読書ログ 「ピアニストのノート 」 ― 2013/10/13 04:48
著者は、有名なピアニストである。
音を、ひとつひとつ確かめるような、テンポが遅いがクリアな演奏で、深いんだか、淀んでいるんだか、よくわからない演奏が持ち味・・・と、私は勝手に解釈している。
私は、この人の演奏は好きで、CDを何枚か、すり減らしている。
演奏の質の割に、すごく安いのだ。
この辺ですけど。(これが千円って・・。)
ブラームス:後期ピアノ作品集
この人が、何冊か本を書いている・・・のは知らなかったのだが、図書館で見かけて、借りて読んだ。
全く、彼の演奏と同じく、どんよりと重くて、深い筆致だった。
音楽は芸術なので、作るものではない。
内面から、半ば「勝手に」聞こえてくる。
楽譜は、いわばそのための、道しるべのようなものに過ぎない。
だから、音楽を生業にする、彼の重たい精神は、内面に、深く、落ち込み続ける。
なにせ、内向的なロシア人なので、彼の精神は、鬱屈して、屈折して、入り組んで、絡まっている。
さらに、キッチリ知識人なので、神だけではなく、各種の芸術や、東西の哲学なんかを、縦横に行き来してみせる。
中国的な道(タオ)や、禅のような思想、いつぞや書いた クオリティ のようなものまで使って、彼の中で鳴り続ける「音楽」の何たるかを、表現しようともがいている。
しかし、今や、世間では、「音楽」は虐げられ、ディスクの中に封じ込められ、他の「モノ」たちと同様、需要と供給の曲線の交点の上で、辛うじて生き永らえているに過ぎない。音楽家は、オーディエンスではなく、コンシュマーの気を引くために、オーバーアクションや、わざと難しい顔をするのに夢中で、肝心の演奏の方は、ありていのテクニックや、微妙すぎるがわかりやすい「ニュアンス」なんかだけにしか、違いを見出せなくなってしまっている。
でも。
どこかで。
本当の「音楽」は、ひっそりと、鳴り続けている。
その脇で、探求や情熱、目的や意味なんかが、快楽に追い越されていく。
かくして、箱だけのピアノは鳴り続ける。
彼曰く、最近のピアノは、金属音がひどくて、まともには使えないのだそうだ。傍らに打ち捨てられている、古いピアノの方が、ちゃんと鳴ったりするのだそうだが、長期の放置がたたって、キッチリとは直らなかったりする。でも、古い方を、手ずから何とか使う方が、まともな演奏ができるのだそうだ。
どこかで聞いたような話だ。
(バイクと同じ。)
いい俳優は、メニューでさえもセリフに変えて、人々を感動させるのだそうだが。まっとうな音楽家は、譜面の上に、感情を、勝手に乗せたりはしない。
彼は、今日も、黙って、譜面を、聞いているのだろう。
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ピアニストのノート (講談社選書メチエ)
読書ログ 「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語」 ― 2013/04/13 08:26
この本が出た当時だが、あちこちの書評で取り上げられていて。
スゴイ、面白い、とあおっていたので。
実は、人知れず楽器好きなワタクシと致しましては。
あおられました。(笑)
ま、一読はしておこうかなと。
図書館の予約の、長蛇の列の一番最後に並んだのが、だいぶ前。
で、やとこさ順番が来ましたよ、と連絡をもらったので(半ば忘れていたんだけど)、借りて読んだ。
本のサイズも内容も、ほぼ予想通り。
ただの新書だった。
ビオラを奏者の著者が、楽器店の片隅で、この楽器に出会う所から、物語は始まる・・・・・
以下略。(笑)
一般的な擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)は、バイオリンのように、首もとにはさんで使うタイプと、チェロのように床に立てて弾くものに分かれるが、ヴィオラ・アルタとは、首もとにはさんで使う方の、しかし、妙に大きい楽器である。(YouTubeに映像が出ているので、ご興味がある向きは検索されたい。)
そもそも、楽器なんてものは、その時代時代で、奏でたい音楽に応じて、いろんな種類のものが作られてきた。
今、我々が目にする楽器は、その雑多な系譜のうち、幸いに今も残っているもののいくつかに過ぎない。優れているので残っているのか、衰退途中だが死に絶えていないだけか、の違いはあれ、タイミングとしてラッキーだったから、今、実際に、音を聞いたり、手で触れたりできる。
このヴィオラ・アルタが世に出たのは、ほぼ一世紀前の頃。散逸したとはいえ、当時モノの楽器がまだ辛うじて残っていて、記録や譜面だのといった情報も、辿ろうと思えば辿れる微妙なタイミングにある。それ以前の、完全に途絶えてからの時間が長い代物だと、古びた資料をつなげただけの、カビ臭い古美術研究になってしまったろう。その意味でも、微妙にラッキーなタイミングにある楽器だった、とも言える。
どうも著者は、この楽器に「一目惚れ」したようで、ハナっから「これはいいものに違いない」な前提で、話が進む。
で、いろいろ情報を辿り、掘り起こしながら、「あ、やっぱりその通りだ!」という筋立てになっている。
一応、影の方の記述もある。
廃れた楽器だ。
廃れたなりの、事情がある。
著者が辿り、掘り起こす情報は、掘り起こされる方からすれば、忘れたい、忌まわしいものかも知れない。
そんな、紆余曲折を経つつも。
「影」の方は、「光」を浮き彫る添え物程度であり。
基本的に、ああこの楽器に出会えてよかったあああ調の、シャンシャンで終わる。
まあ、小説仕立ての、ちょっとドキュメンタリータッチの読み物としては、よくできた方だと思う。
一方で、著者の、音楽家としてのマーケティング、地味なヴィオラ奏者としてではなく、一風変わった、ヴィオラ・アルタの奏者(権威?)として、他者と差別化を計るといった意図もあったように感じられる。
楽器というのは、それ単独で、成立しうるわけではない。
何か、奏でたい音楽の方が先にあって、それに合わせて、最適化される方が一般なのだ。
今の日本では、想像するのも難しいかも知れないが。
歌(唄、唱)というのは、ずっと、生活と共にあった。
顔を合わせたとき。集まった時。ハレの場で。呑んだ時。
人々は、歌っていた。
その時に、誰かが後ろで奏でている楽器は、もっと身近だったし、体にも文化にも馴染んでいて、深く根付いていた。
オーケストラのクラッシックだって、本当は同んなじ様なものだ。
ただ、ヨーロッパ(ドイツ)の連中が、途方もなく凝り性だったので、大規模で複雑で、見かけ偉そうになっただけの話だ。(笑)
身に付いた、生活としての音楽。
それを、我々日本人は、失って久しい。
音楽といえば、テレビの歌番組で流れる、バンド構成で3分前後の、あんなのしか思い付かないご時勢になって、もう長い年月が経っている。
だから、私がこんなことを言っても、ピンと来ないだろうとは思うのだが。
著者が奏でたい音楽、著者の音楽性のカラーに、この楽器が合ったということなら、それは幸せなことなのだが。音楽家を稼業として、その差別化として使っただけかも知れない。もしそうなら、音楽のオーディエンスとしては、この本は価値がないことになるが。その辺りの真偽は、この著者が、これからどれだけ、ヴィオラ・アルタを弾き続けるのかで分かるのだろう。
逆に見ると、音楽家がマイナーな楽器を志す時、こういったやり方、まず、その正しい身上を顕した上で取り組むというのは、その楽器が持つ本来の筋を踏み外さずに活動に入るための、よい手段の一つになるかもしれない。
何を言っているかというと、三味線でロックを弾いて売り出す、のような不憫なプロモーションというのはよくあることだが、残念なことに、ある程度の結果(売り上げ)を出したりする。三味線の良さは、それが弾くべき音楽で初めて良くわかるものなのに、そこでの真実、深みのようなものは忘れ去られ、オーディエンスは、三味線でロックを弾くのが「上手い」と勘違いしたまま、通り過ぎ、終わってしまう。それは、音楽家と楽器の双方にとって、不幸なことだ。
個人的な趣味で、撥弦(弦をはじく楽器)ばかりを挙げてしまうが、マンドリン類や、変り種のギター(テナーとか)、民族楽器類(ポルトガルギターやブズーキ)などなど、いろいろな楽器が日本に入って来るご時勢なのに、楽器本来のポテンシャルを出しあぐねている例が多いような気がしている。
稼業としての音楽と、楽器が持つ才能の間に、溝が深いのだ。
まあ、撥弦(ギター系)と擦弦(バイオリン系)では、市場のケタが違うので。本を書いて小遣い稼ぎ、とは行かないのだろうけど。
実は私も、珍しい楽器はいくつか持っていて。これを弾けたら「死んでもいい」という、情熱だけはあるのだが。どうも、まるで才能が無いようで、「好きこそ物の」の方ではなく、いつまで経っても「下手の横好き」だ。
そのおかげで、音楽では死ねそうにない。
ラッキーと、喜んでいいものやら。(笑)
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幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語 (集英社新書)
写真集 「パリのカフェで」 ― 2013/03/20 18:18
パリ写真ついでに、図書館から借りた。
小さくて、薄い本だ。
でも、本当に、人がよく撮れている。
ふとした表情と、街と陽の陰影が、焼きついている。
現実感の原版の上に。
パリは、人がさまになる所のようだ。
まあ、実際に行ってみると、こんな感じとは全然違うし、だから、どう頑張れば、こんな写真を撮れるのか。まるでわからないのだが。
腕の差か。見るところが違うのか。
(両方だわな。笑)
なごめる写真であることは確かだ。
だが、定価の\2100は、少々お高めである。
(相場ではあるのだが。)
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パリのカフェで
読書ログ 「ギターに魅せられて」 ― 2012/12/22 10:57
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昭和30年代初頭から、ギターと関連品(弦など)の製造販売を手がけてきた著者による手記である。ご自身、ナイロン弦が世に出る前の、本物のガット弦(羊の腸)の時代からの、ギター愛好家でもある。
昭和初期にギターといえばガットギターのことだったので、スペインギターとセゴビアから話が始まる。ついで、USAに進出につれフォークギター、のちのエレキギターの勃興と没落など、戦後ギター業界の歴史が、裏事情も含めてつづられている。
当初、日本で製造されたギターは、実際に品質が低かったこともあり、輸出先では安物扱いで、市場でのポジションは低かった。輸出先の気候(気温や湿度)でも反ったり割れたりせず、安定した品質を保持するに至るには、相当な努力を要したようだ。(モノが木材なので、経時劣化を的確に予想して前もって補うのは簡単ではない。) 苦労を重ねた末に世界レベルに到達する、昭和の事業の物語とも読めるのだが。しかし、ギター業界ならではの独自の事情もあって、某NHKの「プロX」のような、努力と根性→感動~!、のような、単純なストーリーにはなっていない。
ギターは、工業製品ではない。基本的に、手工業品だ。
材料は木材だ。供給の量も質も安定しないし、近年ではワシントン条約を筆頭とする法規制もある。
製作工程は長くないので、分業(部品屋とアセンブリといったような)は成り立たない。機械による自動化も限りがある。なので、職人さんの手作業による工程が少なくない。
しかし、単価は、単純な「床屋さんモデル」(手が動いた量や時間で値段が決まる)ではない。楽器の究極の価値である「音の良し悪し」は、違いがわかる玄人ユーザーだけがわかる(らしい)微妙な差だ。それは、ある種の職人芸で成される、と一般には思われている。
しかし、事業構造としては、それなりの品質の初級品から、ハイアマチュア向けの中級品を含む、頂点から裾野までの広がりを持つ。商品構成にヒエラルキーを持たせて、その各々のマーケットの規模に応じたサプライチェーンを整備せねばならない。
たとえ高級品だからといって、儲かる、安定、というわけではない。ギターの高級品のほとんどは、有名な製作家が擁する、家族規模の小さな工房で造られる。規模が小さいので、需要の変動に弱い。注文が多すぎれば作りきれないし、少なすぎれば簡単に干上がる。また、材料の仕入れから、名声の元である「職人芸」の維持まで、全て個人の努力によるので、品質の維持が難しい。お国の事情や景気の変動をもろに受けるし、世代交代を果たせずに、ついえてしまうこともままある。
かと言って、多数の職人さんがラインに詰めてギターを作る、大規模な工場が安定かというと、そうでもない。日本の工場は、ご多分にもれず、コスト起因でアジアにシフトして行ってしまう。ギブソンやフェンダーといった、USAのブランドも似たようなもので、経営と資本が別々に複雑に絡む分、もっとややこしかったりする。(ファンドに買われて、ワケわかんなくなったりとか。)
でも、製品の価値は、そんな事情とはまるで関係が無いようだ。何年物のギブソンは高いとか、アニメの女の子が弾いてたから人気とか、売れ行きや価格なんて、そんなもので決まってしまう。
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ずいぶん前の話なのだが、工房が集まって、高級ギターの展示即売をするイベントがあると聞いて、興味本位で行ってみた。
100万円を超えるクラシックギターを試奏させてもらったのだが。私には、ほとんと違いがわからなかった。(涙)
その向こうで、とあるオジさんが、試奏しまくっていた。
これがまた、ずば抜けて上手い。
何でこんな人がここに?といぶかる私の視線を背中に感じる・・・わけもなく。この人は、「自分の一本」を選ぶために、吟味に必死だった。
そこへ、会場に、とある母子が入ってきた。
初老の母と、20代後半とおぼしき娘。
身なりが派手だが、態度がでかくて下品なので、一見して成金とわかる。
と、工房の職人の目が一斉に、そちらに向いた。
何人かは駆け寄った。
ああ何とか先生の所の、いらっしゃいませえ、あらお久しぶりねえ~、のような日常会話がしばし。
で、いきなり、「じゃあ今日はあれとあれ、いただくわ~」。
ポンポン!と2本、お買い上げである。
3ケタ万円のギターを。
触りもせずに。
後で聞いたのだが、こういう例は、よくあるのだそうだ。
んで、お持ち帰りあそばしたギターに、彫刻刀で娘の名前を彫っちゃったりするんだそうだ。(驚)
いくら良い腕を持っていたって、これじゃあ職人は浮かばれないなあ、と痛感した光景だった。
せめて、あの試奏オジさんが、自分の一本にめぐり合えたことを祈るばかりだ。
そして今や、その辺の楽器屋でも、まるで「ほうき」のように、安物ギターがたくさん、無造作に壁にかけられている時代である。
私はといえば、その「3万円」の値札にすら、躊躇し、立ちすくむ体たらくなわけだが。(笑)
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本書に戻ると、記述はほとんど著者の記憶によっているらしく、視点は主観的だし、年代などもあてになるか微妙そうだ。
全体に「こうしたらこうなった」式のぶっきらぼうな文体で、小説的な面白さもあまりない。
ギターが好きな人、興味がある人が、半分、物語として読むのは面白いと思う。
情報の精度としては疑問があるので、リファレンスや文献として引用する際には、注意が要るだろう。
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「ギターと出会った日本人たち」
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ギターに魅せられて
冬の音楽 ~ 「 Sounds of Wood & Steel 2 」 ― 2012/02/04 07:33
冬の音楽といえば、ギターもいい。
スチール弦の、いわゆるフォークギター。
一本だけで爪弾く、インストルメンタル。
またはそれに近い、シンプルな構成。
暖炉の前でくつろぐイメージで、ゆったりと聴ける。
お手軽だが、たまに思い出して、聴きたくなる。
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数百円て・・。安っすいなあ・・。
Sounds of Wood & Steel 2
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