読書ログ 「物理学者が発見した米国ユダヤ人キリスト教の真実―技術・科学と人間と経済の裏面」 ― 2012/07/14 07:13
図書館で見かけて、題名の「何じゃらホイ?」さ加減に惹かれて、ふらっと借りて読んでみた。
予想外に(笑)、真面目な本だった。
ユダヤ人やキリスト教徒のものの考え方と、そういった人々が時間的、空間的にどのように分布し、(主に米国の)歴史上で影響しあっていたのかを、著者の視点で再構築して描いている。
題名に堂々と「ユダヤ人」とつくと、陰謀や秘密結社のような論調を予想してしまうのだが、全く違った。「ユダヤ人というのは、こういうものの考え方をする人が多いですね」という、緩めの一般化でくくっているだけだ。
同様に、キリスト教徒、特に米国で力を持っているプロテスタント系のものの考え方を並べて、そういった人々が、いつ頃に何人くらい移民してどのあたりに住み着いて、それがどういった経緯で台頭したり落ちぶれたりして、世の中の趨勢に影響していったのか、を述べている。
情報源は、戦前から続く著者の豊富な(人生)経験と、昨今、Webのおかげで閲覧可能になった、ちょっと古めの膨大な文献(数十年前の書物や特許など)である。(英語の特許を文学のように読み、秘められた著者の意図を探るという、稀有な能力をお持ちのようだ。)
著者は論理物理学者で、世界の知識の最前線で論理を武器に働いている。そのせいもあってか、著者の思考態度はえらく理学系だ。情報の妥当性を検討しつつ、それを自分個人の目線と感覚でもって分解・再構築し、その中にもともとあった素の構造を、自力で解き明かそうとする。結果として、論旨は大変にユニークかつ独特だが、目立った破綻なく、冷静な説得力を醸すという、驚異的な仕事を成されている。
反面、著者自身も述べているが、これは実証は不可能な事象なので、ややもすると「ただの主観」と切り捨てられる危険性を持つだろう。
なので、頭から信じたり、逆に、自身の知識との整合性をあげつらって批判する(世間で言われているのと違うから間違っている、の類など)タイプの人には適さない。いや、本当は適しているから、この手の本が[危険」なのだが、読者側も、自身のために生かせる知識として消化、吸収すべく努力が要ると思う。具体的には、「ふーん、そうなんだ、なるほど~」と、「そうなのかな、ホントか~?」の間をうろうろしながら、著者の独自な視点を新鮮に楽しむ、そんな読み方が適していると思う。
私が妙に符合したのは、2点あった。
一つは、「頭の中だけで考える人」と、「それだけで終わらない人」を、はっきり区別する感覚だ。
無論、我々はいつも、「頭の中で」考えている。情報を集めたり、論理を作ったり、妥当性を判断したりといろいろだ。しかし、それで終わってしまう人と、頭の外との整合、例えば、有用性や現実性、端的には「アナタの幸せのために実際に役に立つんですか?」を、常に検証している人が居る。普段、我々はそれらを区別しない(できない)が、その間には大きなギャップがある。端的に言うと、砂のお城を拡大するだけに終わるか、リニューアルやアップデートを繰り返して、実際に高みにのぼって行けるか、の違いになる。
著者は、その間に「宗教」というくさびを打ち込んで見せてくれた。これが、私には何となく納得がいった。そういった思考の構造は、宗教がもたらしたものかもしれない。宗教と民族はある程度符合するので、それが民族的なものに見える場合がある、ということではなかろうか。
もう一つは、ユダヤ的なものの考え方の台頭だ。
それは、頭の中に膨大な知識を溜め込み、常識や一般論に影響されずに、全く独自な形で、緻密に再構成するスタンドアローンな能力だ。
「モノの時代」には、いくら頭がよくても、それをモノなり書物なり、頭の外に出して現実化しないと、妥当性や実用性を実証できなかった。
今は違う。ネットとチップ制御の時代は、頭の中で考えた(だけの)構造、それ自体で勝負できる環境になりつつある。
AmazonもGoogleも、誰かが考えた情報の構造だ。我々は普段、その表層を便利に滑るだけで、その中がどうなっているか?どのようにつながっていて、何がつながっていないのか?、ほとんど意識しないし、考えもしない。
カメラやクルマだって、昔は仕組みを理解して、使い方をおぼえないと動かせなかった。今は違う。構造はやたらに複雑化しているのに、ON/OFFと右左、のような基本動作だけで、あらかたは動いてしまう。我々ユーザーは、見た目とか、ボタンの押しやすさといったような、表面のごく瑣末なところで、喜んだり不平を言ったりがせいぜいだ。それは、我々ユーザーが、主体ではなく、誰かが作った仕組みの上に乗っかるだけの付属物に、変わりつつあると見ることもできる。
他方で、作り手や、仕掛ける側の人々の勝負は、その「隠れた構造」で決まってしまう。その更新や上塗りを日々求められていて、既に「追われている」状況にある。だから、時として追い詰められ、小ざかしい「ずるがしこさ」に逃げ込もうとする。これじゃ仕事は楽しくないし、できたモノには、ワクワク感はまるでない。
悪循環だ。
これは、我々が、ユダヤ的な思考様式に飲み込まれつつあることの証左なのだろうか?。
だとしたら、我々は、それを使いこなすことができるのか? 使いこなすには、どうしたらいいのか?
そも、使いこなすべきなのだろうか?
・・・何か、忘れていないか。
ユダヤ的(?)に、「没入して独自を生み出す」楽しさは私も認めるし、世の中でも、例えばオタク的に「深い」能力のように、次第に許容されつつあるように思える。しかし、全くの別枠に棲む方々からは、「不快」だと受け取られかねない。時に、ユダヤ人が嫌われ者扱いされがちな実態は、そんなところなのかなあ、と思った。
著者は、かなりのご高齢だが、ご自身の難解な構想を、平易に説明するよう腐心されている。しかし、妙にカギカッコが多すぎて読みにくいのはが気になった。(私もよく使う手なので。気をつけよう。)
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物理学者が発見した米国ユダヤ人キリスト教の真実―技術・科学と人間と経済の裏面
追記
念を押しておくが、私は、クルマや仕事が楽しくないのはユダヤ人のせいだとか、ユダヤ人が不快だ、といっている訳では決してありません。この本の著者にも、そのような意図は無いと思います。
(あげ足取りが好きな方は、当サイトではお呼びではございませんので。あしからず。)
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