◆ (単行本) 武器としての「中国思想」 ― 2024/02/18 15:13
我々の社会を成す規範というのは、意外といい加減なものだ。
例えば、政治家が悪さを働いたとして、それを非難する声はあれ、法的には穴になっていて罰せられるとは限らない。となると、非難という唯一の対抗手段自体が、無視すればいいだけの対象になってしまう。安部前首相などは、実際にその線で押し通したし、今はそれに続く政治家が渋滞を起こすほどになってしまっている。
それが逆に照らし出すのは、非難という手段のそもそもの正当性だ。政治家らしくない、そぐわない、という批判は、政治家らしい、それにそぐう理想像がまずあって、それが社会的に共有されていることが前提になる。ただ、そんな理想像があったとして、果たしてその正当性は、どう証明されるのか。
それでは政治家と言えない
→ 政治家とはこういうものだ
→ その論拠は?
政治家のみならず、官僚、教師、芸能人、国民など、主語は幾らでも変えられる。
そういう、価値観の大元を成す規範や基準というのは、実のところ、文化的に、または習慣として、何となく共有されたり、受け継がれたりしているもので、境界線は思ったよりぼんやりしていて、人により、時代により、違ったりもしている。
著者は、日本の場合、その規範の大多数を中国思想から借りてきた歴史的な都合上、根本的な所で考え方が通底しており、その効能なり行く末なりは、中国思想の歴史を追うことで、理解も予想もできる。そう本書で喝破している。
本書のもう一つの白眉は、その中国思想の歴史解釈だ。孔子、孫氏、韓非子といった「何とか子」の羅列でもあるそれを理解しようとすると、従来は、その面倒な著書に自力で逐一当たるか、専門書や解説書に依るしかない。しかし、各々の思想に特化した場合がほとんどで、それらの差や、時系列の変遷などを掴むのは容易ではなかった。それが本書では、簡潔かつ一気通貫的に説明されており、一気に解消されている。
大き目の活字で、少ない文字数による、簡素な記述。素人にも配慮した本である。今流行りの、重要部の太文字強調や、章末のおまとめまでついている。ある程度は気楽に読んでもらいたいという著者の配慮だが、その簡潔さ加減は全く痛快なほどで、忙しい皆様のタイパ対策(飛ばし読み)にも十二分に配慮されている。
本書で著者が伝えたいのは、
・ 中国思想は、人間の歴史の根本を成す価値観や判断基準に沿っている
・ 人間の歴史は、ある程度決まった方向性を踏襲する(歴史は韻を踏む)
・ その流れは人類全体に普遍的なもので、汎用性がある
・ 従って、中国思想の影響下にある日本はもとより、世界的にもその把握や予想に役立つ
ということだ。
簡潔さゆえの説明不足感は多少はあるが、読みやすさの効能と両立できており好感が持てる。
個人的には、日本が長年行ってきた、西洋思想とのガッチャンコへの膨大な労力が無視されているのは気になったが、「武器」つまり振るうカタナの一本として中国思想を備えんとする皆様には、十分役に立つだろうし、材料にもなる。その意味で、万人におススメできる。
ご一読を提案したい本だと感じた。
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武器としての「中国思想」 単行本 – 2023/9/27
例えば、政治家が悪さを働いたとして、それを非難する声はあれ、法的には穴になっていて罰せられるとは限らない。となると、非難という唯一の対抗手段自体が、無視すればいいだけの対象になってしまう。安部前首相などは、実際にその線で押し通したし、今はそれに続く政治家が渋滞を起こすほどになってしまっている。
それが逆に照らし出すのは、非難という手段のそもそもの正当性だ。政治家らしくない、そぐわない、という批判は、政治家らしい、それにそぐう理想像がまずあって、それが社会的に共有されていることが前提になる。ただ、そんな理想像があったとして、果たしてその正当性は、どう証明されるのか。
それでは政治家と言えない
→ 政治家とはこういうものだ
→ その論拠は?
政治家のみならず、官僚、教師、芸能人、国民など、主語は幾らでも変えられる。
そういう、価値観の大元を成す規範や基準というのは、実のところ、文化的に、または習慣として、何となく共有されたり、受け継がれたりしているもので、境界線は思ったよりぼんやりしていて、人により、時代により、違ったりもしている。
著者は、日本の場合、その規範の大多数を中国思想から借りてきた歴史的な都合上、根本的な所で考え方が通底しており、その効能なり行く末なりは、中国思想の歴史を追うことで、理解も予想もできる。そう本書で喝破している。
本書のもう一つの白眉は、その中国思想の歴史解釈だ。孔子、孫氏、韓非子といった「何とか子」の羅列でもあるそれを理解しようとすると、従来は、その面倒な著書に自力で逐一当たるか、専門書や解説書に依るしかない。しかし、各々の思想に特化した場合がほとんどで、それらの差や、時系列の変遷などを掴むのは容易ではなかった。それが本書では、簡潔かつ一気通貫的に説明されており、一気に解消されている。
大き目の活字で、少ない文字数による、簡素な記述。素人にも配慮した本である。今流行りの、重要部の太文字強調や、章末のおまとめまでついている。ある程度は気楽に読んでもらいたいという著者の配慮だが、その簡潔さ加減は全く痛快なほどで、忙しい皆様のタイパ対策(飛ばし読み)にも十二分に配慮されている。
本書で著者が伝えたいのは、
・ 中国思想は、人間の歴史の根本を成す価値観や判断基準に沿っている
・ 人間の歴史は、ある程度決まった方向性を踏襲する(歴史は韻を踏む)
・ その流れは人類全体に普遍的なもので、汎用性がある
・ 従って、中国思想の影響下にある日本はもとより、世界的にもその把握や予想に役立つ
ということだ。
簡潔さゆえの説明不足感は多少はあるが、読みやすさの効能と両立できており好感が持てる。
個人的には、日本が長年行ってきた、西洋思想とのガッチャンコへの膨大な労力が無視されているのは気になったが、「武器」つまり振るうカタナの一本として中国思想を備えんとする皆様には、十分役に立つだろうし、材料にもなる。その意味で、万人におススメできる。
ご一読を提案したい本だと感じた。
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武器としての「中国思想」 単行本 – 2023/9/27
◆ (単行本) カエサル (上)(下) ― 2024/02/13 05:24
カエサル、所謂ジュリアス・シーザーを書いた書籍は多数ある。しかし、多くは神格化したり、逆に無用に俗物化したりで、評価は一定していない。著者は、当時の1次資料を始め、近年に至るまで実に幅広い文献を渉猟することで、カエサルの「人となり」をありのまま正確に描くことを、本書で発起している。
近年の史料にも目を通しているので、いわば「ライバルに足を引っ張られる(影響される)」心配もありそうな気がするが。本書を触り読みするだけで、著者の知識量はそのレベルにない膨大なものであることがわかる。本書の詳細さと、それを著わす執念は、冒頭の懸念を瞬殺する。
文字密度の高いページで、上下巻合わせて800頁を遥かに超える大著だ。
時系列に沿って、カエサルが何をしたか、どういう前後関係・背景で、場面設定はこうで、その中でカエサルがどう動き、結果どうなったか。何を言い(書き残し)、それが次の出来事にどう影響し、つながって行ったのか。微に入り細に入り、詳述している。その多くは、当時の文献の引用に依っており、著者や一般人の評価、評論、印象論は、最後に付加される程度となる。
そのクドさは、この手の西洋の書き手が良く発揮する類の、知識量で異論を圧倒することを是としているようにも見える。要するに、文献にこうあるので実際はこうでしたよ、ではなくて、どうだオレはこれだけ調べて知っているのだ、キサマらとは格が違うのだ、と言いたげにも見えてしまう。
本書の内容は軍事面に偏りが見られるが、カエサル当時のローマは内戦期だったこと、著者が軍事の専門家であることなどから、自然の成り行きで致し方ないだろう。カエサルの仕事は、政治や経済を含む国家運営のレベルにあったので少々物足りないが、そこは行間で補足するしかない。
ナントカの合戦でのダイナミックな活躍により、決定的な決着を見たのデスネエ式の、安易なドラマチックな展開は、従って、本書には無縁だ。ただ、起きたこと、あったこと、現実(と思しきもの)を淡々と追い、書き連ねて行く。
今のウクライナ戦争を見るまでもなく、戦争の行方というのは、ダラダラと緒戦が散発的に並行して同時多発する中で、趨勢として決まって行くものだ。それに即すように、例えば、本書の白眉の一つとなるべきルビコン川でさえ、その他の紛争と同様に並置され、淡々と書かれている。
カエサルが居た時代、彼がローマを平定したことはなかった。現に暗殺されて果てたし、その後も内戦は続いた。ローマはずっとキナ臭いままだったし、本書でそれは十二分にわかる。カエサルは、その大きな流れの最前線に乗りつつも、共に流された役者の一人だった。
ただ、ローマの社会に、価値観を始め大きな変革が起きたこの時期に、カエサルのようなドラマチックな人物を役者として使えたというのは、ローマにとって、この上ない幸運だった。本書の読後感は、そこに尽きる。
しかし、本書が、カエサルの行動の記録としては優れている一方、「人となり」を描けているかには疑義がある。あの難しい時代に、のし上がり、事を成し遂げ、後々まで影響を残した、とある傑出した人物であることは、無論のこと分かるのだが。それを描くのに、この文章量は不要で、もっと簡単に書ける。
翻って、「人となり」を描くとなると、当時の文化的な背景まで広く熟知・理解していることはもとより、その応用のために、著者の側にも豊かな人生経験に裏付けられた感性と、感情的でありながら公平で納得感がある評価を行える言語能力が要る。しかしそれは、知識の量とは往々にして無関係だ。
個人的には、カエサルの人となりを知りたいのであれば、塩野先生のローマの辺りの方がよほど面白くて正確だと感じる。やはり、デキる男を生き生きと描くことに関しては、女傑に敵う者はいないのだ。
なお、本書だが、あまりの冗長さに挫折する読者が大半だったようで(かく言う私もかなり読み飛ばした)、既に絶版の一方、古本市場では、上巻が安価で流通しているものの、下巻は貴重本として高値(定価の倍以上!)が大半だ。上巻だけ買って下巻を買わなかった人が大多数だったのだろう。
私は、上下巻共に近隣の図書館から借りられたのでラッキーだったが。もし、本書に手を出すなら、その辺りの事情にも配慮した用がよさそうな旨、注意喚起しておく。
Amazonはこちら
上巻
カエサル(上) 単行本 – 2012/8/24
下巻
カエサル(下) 単行本 – 2012/8/24
近年の史料にも目を通しているので、いわば「ライバルに足を引っ張られる(影響される)」心配もありそうな気がするが。本書を触り読みするだけで、著者の知識量はそのレベルにない膨大なものであることがわかる。本書の詳細さと、それを著わす執念は、冒頭の懸念を瞬殺する。
文字密度の高いページで、上下巻合わせて800頁を遥かに超える大著だ。
時系列に沿って、カエサルが何をしたか、どういう前後関係・背景で、場面設定はこうで、その中でカエサルがどう動き、結果どうなったか。何を言い(書き残し)、それが次の出来事にどう影響し、つながって行ったのか。微に入り細に入り、詳述している。その多くは、当時の文献の引用に依っており、著者や一般人の評価、評論、印象論は、最後に付加される程度となる。
そのクドさは、この手の西洋の書き手が良く発揮する類の、知識量で異論を圧倒することを是としているようにも見える。要するに、文献にこうあるので実際はこうでしたよ、ではなくて、どうだオレはこれだけ調べて知っているのだ、キサマらとは格が違うのだ、と言いたげにも見えてしまう。
本書の内容は軍事面に偏りが見られるが、カエサル当時のローマは内戦期だったこと、著者が軍事の専門家であることなどから、自然の成り行きで致し方ないだろう。カエサルの仕事は、政治や経済を含む国家運営のレベルにあったので少々物足りないが、そこは行間で補足するしかない。
ナントカの合戦でのダイナミックな活躍により、決定的な決着を見たのデスネエ式の、安易なドラマチックな展開は、従って、本書には無縁だ。ただ、起きたこと、あったこと、現実(と思しきもの)を淡々と追い、書き連ねて行く。
今のウクライナ戦争を見るまでもなく、戦争の行方というのは、ダラダラと緒戦が散発的に並行して同時多発する中で、趨勢として決まって行くものだ。それに即すように、例えば、本書の白眉の一つとなるべきルビコン川でさえ、その他の紛争と同様に並置され、淡々と書かれている。
カエサルが居た時代、彼がローマを平定したことはなかった。現に暗殺されて果てたし、その後も内戦は続いた。ローマはずっとキナ臭いままだったし、本書でそれは十二分にわかる。カエサルは、その大きな流れの最前線に乗りつつも、共に流された役者の一人だった。
ただ、ローマの社会に、価値観を始め大きな変革が起きたこの時期に、カエサルのようなドラマチックな人物を役者として使えたというのは、ローマにとって、この上ない幸運だった。本書の読後感は、そこに尽きる。
しかし、本書が、カエサルの行動の記録としては優れている一方、「人となり」を描けているかには疑義がある。あの難しい時代に、のし上がり、事を成し遂げ、後々まで影響を残した、とある傑出した人物であることは、無論のこと分かるのだが。それを描くのに、この文章量は不要で、もっと簡単に書ける。
翻って、「人となり」を描くとなると、当時の文化的な背景まで広く熟知・理解していることはもとより、その応用のために、著者の側にも豊かな人生経験に裏付けられた感性と、感情的でありながら公平で納得感がある評価を行える言語能力が要る。しかしそれは、知識の量とは往々にして無関係だ。
個人的には、カエサルの人となりを知りたいのであれば、塩野先生のローマの辺りの方がよほど面白くて正確だと感じる。やはり、デキる男を生き生きと描くことに関しては、女傑に敵う者はいないのだ。
なお、本書だが、あまりの冗長さに挫折する読者が大半だったようで(かく言う私もかなり読み飛ばした)、既に絶版の一方、古本市場では、上巻が安価で流通しているものの、下巻は貴重本として高値(定価の倍以上!)が大半だ。上巻だけ買って下巻を買わなかった人が大多数だったのだろう。
私は、上下巻共に近隣の図書館から借りられたのでラッキーだったが。もし、本書に手を出すなら、その辺りの事情にも配慮した用がよさそうな旨、注意喚起しておく。
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カエサル(上) 単行本 – 2012/8/24
下巻
カエサル(下) 単行本 – 2012/8/24
◆ (新書) 太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方 ― 2024/02/06 18:57
題名の通り、先の大戦までの日本人戦い方の特徴を論じた本だ。
「どう戦ってきたのか」を実例を示しつつ説明している。
戦い方を種別に分けて、それに応じて章立てにしている。章立ては下記の下記リンクで目次が見られるので、本書の内容も大体わかると思う。
その戦い方の原因や結果、対処法などを掘り下げて考察したものではほとんどない。分類と例示がお題な店には注意が要る。
本書で強調されるのは、「日本人は過去に学ばず、刹那的な戦いを繰り返している」ことだ。進歩性がないことを如術に感じさせている。
人事組織、人の使い方、リクルートも昇進のさせ方が下手。
現実を見ず、空虚な精神的な満足感を目指し、結果、目的達成できない。
いつまでたっても、漕ぐ足が空を切っているような。
同じ宿痾は、今も生きている。
民族は変わらない、とはこのことか。
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太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方 (集英社新書) 新書 – 2023/4/17
「どう戦ってきたのか」を実例を示しつつ説明している。
戦い方を種別に分けて、それに応じて章立てにしている。章立ては下記の下記リンクで目次が見られるので、本書の内容も大体わかると思う。
その戦い方の原因や結果、対処法などを掘り下げて考察したものではほとんどない。分類と例示がお題な店には注意が要る。
本書で強調されるのは、「日本人は過去に学ばず、刹那的な戦いを繰り返している」ことだ。進歩性がないことを如術に感じさせている。
人事組織、人の使い方、リクルートも昇進のさせ方が下手。
現実を見ず、空虚な精神的な満足感を目指し、結果、目的達成できない。
いつまでたっても、漕ぐ足が空を切っているような。
同じ宿痾は、今も生きている。
民族は変わらない、とはこのことか。
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太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方 (集英社新書) 新書 – 2023/4/17
◆ (新書) MotoGP 最速ライダーの肖像 ― 2024/02/05 21:25
2021年4月の刊なので、2020年シーズンまでの情報だ。たったの4年なのだが、動きの速い業界だけに、既に古さを感じさせる。引退したベテランも散見される。
一応、素人さんにも配慮はしてあるのだが、基本、当時からMotoGPを見ていて、ある程度の予備知識がないとわからなそうな内容だ。ああ、あの人ね、確かにそうだった・・・と、追認型の読後感が続く。
ベテランが読む分には真新しいことはあまりないが、シロートさんには分からないかも?という、微妙な立ち位置の本だ。資料としては有用だが、売り物としては賞味期限は短かい本かも知れない。
逆に、好きな人が買い置いて、じっくり(後で)読んでもいい本なので、好事家におススメしたい。
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MotoGP 最速ライダーの肖像 (集英社新書) 新書 – 2021/4/16
一応、素人さんにも配慮はしてあるのだが、基本、当時からMotoGPを見ていて、ある程度の予備知識がないとわからなそうな内容だ。ああ、あの人ね、確かにそうだった・・・と、追認型の読後感が続く。
ベテランが読む分には真新しいことはあまりないが、シロートさんには分からないかも?という、微妙な立ち位置の本だ。資料としては有用だが、売り物としては賞味期限は短かい本かも知れない。
逆に、好きな人が買い置いて、じっくり(後で)読んでもいい本なので、好事家におススメしたい。
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MotoGP 最速ライダーの肖像 (集英社新書) 新書 – 2021/4/16
◆ (単行本) 反教育論 猿の思考から超猿の思考へ ― 2024/02/04 03:46
一読した所、見覚えがあった。
以前取り上げた、下記と同じ著者だった。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) 新書 – 2006/10/21
なぜ生きる意味が感じられないのか: 満ち足りた空虚について 単行本 – 2022/9/27
著者いわく、本書は上記「普通がいい」の次、という位置づけとのこと。
本書の議論だが、どちらかというと、ダメな点を論(あげつら)う方に重点があり、ではどうするかの対処法は薄いという、この手の本ではよくある構成のように思えた。
論旨は、前著とほぼ同じだ。
なので、本書での独自性は、少ない相違点をピックすればよい。
教育を扱った本である。
今の教育は間違っており、正しい教育は違うはずだ、そういう観点で書かれている。
著者は、その差を、サルとオオカミを象徴的に例えて説明している。
まず、サルは、全てを自分の利益のために使おうとする狡猾な動物として設定される。思考が、自分が得をするのか、するとしたらどれだけか、に終始するような人たちだ。
それはつまり、「してもらいたい側の人」、子供そのものだ。
著者は、子供が子供を量産する職務を担っている、と書いている。
ここは、上述の他の著書と同じだ。
対して、オオカミは、一般的なイメージとは異なり、相互信頼による協力に基づいた群れ(社会)を形成する、より理想に近いものを象徴している。
それは、己が興味や欲求も並行して探求し続ける、真に社会的な側面を持つものとして書かれている。
自らの理想や目的を、他人と折り合いながら目指してゆく。
それはいわば、「自力で他人に何かをできる人」、大人の言い換えとも取れる。
サル思考に足りないものとして、嫌悪などの好みや欲求に対する自由、自己への愛などが挙がっている。まず初めに自分を肯定し尊重できなければ、他人を尊重することもあり得ない。教育現場で教えている信頼や尊重は上辺(うわべ)の振る舞いの部分だけであり、これを剥げば利己的な奪い合いや騙し合いに過ぎない、ただの欺瞞であると喝破している。
ではどうすれば、は終章にまとまっているが、それは、野生の回復、と称されている。伝統への回帰により「頭」から「心」へ思考の重心を移すことで、自己愛を回復し、判断力を醸造する、とそんな話になっている。
自己愛は、行き過ぎれば自己満足や自分勝手になる。このバランスをどう取るか。
この2点の課題の解決策だが、やはり、両方とも明示はされない。(オオカミからの)今後の我々の学びにかかっている、といった言及で終わっている。
その意味では中途半端な本なのだが、実際に教育で悩む親、今の教育に疑問を持つ全ての人に、広く示唆というか、ヒントを与えるものではあると思う。
今、我々が抱えている根本的な問題は、多分、我々の世代で解決することは覚束ず、その堕落が為されてきたプロセスと同じ程度の、数世代の時間がかかるものが多かろう。つまり、解決や改善を次世代に任せざるを得ないわけで、世間一般、同種の社会問題の議論が、教育の話に落ち着く、という帰結はよく見かける。
個人的には、そういった「後はヨロシク」的な終わり方は卑怯なようで好みではないが、そうせざるを得ないのであれば、せめて課題と論点の整理くらいはして遺したい。
そのための資料程度にはなりそうな本のような気がしたのだ。
以下は余談だが、私は「意味」という言葉について長年考え続けていて、これを明確に定義している文献が上がっていたことに興味をひかれた。
いわく、ある事物を事物として統合する絆であり、もしこれを取り除いてしまえば、後に残るのはばらばらの部分に過ぎなくなる、そういったもの。
よくわからないのだが、要するに、「理解」と同意のようにも思える。が、少々足りないようだ。
個人的には、「意味」とは、影響、つまり、それが及ぼした変化の有無と、その内容を指していると、今は考えている。
Amazonはこちら
反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書) 新書 – 2013/2/15
以前取り上げた、下記と同じ著者だった。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) 新書 – 2006/10/21
なぜ生きる意味が感じられないのか: 満ち足りた空虚について 単行本 – 2022/9/27
著者いわく、本書は上記「普通がいい」の次、という位置づけとのこと。
本書の議論だが、どちらかというと、ダメな点を論(あげつら)う方に重点があり、ではどうするかの対処法は薄いという、この手の本ではよくある構成のように思えた。
論旨は、前著とほぼ同じだ。
なので、本書での独自性は、少ない相違点をピックすればよい。
教育を扱った本である。
今の教育は間違っており、正しい教育は違うはずだ、そういう観点で書かれている。
著者は、その差を、サルとオオカミを象徴的に例えて説明している。
まず、サルは、全てを自分の利益のために使おうとする狡猾な動物として設定される。思考が、自分が得をするのか、するとしたらどれだけか、に終始するような人たちだ。
それはつまり、「してもらいたい側の人」、子供そのものだ。
著者は、子供が子供を量産する職務を担っている、と書いている。
ここは、上述の他の著書と同じだ。
対して、オオカミは、一般的なイメージとは異なり、相互信頼による協力に基づいた群れ(社会)を形成する、より理想に近いものを象徴している。
それは、己が興味や欲求も並行して探求し続ける、真に社会的な側面を持つものとして書かれている。
自らの理想や目的を、他人と折り合いながら目指してゆく。
それはいわば、「自力で他人に何かをできる人」、大人の言い換えとも取れる。
サル思考に足りないものとして、嫌悪などの好みや欲求に対する自由、自己への愛などが挙がっている。まず初めに自分を肯定し尊重できなければ、他人を尊重することもあり得ない。教育現場で教えている信頼や尊重は上辺(うわべ)の振る舞いの部分だけであり、これを剥げば利己的な奪い合いや騙し合いに過ぎない、ただの欺瞞であると喝破している。
ではどうすれば、は終章にまとまっているが、それは、野生の回復、と称されている。伝統への回帰により「頭」から「心」へ思考の重心を移すことで、自己愛を回復し、判断力を醸造する、とそんな話になっている。
自己愛は、行き過ぎれば自己満足や自分勝手になる。このバランスをどう取るか。
この2点の課題の解決策だが、やはり、両方とも明示はされない。(オオカミからの)今後の我々の学びにかかっている、といった言及で終わっている。
その意味では中途半端な本なのだが、実際に教育で悩む親、今の教育に疑問を持つ全ての人に、広く示唆というか、ヒントを与えるものではあると思う。
今、我々が抱えている根本的な問題は、多分、我々の世代で解決することは覚束ず、その堕落が為されてきたプロセスと同じ程度の、数世代の時間がかかるものが多かろう。つまり、解決や改善を次世代に任せざるを得ないわけで、世間一般、同種の社会問題の議論が、教育の話に落ち着く、という帰結はよく見かける。
個人的には、そういった「後はヨロシク」的な終わり方は卑怯なようで好みではないが、そうせざるを得ないのであれば、せめて課題と論点の整理くらいはして遺したい。
そのための資料程度にはなりそうな本のような気がしたのだ。
以下は余談だが、私は「意味」という言葉について長年考え続けていて、これを明確に定義している文献が上がっていたことに興味をひかれた。
いわく、ある事物を事物として統合する絆であり、もしこれを取り除いてしまえば、後に残るのはばらばらの部分に過ぎなくなる、そういったもの。
よくわからないのだが、要するに、「理解」と同意のようにも思える。が、少々足りないようだ。
個人的には、「意味」とは、影響、つまり、それが及ぼした変化の有無と、その内容を指していると、今は考えている。
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反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書) 新書 – 2013/2/15
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