なぜ生きる意味が感じられないのか (ソフトカバー) ― 2023/01/20 05:41
副題は「満ち足りた空虚について」
以前取り上げた本と、同じ著者による類書(続編?)だった。
「普通がいい」という病
今回の本は、昨年の10月に出たばかりの新刊だ。
精神科医として日々患者と接している著者は、最近の傾向として、ある種の虚無感に苛まれる患者が多いことに気づく。その虚無感の原因、構造、対処法を、順を追って説明している。
論旨は、上述の前著によく似ている。いわく、人間には本来あるべき姿がある。しかし、現代という環境はそれを尊重していない。その「本来と現状の差異」が、我々を苦しめている。その差異を作り出しているのもまた人間であり、それがどのようなものかを認識すれば、対処は可能だと。
本書では、その差異の正体を「ロゴスの喪失」と言い表している。ロゴスとは、実に幅広い意味を持つ哲学用語で、日本語には適切な訳語がない。本書の場合、「人間性を持った共感」といったような意味合いと、私は理解した。
人は本来、ロゴスに伴う理性をもってふるまうのが自然であり、そうあるべきでもある。しかし、現代の、物理的に満ち足りた、情報過多の世の中では、それを奪おうとするロゴス・クラッシャーと称すべき人間が、跋扈することを許している。それらの非人間的な活動の影響が、我々の虚無感を増大させる大きな原因の一つになっている。
ロゴスとは何か。その喪失が何を意味するのか。それは、どうもたらされるものなのか。その一連の構造を、著者は説明する。
その論は、全ての問題を一気に解決してくれるほど強力でもないし、上掲の前著と同様モヤモヤも残るのだが、ある程度の納得感をもって参考になるし、場合によっては、助けになるとも思う。
著者の言うロゴス・クラッシャーとは、私が上掲のエントリーで「センサがない人」と書いた、そのものだ。「認識が自分の中で閉じており、共感力が欠落していて、精神的に幼い人」と、そんな感じの人たちだ。
やたらと断定的な話し方。誤認や矛盾が多い。他人の指摘は頑として受け入れない。自己正当化に徹する。訂正はありえない。一方的に怒りを募らせる。
年かさの大人でも、聞き分けのない駄々っ子のようだ。周りの(真っ当な)人々からすると、まともに付き合っていられない厄介な人たちだ。
別称としては、アスペルガーやサイコパス、まれにカリスマと呼ばれる人たちが、ある程度、重なると思う。
真っ当な側の人々が、感覚を麻痺させ、軸を失い、虚無感を深めているのは、そういったロゴス・クラッシャーに引きずられ、影響されることに大きな原因がある。本書では、そう説明されている。
確かにそれは一理ある。共感を拒否し、ひたすらに自分の意見を押し通そうとする幼稚な人々が増えていて、しかも世間的に、それを良しとする風潮に傾きつつある。その現状に危機感を覚えているという点で、私も、著者に同意する。
ただ、私は、ロゴス・クラッシャーを一方的に非難して終われるとは、思えないでいる。
まず、ロゴス・クラッシャーと、そうでない人を、厳密に分けるのは、現実的には難しい。例えば、店にクレームを入れている客がいたとして、悪いのは店か、客か、よくよく話を聞かないと(時には聞いても)わからない。両方とも善良なのだが、不幸なすれ違いがあっただけかも知れないし、双方共がクラッシャーかも知れない。
ロゴス・クラッシャーさんたちは、話がうまい(言い訳が特に上手いのだが)。周りを気にしないので、事を進めるドライブ力は強いし、変革力も強力だ。現実社会では、そういった場面なりポストに就いて、頭角を現わしたり、重宝に使われたりもしていて、有益な場合もある。
具体的な人名を挙げてしまうと、トランプ元大統領、安部元首相などの政治家や、イーロン・マスクやスティーブ・ジョブスなどの事業家、ひろゆきなどのコメンテーターやインフルエンサーなどが想起される。
サイコパスに適すると言われる、個人で完結しうる仕事、例えば、経営者、医師、ジャーナリスト、エンジニア、法律家などの士業にも、多そうに思う。
強引な自信家で、周囲を気にしない嘘つきで、それなりの功績もあるヤツなんて、できれば付き合いたくはない。上司だったりすると最悪だが、逆に、部下や駒として使える立場なら、それなりに面白いかも知れない。
SNSなどのIT技術が、彼らの台頭を容易にしており(かえってSNSで失敗したりもしているが)、それを許容する世の中の雰囲気もあり(彼らが意図的に多様性の概念を悪用しているようにも見えるが)、ロゴス・クラッシャーの台頭は現代病である、という著者の主張には、一定の説得力がある。
単純に、人と人の付き合い、一対一の関係性にブレークダウンして考えれば、「彼らがもたらすのは、一見大切に見えて、実は余分な不要物が多い。だから、それに付き合う程に『満ち足りた空虚』という虚無感に苛まれることになる」という著者の主張は、正しいとも思う。
ただ、私は、受け手側の問題も多いと思う。
まず、他人に影響を及ぼして、支配下に置くことを価値とする風潮の強まりがある。「論破すげえ」ってやつだが、それが良いこと、優れたことになってしまうと、皆が争って他人を組み敷こうとすることになる。
次に、後先を考えず、その場の勢いや、延髄反射で動くことを良しとする風潮がある。これは、眼前の風景にただ機械的に反応し続ける、いわゆるスマホ脳の裏返しではないかと、個人的には考えている。
例えばクルマの運転などを見ていても、2手3手先を読んだ、よく考えた所作というのは、最近はほとんど見られない。ただ、信号が変わりました、前のクルマがブレーキを踏みました、そういう眼前の刺激に機械的に反応しているだけで、まるで遠くを見ていない人というのは前からいたが、最近、とみに増えたように感じている。
この二つは、いわば「こうなんだ」と強弁する人と、「そうなんだ」と迎合する人の組み合わせでもあるので、相性が良い。のみならず、互いに整合し、相互依存的に増長して行く、発散系でもある。
本書の「生きづらさ」に話を戻すと、悪いやつらが増えたのか、容易に組み敷かれる側も悪いのか、ということになるが。その真偽は、見方で変わると思う。
しかし、トリガーを引くのは、いつもロゴス・クラッシャーの側であることには変わりはない。しかも、ヤツらの側に、変化・順応する能力がないとなると、解決には、我々の側から、断絶するか、距離を置くか、しかない。
相手が上司や政治家となると、実害を防ぐのは難しいが。それ以外の、対等に近いポジションなら、無視すればいいだけだ。
「放っておけばいいんだよ」と言われてみれば、真剣になるだけ損なんだな、マイペースでいいんだな、と気が楽になる。それで救われる人もいるだろう。
題名は難しげだが、本来はもっと気楽に読まれるべき本なのだろう。
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なぜ生きる意味が感じられないのか: 満ち足りた空虚について 単行本 – 2022/9/27
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