることで、文化論として描き出す様式がよく見られる。未開文化との差分から、西洋文化が歩んできた進化の過程を論じたり、逆に、古代文化が有していた利点の喪失を嘆いたり、といった具合だ。
その議論では、フィールドワーク先の原住民の文化が、観察者のルーツのものと同じであるという暗黙の了解がある。しかし、その根拠は薄弱だ。実際、原住民の暮らしは一定ではなく、経時的な変化が見られる(歴史がある)ことがほとんどだ。
また、文化そのものの描き方にも問題がある。通常、それは、自然と人間の差分から考察される。自然は、人間の影響が及ばない基準としての役割を想定されているが、実際は、自然の側にも変化はある。人間に由来しない大きな気候変動は過去にも何度かあった一方、人間の活動との相関でしか捉え得ない温暖化のような例もある。どちらにしろ、「自然」を安定した基準として据えるには無理がある。
つまり、基準なり原点なりの安定性と、それとの関係性の把握の双方が揺らいでいる訳で、結果の妥当性が激しく疑われるに至っている。
著者は、自らのフィールドワークを、そういった研究学会の動向の最先端に位置する新たな提言とすべく、本書を執筆している。
本書の文章は、一定の構成要素の繰り返しだ。
まず、フィールドワークの日誌を抜き書き、
次に、文献と対置しながら、学術的な思考を書き連ねる。
たまに、対応すると思しきモノクロ写真が、説明もなしに挿入される。
その構成を、ひたすら繰り返す。
そして、「歴史」や「自然」といった、ごく大まかなアスペクトで、全体を章分けする。
「私はフィールドでこんなことを見たが、その時に私が考えたのは、学会的にはこんなことに相対しており、つまりは、学術的にこういう意味があったと考えることができる。」
本書は、ひたすらに、その繰り返しである。
基本的に羅列であり、結論じみたものはない。
それが、 著者が主張する成果が、結言として簡潔にまとめ得るような単純なものではない、
ということなのか、
そもそも、思考実験としてたゆたうこと自体が目的だった、
ということなのかは、分からない。
また、著者がフィールドワーク先の文化を理解する筋道も、「西洋化された日本文化との対比」から脱却できていない。「初めにこの話を聞いた時には本当に驚いた。それまでこんな風に捉えていたことと全く違ったからだ。」といった記述が随所に見られる。それは、多様性を前提に複眼視的に物を見ようとする近年よくある視線というより、上述の古いタイプの社会人類学的な物の見方(ややもすると西洋優位主義的な)の方に、近いものを感じる。
本書で描かれるのは、ただ著者と従来文献との相対的な位置関係であり、何かしら新しい視座なり、突き抜けた思考なりの、著者のオリジナルなものが提示されたようには、私には思えなかった。
本書の冒頭に、「自分の思考を著しても誰にも顧みられることなく埋もれてしまうことの恐怖」について触れた部分があるが、本書に対する著者の主なモチベーションは、むしろそこにあったようにも感じられた。研究学会のトレンドを鑑みたポジショニングを行うことで、その価値の固定化を図ったわけだ。
本書の思考は、その帯に華々しく書かれるように、著者と背景を同じくする人にとっては、知的興奮を伴うものなのだろう。だが正直、私にはあまり関係がなかったし、冒頭に挙げた疑問には、まるで掠らなかった。
自分が書いたものが、ただ埋もれて消滅してしまうのを恐ろしく思う気持ちは、今、これを、次に出られるかもわからない病院の床で書いている私には、とりわけよく理解できる。しかしそれは、本書の拙さを正当化するものではないだろう。
本書は400頁に及ぶ大著だが、その文字を追う労働に対し、得るものはあまりない。記述は繰り返しも多いし、文章は全体的につたなく感じられる。
総じて、本書は、一般向けにお勧めできるものではないと思う。
ちなみに、本書の題名「不穏な熱帯」は、著者がフィールドワークを行った南西諸島の熱帯の文化が、著者にとって、時に不穏なものに感じられた、といった程の意味合いだ。つまり「釣り見出し」である。
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不穏な熱帯: 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学 単行本 – 2022/12/1
◆ (電子本) 原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 ― 2023/10/18 08:23
Amazon Kindle の電子書籍である。
とあるバイク愛好家が、過去に乗ったバイクの印象や、バイクに乗ることで得られること、その意義などについて、あれこれと記している。
1950年代半ばの生まれと思しき著者は、60年代の日本製バイクの黎明期から、70年代の混乱期(暴走族や3ない運動)、80年代バイクブームの爛熟期、その後の熟成/下降期を、一通り経験された世代に当たる。
日常レベルで楽しめる、身近なバイクを考えた時、小さく軽い原付が、やはり最右翼になる。運転もラクだし、昔は2ストでパワーも結構あったから、ラクなだけの乗り物を超えて、運転そのものも楽しめた。
これが、同じ車体にちょいと大きいエンジンが載る、イエロー(80㏄)やピンク(90~125cc)のクラスとなれば、楽しさも倍増だ。
昔は、飛ばしている原付はまだ寛容な目で見てもらえていたし、構造簡単なバイクは自分でいじるメカの勉強にもうってつけで、ボアアップキットなどの「教材」も、潤沢に供給があった(品質はピンキリだったが)。
この当時の原付は、入門用としての通過儀礼を超えた役割を果たしていた。誰もが通る道であり、だからこそ、ことのほか強い印象を、皆に残していた。
著者が、書名に「原付」を挙げているのは、その辺りの事情の反映だ。
原付以降の著者のバイク歴は、ある意味「日本最強のツーリングバイク」だったTDR250から、中年・子育て期の低迷を経て、往年の原付2種ビジネスバイク(やはり2stだったりする)による、まったりツーリングの辺りに、回帰・収れんしている。この世代のバイク歴としては、よくあるタイプかと思う。
この本、内容は何ということもない、ただのオッサンの昔語りなのだが。あえてここに取り上げたのは、この著者の言う「青春グラフィティ」が、バイクという乗り物そのものの青春時代と、重なっているように思えたからだ。
世界を席巻するに至る日本のバイクが、生まれ、育ち、成長、熟成し、ピークアウトして、行き詰まる。その様を人間に準えると、この著者の経験に、ほとんど重なるように感じられた。
逆に言うと、バイクという乗り物が提供できていた楽しみというのは、この著者の経験談に、ほぼ集約されているのではないかと。
最初に乗るものであり、
最後に戻ってくるもの。
最初であり、最後。
つまり、全てだ。
内燃機の良さを、気軽に楽しめた時代。
軽く小さく、気負いの要らない車体。
ピーキーだが、扱い切れるパワー感。
いろいろ選べるラインナップ。身近に置けるプライス。
実際に乗ってみれば、立ち上がる臨場感と、緊張感。
「ああ、生き返る」
あの感触。
バイクに優越感は似合わない。
(それが欲しければ四輪に行けばよい。)
他人に比べてどうこうではなく、純粋に自分自身の楽しみとして、身近に置きたいと願う道具。
実際、今も、世界規模の業界としてのバイクを支えているのも、ここの市場なのだ。
その「裾野」が無くなってしまった日本の市場は、やはり、いびつなのだろう。
今、バイクメーカーのラインナップを見直しても、このクラスの選択肢は、ほぼスクーターばかりで。昔のような幅はない。
昔は、オフ車からアメリカンから、それこそ無数のタイプがあった。
広くて緩やかな裾野のどこからでも、入り、登れた時代を、懐かしく思い出す。
あの情景は、もう再生しえないのかと。
漠然とした寂しさを、改めて感じる。
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原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 Kindle版
とあるバイク愛好家が、過去に乗ったバイクの印象や、バイクに乗ることで得られること、その意義などについて、あれこれと記している。
1950年代半ばの生まれと思しき著者は、60年代の日本製バイクの黎明期から、70年代の混乱期(暴走族や3ない運動)、80年代バイクブームの爛熟期、その後の熟成/下降期を、一通り経験された世代に当たる。
日常レベルで楽しめる、身近なバイクを考えた時、小さく軽い原付が、やはり最右翼になる。運転もラクだし、昔は2ストでパワーも結構あったから、ラクなだけの乗り物を超えて、運転そのものも楽しめた。
これが、同じ車体にちょいと大きいエンジンが載る、イエロー(80㏄)やピンク(90~125cc)のクラスとなれば、楽しさも倍増だ。
昔は、飛ばしている原付はまだ寛容な目で見てもらえていたし、構造簡単なバイクは自分でいじるメカの勉強にもうってつけで、ボアアップキットなどの「教材」も、潤沢に供給があった(品質はピンキリだったが)。
この当時の原付は、入門用としての通過儀礼を超えた役割を果たしていた。誰もが通る道であり、だからこそ、ことのほか強い印象を、皆に残していた。
著者が、書名に「原付」を挙げているのは、その辺りの事情の反映だ。
原付以降の著者のバイク歴は、ある意味「日本最強のツーリングバイク」だったTDR250から、中年・子育て期の低迷を経て、往年の原付2種ビジネスバイク(やはり2stだったりする)による、まったりツーリングの辺りに、回帰・収れんしている。この世代のバイク歴としては、よくあるタイプかと思う。
この本、内容は何ということもない、ただのオッサンの昔語りなのだが。あえてここに取り上げたのは、この著者の言う「青春グラフィティ」が、バイクという乗り物そのものの青春時代と、重なっているように思えたからだ。
世界を席巻するに至る日本のバイクが、生まれ、育ち、成長、熟成し、ピークアウトして、行き詰まる。その様を人間に準えると、この著者の経験に、ほとんど重なるように感じられた。
逆に言うと、バイクという乗り物が提供できていた楽しみというのは、この著者の経験談に、ほぼ集約されているのではないかと。
最初に乗るものであり、
最後に戻ってくるもの。
最初であり、最後。
つまり、全てだ。
内燃機の良さを、気軽に楽しめた時代。
軽く小さく、気負いの要らない車体。
ピーキーだが、扱い切れるパワー感。
いろいろ選べるラインナップ。身近に置けるプライス。
実際に乗ってみれば、立ち上がる臨場感と、緊張感。
「ああ、生き返る」
あの感触。
バイクに優越感は似合わない。
(それが欲しければ四輪に行けばよい。)
他人に比べてどうこうではなく、純粋に自分自身の楽しみとして、身近に置きたいと願う道具。
実際、今も、世界規模の業界としてのバイクを支えているのも、ここの市場なのだ。
その「裾野」が無くなってしまった日本の市場は、やはり、いびつなのだろう。
今、バイクメーカーのラインナップを見直しても、このクラスの選択肢は、ほぼスクーターばかりで。昔のような幅はない。
昔は、オフ車からアメリカンから、それこそ無数のタイプがあった。
広くて緩やかな裾野のどこからでも、入り、登れた時代を、懐かしく思い出す。
あの情景は、もう再生しえないのかと。
漠然とした寂しさを、改めて感じる。
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原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 Kindle版
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