バイク読書中 「Vespa style in motion」 #082012/10/05 05:15

Vespa: Style in Motion

技術者は大概、頭はよくてもカネがない。カネがないと、いくら良いアイデアでも具体化(事業化)できない。だから、事業家(パトロンとも)と組むというのが、あの当時のやり方だった。

この頃の事業家は、貴族上がりのお金持ちが普通だ。貴族と言っても、尊大な事業運営では立ち行かない。市場で評価されつつ、儲けも出して、事業を継続(できれば拡大)していけるか。ブランドとしての信用を打ち立てられるかどうかが、事業の価値の肝だった。

ブリリアントなアイデアと、ブランドとしてのキラメキ。時に相反するこれらの価値観を、表/裏に具現化できるかどうか。技術者としてのキレを決めるのは、そこを理解できるか、でもあった。

その辺は、Moto Guzzi のCarcanoやTonti あたりは、実にいいキレをしていたと思う。(Taglioni のキレは、いまだに良く分らない。誰か、ちゃんと知ってたら教えて欲しい。)

D'Ascanioは、どうだったか。

前のパトロンとの間で進めていたヘリの事業が頓挫した1932年に、Piaggioに拾われた。当時、Piaggioは航空機(軍用機)メーカーでもあったから、この文脈で見る限り、「次の航空ネタ」として、雇い入れたのだろうと思う。彼が持っていたという数々のパテントも、モノを言ったろう。

初めは、本業のヘリに携わっていたが、芽が出ないうちに戦争が始まり(1939年)、終わる(1945年)。

D'Ascanio自身、Biellaに赴くまで、二輪車を作るとは考えていなかった、と言っている。つまり、二輪事業への参入を考えたのは、彼ではなかった。

それを考えたのは、たぶん、彼をBiellaに呼んだ、Enrico Piaggio だ。

終戦当時、Pontederaが平地にされたのと同様、イタリアの国土も国民も、小さくないダメージを受けていた。その光景を前に、なしうる貢献として、、Enrico Piaggioが、二輪車を事業として着想したのだと思う。
たぶん、他にも幾つかあったアイデアのうちの一つだったろうし、その後の展開、例えば四輪への参入?など、事業家として、縦横に考えをめぐらせたうちの、一手だったろう。

D'AscanioがBiellaに赴いた時、既に、MP5があった。
それを造った設計者は、彼ではなかった。MP1から続く歴史が、その時に既にあったのだ。
MP5は、「現実的でよくできたコミューター」という、Vespaの基本路線を、半ば実現していた。見た目にも、ハンドル~レッグシールド~ステップボードの「前半分」など、ほぼVespaそのものだ。

D'Ascanioは、これをブラッシュアップし、大量生産の軌道に乗せる仕事の、一翼を担った。

D'Ascanioが何を考えていたかは、 彼自身が語ったインタビュー や、 Vespaプロトの機械的な特長 として、既に述べた。

彼が、いわゆる「うち跨って、路面をにらむ」型のバイクに興味がなかったのは、明白だ。(嫌っていた、という文献もある。) 彼が目指していたのは、スピードやスポーツ性のような、浮わっついたものではなく、もっと実直に、普通の人にも、女性にも、快適に乗ってもらえる、実用的な乗り物だった。

D'Ascanio自身も言っているように、モノコックや片持ち車軸といったあたりは、四輪の設計思想の影響を、強く受けている。エンジンは、エンジンルームに仕舞い込んで、ボンネットでフタをしちゃう。冷却は、エンジンにファンをくくりつけて、自分にやらせる。機能として、「四輪のように快適に便利に乗れる、現実的なもの」を目指したのは、疑いない。

実用的で、シンプルで、安価で手が届く 「二輪のクルマ」。

モノコックもダイレクトドライブも、大量生産をハナっから標榜したものだ。
量が造れる、造ったときにコストメリットが出る、そういう構造に、最初からしてあった。

航空機の先進性とか、そんなものとは、別の着想だ。
実際、航空機からの転用なんか、前輪周りの機構くらいのものだった。

そんな、独自なあれこれを可能にしたのは、Piaggioの立ち位置だったと思う。

利点、その1。
豊富な経験を積んだ、大企業であったこと。

プレスモノコックは、ある程度の生産量を前提にしないと着手し得ない。Piaggio社には、その資力もあったし、経験もあった。船、汽車、飛行機と、乗り物なら何でも作ってきた会社だ。設計資産もあったろうと思う。
大会社ゆえ、D'Ascanio以外にもエンジニアがいた。設計屋だけでなく、生産屋など、各種の専門家も。
Piaggioは、Vespaの売れ行きが立ち上がるのに合わせて、生産の拡大を推し進めるが、その規模は、多少の躊躇を感じさせながらも、急激に立ち上がる。それは、初めから大量生産を想定していた証だと思う。

立ち位置の利点、その2。
スクーターの専業メーカーとして、スタートしたこと。

以前見たように 、市場のライバルのほとんどは、モーターサイクルのメーカーでもあった。設計資産も、製造設備も、従来のモーターサイクルの影響を受けざるを得ない。新規にスクーターを手がけるとしても、スクーターだけに特化するわけにはいかなかった。既存のモーターサイクルの設計・生産への「配慮」、悪く言えば「妥協」が必要になる。
その縛りは、営業的に、市場の読みの誤りも誘発したかもしれない。
彼らは、スクーターとモペットは同じ市場だと思っていたし、スクーターが、こんなに売れるとは思っていなかった。だから、市場が立ち上がった後になって慌てたのだし、いくら慌てた所で、Vespaには追いつけなかったのだ。

無論、Piaggioの立場が、不利に働いた点もある。
Piaggioが、一般消費者を相手にまともな商売するのは、この時が初めてだった。

それまでの商売、鉄道や飛行機は、企業やお役所、国なんかが顧客だ。商売は大規模だが、一度立ち上がってしまえば、底堅い。
一般消費者は違う。いい加減で、幅が広くて、浮き沈みが激しい。商売のやり方が、まるで違うのだ。

その辺は、Piaggioもちゃんと考えていて、大企業であるキャパを最大限に生かしたり、ソフト面でも、イメージ戦略などにも手を打っていた。「ブランド作り」は、周到に成されたようだ。(後述する)

そういった環境や背景、Enrico Piaggioの意図などを、D'Ascanioは、正確に理解していた。
そして、それを実物として現した。
Vespaが形をなしたのは、D'Ascanioの技術的な独自性・先進性と、Piaggioが持つ有形無形の資産の、いい意味でのシナジーだった。

Vespaは、有能な親の元に、望まれて生まれた。
恵まれた子だったと思う。

この子は、事業屋や設計屋だけではなく、生産屋や、宣伝屋にも恵まれる。

そうして、まもなく、立って、歩き始める。






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余談だが。異論もある。

Wikipedia英語版のLambrettaの記事 には、以下のような記述がある。

Ferdinando Innocenti に請われたD'Ascanioが、Vespaの原型たるデザインを起こしたが、Innocentiが、これをパイプフレームで作ろうとしたのを嫌って、アイデアごとPiaggioに移った。後にInnocentiは、これをLambrettaブランドで立ち上げた。

私が上に書いたことは、全て文献の孫引きで、実地に取材したり、検証したわけではない。だから、厳密には、事の真偽は分らない。

でも、やはり、この「Innocenti 説」は、筋が通っていないように思う。

もし、D'Ascanioが、Innocenti が造れないモノコックを起案したのだとしたら、彼は、事業者と組む能力のない「できない技術者」だったのだろうと思う。

D'Ascanioが、モノコックのスクーターの実現にこだわった、というのも妙だ。できる技術者は、あの戦後の混乱期に、スクーターのアイデアだけを持って、うろうろしたりするだろうか?。
そもそも、彼が技術者のこだわりでもって、真摯に実現に取り組んだのは、どう見ても、ヘリの方だ。

今、ネットの時代になって、情報の量は増えたのだが。ノイズ(都市伝説?)も、一緒に増えているように思う。事の真偽を見分けるには、かえって面倒な時代のようだ。

どなたか、Innocenti に詳しい方がいらしたら、真偽を教えてほしい。


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