◆ (単行本) 賢い人の秘密 ~その2 ― 2023/09/07 05:04
同じ本を2回取り上げるのは初めてだ。
(一回目は こちら 。)
同書をじっくり読み直したので、自分の思考の整理も含めて書き直してみた。折角なので上げておく。
###
「賢い人」というのは、どういう考え方をするものなのか。
著者は、それを、要素ごとにピックアップし、まるで図示するかのようにマッピングして、そのトリセツを、バグまで含めて、示さんとしている。
人の思考のほとんどは、概念でできている。我々は、実際には存在しない、頭の中だけで形作られている抽象的な思考を基に、認識を組み立て、現実や、価値、意味といった「結果」を捻出し、判断し、行動している。
しかし、そのプロセスは、頭の中「だけ」では完結しない。頭の外の物質世界は無論、他人の頭の中の概念とも、ある程度は整合していないと、共有できない。
誰にも伝わらない独りよがりの概念は、物質世界で、群れをなして暮らす動物である人間にとって、何の役にも立たない。独自性は必要だが、全く独自では機能しない。そのバランスが大事になる。
概念は、ただの意識上のイメージなので、弱いし、脆い。容易に移ろうし、外からの影響で簡単に変容してしまう。実に頼りない代物だ。
その概念の妥当性は、どうすれば担保できるか。
本書は、それを追っている。
大切なのは、答えを知っている事(知識)ではない。
どうすれば答えにたどり着けるか、その方法を知っており、独力で実践できるか(知恵、知性、知力)の方だ。
著者は、プラトン~アリストテレスの辺りの古典を、出発点かつゴールとして扱っている。それが普遍的であり、未だかつて超えられていないからだ。
だから本書は、哲学の本でもある。
私は当ブログで、哲学を「自分が何を考えているか、考えることだ」と定義してきたが、本書は、まるでそのものの展開で進んでいる。
ここで語られるのは、「正解」の話ではない。
正解は、人それぞれ。人の数ほどある。
本書の主眼は「手法」であり、目的は「自分でできるようになること」だ。
著者は、人が物を考えるときの筋道を分類し、その各々の利点と欠点を明らかにし、それらをどう組み合わせれば最も上等に機能するのか、その時の注意点は何か、体系的な説明を試みている。つまり、本書で示されるのは、「人がものを考える時の構造」だ。
それは、人が本来的に誰でも共通して持つ能力だ。
だから、「賢い」と言われる人々の、上等のそれを正しく認識し、模倣・応用することで、誰でも近づくことができる。
以前、私は、「大人」を、「他人に何かをする側の人間」と書いたが、その文脈で行くと、「大人になること」は、「人から何かをされる側(子供)から、する側(大人)に転じること」となる。本書の目的は、「自立して思考し、確たる境地を示せるようになること」なので、ほとんど同意だ。つまり、本書は、教育の話でもある。
著者のバックグラウンドは教育分野であり、本書でも、教育について、章を割いて説明している。現代主流の詰込み型の教育の瑕疵を痛烈に批判し、本来あるべき教育の姿を論じている。副題の「天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた云々」は、そのことを言っている。
以下は私見に移る。
とかく近年は、認識の材料としての情報の量が劇的に増え、かつ、多くの人の手を経るようになっているから、他人の意図を反映した、偏っていたり、歪んでいる情報を基に、思考を強いられることが多い。
他方、許容される認識のブレ幅は、大きくなる傾向にある。許される余地は広がっていて、それは例えば、最近よく耳にする、個人主義とか、多様性といった言われ方にも、端的に表れているように思う。ジェンダーを自己認識で識別するといった近年の動向も、この趨勢の一端と言えるだろう。
自己認識の自由度の増加は、曲解と言えるようなエラーを生みがちなようだ。
自己に都合がよいように概念を変えていいなら、人は利己主義に陥るし、それを恥じなくなる。
他人に影響し、侵食することで、自分の利益が増やせるなら、その方が得だし、利口である。そういった、現代ならではの現実主義は、利己主義を、オブラートで包んだだけにも見える。
影響力の強さは権力であり、大はエラい政治家の先生から、小はネットでキャン吠えしている自称・インフルエンサーまで、その利を争っている。
それが時に、各種の暴力性を帯びたり、偏向の殻に閉じこもったりするので、甚だ見苦しい。
本来、概念は、updateに柔軟であり、自己研鑽により磨き上げ、その濃さを増して行けるものだ。
ただ膨張し、浸食し、硬化するというのは、方向性として真逆であり、間違いだ。
SNSでの言い合いはもとより、政治家の言葉の空虚さは、いくらそれを検証し、あげつらっても、当の本人は全く影響を受けなくなった。
先生方は、妙な屁理屈で一件落着を決め込んで、利権の誘導に余念がない。一言政治がスゲエという、過度に単純化された世界観の新世紀は、そうやってやってきた。
「他人よりデカい肉をゲットしたヤツが勝ち。」
我々は、自己解放を極めて、イヌになった。
思うに、日本人は、歴史的に、この真逆の思考法に、親和性が高かった。
周囲の大多数の共通認識が真実、という思考方だ。
実態不明な「世間」を設定し、それを盲目的に共有し、規範として敬え、という同調圧力は、今でも増大し続けている。
学校で先生が言い募るのは、「目上(の先生)を敬い模倣せよ」という、同様の論だ。そして、互いにけん制し合うだけで、自らは進みたがらない「いい子」が量産されている。
ただ迎合するだけで、自分ではペダルを漕がない。個人のドライブ力が低下している所に、人数も減っているから、日本の国力は、低下の一方だ。
それは全く、本書で糾弾されている、間違った教育そのものだ。
ところが、同様な劣化の帰結は日本だけではなかったことが、最近特に明確になっている。
米国はトランプにやられた。
中国やロシアも、一人の政治家に蹂躙されている。
民衆の耳目を塞ぎ、情報を特定のものに限れば、人々の認識は、真実は、容易に操れる。
それが露呈したことに危機感を感じた著者が、自らの思考に因って立つとはどういうことか、容易には他人に操られない、賢い人というのはどういう考え方をするものなのかを著書としてまとめる、大きなきっかけになったようだ。
目的は、自分でできるようになること。
大人になることだ。
そうやって自立して初めて、人は、幸せの背中を捉えられる。
あとは研鑽にて、近づくのみである。
そこへ至る武器を与えてくれる。
(既に持っている人は、その整理と研ぎ直しを迫る。)
その知的作業を行う材料として、指針として、本書は役に立つだろう。
Amazonはこちら
賢い人の秘密 天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた「6つの知恵」 単行本 – 2022/12/8
(一回目は こちら 。)
同書をじっくり読み直したので、自分の思考の整理も含めて書き直してみた。折角なので上げておく。
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「賢い人」というのは、どういう考え方をするものなのか。
著者は、それを、要素ごとにピックアップし、まるで図示するかのようにマッピングして、そのトリセツを、バグまで含めて、示さんとしている。
人の思考のほとんどは、概念でできている。我々は、実際には存在しない、頭の中だけで形作られている抽象的な思考を基に、認識を組み立て、現実や、価値、意味といった「結果」を捻出し、判断し、行動している。
しかし、そのプロセスは、頭の中「だけ」では完結しない。頭の外の物質世界は無論、他人の頭の中の概念とも、ある程度は整合していないと、共有できない。
誰にも伝わらない独りよがりの概念は、物質世界で、群れをなして暮らす動物である人間にとって、何の役にも立たない。独自性は必要だが、全く独自では機能しない。そのバランスが大事になる。
概念は、ただの意識上のイメージなので、弱いし、脆い。容易に移ろうし、外からの影響で簡単に変容してしまう。実に頼りない代物だ。
その概念の妥当性は、どうすれば担保できるか。
本書は、それを追っている。
大切なのは、答えを知っている事(知識)ではない。
どうすれば答えにたどり着けるか、その方法を知っており、独力で実践できるか(知恵、知性、知力)の方だ。
著者は、プラトン~アリストテレスの辺りの古典を、出発点かつゴールとして扱っている。それが普遍的であり、未だかつて超えられていないからだ。
だから本書は、哲学の本でもある。
私は当ブログで、哲学を「自分が何を考えているか、考えることだ」と定義してきたが、本書は、まるでそのものの展開で進んでいる。
ここで語られるのは、「正解」の話ではない。
正解は、人それぞれ。人の数ほどある。
本書の主眼は「手法」であり、目的は「自分でできるようになること」だ。
著者は、人が物を考えるときの筋道を分類し、その各々の利点と欠点を明らかにし、それらをどう組み合わせれば最も上等に機能するのか、その時の注意点は何か、体系的な説明を試みている。つまり、本書で示されるのは、「人がものを考える時の構造」だ。
それは、人が本来的に誰でも共通して持つ能力だ。
だから、「賢い」と言われる人々の、上等のそれを正しく認識し、模倣・応用することで、誰でも近づくことができる。
以前、私は、「大人」を、「他人に何かをする側の人間」と書いたが、その文脈で行くと、「大人になること」は、「人から何かをされる側(子供)から、する側(大人)に転じること」となる。本書の目的は、「自立して思考し、確たる境地を示せるようになること」なので、ほとんど同意だ。つまり、本書は、教育の話でもある。
著者のバックグラウンドは教育分野であり、本書でも、教育について、章を割いて説明している。現代主流の詰込み型の教育の瑕疵を痛烈に批判し、本来あるべき教育の姿を論じている。副題の「天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた云々」は、そのことを言っている。
以下は私見に移る。
とかく近年は、認識の材料としての情報の量が劇的に増え、かつ、多くの人の手を経るようになっているから、他人の意図を反映した、偏っていたり、歪んでいる情報を基に、思考を強いられることが多い。
他方、許容される認識のブレ幅は、大きくなる傾向にある。許される余地は広がっていて、それは例えば、最近よく耳にする、個人主義とか、多様性といった言われ方にも、端的に表れているように思う。ジェンダーを自己認識で識別するといった近年の動向も、この趨勢の一端と言えるだろう。
自己認識の自由度の増加は、曲解と言えるようなエラーを生みがちなようだ。
自己に都合がよいように概念を変えていいなら、人は利己主義に陥るし、それを恥じなくなる。
他人に影響し、侵食することで、自分の利益が増やせるなら、その方が得だし、利口である。そういった、現代ならではの現実主義は、利己主義を、オブラートで包んだだけにも見える。
影響力の強さは権力であり、大はエラい政治家の先生から、小はネットでキャン吠えしている自称・インフルエンサーまで、その利を争っている。
それが時に、各種の暴力性を帯びたり、偏向の殻に閉じこもったりするので、甚だ見苦しい。
本来、概念は、updateに柔軟であり、自己研鑽により磨き上げ、その濃さを増して行けるものだ。
ただ膨張し、浸食し、硬化するというのは、方向性として真逆であり、間違いだ。
SNSでの言い合いはもとより、政治家の言葉の空虚さは、いくらそれを検証し、あげつらっても、当の本人は全く影響を受けなくなった。
先生方は、妙な屁理屈で一件落着を決め込んで、利権の誘導に余念がない。一言政治がスゲエという、過度に単純化された世界観の新世紀は、そうやってやってきた。
「他人よりデカい肉をゲットしたヤツが勝ち。」
我々は、自己解放を極めて、イヌになった。
思うに、日本人は、歴史的に、この真逆の思考法に、親和性が高かった。
周囲の大多数の共通認識が真実、という思考方だ。
実態不明な「世間」を設定し、それを盲目的に共有し、規範として敬え、という同調圧力は、今でも増大し続けている。
学校で先生が言い募るのは、「目上(の先生)を敬い模倣せよ」という、同様の論だ。そして、互いにけん制し合うだけで、自らは進みたがらない「いい子」が量産されている。
ただ迎合するだけで、自分ではペダルを漕がない。個人のドライブ力が低下している所に、人数も減っているから、日本の国力は、低下の一方だ。
それは全く、本書で糾弾されている、間違った教育そのものだ。
ところが、同様な劣化の帰結は日本だけではなかったことが、最近特に明確になっている。
米国はトランプにやられた。
中国やロシアも、一人の政治家に蹂躙されている。
民衆の耳目を塞ぎ、情報を特定のものに限れば、人々の認識は、真実は、容易に操れる。
それが露呈したことに危機感を感じた著者が、自らの思考に因って立つとはどういうことか、容易には他人に操られない、賢い人というのはどういう考え方をするものなのかを著書としてまとめる、大きなきっかけになったようだ。
目的は、自分でできるようになること。
大人になることだ。
そうやって自立して初めて、人は、幸せの背中を捉えられる。
あとは研鑽にて、近づくのみである。
そこへ至る武器を与えてくれる。
(既に持っている人は、その整理と研ぎ直しを迫る。)
その知的作業を行う材料として、指針として、本書は役に立つだろう。
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賢い人の秘密 天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた「6つの知恵」 単行本 – 2022/12/8
◆ (単行本) なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術 ― 2023/09/09 06:03
題名の通り、人間が集団で間違うメカニズムを、多面的に論じた本だ。
人は、群れを作る動物だ。
つまり、本能的に、群れに迎合する。
自ら率先して多数派に迎合し、埋もれることで、安心するし、していたい。
人は、そういう志向を持っている。
勝てば官軍。自民支持層の心理かも知れない。
ところが、各個人が想定している「群れの総意」と、実際のそれは、しばしば異なる。「皆こう思っているんだろうな」という想定(例えば「世論」)は、かなりの度合いで共有されている。しかし、各個人の意見として、実際にそう思っている人というのは、ほとんどいなかったりする。
自分の意見と、群れの総意は、しばしば異なる。しかし、群れからの排除を恐れて、あるいは群れの中での地位保全のため、自分の意思の方を、群れに合わせる。そのプロセスは、意識/無意識に関わらない。まるで、初めから群れと同意だったようにふるまう。他方、群れと個人の意見の相違は解消せず、一方的に合わせるだけなので、個人の側はストレスを蓄積する。その量が一線を越えると、妙な爆発をしたり、健康を害したりする。
群れへの迎合の度合いを価値とする考え方も、一般的によく見られる。迎合の度合いを競うのだが、相手の足を引っ張ったり、糾弾先を新設するために無用なコストをかけ始めたりする(下手をすると「買って来る」)。群れの中での争いなので、ほとんど益はないのだが、統率者にとっては都合がよかったりするので、現在でもよく見られる(例えば「恐怖政治」)。
群れの大多数の共通認識を、現実や真実とみなす考え方は、我が国では実に顕著だが、どうも、世界規模で一般的なものらしい。しかし、人の都合にまみれたそれは、これまたしばしば、実際と異なる。「現実」は、人の頭の中ではなく、外にある。だから、皆が思っている現実や真実は、幻である。そういうことが、まま起きる。
たとえ、群れの認識が間違いであることが明らかになっても、それに気付かない(ことにする)ことも、またよくある。そういった集団隠蔽も、群れの意志ではあるわけで、それに迎合するのが良しとされるし、糾弾を試みれば、裏切り者、悪者として、群れからは排除の憂き目にあう。その暴力が、「群れを思っての正義感」という正しさで偽装されたりするので、余計ややこしい。さらに近年は、これと同じ手法が構造的にネットで悪用されるようになり、AIなど最新技術を投入して巧妙化すると共に、頻度自体も上がっているので、もっとややこしい。
著者は、そういった数々の集団の過誤が、どういう仕組みで起こるものかを仕分けし、全体像を示すと共に、そこに陥らないための処方箋を、具体的にまとめている。他人をどうするか、ではなく、自分がどうすべきか、の視点で、意識の持ち方や変え方、意思表明やコミュニケーションなどについて、体系的にまとめんとしている。
社会心理学の最新成果を、平易にまとめたものとも言える。学術的に小難しい話では全くなく、身近な例を挙げつつ、平易な説明に終始している。上から目線の押し付けはなく、「オレ(著者)も危ないんだよね~」と苦笑いしつつの語り口には、思わず共感してしまう。
上で挙げた数々の集団による過誤の類型を、本書では「罠」と称している。が、「掟」と読み替えた方が、我々日本人には、しっくりくる気がする。
常に「世間」を意識せよ。
雰囲気や流れを壊さぬよう配慮せよ。
目上(先生、親、上司、政治家?)を敬え。
今でも、学校ではそう教育されているし、家に帰っても、仲間への帰属や、友達への配慮(≒同調圧力)を強調するアニメを見て育っている。
我々日本人は、群れを忖度し、迎合する、小役人体質の国民だ。
二言目には「責任」と言い出すヤツが多いのは、その証拠だ。
(「責任」の正体は、群れからの排斥に対する恐怖を裏返しにした罰則だ。)
と思っていたのだが、本書を読むと、こういった傾向は日本に限らないようだ。アジアやアフリカなら想像がつくのだが、欧米や米国のような、個人主義で鳴らした国でも、かなり顕著らしい。現に、本書の著者は米国人だし、引かれている事例も、米国のものが多い。
ということは、本書の内容は、ある程度、人類に普遍的なものなのだろう。群れの規模、地域、時代といった背景や属性に関わらず、応用が利くということだ。
本書の論点は、群れの中で個人をどう生かすか、という根本的な矛盾を孕んでいる。
その解として示されるのは、「自分を信じろ」だ。
正直ベースの自分の意思に従うのが正道だと、著者は言う。
無論、ただの独りよがり、唯我独尊に陥っては元も子もない。
群れの掟と、個人の意思との間で、うまくバランスを取るのが肝要なのだと、私は思う。
そのためには、群れの掟の妥当性と、自分の意思の普遍性の双方を、繰り返し検証し、ブラッシュアップする作業が必要になる。
自分をアップデートする作業は、本来的に楽しいものだ。螺旋階段を登り続けるのは厳しいが、登れば登るほど、風景は広く明瞭になり、幸せの濃さも増す。
そのコツは、独りになることだ。
もう少し優しく言うと、独り立ちすることだ。
独りになるのは怖くない。人は皆、本質的に、一人だ。
一歩一歩踏みしめる自分の脚の感覚に比べれば、群れなんて、ただの幻だ。
(自分の意思を現実的にブラッシュアップする作業という意味では、 前回の本 が参考になるように思う。)
本書の内容は、その参考になるし、実生活への応用も効くだろう。
ただ、この手の心理は「知らぬ間に流される」のが常だし、認識が遅れる分、自力での解脱も難しい。平易な本書を一読してデキたつもりになるのではなく、場数を踏んでの練習は必要だ。そのリマインドとしても、本書は有用だろう。
上述のように、本書は、主に「自分(読者自身)がどうするか」という内向的な観点で書かれている。もし、リーダーシップ論として、外向的に応用したい場合には、ある種の変換が必要になる。それは読者の仕事だろう。
Amazonはこちら
なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術 ハードカバー – 2023/5/25
人は、群れを作る動物だ。
つまり、本能的に、群れに迎合する。
自ら率先して多数派に迎合し、埋もれることで、安心するし、していたい。
人は、そういう志向を持っている。
勝てば官軍。自民支持層の心理かも知れない。
ところが、各個人が想定している「群れの総意」と、実際のそれは、しばしば異なる。「皆こう思っているんだろうな」という想定(例えば「世論」)は、かなりの度合いで共有されている。しかし、各個人の意見として、実際にそう思っている人というのは、ほとんどいなかったりする。
自分の意見と、群れの総意は、しばしば異なる。しかし、群れからの排除を恐れて、あるいは群れの中での地位保全のため、自分の意思の方を、群れに合わせる。そのプロセスは、意識/無意識に関わらない。まるで、初めから群れと同意だったようにふるまう。他方、群れと個人の意見の相違は解消せず、一方的に合わせるだけなので、個人の側はストレスを蓄積する。その量が一線を越えると、妙な爆発をしたり、健康を害したりする。
群れへの迎合の度合いを価値とする考え方も、一般的によく見られる。迎合の度合いを競うのだが、相手の足を引っ張ったり、糾弾先を新設するために無用なコストをかけ始めたりする(下手をすると「買って来る」)。群れの中での争いなので、ほとんど益はないのだが、統率者にとっては都合がよかったりするので、現在でもよく見られる(例えば「恐怖政治」)。
群れの大多数の共通認識を、現実や真実とみなす考え方は、我が国では実に顕著だが、どうも、世界規模で一般的なものらしい。しかし、人の都合にまみれたそれは、これまたしばしば、実際と異なる。「現実」は、人の頭の中ではなく、外にある。だから、皆が思っている現実や真実は、幻である。そういうことが、まま起きる。
たとえ、群れの認識が間違いであることが明らかになっても、それに気付かない(ことにする)ことも、またよくある。そういった集団隠蔽も、群れの意志ではあるわけで、それに迎合するのが良しとされるし、糾弾を試みれば、裏切り者、悪者として、群れからは排除の憂き目にあう。その暴力が、「群れを思っての正義感」という正しさで偽装されたりするので、余計ややこしい。さらに近年は、これと同じ手法が構造的にネットで悪用されるようになり、AIなど最新技術を投入して巧妙化すると共に、頻度自体も上がっているので、もっとややこしい。
著者は、そういった数々の集団の過誤が、どういう仕組みで起こるものかを仕分けし、全体像を示すと共に、そこに陥らないための処方箋を、具体的にまとめている。他人をどうするか、ではなく、自分がどうすべきか、の視点で、意識の持ち方や変え方、意思表明やコミュニケーションなどについて、体系的にまとめんとしている。
社会心理学の最新成果を、平易にまとめたものとも言える。学術的に小難しい話では全くなく、身近な例を挙げつつ、平易な説明に終始している。上から目線の押し付けはなく、「オレ(著者)も危ないんだよね~」と苦笑いしつつの語り口には、思わず共感してしまう。
上で挙げた数々の集団による過誤の類型を、本書では「罠」と称している。が、「掟」と読み替えた方が、我々日本人には、しっくりくる気がする。
常に「世間」を意識せよ。
雰囲気や流れを壊さぬよう配慮せよ。
目上(先生、親、上司、政治家?)を敬え。
今でも、学校ではそう教育されているし、家に帰っても、仲間への帰属や、友達への配慮(≒同調圧力)を強調するアニメを見て育っている。
我々日本人は、群れを忖度し、迎合する、小役人体質の国民だ。
二言目には「責任」と言い出すヤツが多いのは、その証拠だ。
(「責任」の正体は、群れからの排斥に対する恐怖を裏返しにした罰則だ。)
と思っていたのだが、本書を読むと、こういった傾向は日本に限らないようだ。アジアやアフリカなら想像がつくのだが、欧米や米国のような、個人主義で鳴らした国でも、かなり顕著らしい。現に、本書の著者は米国人だし、引かれている事例も、米国のものが多い。
ということは、本書の内容は、ある程度、人類に普遍的なものなのだろう。群れの規模、地域、時代といった背景や属性に関わらず、応用が利くということだ。
本書の論点は、群れの中で個人をどう生かすか、という根本的な矛盾を孕んでいる。
その解として示されるのは、「自分を信じろ」だ。
正直ベースの自分の意思に従うのが正道だと、著者は言う。
無論、ただの独りよがり、唯我独尊に陥っては元も子もない。
群れの掟と、個人の意思との間で、うまくバランスを取るのが肝要なのだと、私は思う。
そのためには、群れの掟の妥当性と、自分の意思の普遍性の双方を、繰り返し検証し、ブラッシュアップする作業が必要になる。
自分をアップデートする作業は、本来的に楽しいものだ。螺旋階段を登り続けるのは厳しいが、登れば登るほど、風景は広く明瞭になり、幸せの濃さも増す。
そのコツは、独りになることだ。
もう少し優しく言うと、独り立ちすることだ。
独りになるのは怖くない。人は皆、本質的に、一人だ。
一歩一歩踏みしめる自分の脚の感覚に比べれば、群れなんて、ただの幻だ。
(自分の意思を現実的にブラッシュアップする作業という意味では、 前回の本 が参考になるように思う。)
本書の内容は、その参考になるし、実生活への応用も効くだろう。
ただ、この手の心理は「知らぬ間に流される」のが常だし、認識が遅れる分、自力での解脱も難しい。平易な本書を一読してデキたつもりになるのではなく、場数を踏んでの練習は必要だ。そのリマインドとしても、本書は有用だろう。
上述のように、本書は、主に「自分(読者自身)がどうするか」という内向的な観点で書かれている。もし、リーダーシップ論として、外向的に応用したい場合には、ある種の変換が必要になる。それは読者の仕事だろう。
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なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術 ハードカバー – 2023/5/25
◆ (単行本) 危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』 ― 2023/09/10 05:27
どこかの書評か何かで見かけた本だ。
よく覚えていないのだが、えらい人気、と自称していた。
どれどれ、と図書館で借りて読んでみた。(予約は長蛇の列だった。)
しかし、その下馬評(ステマかも)や、この表題から期待されるほどの本では、全くなかった。
そもそもこの表題、かなり盛っている。
各界の著名人が、主にマンガの(映画ではなく)ナウシカを論じた短文集だ。朝日新聞デジタルの連載を、単行本にまとめたものだそうだ。
筆頭に来るのは、スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏のインタビューだ。宮崎駿氏と、文字通り半生を苦楽を共にした鈴木氏は、当時のナウシカの仕掛け人でもあり、実情の裏の裏までご存じだ。その中で氏は、ナウシカが、巷で言われるほどの深い思索や、普遍性を熟慮したものではなく、もっとお気楽な娯楽ベースのスタートであったことを、赤裸々にぶっちゃけている。
その冒頭の章の後に、各界の第一人者によるナウシカ評が続く。学者、俳優、研究者、アナリスト、評論家といった、そうそうたるメンバーだ。
しかし、彼ら彼女らによる文章は、いわば著者目線のナウシカ像だ。さんざ深掘りし、何かを見つけた、または思索として形を成したものの、それは著者自身の考えによる造作であって、ナウシカは材料として使われただけのように見える。
さらに困ったことに、それら「半ば自分語り」のほとんどは、表題にある「危機の時代」とは、あまり関係がない。
つまり、本書を通読しても、今の不安の時代を生きる糧には、ほとんどならない。
ふーん、そういう読み方もあるのかー、そう来たかー、と感心するのが関の山なのだ。
こりゃ朝日と徳間に一服盛られたなと。
そんな読後感だった。
ナウシカ(マンガの方)に余程の思い入れがあるか、宮崎作品のかなりのマニアにしか、お勧めできない本だと思う。
Amazonはこちら
危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』 単行本(ソフトカバー) – 2023/2/2
よく覚えていないのだが、えらい人気、と自称していた。
どれどれ、と図書館で借りて読んでみた。(予約は長蛇の列だった。)
しかし、その下馬評(ステマかも)や、この表題から期待されるほどの本では、全くなかった。
そもそもこの表題、かなり盛っている。
各界の著名人が、主にマンガの(映画ではなく)ナウシカを論じた短文集だ。朝日新聞デジタルの連載を、単行本にまとめたものだそうだ。
筆頭に来るのは、スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏のインタビューだ。宮崎駿氏と、文字通り半生を苦楽を共にした鈴木氏は、当時のナウシカの仕掛け人でもあり、実情の裏の裏までご存じだ。その中で氏は、ナウシカが、巷で言われるほどの深い思索や、普遍性を熟慮したものではなく、もっとお気楽な娯楽ベースのスタートであったことを、赤裸々にぶっちゃけている。
その冒頭の章の後に、各界の第一人者によるナウシカ評が続く。学者、俳優、研究者、アナリスト、評論家といった、そうそうたるメンバーだ。
しかし、彼ら彼女らによる文章は、いわば著者目線のナウシカ像だ。さんざ深掘りし、何かを見つけた、または思索として形を成したものの、それは著者自身の考えによる造作であって、ナウシカは材料として使われただけのように見える。
さらに困ったことに、それら「半ば自分語り」のほとんどは、表題にある「危機の時代」とは、あまり関係がない。
つまり、本書を通読しても、今の不安の時代を生きる糧には、ほとんどならない。
ふーん、そういう読み方もあるのかー、そう来たかー、と感心するのが関の山なのだ。
こりゃ朝日と徳間に一服盛られたなと。
そんな読後感だった。
ナウシカ(マンガの方)に余程の思い入れがあるか、宮崎作品のかなりのマニアにしか、お勧めできない本だと思う。
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危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』 単行本(ソフトカバー) – 2023/2/2
◆ (単行本) カリスマCEOから落ち武者になった男 カルロス・ゴーン事件の真相 ― 2023/09/16 10:17
全く、表題そのままの本だ。
350頁にわたって、事の詳細が書かれている。
ゴーン逮捕の本は、当ブログでも何冊か取りあげたが。本書は最後発だけあって、調査が行き届いており、詳細さでは図抜けている。
物語として良くまとまっていて、シナリオが読みやすい。
他方、情報が網羅できている感じは薄く、シナリオ以外の細部は切り捨てられた印象がある。事の次第をあまねく伝えるカバレッジはイマイチで、物足りなさを感じさせる。
まず、ゴーンの祖父の代から、話は始まる。
彼の家系が、新天地で成り上がることに価値を置いていることが、端的に示される。
味方どころか知人さえいない見知らぬ土地で、商売を立ち上げ、拡大し、富を蓄え、成功者として称賛される。それが人生の目的であり、ゴールだ。商売上手から、成金として成り上がることが、成功の定義である。
彼の祖父は、実際にそれを体現することで、範を遺した。
他方、彼の父は、闇の商売にも手を染めて、逮捕にまで至っている。その背中は、何となく、彼の行く末を暗示するようにも思える。
ゴーンも、家訓をなぞる様に、故郷のレバノンから、パリで学び、ミシュランと共にブラジルに進出、ルノーに移った後、日本で、パリで、やがて世界を股にかけて、仕事をするようになる。
その先々で彼がしてきた仕事というのは、端的に「合理化」に終始したと言えると思う。
時代は、世紀の変わり目の前後10年の辺り。ビジネスの世界は、グローバル化の波に洗われており、規模の拡大と合理化によるスケールメリットの追及が優先度の高い課題、というトレンドにあった。中でも、大企業の代表格である自動車関連業界などの大量生産製造業は、その傾向が顕著だった。
そういった時代が、彼に味方した。
だが彼は、それを、自分の実力の故と考えた。
成金タイプの成功者によくある、自己認識の過誤だ。
それが後に、彼を貶めることになるのだが、それは少しだけ、先の話だ。
観察眼に優れ、複雑な事象を短時間に把握する能力に優れている彼は、無類のハードワーカーでもあった。見知らぬ土地では、味方も知り合いもいない分、義理人情に縛られずに、思い切りクールにナタを振るえる。そのクールな表情に、「無情」の裏書きが透けて見える彼のことだ。大ナタを振るう場と、権限さえ得られれば、その切れ味を存分に生かせた。当時、無情な合理化のネタはたくさん転がっていたから、彼は、連続してチャンスに恵まれた。効果はすぐに現れて、彼は時代の寵児として、アイドルのように祭り上げられ、その名声も、急激に上昇した。
成金の坂を大股で上り始めたクールなグローバル経営者はしかし、リーマンショックで足元をすくわれる。
それまで、資金なんて、その辺でいくらでも調達できた。そういう時代だったのだ。
しかしこの時、多くの金持ちが等しくポテンシャルのベースレベルを下げており、共通して資金は枯渇していた。
互いに融通するどころの話ではなかった。
さらに当時、成金と、そうでない者の格差の拡大が、経営者層の資産を透明化せよという、制度上の圧力をもたらしていた。それも、彼に災いした。
ゴーンは、ずば抜けて給与が高かった。それがそのまま白日の下に晒されては、時間をかけて綿密に積み上げてきた麗しいイメージ(と将来の給料)が、一挙に崩壊してしまう。
彼は、リーマンショックで失った資産と、下げざるを得ない自分の給料の低下分を、慎重に迂回・還流させて、見えないように再取得することで、補填する策を廻らせ始める。彼は、自分の仕事がその金額に見合うことを全く疑っていなかった。後に犯罪として告発されるに至るそのスキームのほとんどはしかし、日産の側が、彼のために考え出したものだった。
ルノーと日産は、少なくとも見かけ上は、互いに独立性を保持しながら助け合う関係で、ゴーンはそれを「アライアンス」と称していた。実態としてもその通りで、彼は、ルノーと日産の、それぞれの組織の中で、ナタを振るった。しかし、組織間を横断した活動は、トップから現場に至るまで、ほとんど為されていなかった。
ナタの効果は、当初期待されたほどは続かなかったから、次の手段の必要性が、間もなく生じた。
代表的な案は、相も変わらずの、組織を合わせることによる合理化と、スケールメリットの追及だ。その案自体は、アライアンスの当初からあったのだが、今さらながら再浮上してきた形だ。その流れが、このアライアンスにあって、常に上から目線の側だったルノーから強く出てきたのは、自然の成り行きでもあった。そもそも、この2社の関係が始まった当初から、「合併」は、ルノー(とその大株主であるフランス政府)の念願だったのだ。
他方、保守的なニッポンの会社である日産からすれば、ルノーの眼差しは、自分を飲み込もうとするいやらしいものに見え続けていた。結果、従来の企業文化から成るアイデンティティを保持し、ルノーに対する独立性を確保し続けることが、至上命題と化していた。
ゴーンは、その心情を理解した上で、「アライアンス」の関係性を、周到に作り込んでいた。それは、この2社を共に従えながら、ビジネスの業態と、彼の権力と名声を、全て同時に維持できる必須の条件だった。
つまり、日産をルノーとの合併から守っていたのは、ゴーンだった。
ゴーンには、いつまでも居てもらわないと困る。
そう考えていたのは、日産の方だった。
日産は、ゴーンのために、会社の資金を迂回させる複雑怪奇なスキームを複数考え出し、運用していた。
実行部隊は、日産のゴーン腹心のチームだ。その動きは、社内でも秘密扱いだったようだが、事実上の黙認状態だったようだ。
皆様ご存じのように、最終的に、のっぴきならなくなった日産がゴーンを告発するに至るわけだが、それは、自社内の一部の組織も同時に告発するという、「身を切る」ものでもあった。ゴーンの次のCEOである西川(さいかわ)が、同じような不当報酬で辞任に至ったのが、いい例だ。
また、ゴーンの側は、その迂回報酬も含めて、彼の仕事に対する正当な対価だと考えていた。だから、告発は会社による裏切りだ、やり方が卑怯だという彼の非難の声は、日産が隙を与えた故でもある。
そういった、登場人物の入り組んだ悲喜劇のアンビバレンスを描きつつ、例の、楽器ケースによる脱出劇の緊迫感のある描写へと、ページは続く。
その辺りが、本書のクライマックスだ。
現在、ゴーンは、日仏の両方から国際手配された被告という身分で、自国のレバノンに引きこもりながら、相変わらずの放言を続けている。
いつぞやの、成金の金ピカメッキの粗方は、既に剥がれ落ちてしまったが、口だけは、相変わらず達者なようだ。
本書は、その彼へのインタビューにより、膠着した状況を記述して終わっている。
ここから先、状況が変化するには時間がかかりそうだし、ドラマとしては描き切ってもいるので、本として一冊にまとめるのは、ここいらが潮時、ということなのだろう。その判断は妥当なように思われる。
確かに本書は、混乱した状況を腑分けしつつ、一気に読ませる物語性があり、まるで小説のように楽しめる。
他方、ドキュメンタリーとしては、単純化が過ぎている印象だ。
きっと現実は、もっと入り組んでいて、面倒だが、面白いのだろうと、遠い目で想像した。
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カリスマCEOから落ち武者になった男 カルロス・ゴーン事件の真相 単行本 – 2023/6/15
350頁にわたって、事の詳細が書かれている。
ゴーン逮捕の本は、当ブログでも何冊か取りあげたが。本書は最後発だけあって、調査が行き届いており、詳細さでは図抜けている。
物語として良くまとまっていて、シナリオが読みやすい。
他方、情報が網羅できている感じは薄く、シナリオ以外の細部は切り捨てられた印象がある。事の次第をあまねく伝えるカバレッジはイマイチで、物足りなさを感じさせる。
まず、ゴーンの祖父の代から、話は始まる。
彼の家系が、新天地で成り上がることに価値を置いていることが、端的に示される。
味方どころか知人さえいない見知らぬ土地で、商売を立ち上げ、拡大し、富を蓄え、成功者として称賛される。それが人生の目的であり、ゴールだ。商売上手から、成金として成り上がることが、成功の定義である。
彼の祖父は、実際にそれを体現することで、範を遺した。
他方、彼の父は、闇の商売にも手を染めて、逮捕にまで至っている。その背中は、何となく、彼の行く末を暗示するようにも思える。
ゴーンも、家訓をなぞる様に、故郷のレバノンから、パリで学び、ミシュランと共にブラジルに進出、ルノーに移った後、日本で、パリで、やがて世界を股にかけて、仕事をするようになる。
その先々で彼がしてきた仕事というのは、端的に「合理化」に終始したと言えると思う。
時代は、世紀の変わり目の前後10年の辺り。ビジネスの世界は、グローバル化の波に洗われており、規模の拡大と合理化によるスケールメリットの追及が優先度の高い課題、というトレンドにあった。中でも、大企業の代表格である自動車関連業界などの大量生産製造業は、その傾向が顕著だった。
そういった時代が、彼に味方した。
だが彼は、それを、自分の実力の故と考えた。
成金タイプの成功者によくある、自己認識の過誤だ。
それが後に、彼を貶めることになるのだが、それは少しだけ、先の話だ。
観察眼に優れ、複雑な事象を短時間に把握する能力に優れている彼は、無類のハードワーカーでもあった。見知らぬ土地では、味方も知り合いもいない分、義理人情に縛られずに、思い切りクールにナタを振るえる。そのクールな表情に、「無情」の裏書きが透けて見える彼のことだ。大ナタを振るう場と、権限さえ得られれば、その切れ味を存分に生かせた。当時、無情な合理化のネタはたくさん転がっていたから、彼は、連続してチャンスに恵まれた。効果はすぐに現れて、彼は時代の寵児として、アイドルのように祭り上げられ、その名声も、急激に上昇した。
成金の坂を大股で上り始めたクールなグローバル経営者はしかし、リーマンショックで足元をすくわれる。
それまで、資金なんて、その辺でいくらでも調達できた。そういう時代だったのだ。
しかしこの時、多くの金持ちが等しくポテンシャルのベースレベルを下げており、共通して資金は枯渇していた。
互いに融通するどころの話ではなかった。
さらに当時、成金と、そうでない者の格差の拡大が、経営者層の資産を透明化せよという、制度上の圧力をもたらしていた。それも、彼に災いした。
ゴーンは、ずば抜けて給与が高かった。それがそのまま白日の下に晒されては、時間をかけて綿密に積み上げてきた麗しいイメージ(と将来の給料)が、一挙に崩壊してしまう。
彼は、リーマンショックで失った資産と、下げざるを得ない自分の給料の低下分を、慎重に迂回・還流させて、見えないように再取得することで、補填する策を廻らせ始める。彼は、自分の仕事がその金額に見合うことを全く疑っていなかった。後に犯罪として告発されるに至るそのスキームのほとんどはしかし、日産の側が、彼のために考え出したものだった。
ルノーと日産は、少なくとも見かけ上は、互いに独立性を保持しながら助け合う関係で、ゴーンはそれを「アライアンス」と称していた。実態としてもその通りで、彼は、ルノーと日産の、それぞれの組織の中で、ナタを振るった。しかし、組織間を横断した活動は、トップから現場に至るまで、ほとんど為されていなかった。
ナタの効果は、当初期待されたほどは続かなかったから、次の手段の必要性が、間もなく生じた。
代表的な案は、相も変わらずの、組織を合わせることによる合理化と、スケールメリットの追及だ。その案自体は、アライアンスの当初からあったのだが、今さらながら再浮上してきた形だ。その流れが、このアライアンスにあって、常に上から目線の側だったルノーから強く出てきたのは、自然の成り行きでもあった。そもそも、この2社の関係が始まった当初から、「合併」は、ルノー(とその大株主であるフランス政府)の念願だったのだ。
他方、保守的なニッポンの会社である日産からすれば、ルノーの眼差しは、自分を飲み込もうとするいやらしいものに見え続けていた。結果、従来の企業文化から成るアイデンティティを保持し、ルノーに対する独立性を確保し続けることが、至上命題と化していた。
ゴーンは、その心情を理解した上で、「アライアンス」の関係性を、周到に作り込んでいた。それは、この2社を共に従えながら、ビジネスの業態と、彼の権力と名声を、全て同時に維持できる必須の条件だった。
つまり、日産をルノーとの合併から守っていたのは、ゴーンだった。
ゴーンには、いつまでも居てもらわないと困る。
そう考えていたのは、日産の方だった。
日産は、ゴーンのために、会社の資金を迂回させる複雑怪奇なスキームを複数考え出し、運用していた。
実行部隊は、日産のゴーン腹心のチームだ。その動きは、社内でも秘密扱いだったようだが、事実上の黙認状態だったようだ。
皆様ご存じのように、最終的に、のっぴきならなくなった日産がゴーンを告発するに至るわけだが、それは、自社内の一部の組織も同時に告発するという、「身を切る」ものでもあった。ゴーンの次のCEOである西川(さいかわ)が、同じような不当報酬で辞任に至ったのが、いい例だ。
また、ゴーンの側は、その迂回報酬も含めて、彼の仕事に対する正当な対価だと考えていた。だから、告発は会社による裏切りだ、やり方が卑怯だという彼の非難の声は、日産が隙を与えた故でもある。
そういった、登場人物の入り組んだ悲喜劇のアンビバレンスを描きつつ、例の、楽器ケースによる脱出劇の緊迫感のある描写へと、ページは続く。
その辺りが、本書のクライマックスだ。
現在、ゴーンは、日仏の両方から国際手配された被告という身分で、自国のレバノンに引きこもりながら、相変わらずの放言を続けている。
いつぞやの、成金の金ピカメッキの粗方は、既に剥がれ落ちてしまったが、口だけは、相変わらず達者なようだ。
本書は、その彼へのインタビューにより、膠着した状況を記述して終わっている。
ここから先、状況が変化するには時間がかかりそうだし、ドラマとしては描き切ってもいるので、本として一冊にまとめるのは、ここいらが潮時、ということなのだろう。その判断は妥当なように思われる。
確かに本書は、混乱した状況を腑分けしつつ、一気に読ませる物語性があり、まるで小説のように楽しめる。
他方、ドキュメンタリーとしては、単純化が過ぎている印象だ。
きっと現実は、もっと入り組んでいて、面倒だが、面白いのだろうと、遠い目で想像した。
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カリスマCEOから落ち武者になった男 カルロス・ゴーン事件の真相 単行本 – 2023/6/15
◆ (単行本) 国籍と遺書、兄への手紙―ルーツを巡る旅の先に ― 2023/09/23 06:42
どこかの書評でオススメされていたのを見て、図書館で借りて読んでみた。
著者は報道関係のカメラマンで、報道番組のコメンテーターなども務める女性だ。自らのルーツを辿る様子を描いている。
両親の離婚で別居していた父親が、亡くなった。
間もなく、年の離れた兄が亡くなる。
二人とも寡黙な性格で、著者は幼かったこともあって、生前に知りえた情報は少なかった。何となくの印象程度しか知らないことに、その時になって気付いた。
後に、父親が韓国籍であったことが判明し、それをきっかけにして、父親の、兄の、そして自分の、ルーツを辿り始める。
著者は、報道関係のカメラマンやコメンテーターといった生業からして、差別や格差といった社会の裏側に触れる機会が多い。そういった背景も、著者の背中を押したようだ。しかし、それにしても、著者の、ルーツを求める心情は、ずいぶんと強かったようにお見受けする。
著者が調査に着手した当時、在日差別は、ヘイトなど新たな展開をエスカレートしていた頃だ。著者は、在日側の関係者へのつてを発掘・駆使しながら、自分のルーツを遡る。
当時の申請書類から、父や、祖父母の情報を得て、当時の知人が存命であれば実際に会いに行く。そうやって、祖先の半生の頁をめくる過程で、在日の歴史と現状を横目に見ながら、今の自分の身の置き所を考え続けている。
在日をめぐる激しい感情論の合間にあって、しかし著者は落ち着いており、真摯な態度を保っている。
本書が好評な理由の一つだろう。
個人的には、いくつか違和感があった。
大きくは次の2点だ。
まず、在日差別を、日本人に一般的なステレオタイプとして固定して見る視点だ。
確かに、時はヘイト本が話題になり、書店の平積みエリアを席巻していた頃で、あからさまな差別言動が市民権を得たかのように見えていた。何気ない差別言動が一般化し、ネット界隈では差別を当然視する雰囲気まであって、まるで日本人の粗方が、差別感情で凝り固まっているかのような強い印象があった。
しかし、実際はそうではなかったと思う。
例えば、チマチョゴリの女の子を襲うのが正義といった言動に共感する日本人は、見かけほどは多くなかったろう。民族衣装の幼い彼ら彼女らが、何かしら具体的な害をもたらしているわけはなかったし、力の弱い女学校の生徒などを襲って喜ぶというのは、どう見ても日本の民度を貶める恥ずべき所業なワケで、まあ単純に「やりすぎ」だ。
理屈としても、国内の外国人に、日本の文化を貴び、尊重することを要求するのなら、彼ら自国の固有の文化も、それが平和的なものである限り、同様に尊ばれることは、認められて然るべきはずだ。
ヘイトの動機は、自分より弱い者を踏むことで得られる優越感だろう。
弱者を探して放浪する彼らの背中は、その心情の弱さを証明している。
そして、それを傍観するだけの「その他一般の日本人」は、きっと、学校のいじめの現場で、同じ行動原理を身に着けた、同種の弱虫だ。
どうも、日本は、いじめ国家らしい。
(その傾向は、年々強まっている。)
立場の弱い相手を探してはイジメて、優越感に浸る。そんな所は、中国あたりのジャイアンと、よく似ている。
(それがみっともないと思うのなら、同じ言動は避けないと。)
だが、悪いことに、口の悪さでは、韓国側も負けていない。
ぶっちゃけ、感情的な言い合いでは叶わない。というくらい、言い争いの現場は苛烈だ。
そうやって、日本人と韓国人は、お互いの間に横わたる谷を、繰り返し深掘りしてきた。
深い分断を感じさせる現状は、この差別を語る者たちに、「どちらに付くか」の言明を強要する。
悪く言えば「どっち付かずの」、よく言えば「視野が広くてバランスの取れた」見識というのは、この界隈では、存在しないことになっている。
本書にもその影響はあって、語られる言葉自体はとても穏やかな一方で、内容は、どちらかの両極端に偏りがちだ。
事の成り行きから必然的に、著者は、在日側の視点に立ち、そちらの意見を正として扱う。
日本側の状況としては、ヘイトのレベルが一般的なものとされ、例えば私のような、平和的な日本人の声は無視される。
それはまあ、仕方がない。
平和的な日本人は、傍観するだけで、声を上げない。
ただ、事を解決に導くキーは、この穏健な一般人が握っていると、個人的には思っている。憶測だが、それが大多数だからだ。
では、どうそれを実現するのか。
今の私の思索は、具体策を提言できるほどには明確化できていない。
そのヒントになるものも、本書には無い。
願わくば、そういった方向性で、著者の思索が深まって行くのを祈るのみだ。
もう一つ、違和感を禁じえなかったこととして、ルーツに対する希求がある。
ぶっちゃけ、ルーツって必要ですか?
もう少しちゃんと言うと、
自分の祖先が辿れることって、アイデンティティに必須ですか?
個人的には、全くそうは思わない。
世襲や血統、特質の遺伝などが、今の私の在り方に影響したとは、全く思えない。
冷静に考えると、皆様もそうではなかろうか。
自分の祖先を延々と辿れる人など、今時そうはいないと思う。
親の実家の墓に参って、そこに刻まれる数代の祖先の戒名を眺めたとて、それが「祖先を知っている」ことになるのか。
死んだ爺さんはこんな人だった。人づてにそんな話を聞けることもあるだろうが、ご近所のうわさレベルのその情報が、自分のアイデンティティを形作ったり、支えたりできるものだろうか。
個人的な話をすると、私も祖先を辿れない口だ。何でも、祖先が家系図を売ってしまったそうで、親戚の中には、寺の記録を検めたりして、祖先を辿る試みが何度かされたようだが、どうもダメだったようだ。
家系図なんかが売れるものかと思うのだが、昔々の日本(江戸時代?)では、家系を持たない下層民が家系図を買い、その下に自分の名前を書き込むことで家系を証明(てか捏造)するようなことが、よく為されていたのだそうだ。家系というものに、今より大きな価値があった。
しかし、今は違う。
飲み屋の無駄話のレベルで、俺の先祖は何某という立派な武家で…のような自慢話?マウンティング?をのたまうオッサンが稀にいるが、眼前のその酔っ払いが、聞き覚えがある名家に由来する何かを体現しているようには、全く見えない。
家系、血統、遺伝など、アテにならない。
優秀な人の子が無能ということはよくある、というか普通だ。
才能や幸運は、遺伝しない。
実際、「才能」はランダムに発生していて、それを発揮できる教育なり職場なりの環境に恵まれる「運」との掛け算で、その成就が決まるだけだ。
かつて日本は、家系という考え方を貴ぶあまり、「将軍様の無能な子孫」に繰り返し苦しめられてきた。その歴史から、少しは学んだのではなかったか。
例えば、墓を作らずに散骨や自然葬という向きが最近は増えているそうだが、費用面もあると思うが、祖先に対する縛りからの解放というのも、重要な動機になっているように思える。
本書の著者も、例えば祖父の出身地が釜山であり、その知り合いがいまだ現地に存命であることが分かり、実際にその地に赴き、話を聞けたとて、それが小さな安心材料の一つにしかならないことを、端から了解している。
上述の「どっちに付くか論」で行くと、彼女は韓国側の分類になる。しかし、日本に生まれ育ち、日本語しか喋れず、韓国の文化も歴史も知らない彼女が、ハングルを学んで韓国文化に帰依して、帰国?移住?したとしても、何の解決にもならない。そんなことは、百も承知だ。
知っていて、「こんなことをしても」と半ば思いつつ、それでも続ける。
そして、目の前に、苦しんでいる在日の人がいることの理由、
同じ思いを、父や兄や、祖父母も味わっていたのか?
父や兄を殺したのは、それと同じ齟齬なのか?
問い続けている。
だが、その答えは、彼女の旅路からは読み取れない。
それをもたらしたのは、彼女のルーツではないからだ。
それに、たぶん解答の少なくとも半分は、日本の側にある。
だから、在日側だけを見ていても、疑問は解けない。
そこを俯瞰するには、深い日本と韓国の溝の両岸を網羅した、思索の広さと深さが要る。(同種の活動は、過去、何人もが取り組んだ道だが、果たせずに終わっている。深い谷を股に掛けた途端に、その両側から、股を割かんと画策する有象無象が、群がって来る。)
しかし、著者には、その能力、ないし可能性がありそうに感じた。
何となくだが、そう感じさせるものがあった。
もう一段の脱皮が必要だろうけど。
(ルーツ辿りというアスペクトは、もう不要だろう。)
自分の側を翻ると、
本当に平和を、平等を実現したいと願う穏やかな日本人は、何ができるかを問われている。
そういうことなのだろう。
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国籍と遺書、兄への手紙――ルーツを巡る旅の先に 単行本(ソフトカバー) – 2023/5/8
著者は報道関係のカメラマンで、報道番組のコメンテーターなども務める女性だ。自らのルーツを辿る様子を描いている。
両親の離婚で別居していた父親が、亡くなった。
間もなく、年の離れた兄が亡くなる。
二人とも寡黙な性格で、著者は幼かったこともあって、生前に知りえた情報は少なかった。何となくの印象程度しか知らないことに、その時になって気付いた。
後に、父親が韓国籍であったことが判明し、それをきっかけにして、父親の、兄の、そして自分の、ルーツを辿り始める。
著者は、報道関係のカメラマンやコメンテーターといった生業からして、差別や格差といった社会の裏側に触れる機会が多い。そういった背景も、著者の背中を押したようだ。しかし、それにしても、著者の、ルーツを求める心情は、ずいぶんと強かったようにお見受けする。
著者が調査に着手した当時、在日差別は、ヘイトなど新たな展開をエスカレートしていた頃だ。著者は、在日側の関係者へのつてを発掘・駆使しながら、自分のルーツを遡る。
当時の申請書類から、父や、祖父母の情報を得て、当時の知人が存命であれば実際に会いに行く。そうやって、祖先の半生の頁をめくる過程で、在日の歴史と現状を横目に見ながら、今の自分の身の置き所を考え続けている。
在日をめぐる激しい感情論の合間にあって、しかし著者は落ち着いており、真摯な態度を保っている。
本書が好評な理由の一つだろう。
個人的には、いくつか違和感があった。
大きくは次の2点だ。
まず、在日差別を、日本人に一般的なステレオタイプとして固定して見る視点だ。
確かに、時はヘイト本が話題になり、書店の平積みエリアを席巻していた頃で、あからさまな差別言動が市民権を得たかのように見えていた。何気ない差別言動が一般化し、ネット界隈では差別を当然視する雰囲気まであって、まるで日本人の粗方が、差別感情で凝り固まっているかのような強い印象があった。
しかし、実際はそうではなかったと思う。
例えば、チマチョゴリの女の子を襲うのが正義といった言動に共感する日本人は、見かけほどは多くなかったろう。民族衣装の幼い彼ら彼女らが、何かしら具体的な害をもたらしているわけはなかったし、力の弱い女学校の生徒などを襲って喜ぶというのは、どう見ても日本の民度を貶める恥ずべき所業なワケで、まあ単純に「やりすぎ」だ。
理屈としても、国内の外国人に、日本の文化を貴び、尊重することを要求するのなら、彼ら自国の固有の文化も、それが平和的なものである限り、同様に尊ばれることは、認められて然るべきはずだ。
ヘイトの動機は、自分より弱い者を踏むことで得られる優越感だろう。
弱者を探して放浪する彼らの背中は、その心情の弱さを証明している。
そして、それを傍観するだけの「その他一般の日本人」は、きっと、学校のいじめの現場で、同じ行動原理を身に着けた、同種の弱虫だ。
どうも、日本は、いじめ国家らしい。
(その傾向は、年々強まっている。)
立場の弱い相手を探してはイジメて、優越感に浸る。そんな所は、中国あたりのジャイアンと、よく似ている。
(それがみっともないと思うのなら、同じ言動は避けないと。)
だが、悪いことに、口の悪さでは、韓国側も負けていない。
ぶっちゃけ、感情的な言い合いでは叶わない。というくらい、言い争いの現場は苛烈だ。
そうやって、日本人と韓国人は、お互いの間に横わたる谷を、繰り返し深掘りしてきた。
深い分断を感じさせる現状は、この差別を語る者たちに、「どちらに付くか」の言明を強要する。
悪く言えば「どっち付かずの」、よく言えば「視野が広くてバランスの取れた」見識というのは、この界隈では、存在しないことになっている。
本書にもその影響はあって、語られる言葉自体はとても穏やかな一方で、内容は、どちらかの両極端に偏りがちだ。
事の成り行きから必然的に、著者は、在日側の視点に立ち、そちらの意見を正として扱う。
日本側の状況としては、ヘイトのレベルが一般的なものとされ、例えば私のような、平和的な日本人の声は無視される。
それはまあ、仕方がない。
平和的な日本人は、傍観するだけで、声を上げない。
ただ、事を解決に導くキーは、この穏健な一般人が握っていると、個人的には思っている。憶測だが、それが大多数だからだ。
では、どうそれを実現するのか。
今の私の思索は、具体策を提言できるほどには明確化できていない。
そのヒントになるものも、本書には無い。
願わくば、そういった方向性で、著者の思索が深まって行くのを祈るのみだ。
もう一つ、違和感を禁じえなかったこととして、ルーツに対する希求がある。
ぶっちゃけ、ルーツって必要ですか?
もう少しちゃんと言うと、
自分の祖先が辿れることって、アイデンティティに必須ですか?
個人的には、全くそうは思わない。
世襲や血統、特質の遺伝などが、今の私の在り方に影響したとは、全く思えない。
冷静に考えると、皆様もそうではなかろうか。
自分の祖先を延々と辿れる人など、今時そうはいないと思う。
親の実家の墓に参って、そこに刻まれる数代の祖先の戒名を眺めたとて、それが「祖先を知っている」ことになるのか。
死んだ爺さんはこんな人だった。人づてにそんな話を聞けることもあるだろうが、ご近所のうわさレベルのその情報が、自分のアイデンティティを形作ったり、支えたりできるものだろうか。
個人的な話をすると、私も祖先を辿れない口だ。何でも、祖先が家系図を売ってしまったそうで、親戚の中には、寺の記録を検めたりして、祖先を辿る試みが何度かされたようだが、どうもダメだったようだ。
家系図なんかが売れるものかと思うのだが、昔々の日本(江戸時代?)では、家系を持たない下層民が家系図を買い、その下に自分の名前を書き込むことで家系を証明(てか捏造)するようなことが、よく為されていたのだそうだ。家系というものに、今より大きな価値があった。
しかし、今は違う。
飲み屋の無駄話のレベルで、俺の先祖は何某という立派な武家で…のような自慢話?マウンティング?をのたまうオッサンが稀にいるが、眼前のその酔っ払いが、聞き覚えがある名家に由来する何かを体現しているようには、全く見えない。
家系、血統、遺伝など、アテにならない。
優秀な人の子が無能ということはよくある、というか普通だ。
才能や幸運は、遺伝しない。
実際、「才能」はランダムに発生していて、それを発揮できる教育なり職場なりの環境に恵まれる「運」との掛け算で、その成就が決まるだけだ。
かつて日本は、家系という考え方を貴ぶあまり、「将軍様の無能な子孫」に繰り返し苦しめられてきた。その歴史から、少しは学んだのではなかったか。
例えば、墓を作らずに散骨や自然葬という向きが最近は増えているそうだが、費用面もあると思うが、祖先に対する縛りからの解放というのも、重要な動機になっているように思える。
本書の著者も、例えば祖父の出身地が釜山であり、その知り合いがいまだ現地に存命であることが分かり、実際にその地に赴き、話を聞けたとて、それが小さな安心材料の一つにしかならないことを、端から了解している。
上述の「どっちに付くか論」で行くと、彼女は韓国側の分類になる。しかし、日本に生まれ育ち、日本語しか喋れず、韓国の文化も歴史も知らない彼女が、ハングルを学んで韓国文化に帰依して、帰国?移住?したとしても、何の解決にもならない。そんなことは、百も承知だ。
知っていて、「こんなことをしても」と半ば思いつつ、それでも続ける。
そして、目の前に、苦しんでいる在日の人がいることの理由、
同じ思いを、父や兄や、祖父母も味わっていたのか?
父や兄を殺したのは、それと同じ齟齬なのか?
問い続けている。
だが、その答えは、彼女の旅路からは読み取れない。
それをもたらしたのは、彼女のルーツではないからだ。
それに、たぶん解答の少なくとも半分は、日本の側にある。
だから、在日側だけを見ていても、疑問は解けない。
そこを俯瞰するには、深い日本と韓国の溝の両岸を網羅した、思索の広さと深さが要る。(同種の活動は、過去、何人もが取り組んだ道だが、果たせずに終わっている。深い谷を股に掛けた途端に、その両側から、股を割かんと画策する有象無象が、群がって来る。)
しかし、著者には、その能力、ないし可能性がありそうに感じた。
何となくだが、そう感じさせるものがあった。
もう一段の脱皮が必要だろうけど。
(ルーツ辿りというアスペクトは、もう不要だろう。)
自分の側を翻ると、
本当に平和を、平等を実現したいと願う穏やかな日本人は、何ができるかを問われている。
そういうことなのだろう。
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