◆ (単行本) 突っ込みハッチの七転び八起き2023/11/03 12:11

※ 本稿は、オートバイロードレース界の知識を前提にしています。

本書は、81~90年にレーシングライダーとして活躍し、今も同分野のジャーナリストとしてご活躍中のハッチこと八代俊二氏が、ご自身の現役時代を記した本だ。

鹿児島の田舎から出てきて、仕事をしながらレースを始め、モリワキに、次にHRCに関わり、引退するまでの10年間が書かれている。

曰く、子供のころから乗り物が好きだったので、それで食うべく四輪レースの頂点を目指し、父親の強硬な反対を押し切って都会へ出た。

初めに二輪のレースから入ったのは、初期費用の低さと、もともとレース界にコネなどなかった著者が参入するには、四輪より二輪の方が敷居が低かったことがあったようだ。当時は、二輪出身の著名な四輪レーサーも多かったので、妥当なキャリアパスだったようだ。

その二輪レース界だが、81~90年というと、昭和の終期~平成の時期に当たる(平成元年は89年)。二輪業界は、バブル景気と、空前のバイクブームに沸いていた。

当時の業界の雰囲気は、上野にあったバイク街が象徴していたように思う。そぞろ歩きの高校生が、コーリンの店員のハードなセールストークに捕まって、瞬殺で壊れる中古車を無理やり買わされていた。バイクは、乗り物業界の底辺で、それを扱う企業の格も、似たようなものだった。そういう怪しげな企業が、当たり前のように跳梁跋扈していた。

事情はレース界も似たようなもので、労働環境、経営者が人を使うマナーは、当時の時代背景を考え合わせても、かなりの度合いで未整理のままだった。ややもすると、人のことなど何とも思っていない不条理やゴリ押しが、平然とまかり通っていた。

欲望が渦巻き、落とし穴だらけの二輪レース業界での、ハッチのマニューバーが始まる。

しかし、彼のキャリアのマニューバーは、サーキットでのライディング程は、うまく行かなかったようだ。

まず、モリワキだ。

モリワキのレーサーで走るに際し、契約書の類は一切なかったとのこと。走ることや、勝つことで、モリワキからフィーが支払われることはなかった。

レースで勝った際に、運営側から支払われる賞金の受け取りだけは、辛うじて許してもらっていた、それだけだったと。

ハッチは、レースとは別に、モリワキの社員として、市販マフラーの製造(パイプを熱し曲げて溶接して…といった一連の作業)に、朝8時から携わることで給料をもらい、もっぱら、それで食っていた。

この雇用(?)形態だが、当時は「こんなもん」だったようで、かのシュワンツも、「84年にUSヨシムラと契約した時、貰えるのは経費と賞金だけだった」と言っている。(ソースは こちら 。)

だからといって、当時のライダーの苦労は、これで報われていた、とは到底言えない。

ことライダーの勧誘に関して、モリワキは、TT-F1やF3のバイクをライダーに見せて「乗せてあげるよ?」と誘うだけで、他は何もなし。ハッチの時も同じだった。

まあそれでも、マシンから自力で用意せねばならないプライベーターよりも金銭的にはマシだったし、チーム員を揃えてサーキットを転戦するのは結構なマネージメントが必要なので、その手間も省ける分、まだ恵まれていた、と言えなくもない。

しかし、マシンを自分で選べないこと、セッティングを含めた開発面の要求が容れられるかわからないこと、どこのどんなレースにエントリーするかの選択権はなく、会社から強制されることなど、個人の実力養成や、成績の蓄積の面では、ネガも少なくなかった。

レーシングバイクは、あくまでモリワキの意図に沿って作られるもので、ライダーの意向が反映されるとは限らない。同様に、ライダーのポイントランキングには関係ないレース、例えば、突然の海外シリーズへのスポット遠征などを、事前予告なしに、いきなり強いられることも幾度かあった。

モリワキがレーサーを作る目的は、サーキットでの露出度だ。とにかくサーキットで目立てば、それが自社製品の優位性のアピールになり、製品の売り上げに直結する。

この当時(今も、かも知れないが)、バイクのマフラーを換えるのは「普通」だった。

当時のモリワキのマフラーは(確か「フォーサイト」のような製品名だった気がするが、うろ覚え)、サイレンサーに放熱板のようなものが付いている妙な形状で、ぱっと見で見分けがついたのだが。これも、巷で実によく見かけた。

バイク乗りは、何故マフラーを換えるのか。メーカーよりパーツ業者の技術が信頼されていたのか、 排気音への強いこだわり の故なのかは分からないのだが、当時は、VT250Fの辺りのマシンを買って、ヨシムラやモリワキのマフラーに換えるのが当たり前で、かつカッチョ良かったのだ。

同種のパーツのコンストラクターは、ヨシムラやモリワキ、KERKERなど、個人の名前を関したものが多かった。いわば「社長の技術」がアピールポイントになっているわけで、それでしのぎを削る業界は、まるで野武士の混乱戦、「一匹狼の共食い」の様相とも言える、混沌さを呈していた。

そんな世界で稼ぐには、商才は無論のこと、相当の商魂が要る。
そして、モリワキの社長は、実に商魂が逞しかった。

そんなモリワキの社長にとって、ハッチは、説服しやすい相手だったようだ。

義理人情派のお人好しで、朴訥で真面目、内向的な努力家であるハッチは、海千山千の森脇社長にとって、極めて説き伏せ易い相手だった。

まずこっちに返答するのが筋やないのか!
さっきハイって言ったやないか!
今までガンバってきたのに、こんなところで止めてまうんか!
ここまで誰のおかげて走れた思うとるんや!
・・・と、面と向かって恫喝はしないまでも、そういった雰囲気を感じさせて、相手をコントロールする。
そんなことを、意識・無意識を関わらずできるし、やるタイプの人だったようだ。

ちなみに、このハッチのようなタイプの人は、市井の会社など、どの組織でも一定数お見受けするものだ。内向的で問題解決が上手く、小器用で応用が利くのだが、無口で文句を言うことがない。周りからすると、無理難題を押し付けておけば、自動的に何とかしてくれるので、組織の末端(≒最終局面)の現場で便利屋として使うには、実に有用な人材なのだ。しかし、扱いとしては「消耗品」で、当人は疲弊して消耗して、ツブされてしまう場合がほとんどだ。

そして、当のハッチも、似たような帰結を辿ったようだ。

当時のモリワキは、大人の事情で(?)ホンダのマシンを使っていた。しかしそれは、旧い空冷エンジンで、台頭著しいスズキの油冷に勝てなかった。

そんなモリワキにとって、ハッチは、優れたライディングセンスと、与しやすい人格の両面で、劣ったバイクを何とか上位に食い込ませるための便利な駒として、光っていた。

一度乗せて取り込んでしまえば、あとは上述の恫喝まがいの交渉(?)でどうにでもできる。

そんな具合で、その後もハッチは貧乏くじを引き続け、数々のチャンスをフイにする。
(その中には、驚くようなオファーもあったようだが、詳細は本書を参照してほしい。)

そういった状況だが、HRCへ昇格することで、ある程度の改善が期待された。バイクのレース界最高峰のWGPへの道が開けるという意味でも、それは、ハッチの意図に沿ったものになる。
・・・はずだった。

本書に書かれる当時のHRCの内情は、これまた恐るべきものだ。

開発の指標は「ない」。
ほぼ、エライさんのTop Downによる。
それを、秀才型のエンジニアが支える構造。

その風景は、勝手気ままな宗一郎と、スパナでぶん殴られても心酔して付いて行く型のエンジニアの組み合わせという意味で、ホンダの原風景を彷彿とさせる。

いい例が、4気筒NSR500の、チャンバーの取り回しだ。
NSRのチャンバーは、当初、4本が並置されていた。それは、エライさんの指示だったと、当時のエンジニアが吐露していたと。

そのエライさんは、バイクの排気管というのは、一般的な4stパラ4のエキパイように、4本が並んでいるのが当然、と信じ込んでいたようだ。だから、当のNSRも、そう作るように指示した。その出来には「よっしゃ、バイクはこうでなくちゃ」とご満悦だった、とのことだ。(これも、宗一郎が勝手な技術的な思い込みで指示を発していた風景に似て見える。)

こういうやり方をされると、普通、エンジニアは腐る。
だが、この当時、既にただの大企業と化していたホンダでは、不条理に反応しないことが、当然のマナーと化していたようだ。

(あのNRだって、始まりはこれに似た、上司の勝手な発案だった。「ホンダの技術者の夢」のような喧伝文言は、だから、会社による後付けの戯言であることは明らかなのだ。会社の失敗も美化処理して商材にしてしまう。その道具にされたエンジニアは、怒っても良さそうに想うのだが。どうも、諦めた秀才というのは、寡黙になるらしい。)

4気筒NSRは、そのチャンバー配置のおかげで行き場をなくしたリアサスを、空きスペースに、妙な機構を介してマウントしていた。それは、所望の特性には足りなかったから、タイヤのロードホールディングの不足を招き、現場のライダーやメカニックを苦しめた。しかし、その改善は、根本的な構造の大変更を伴うため、放置された。少なくともそのシーズンは、ライダーや現場の技術者に丸投げされて済まされた。

HRCは昔から、レーシングバイクというのは会社都合で造るもので、それに文句を言わず合わせて乗って最速で走らせるのがライダーの役割、という考え方だ。だから基本、ライダーの要求は聞かない。本書にも、かのスペンサーも含めて、ライダーの要求をヒアリングしたことは一度もない、というエンジニア氏の驚くべき証言が載っている。

HRCのこの考え方は、基本的に今でも変わっていない。ロッシや、先ごろのマルクなど、幾多の超有能なライダーたちが、HRCに反発しつつ離脱しているが、その一因はこれだろう。

以下は極めて個人的な意見なのだが、この「プロダクトアウトの押しつけ思考」は、レースに限らず市販車でも、ホンダという会社の体質とも言えるものだと思っている。

最近のホンダは、よく「乗り易さ」で市販車を訴求しているが、それは裏返せば、「これを乗り易いと思え」という企業からの要求だ。

会社は、ユーザーがそれに与するように予め念入りにマーケティング(≒ユーザ側の認識の制御)を施しており、その相乗効果で、販売数量の最大化を図っている。

「ホンダは技術の会社だ、その製品はいつも先進的で、常に正しい」というイメージを浸透させておく。そこへ「乗り易いバイク」をリリースすれば、「ああこれが乗り易い、いいバイクなんだ」と、ユーザーは単純に思い込んでくれる。

一般のユーザーは、新製品の購入に際し、実際に試乗して自ら評価するようなことはしない。評価としては、ネットの提灯記事にうなずくのが精々なのだ。バイクの購買層は、経験が浅い若い人(と経験を忘れ去っているリターン組)がほとんどなので、この程度の戦略で簡単に丸め込める。

で、会社の方は、 設計ではなく生産に関する技術開発に特化して、利益の最大化に安心して邁進できる 、とそういうことになっている。

市井の一般ユーザーでも、バイクライフを充実させるには、道具としてのバイクの評価(本当に技術的に進んでいるのか、とか)や、「バイクは本来こうあってほしい」といったフィロソフィーなり、譲れないポイントなりが大切なはずなのだが。実際には、そんなものが関与できる余地を、ホンダというメーカーは特に、提供しない。

・・・といったようなことは、優良なホンダユーザーであらせられる多くの善良な公道ライダーの皆様には余計なお世話だと思うので。話を、ハッチのHRCに戻す。

さすがにHRCともなると、契約書は一応あったらしいが、契約金の交渉は、交渉と言えるものではなく、ほぼHRCから一方的に提示されるだけだったようだ。

その交渉の時のやり取りがまたふるっていて、HRCのエライさんの話っぷりは、最小限をぶっきらぼうに言い放つだけ。
「いくら欲しいの?」
「これしか出せんよ!」

余談だが、このエピソードは、私がかつて勤めていた、某・大企業のエライさんの言動を思い出させた。

ヒラの私が詰めている末端の職場に、重役が電話をかけて来る。電話の主は、出るや否や「田中!」と一言ガナるだけ。田中というのは、部長の名前だ。要するにそれは、部長を出せ、代われ、という要求なのだ。

この電話を初めて受けた時、私は、新手のいたずら電話かと勘繰った。それ位、常識を逸した言動だったのだが、この後も、同じ様な事例は続いた。

要は、大企業でエラくなると、忖度してもらうのが当たり前になって、人格や言動が歪んでくる。そうやって、世間的には非常識な、いびつな生き物になって行く。そういうものなのだ。

再度、話を戻して。

ハッチが居た頃のHRCでは、契約交渉だけでなく、チームの運営の全般が、そんな具合だった。

2st 500ccに進出したシーズン、まずは国内で年間チャンプを取って地歩を固めたい、という当人の希望は、完無視された。

バイクは頻繁に入れ替わった。その動機は、極めて会社都合の色彩が強いもので、最初にあてがった旧型には乗れてるみたいだから、次は新型を放っておこう、どうせ余ってるし・・・といった具合で、意図も意味も特段なかった。

WGPへのスポット参戦を強いられた。無断欠勤が多いスペンサー用のワークスマシンが余っていたし、その隣で、ライバルのヤマハが、平をWGPへスポット参戦させていて、HRCも対抗して、日本人をWGPで走らせてみたい、そういう意向があったようだ。

そういった諸々の状況下、会社目線では、ハッチはやはり、便利屋的に適任だった。

「というわけで、来週ヨーロッパに飛んで」てな感じで、突然のWGPデビューを強いられる。

しかし、上述のように、当時のNSR500は開発が途に就いたばかりで、まだロクなものではなかった。現場では、延々とセッティングを繰り返してもタイムは上がらず、結局、本戦でライダーが男気の勝負に出て、リスクテイクが裏目って、転倒で負傷が絶えない、そういう環境でしかなかった。

国内GPでもそうなのに、さらに世界GPだ。不確定要素は、さらに増える。サーキットは初めてで様子が分からないし、当時の西欧のサーキットは路面が悪く、ランオフエリアも未整備だったりと、ロクなものではなかった。

バイクも、スペンサーが「イチ抜けた」で余っているのを当てがわれて、しかし、セッティング変更が許されるのかも分からず、そもそも、スケジュール的にその時間がないしで、結局は持ち込みの自分のバイクに乗ろうとすると、メーカーの意図との齟齬を感じ取ったチームの雰囲気が悪くなって・・・と悪循環ばかりが回っていた。

全ては、会社の行き当たりばったりの対応が原因だ。

そのシーズン、ハッチにしてみれば、国内とWGPの二股でポイントが分散して、ランキングは低迷。怪我の繰り返しで、身体的はコンディションも悪化した。

会社に振り回されて、結果が出せない状況を改善すべく、自発的に各方面に取り組んだりで、その後は多少の上向きはあったようだが。そのペースは緩く、必要なレベルに達するには、相当な時間を要した。

この時期、NSR500の開発が低迷していたのも効いていた。ガードナーの根性が潰えて以降は、ヤマハやスズキが台頭し、この後、WGPは、レイニー・シュワンツの時代に入って行く。ホンダが再び王者に返り咲くのは、ビッグバンエンジンの開発を経た後、ドゥーハンの時代まで待たねばならない。

ハッチが居たこの時代は、NSRの「低迷の始まり」の時期だった。その開発がトンネルを抜けるのは、まだまだ遥か先のことで、当時のハッチの立ち位置からは、トンネルの出口は欠片も見えない。

結果、やはりハッチは、便利屋的なポジションから脱せなかった。
当人もそれを感じていて、自分が何のために、誰のために走っているのか、走る意義を見失ってしまう。

当初の目的だった四輪レーサーへの転向の道は、とうに閉ざされていた(既に四輪レーサーも専門職の時代に入っていた)。
二輪のWGPにエントリーはできたものの、年齢や怪我といった身体的なコンディションを考えても、その上位グループに届くかは、かなり難しそうに思われた。
必然的に、潮時を意識せざるを得なくなる。

今のハッチは、レースの解説など、ジャーナリスト分野で活躍されている。
ケーブルテレビのSBK中継の解説は、私もお馴染み、かつお気に入りだ。

彼の解説は独特で、特定のメーカーに与する提灯持ち的な色彩がほとんどなく、レース界の最前線での経験を踏まえつつ、歯に衣着せぬ正直な言葉で、唸らせたり笑わせたりしてくれる。要点だけを、少ない言葉でズバリと伝え、後は視聴者の解釈に任せる話し方は、彼の人格の故なのだろう。これは、一瞬を争う忙しいレースの解説には実にふさわしく、かえって分かり易かったりする。説明と称して、自分の意見や知識をひけらかし、ウソも交えて捲し立てる宮城光(モリワキ時代のハッチの同期、今はホンダの提灯持ちに収まっている)とは対照的だ。

本書で、彼の苦しい現役時代を、今さらながらねぎらいつつ。
末永くのご活躍を、願いたいと思う。


Amazonはこちら
レーサーズ ノンフィクション 第2巻 突っ込みハッチの七転び八起き RACERS - レーサーズ - 書籍 (レーサーズノンフィクション 2) ムック – 2022/11/7

コメント

_ 恐妻家 ― 2023/11/17 21:26

なるほど。それで‘89NSR500の巨摩郡選手は、パワースライドでマシンの向きを変えるなんて必殺技を使わないと勝てなかったのですね。

_ ombra ― 2023/11/18 06:55

巨摩郡!懐かしいですね~。(ヒデヨシ何で死んじゃったんだ・・・)
パワースライドですが、当時、スペンサーが普通にやってましたので。新開発の必殺技というわけではなかったと思いますが。
ちなみに、スペンサーがレッドゾーンを無視した高回転域を常用していたのは、「ピークアウトした後の方が特性が緩やかで扱い易かったから」という本人コメが、本書にあります。
そんなスペンサーに扱われたんだから、NRは不憫だったんだな・・・と、そこだけは同情しました(笑)。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mcbooks.asablo.jp/blog/2023/11/03/9630899/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。