◆ (新書) コミンテルンの謀略と日本の敗戦 ― 2024/01/21 16:11
トンデモ系かと勘違いしそうな題名だが、明治維新からこっち、日本の政治思想がどう変遷し、その過程で共産主義がどう影響して、コミンテルンの活動がどう食い込んでいたのかを、歴史的な観点で描いた、真面目な本だ。
本書で、コミンテルンは、共産主義陣営による諜報活動と、教育感化や風説の流布による思想操作の機能を併せ持つインテリジェンス機関として定義されている。その活動の主体は言うまでもなくソ連だったが、ソ連に看板がついたオフィスを持つ歴とした組織ではなく、同種の活動に携わる人々による漠然とした組織体として捉えられているようだ。この辺りは、ほぼ一般的な理解と同じだろう。
明治維新で日本は、伝統的な(≒古式豊かで弱い)国体から脱却し、国力を蓄えて欧米諸国に立ち向かわねば国が維持できない、という事態に直面した。
「日本を一旦捨てて作り直さねば、日本が失われてしまう」という深い矛盾に囚われていたわけだ。それがもたらす苦悩と苦痛は、漱石や鴎外の吐露として今も読むことができる。
当時の日本のエリートは、この矛盾の解決方法を必死になって探したし、その実現に向かって死に物狂いで努力した。
国力を増して対外的に打って出る、マルクス主義を入れて新しい国家を実現する、日本の独自性・伝統・文化を守ることでベースを固める、といった辺りが主流であり、正論として流布されていた。
戦争が相次ぐ当時にあって、権力(つまり「国の出方」)どうすんの論は盛んに議論された。他方、経済どうすんの方は軽んじられた。当時は(現在もだが)経済理論、特にマクロ経済論は、理解にも浸透にも至っておらず、いわゆる経済オンチ的な政策で、事態がかえって悪化したりと「事を荒立てる」ことが多かった。しかし、そのことを正しく理解し、まして対処案を提示できる人間は、多くはなかった。
当時の経済理論の最新版はマルクスであり、実際それくらいしか選択肢がなかったから、それが「最先端の正しいこと」と理解されていた。つまり、この分野のエリートは、左傾化するのが常だった。
しかし、マルクス主義の中身というのは、社会構造のupdateを繰り返す前提になっている。コレコレこういう段階を経て社会は進歩し、その成果として労働者の楽園が訪れるであろう。社会構造のupdateとはつまり、今の社会を一旦壊す事でもある。いわゆる革命というヤツだ。革命を繰り返すのが善。そんな理論だから、基本的に権力を持っている国家サイドとの相性が悪い。必然的に、権力に弾圧されることになる。
貧しくなる一方の庶民の現状を憂い、何とか手を差し伸べるべく真面目に考える真摯な経済研究家ほど弾圧されたし、その人の良さは、コミンテルンが付け入るスキを大いに与えた。
中国共産党や、さらにその駐在所である日本共産党などによる表立った活動のみならず、政治の中枢の人間に直接、接近し、援助し、情報を与え(悪く言えば洗脳)、その思想を通して、日本の施策を操作しようとした。
コミンテルンの活動の本質は、本家ソ連の考え方を色濃く反映しており、悪いことに、それは困窮した労働者諸君を救うことを目的にしたような理想主義的なものでは全くなかった。仕切る側(党)というオイシイ側にどう権力を奪取・収奪して、そのオイシサを増すかの一点張りで、真摯な理想主義者が望む者とは真逆の姿だった。
その意図は、日本の国力を削ぎ弱体化させることで革命を容易にすることを目的にしており、これが戦争の長期化という手段を取ることもあって、一見では戦争推進派との相性が良かったりする。そんな事情もあって、事は単純ではなく入り組んでいてヤヤコシイ。コミンテルンが、日本の戦争突入を誘導した、介入した、助けた(?)ということになるのだが、その相手は、右翼を含めて多岐に渡る。
例えば、右翼系でも全体主義的な思想の持ち主なら社会主義的な施策との相性は良かったとか、学会の権威(東大法学部)はグダグダで、正当性や有効性はさておき権威を強化しひけらかすこと(≒批判)に主眼が置かれていた。しかも、下手に権威なだけに、彼らの放言を誰も止めなかったから、その言いたい放題は、コミンテルンに活動の材料を与えることにもなった。
手段を択ばず、社会主義を、やがては共産主義革命を目指すコミンテルンの活動は、政府や軍部の中枢を含む日本のエリート層全体にまだらに流布・浸透していて、それは必ずしも当人の思想とは関係がなかった。要は、コミンテルンにとって利用価値があれば誰でも良かったのだ。しかし、後からその活動を追い、実態を明らかにせんというこの著者のような研究者にとっては、そのことが、コミンテルンの活動を至極見えづらくしており、本書のような著作には、その苦労が偲ばれる。
活動が斑(まだら)で実際が分かりにくいコミンテルンの動向は、二次大戦後も大して変わらず続いていたし、それはきっと、今も変わらず続いている。日本ではマクロ経済論はいまだに弱く、権力論は、誰が何をするかという直接的かつ表面的なレベルに留まっている。為政者の経済オンチは今の日本も同じ事、コミンテルン的な活動のしやすさも、今も変わらず同じというわけだ。
コミンテルンの母体はソ連からロシアに変わったが、共産主義という古びた看板は脇に追いやり、存分に国益を追求する方針にシフトした。所謂コミンテルン的な活動は、重いコートを脱ぎ棄てて、より自由闊達に転換されているだろう。
それはきっと、世界規模で大きな紛争や戦争が相次ぐ昨今の世の中にあって、より活発さを増している。と言うかむしろ、ウクライナはコミンテルン的活動の大規模なもの、と理解できるだろう。
ただでさえ、自分の足で歩んでいる感触が薄れる一方の、今の日本に居て。本書は、貴重な警鐘の一つであるように思われた。
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コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書) 新書 – 2017/8/10
本書で、コミンテルンは、共産主義陣営による諜報活動と、教育感化や風説の流布による思想操作の機能を併せ持つインテリジェンス機関として定義されている。その活動の主体は言うまでもなくソ連だったが、ソ連に看板がついたオフィスを持つ歴とした組織ではなく、同種の活動に携わる人々による漠然とした組織体として捉えられているようだ。この辺りは、ほぼ一般的な理解と同じだろう。
明治維新で日本は、伝統的な(≒古式豊かで弱い)国体から脱却し、国力を蓄えて欧米諸国に立ち向かわねば国が維持できない、という事態に直面した。
「日本を一旦捨てて作り直さねば、日本が失われてしまう」という深い矛盾に囚われていたわけだ。それがもたらす苦悩と苦痛は、漱石や鴎外の吐露として今も読むことができる。
当時の日本のエリートは、この矛盾の解決方法を必死になって探したし、その実現に向かって死に物狂いで努力した。
国力を増して対外的に打って出る、マルクス主義を入れて新しい国家を実現する、日本の独自性・伝統・文化を守ることでベースを固める、といった辺りが主流であり、正論として流布されていた。
戦争が相次ぐ当時にあって、権力(つまり「国の出方」)どうすんの論は盛んに議論された。他方、経済どうすんの方は軽んじられた。当時は(現在もだが)経済理論、特にマクロ経済論は、理解にも浸透にも至っておらず、いわゆる経済オンチ的な政策で、事態がかえって悪化したりと「事を荒立てる」ことが多かった。しかし、そのことを正しく理解し、まして対処案を提示できる人間は、多くはなかった。
当時の経済理論の最新版はマルクスであり、実際それくらいしか選択肢がなかったから、それが「最先端の正しいこと」と理解されていた。つまり、この分野のエリートは、左傾化するのが常だった。
しかし、マルクス主義の中身というのは、社会構造のupdateを繰り返す前提になっている。コレコレこういう段階を経て社会は進歩し、その成果として労働者の楽園が訪れるであろう。社会構造のupdateとはつまり、今の社会を一旦壊す事でもある。いわゆる革命というヤツだ。革命を繰り返すのが善。そんな理論だから、基本的に権力を持っている国家サイドとの相性が悪い。必然的に、権力に弾圧されることになる。
貧しくなる一方の庶民の現状を憂い、何とか手を差し伸べるべく真面目に考える真摯な経済研究家ほど弾圧されたし、その人の良さは、コミンテルンが付け入るスキを大いに与えた。
中国共産党や、さらにその駐在所である日本共産党などによる表立った活動のみならず、政治の中枢の人間に直接、接近し、援助し、情報を与え(悪く言えば洗脳)、その思想を通して、日本の施策を操作しようとした。
コミンテルンの活動の本質は、本家ソ連の考え方を色濃く反映しており、悪いことに、それは困窮した労働者諸君を救うことを目的にしたような理想主義的なものでは全くなかった。仕切る側(党)というオイシイ側にどう権力を奪取・収奪して、そのオイシサを増すかの一点張りで、真摯な理想主義者が望む者とは真逆の姿だった。
その意図は、日本の国力を削ぎ弱体化させることで革命を容易にすることを目的にしており、これが戦争の長期化という手段を取ることもあって、一見では戦争推進派との相性が良かったりする。そんな事情もあって、事は単純ではなく入り組んでいてヤヤコシイ。コミンテルンが、日本の戦争突入を誘導した、介入した、助けた(?)ということになるのだが、その相手は、右翼を含めて多岐に渡る。
例えば、右翼系でも全体主義的な思想の持ち主なら社会主義的な施策との相性は良かったとか、学会の権威(東大法学部)はグダグダで、正当性や有効性はさておき権威を強化しひけらかすこと(≒批判)に主眼が置かれていた。しかも、下手に権威なだけに、彼らの放言を誰も止めなかったから、その言いたい放題は、コミンテルンに活動の材料を与えることにもなった。
手段を択ばず、社会主義を、やがては共産主義革命を目指すコミンテルンの活動は、政府や軍部の中枢を含む日本のエリート層全体にまだらに流布・浸透していて、それは必ずしも当人の思想とは関係がなかった。要は、コミンテルンにとって利用価値があれば誰でも良かったのだ。しかし、後からその活動を追い、実態を明らかにせんというこの著者のような研究者にとっては、そのことが、コミンテルンの活動を至極見えづらくしており、本書のような著作には、その苦労が偲ばれる。
活動が斑(まだら)で実際が分かりにくいコミンテルンの動向は、二次大戦後も大して変わらず続いていたし、それはきっと、今も変わらず続いている。日本ではマクロ経済論はいまだに弱く、権力論は、誰が何をするかという直接的かつ表面的なレベルに留まっている。為政者の経済オンチは今の日本も同じ事、コミンテルン的な活動のしやすさも、今も変わらず同じというわけだ。
コミンテルンの母体はソ連からロシアに変わったが、共産主義という古びた看板は脇に追いやり、存分に国益を追求する方針にシフトした。所謂コミンテルン的な活動は、重いコートを脱ぎ棄てて、より自由闊達に転換されているだろう。
それはきっと、世界規模で大きな紛争や戦争が相次ぐ昨今の世の中にあって、より活発さを増している。と言うかむしろ、ウクライナはコミンテルン的活動の大規模なもの、と理解できるだろう。
ただでさえ、自分の足で歩んでいる感触が薄れる一方の、今の日本に居て。本書は、貴重な警鐘の一つであるように思われた。
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コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書) 新書 – 2017/8/10
◆ (単行本) 科学革命の構造 新版 ― 2024/01/08 06:35
新版とあるが、初出は古く、ほぼ古典と言える本らしい。
原著は62年に刊行。初の日本語版は71年に刊行され、これが長く読まれていた。
今回、23年に、翻訳をリフレッシュして再販になったと。
何やら大変に難しい本である。科学と哲学の鬼子、といった所か。
一見、理論として盤石に見える科学の世界でも、定説が根本からガラッと変わるような変化が起きることがある。著者は、それを革命と呼び、それがどう起きるのかの仕組みについて、思考を廻らせてきた結果を、ある程度時系列に沿って説明している。その意味で、題名に偽りのない本である。
ただ、それには、科学者が物事をどう考えているのか/考えるものなのか、まずそちらを腑分けしてかかる必要がある。科学の世界にどっぷり浸かって、その思考様式に疑問を持たない「中の人」には、こういう議論はできないものだ。
そこで著者は、ルール、パラダイム、危機、といったキーワードを駆使し、それらに独自の定義をを持たせることで、その科学思考の仕組みと、その変遷を、横からの目線で説明せんとしている。その辺り、独特な用語で、入り組んだ新世界の記述を行うという点は、哲学書の作りによく似ている。
科学脳と哲学脳の両方を駆使しつつ文章を読み解くというのは、あまり前例がないように思う。その試みに付いて行ける能力をお持ちの読者は、稀有な読書体験を得られるだろう。
しかし、本書が理解できたかと、科学の世界で革命と言えるほどの大仕事ができるかは、全く関係がない。話の骨子は、あくまで「今まではこうだった(かも知れない/のように見える)」の範疇だ。
多分だが、本書の読者は、科学者が多いように思う。科学を生業とするに際し役に立つ、または必要な思考だろうとは思うので、広くご一読を進めたいのだが、本書をこなせる読者は、やはり限られそうだ。
個人的には、どちらかというと「科学を知りたい哲学者」の方に読んでいただいて、感想を聞いてみたい気がした。
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科学革命の構造 新版 単行本 – スペシャル・エディション, 2023/6/13
原著は62年に刊行。初の日本語版は71年に刊行され、これが長く読まれていた。
今回、23年に、翻訳をリフレッシュして再販になったと。
何やら大変に難しい本である。科学と哲学の鬼子、といった所か。
一見、理論として盤石に見える科学の世界でも、定説が根本からガラッと変わるような変化が起きることがある。著者は、それを革命と呼び、それがどう起きるのかの仕組みについて、思考を廻らせてきた結果を、ある程度時系列に沿って説明している。その意味で、題名に偽りのない本である。
ただ、それには、科学者が物事をどう考えているのか/考えるものなのか、まずそちらを腑分けしてかかる必要がある。科学の世界にどっぷり浸かって、その思考様式に疑問を持たない「中の人」には、こういう議論はできないものだ。
そこで著者は、ルール、パラダイム、危機、といったキーワードを駆使し、それらに独自の定義をを持たせることで、その科学思考の仕組みと、その変遷を、横からの目線で説明せんとしている。その辺り、独特な用語で、入り組んだ新世界の記述を行うという点は、哲学書の作りによく似ている。
科学脳と哲学脳の両方を駆使しつつ文章を読み解くというのは、あまり前例がないように思う。その試みに付いて行ける能力をお持ちの読者は、稀有な読書体験を得られるだろう。
しかし、本書が理解できたかと、科学の世界で革命と言えるほどの大仕事ができるかは、全く関係がない。話の骨子は、あくまで「今まではこうだった(かも知れない/のように見える)」の範疇だ。
多分だが、本書の読者は、科学者が多いように思う。科学を生業とするに際し役に立つ、または必要な思考だろうとは思うので、広くご一読を進めたいのだが、本書をこなせる読者は、やはり限られそうだ。
個人的には、どちらかというと「科学を知りたい哲学者」の方に読んでいただいて、感想を聞いてみたい気がした。
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科学革命の構造 新版 単行本 – スペシャル・エディション, 2023/6/13
◆ (単行本) ルポ 誰が国語力を殺すのか ― 2023/12/31 15:27
小学生に「ごんぎつね」を読ませて、感想を言わせる場面から、本書は始まる。物語の中で、悪いきつねは婆さんを殺して煮てしまうのだが、この意味が、子供たちにはわからない。いわく、消毒しているのではないか、埋葬の代わりではないか・・・。
こういった事態を、文科省のエラいさんは「読解力の低下」として、各種の対応策を打ち出している。(←我田引水してメシのタネ化している。)
が、どう考えても、国語力の低下は、この現象の原因の、ほんの一端でしかない。子供たちの生活環境、家庭と学校とネットをひっくるめてだが、その劣化に起因する、広範囲かつ複合的な要因に依ることは明らかだろう。
著者は、実際に子供たちと接した経験を元に、子供たちの劣化をタイプ別に腑分けして、子供たちがこうなるに至る原因とステップを明らかにし、対処法をまとめている。
個人的な感想だが、やはり、親のレイヤの劣化は、加速度的に子供レイヤの劣化をもたらす。このところ、今の大人は子供っぽくていけない、と繰り返し文句を言っている私だが、子供が子供を育てられないのは当たり前だ。
親や先生が、子供に対して、自分に何かをしてくれと要求している場面を、よく見かける。(普通はこうするよね?という言い回しで「仕向ける」やり方が多い。) 大概の子供はいい子でマジメだから、その要求に従い、奉仕(頻繁に「貢献」と言い換えられる)することが、自分の社会的役割だ、と認識する。
上の人間に従い、群れに奉仕することが正しい行いで、それ以外の事、上に逆らうことは無論、異論を唱えたり、勝手に振る舞ったりすることは悪事であって、糾弾による断罪(よくヘイトの元ネタに応用される)や、村八分による懲罰(≒自己責任)に値する、となる。そうして、現代版の村社会が、めでたく成立と相成る。
個人レベルで見れば、自分の意思や希望が一切反映されないとなれば、個人そのものは矮小の一途を辿る。本書には、既に矮小化の淵に追い込まれている今の小中学生の姿が、複数の角度から立体的に描かれている。
何とも不憫な世の中だ。
私も、せめて事態の改善に寄与したい所だが、その体力も、残り時間も持ち合わせがないことが、悔しくて仕方がない。
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ルポ 誰が国語力を殺すのか 単行本 – 2022/7/27
こういった事態を、文科省のエラいさんは「読解力の低下」として、各種の対応策を打ち出している。(←我田引水してメシのタネ化している。)
が、どう考えても、国語力の低下は、この現象の原因の、ほんの一端でしかない。子供たちの生活環境、家庭と学校とネットをひっくるめてだが、その劣化に起因する、広範囲かつ複合的な要因に依ることは明らかだろう。
著者は、実際に子供たちと接した経験を元に、子供たちの劣化をタイプ別に腑分けして、子供たちがこうなるに至る原因とステップを明らかにし、対処法をまとめている。
個人的な感想だが、やはり、親のレイヤの劣化は、加速度的に子供レイヤの劣化をもたらす。このところ、今の大人は子供っぽくていけない、と繰り返し文句を言っている私だが、子供が子供を育てられないのは当たり前だ。
親や先生が、子供に対して、自分に何かをしてくれと要求している場面を、よく見かける。(普通はこうするよね?という言い回しで「仕向ける」やり方が多い。) 大概の子供はいい子でマジメだから、その要求に従い、奉仕(頻繁に「貢献」と言い換えられる)することが、自分の社会的役割だ、と認識する。
上の人間に従い、群れに奉仕することが正しい行いで、それ以外の事、上に逆らうことは無論、異論を唱えたり、勝手に振る舞ったりすることは悪事であって、糾弾による断罪(よくヘイトの元ネタに応用される)や、村八分による懲罰(≒自己責任)に値する、となる。そうして、現代版の村社会が、めでたく成立と相成る。
個人レベルで見れば、自分の意思や希望が一切反映されないとなれば、個人そのものは矮小の一途を辿る。本書には、既に矮小化の淵に追い込まれている今の小中学生の姿が、複数の角度から立体的に描かれている。
何とも不憫な世の中だ。
私も、せめて事態の改善に寄与したい所だが、その体力も、残り時間も持ち合わせがないことが、悔しくて仕方がない。
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ルポ 誰が国語力を殺すのか 単行本 – 2022/7/27
◆(単行本) 勉強の哲学 来たるべきバカのために ― 2023/12/31 10:10
この題名だが、「勉強を進めることは、つまり一旦バカになることである」という意味らしい。
そんな具合に、勉強というものが本来内包する構造を腑分けし、それをどう再構成して登って行けば、どういう成果が得られるのかを、体系的に説明している。
勉強は、親や教師に強いられて、Yes, Sir!と従うこと、と思っている向きにとっては、解放の書になるだろう。
勉強というものに迷いを持つ人にとっては、指南書になるだろう。
動きの速い(≒お話がしょっちゅう変わる)忙しい世の中だ。追いつくには常に勉強が必要だが、その時間すら取りにくいという、やりにくい世の中でもある。
ただ、そこで脱落し、諦めて、勉強を止めてしまうと、ずるずる不幸になって行く。自分で判断できず、周囲に迎合し、流されるだけになるからだ。周囲の流れが、自分に配慮してくれるわけもない。
幸せは、自分専用のカスタム品だ。自分で誂えねばならない。本来、勉強とは、そこへ至る手段であり階段のことだ。
そのための実用書として読むには、少々概念的に過ぎる書きっぷりだが。少なくとも「扉は開く」と思うので、万人におススメしたい本だ。
言葉自体は平易なので、若い人にも読みやすいだろう。大人が読んで子供に要約してやる(子育ての場面場面で断片的に生かす)ような使い方もできそうに思った。
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勉強の哲学 来たるべきバカのために 単行本(ソフトカバー) – 2017/4/11
そんな具合に、勉強というものが本来内包する構造を腑分けし、それをどう再構成して登って行けば、どういう成果が得られるのかを、体系的に説明している。
勉強は、親や教師に強いられて、Yes, Sir!と従うこと、と思っている向きにとっては、解放の書になるだろう。
勉強というものに迷いを持つ人にとっては、指南書になるだろう。
動きの速い(≒お話がしょっちゅう変わる)忙しい世の中だ。追いつくには常に勉強が必要だが、その時間すら取りにくいという、やりにくい世の中でもある。
ただ、そこで脱落し、諦めて、勉強を止めてしまうと、ずるずる不幸になって行く。自分で判断できず、周囲に迎合し、流されるだけになるからだ。周囲の流れが、自分に配慮してくれるわけもない。
幸せは、自分専用のカスタム品だ。自分で誂えねばならない。本来、勉強とは、そこへ至る手段であり階段のことだ。
そのための実用書として読むには、少々概念的に過ぎる書きっぷりだが。少なくとも「扉は開く」と思うので、万人におススメしたい本だ。
言葉自体は平易なので、若い人にも読みやすいだろう。大人が読んで子供に要約してやる(子育ての場面場面で断片的に生かす)ような使い方もできそうに思った。
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勉強の哲学 来たるべきバカのために 単行本(ソフトカバー) – 2017/4/11
◆ (新書) 楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」 ― 2023/12/31 06:47
「人が音をどう捉えているのか」を主に記述し、「それに楽器がどう配慮しているか」を知識ベースで、その下層に配置する。そういう構成の本だ。
基本、人が耳で感じているものの正体、例えば、倍音とは何か、音色は倍音の組み合わせで造られる、といったお話だ。
楽器は、それを実現するための道具だから、それに配慮された構造を持つ。本書の題名からして、その詳細を期待してしまうが、そちらは補助的に語られるに留まる。世界中のありとあらゆるタイプの楽器を同列に扱うので、ここの記述が限定的になるのは仕方ない。
なので、本書を理解したとしても、よい楽器が作れるようになるわけではない。
ただ、知識ベースでは知っておいて損はないし、プロレベルなら必須の知識だ。
ルシアーやビルダーのみならず、音楽家と、音楽愛好家にとって、広く読まれるべき本だろう。
基本的な科学的な知識を、広く浅くお安く提供してくれるという意味で、本書は、由緒正しいブルーバックスだ。
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楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」 (ブルーバックス) 新書 – 2022/4/14
基本、人が耳で感じているものの正体、例えば、倍音とは何か、音色は倍音の組み合わせで造られる、といったお話だ。
楽器は、それを実現するための道具だから、それに配慮された構造を持つ。本書の題名からして、その詳細を期待してしまうが、そちらは補助的に語られるに留まる。世界中のありとあらゆるタイプの楽器を同列に扱うので、ここの記述が限定的になるのは仕方ない。
なので、本書を理解したとしても、よい楽器が作れるようになるわけではない。
ただ、知識ベースでは知っておいて損はないし、プロレベルなら必須の知識だ。
ルシアーやビルダーのみならず、音楽家と、音楽愛好家にとって、広く読まれるべき本だろう。
基本的な科学的な知識を、広く浅くお安く提供してくれるという意味で、本書は、由緒正しいブルーバックスだ。
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楽器の科学 美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」 (ブルーバックス) 新書 – 2022/4/14
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